アーレント『イェルサレムのアイヒマン』
一
どういうわけかアーレントとは相性が悪い。大分前から気にはなっており、ときおりいくつかの作品や解説類を読んだりしてきたが、なかなか腹にストンと落ちたという感じになれないままに、今日に至っている(1)。
一つの不幸な事情は、私が最初に読んだ彼女の作品が『全体主義の起原』であり、この著作は、他の点ではともあれソ連論としては全く評価できないという点にあったのだろうと思う。歴史家ではなく、ましてソ連専門家でもないアーレントにそれを求めること自体が無理なのだが、この本のうちのスターリン体制に関わる個所は、素人芸としか言いようがない。それでいながら、「全体主義論の名著」とされ、スターリン体制についても明快な解明を与えた作品だという評価が広まっていることが、私を苛立たせずにはいなかった。
もう一つ付け加えるなら、ここで取り上げる『イェルサレムのアイヒマン』とも関わるのだが、彼女の思想の中で独自の位置を占めているユダヤ人問題に関し、『全体主義の起原』では、ナチズム支配下のユダヤ人迫害とスターリニズム支配下のユダヤ人迫害をほぼ同質のものと描いている(2)。しかし、迫害があったことそれ自体は疑いを容れないにしても、その具体的な様相には大きな違いがあり、歴史学の見地からはその差異を無視することはできない。にもかかわらず、アーレントの議論は一種の古典のような位置を占め、彼女が描き出したイメージは非常に広い範囲に及ぶ影響力を保持している。そのため、ソ連史研究に携わる者としては、この通念を打破することなくしてはスターリニズム解明もそこにおけるユダヤ人問題の分析もあり得ない――つまり、彼女の議論は「先ずもって打破しなければならない標的」という位置を占める――ということになってしまうわけである(3)。
しかし、もともと『全体主義の起原』の真価は特定の時代・国の政治体制の実証的解明にはないのだから、そのようなことを問題にすること自体がお門違いということなのだろう。この点は、川崎修のすぐれた解説書『アレント――公共性の復権』を読んで、ある程度納得がいった。同書の『全体主義の起原』に充てられた章のはじめの方に、次のようにある。
「この本に、ナチズム論やスターリニズム論としての意義が、学説上の意義の他には、今日においていったいどれだけあるのだろうか。……今日の目からみれば当然ながら、資料の制約・偏りが少なからず存在する。また、その叙述の根拠づけも、実証的な歴史学が求める基準を満たすものとはとうてい言えない。その意味で、ナチズムやスターリニズムの歴史書としての役割は、より実証的なさまざまな優れた研究が存在する今、その意義を終えたともいえよう。/また、本書に示されたナチズムやスターリニズムの総体的なイメージ自体も、今日では疑問にさらされている」(4)。
このように川崎は同書の歴史書としての役割を消極的に評価した上で、「この本の目次を見ると、タイトルから予想されるのに反して、ナチズムやスターリニズムそのものを直接論じている部分はそう多くないことに気がつく」として、本書の真価は別のところにある、と論じている。同じ川崎はまた、別の論文で、私の議論をも援用しつつ、彼女の全体主義論について次のような特徴づけを与えている。
「全体主義のイメージは、二〇世紀の政治・社会思想はもとより、哲学や文学、さらには映画や音楽などの大衆文化に至るまで、きわめて大きな影響を及ぼしてきた。その意味では、それは疑いもなく二〇世紀を象徴する言葉の一つである。それは、現実の描写であるよりは『悪夢』であるとしても、その『悪夢』自体が一つの精神史的事実なのである」(強調は塩川)(5)。
この議論は納得がいく。「現実の描写」として受け取るならシュールレアリスティックとしか言いようがないにしても、「悪夢」を見事に描き出した作品としてであれば、一つの時代の徴候として、大きな精神史的意義があるということだろう。
こういう風に考えることにより、最初の悪印象は何とか克服できそうに思えてきたが、それでもなお、「何か分かりづらい」という感覚がずっと続いてきた。それはアーレントに限らず、「共和主義」とか「公共性」とかいった概念を重視する論者たちの議論全体とも関わる。こういう風に書くとあまりにもスウィーピングになってしまうが、「公共性」「公共のこと(res publica=republic=共和国)」「公共善」等々の概念を駆使した議論を読むと、それなりに重要かつ興味深い論なのだろうけれども、どこかしら私には肌に合わないという感覚が拭えない。
そうした感覚が続いているせいで、なかなか正面からアーレントに取り組むことができないでいるのだが、本書『イェルサレムのアイヒマン』は、彼女の著作の中ではやや異例に読みやすいもののようだし、また取り扱われている主題――ナチズム、ユダヤ人問題、ジェノサイドおよびその記憶、集団的犯罪に関する責任問題など――が私自身の関心と接するところがありそうなので、とりあえずこの本から入ってみるのがよいのではないかと、かねてから思っていた。そう思い始めてからも結構長い時間が経つ。他の論者たちの仕事を読むことを優先して、これを後回しにし続けてきたのは「相性が悪い」という感覚が去らなかったためだが、いつまでも後回しにしてもいられないということで、二〇〇八年末から〇九年正月にかけての冬休みに、ようやく取り組んでみた次第である(6)。
二
本書は元来『ザ・ニューヨーカー』紙に連載されたルポ風の文章――文字通りの「ルポ」とはいえないが、とにかく一般読者を念頭におき、イェルサレムで行なわれたアイヒマン裁判を実地に見聞した者としての報告という性格のもの――をもとにしたという成立事情から、ジャーナリスティックなタッチで書かれており、哲学論文よりははるかに読みやすい。しかし、内容を読み解くという見地からは、決して分かりやすい書物ではない。ジャーナリスティックなタッチで書かれているということは、一見したところ分かりやすい文章での叙述を意味する反面、その趣旨について体系的な論理的説明をするのではなく、さりげない記述の背後に重い内容を込めるという書き方になりがちで、その意図を読むとるのは結構難しい。しかも、発表当時――当初の雑誌論文連載はアイヒマン裁判のあった一九六一年、それに基づいた著作は一九六三年刊――には、欧米諸国では多くの関連報道があったはずで、読者の多くは相当豊富な予備知識があると想定することができ、そうした事項について著者は一々説明する必要を感じなかっただろうが、数十年を隔てた日本で本書を読むときには、その点で多くを補いながら読まないと、言わんとすることがつかめないということになる。
本書読解の難しさの一つの理由は、取り上げられている主題が単一ではなく、数多くの要素からなるという点にある。裁判のあり方(イスラエル国家の関わり、検事・弁護士・判事・報道陣などそれぞれの態度)、裁判の場で見せたアイヒマンの態度およびそこから窺える彼の精神構造、ナチ政権時代のアイヒマンの活動歴およびそれを取り巻く状況、裁判を観察する中で明らかになったナチのユダヤ人政策の具体的な実態およびそこにおいて様々な当事者が果たした役割、更には裁判前後の西ドイツその他の諸国での反響等々が論じられており、それらと関わりながら、各所でアーレント自身の考察が展開されるという複雑な構造になっている。
これらの主題についてのアーレントの記述の意味を掘り下げて考えるためには、それらがどういう文脈の中におかれているのかを考える作業が不可欠だが、これがまたかなりの難物である。先に触れたように、ジャーナリスティックなタッチで書かれるということは、それがおかれている文脈については一々説明していないということでもあり、同時代の欧米ではおそらく自明だったろう種々の文脈を苦労して復元しなくてはならない。しかも、主題が複数であるのに応じて、考えるべき文脈も複数にわたる。ドイツ近現代史という文脈(これ自体、反ユダヤ主義一般とその特殊ナチ的現われ、ナチ時代における政策の時系列的変化、政策履行の実際およびそこにおけるアイヒマンの役割、そして、戦後西ドイツにおける過去への向きあい方、等々に分かれる)、ヨーロッパにおけるユダヤ史/反ユダヤ主義史という文脈、シオニズムおよびイスラエル国家創設という文脈、そしてアーレント自身のパーソナル・ヒストリーおよびそれと関わる知的遍歴という文脈、等々である。
私自身はこれらの文脈のそれぞれについて一定の関心をもっているが、どれについても本格的に学んだことはなく、断片的で非系統的な知識をもつにとどまる。また、これまで目に触れた限りのアーレント論においては、あくまでもアーレント哲学の読解という文脈に即した解説が圧倒的に多く、ドイツ史、ユダヤ史、シオニズム史、イスラエル史などの文脈についての解説は乏しい。かといって、自力でそのギャップを埋めるという作業は気の遠くなるほど大がかりなものとなる可能性があり、とてもそこまで試みてはいられない。そこで、さしあたりは本書をゆっくりと読みながら、私が断片的に知っている様々な文脈に関する知識を動員して、問題の所在を手探りでつかみとろうとするしかない。
三
先に述べたように、本書は一九六三年、つまりナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺の絶頂時から約二〇年後に書かれている。文脈復元の難しさという点に関わって、この「約二〇年」という時間の意味について、少し考えてみたい。歴史とは現在と過去の対話だとは言い古された言葉だが、現代史の場合、「現在」が急速にうつろっていく中で、対象との距離感覚もどんどん変化していくという特殊性があり、対象とされる事件が起きた時点‐書物が書かれた時点‐読者がそれを読む時点の相互関係が、特に大きな問題となるからである(7)。
「十年一昔」というから、二〇年といえば二昔であり、その意味ではこれは相当長い時間だと、ひとまずいうことができる。事件に直接関与しなかった人たちにとっては、当初はショッキングだったニュースも時間の経過の中で風化が進んでいくし、そもそも当時はまだ生まれていなかった、あるいは物心ついていなかったという人たちも増えてくる。直接当事者の場合はどうかといえば、ある人は「思い出したくない」、ある人は「特定の語り方をしたい」という無意識の欲求の中で、記憶の変容がかなり進行していくだろう。このような変化のせいで、当初のヴィヴィッドさが薄れるという意味では、二〇年という時間は十分長い。
しかし、他面、本格的な歴史研究という観点からは、二〇年はまだ短いともいえる。歴史家が当事者の感情論から距離をとり、各種の資料――そこには当事者の証言も含まれるが、その利用に際しては批判的な考証が欠かせない――を慎重に秤量して、できるだけ「客観的」な像を描こうと努めるには、二〇年ではまだ足りず、もっと長い期間が必要とされるのが普通である。
こうした時間的距離感は、世代の問題とも関係する。たとえば私自身は戦後の生まれなので、第二次大戦前後のことは直接の経験対象外であり、自分自身の実感という観点からいえば「遠い昔のこと」である。一九六〇年代半ば(本書が元来書かれた時期でもある)に「戦後二〇年」をめぐって種々の議論が交わされたとき――当時まだ高校生だった私は、もちろん論壇の状況を観察していたわけではないが、ごく漠然と、そういう話題が大人たちの関心を引きつけているらしい程度のことは一応知っていた――、「二〇年前というのは、ずいぶん古い話だ」という感覚をもっていた。いま考えてみると、これは単純に二〇年という時間が長いからではなく、まだそれだけの年月を生きていなかった私の世代の人間にとって、二〇年前というのは自分が生まれる前の、直接知らない時期だという事情が大きく作用したのだろう。
これに対して、この文章を書いている二〇〇九年という時点から二〇年前といえば、それは一九八九年ということになる。当時、既に中年に達しており、しかもソ連研究者としてソ連における大きな変動(ゴルバチョフのペレストロイカ)および冷戦終焉過程を観察していた私にとって、八九年の出来事は「遠い昔」どころか、「つい最近の出来事」のように感じられる。現代史研究という観点からいえば、この時期のことはそろそろ歴史研究の対象にしてよいようにも思えるが、実際には本格的歴史研究はまだほとんど現われておらず、そのための条件も十分整ってはいない(資料や回想類は既にかなり多くのものが読めるようになっているものの、特に根本資料ともいうべき非公刊の公文書類はまだ断片的にしか利用可能でない(8))。つまり、「歴史として見る」にはまだ近すぎると感じさせられる。こういうわけで、同じように「二〇年前」といっても、それが自分の生まれる前あるいは物心つく前なのか、既に自分自身が成人して、それを熱心に観察していたかどうかで、「遠い」か「近い」かが大きく異なることになる。
一九〇六年生まれのアーレントにとって、一九四〇年代のホロコーストは自分自身の生死に関わる問題として、切実この上ない同時代現象だったはずだし、一九六一年のアイヒマン裁判の時点でも、ジェノサイドの記憶はなお生々しかっただろう(彼女自身にとっても、多くのヨーロッパの人々にとっても)。他方、本書刊行から数十年を隔てて、極東の地で本書を読む読者にとっては、ホロコーストもアイヒマン裁判も、直接自分の記憶にある事柄ではない。このような食い違いをどのように受けとめながら本書を読めばよいのか、これは本書に立ち向かう際に常に念頭においておかねばならない点である。
四
前おきが長くなってしまったが、本書の検討に入ろう。
本書は一五の章とエピローグおよびあとがきからなるが、そのうち分量的に最大の部分を占める第三‐一三章は、ナチ政権下のユダヤ人政策の実際――前半では時間を追った推移、後半ではナチ・ドイツと協力したり占領されたりした各国ごとの状況――を追い、その中におけるアイヒマンの役割を検討するという形で書かれている。そこでは、アイヒマンという一個人だけに焦点を絞りきるのではなく、より広い全体状況の解明が大きな位置を占めている。また、考察の材料としては、アイヒマン裁判の中で明らかにされた事実だけでなく、それ以外の資料や研究から得られた知識も幅広く利用されている。こういった点に注目するなら、本書はルポないし裁判傍聴記というよりも、むしろ現代史研究の書という性格を帯びているようにも見える。著者が専門的な歴史家ではない上、まだ本格的な歴史研究のための素材が十分出そろっていない時点のものである以上、これを後の本格的歴史研究と比べるなら、おそらく大きな穴があちこちにあるだろうが、それをあげつらっても始まらない。その意味では、あまりこの部分にこだわる必要はないのかもしれないが、分量的に本書中最大の位置を占めている以上、この部分を単純に無視するというわけにもいかない。そこで、とにかくこの部分におけるアーレントの叙述を一通り見ていくことから始めたい。
ナチ党は当初から反ユダヤ主義の立場をあからさまにしていたとはいえ、後に行なわれたことに比べるなら、政権初期(一九三三‐三八年)の政策ははるかに生ぬるかった。公的機関にいたユダヤ人は解任されたが、私企業や大学からの追放はまだほとんどなかった。国外移住も比較的整然と行なわれていた。一九三八年までは、ユダヤ人は自分が望むならば出国してもよいが、出国を強いられているわけではないというフィクションがまだ生きていた。これが三八年以降は強制移住=追放に転じるわけだが、それにしても、追放された人々は財産没収その他の憂き目にあうにしても殺されるわけではなく、パレスチナ――後にイスラエル国がつくられる――やその他の地で新たな生活を始める可能性もあった。
追放されたユダヤ人がパレスチナに行く可能性があるということは、シオニズムの観点からは、その目標に合致する面があったということになる。そのため、アイヒマンはシオニスト指導者と友好的に接触したり交渉したりしていた。本書では、ユダヤ人組織指導者の「協力」の問題が各所で触れられており、それが一つの論争点を形成したようだが、もし問題が「追放」への協力だけにあったのであれば、それが「シオンの地」建設につながると考えることができた以上、それほど驚くべきことではない。アイヒマン自身――もともとユダヤ人への偏見をもっていたわけではなく、むしろシオニズムに共鳴していたという――にしても、「追放」は「殺戮」とは異質なものであり、むしろ後者を避けるために前者を推進するという意識をもっていたらしい。このような発想は、ある時期までについては、正当化される余地がないわけではない。しかし、もう少し後の時代になると、この前提が大きく変わることになる(以上、主に第三章)。
一つの転機となったのは、一九三八年一一月のいわゆる「水晶の夜(クリスタルナハト)」事件――ユダヤ人への大規模な襲撃と虐殺が行なわれた――である(邦訳書では「ガラスの夜」と表記され、五一頁では「一九三九年」と誤植されている)。この事件はドイツのユダヤ人にとって、「愚者の楽園」に生きていられるという幻想の終わりを意味した。ユダヤ人たちは今度こそ本気になってドイツから逃げ出そうと思い詰めるようになった。ユダヤ人出国の増大に伴い、アイヒマンの地位は上昇し、シオニスト組織に対する態度も高圧的なものに変化した。こうした変化があったという意味では一九三八年は大きな転機だが、これが直ちに大量虐殺を意味したというわけではない(9)(以上、第四章)。
次の転機は、一九三九年九月の第二次大戦開始である。アーレントによれば、開戦まではナチ政権はあからさまに全体主義的な犯罪的性格を示しはしなかったが、開戦は大きな転換点となった。もっとも、この時点で「最終的解決」(絶滅を意味するナチ用語)が方針として確定したわけではないが、その方向への動きが強まった。特に、多数のユダヤ人が住むポーランドの大きな領土を獲得したことは、それまでのユダヤ人対策の延長では処理しきれない問題を提起した。ドイツの制圧したポーランド領は帝国に併合された部分と、「占領地域」として扱われた総督府領とに分かれ、とりあえずは前者の中に住むユダヤ人が排除=強制移住の対象となった。そのため、総督府領に大量のユダヤ人が送られ、同地におけるユダヤ人問題処理は一層困難になった。いくつかの対策案として、ポーランド国内から一定領土を切り取って、そこに「保護領という形」でユダヤ人の自治国家を建設する構想(ニコス案)、マダガスカル島にユダヤ人を追放する案(10)、ボヘミアの要塞都市テレージエンシュタットにユダヤ人のための居住地域を設定する案などが構想されたが、どれも成功しなかった(結局、テレージエンシュタットはアウシュヴィッツへと向かう中継収容所となった)。こうして、「政治的解決」から「肉体的解決」への移行が迫られる状況が生じた(以上、第五章)。
一九四一年六月、ドイツは対ソ戦を開始し、大戦はもう一段の広がりを見せるようになった。この後まもなく、ヒトラーは「ヨーロッパのドイツ勢力下にある地域におけるユダヤ人問題の全面的解決」「ユダヤ人問題の最終的解決」を指示した。アイヒマンも、「総統はユダヤ人の肉体的絶滅を命じた」という指令を受け取った。アイヒマンはナチ党上層部に属していたわけではない――この点は裁判で彼がいくら説明しても取り上げられなかった――し、公式の文書では「絶滅」「殺戮」等の用語は滅多に使われず、「最終的解決」「特別処置」などの言葉が使われていたが、それが殺害を指していることは当事者には明らかだった。アイヒマン自身は殺戮の現場に立ち会うことができるような「太い神経」を持ち合わせてはおらず、大量銃殺やガス殺の現場を指揮したわけではないが、彼の担当職務である「輸送」がこの時期以降は殺害の場への輸送を意味するようになったことは承知しており、実際上、大量殺戮に関与したことは疑う余地がない(以上、第六章)。
「最終的解決」が全ヨーロッパに適用されねばならず、そのためにはあらゆる官庁組織――その中には、もともと熱心なナチ党員ではなかった官僚たちが多数含まれた――の積極的協力が必要だ、という方針が確立されたのは、一九四二年一月の次官会議(一般に「ヴァンゼー会議」と呼ばれる)においてのことだった(11)。アイヒマン個人にとってみれば、それまでは「最終的解決」に関する多少の疑念が残っていたが、この場で国家官僚エリートたちがとった積極的態度を見て、自分などが疑念をはさむような問題ではないと考えるようになった。
この時期の「最終的解決」には、ドイツの最高レヴェルのエリート官僚が関与しただけでなく、ナチ統治下でつくられた「ユダヤ人評議会」という組織も関与した。ユダヤ人組織指導者の「協力」という問題は、前の時期についても指摘されていたが、そこでは国外追放への協力が主であるという限りで正当化される余地があったのに対し、今度は事実上、殺害への直接関与であるだけに、正当化の余地は残らない(12)。もちろん、すべてのユダヤ人が協力したというわけではなく、抵抗した人々もいたが、それはイスラエル当局が描きたがったようにシオニストの功績というわけではなかった。抵抗したか否かはシオニストか否かには関わらなかったし、そもそも抵抗した者はごく少数に過ぎなかった(以上、第七章)。
一九四四年秋以降、ドイツの敗勢が明らかになると、ナチス親衛隊長官ヒムラーは、敗戦後の自分たちの処遇を多少なりとも良好にするにはユダヤ人待遇改善が必要だと考えるようになり、アウシュヴィッツの殺戮施設撤去を命じた。こうして、ナチ指導部内「温和派」――アーレントの言葉では、「自分の殺し得たはずのすべての人間を殺さなかったと証明し得る殺人者は素晴らしいアリバイを持っていると信じられるだけのお目出たい連中と、金とコネがふたたび何よりも幅を利かす〈正常な〉事態への復帰を予想するだけの目はしが利く手合」(pp. 144-145; 一一四頁)――が生まれたが、アイヒマンはそれには属さず、ヒムラーの「温和」な指令を可能な限りサボタージュした。それはファナティシズムの故というよりも、ヒムラーの指令がヒトラーの意図に背いているということを彼が意識しており、ヒトラーの命令こそが法律だと信じていたからだった(以上、第八章)。
五
以上、時系列に沿ってナチ・ドイツのユダヤ人政策の推移をアーレントともに見てきたが、続く第九‐一三章は、ヨーロッパ各地の状況の描写にあてられている。これらの諸国に関する記述がどこまで正確かについては、後の実証研究の成果を踏まえた批判的検討が必要だろうが、それはともかくとして、ナチ政権と協力したり、あるいは占領された諸国での各地の動向を、十把一からげにすることなく描き分けている点は、きめ細かいものとして好感がもてる。
先ず、第三帝国(ドイツ、オーストリア、および保護領)からの移送が取り上げられる(第九章)。ユダヤ人はこの地域から全面的に排除される――「ユーデンライン(judenrein)」にする――というのが早い時期からの方針だったが、初期においては、他国に移住させることができるのであれば殺戮までは必要ないと考えられており、他国がドイツ・ユダヤ人を受け入れなかったことこそが大悲劇の原因だった、というのがアイヒマンの裁判における弁明だった。いずれにせよ、「移住」による解決が不可能であることが明らかになると、「最終的解決」への移行が迫られ、アイヒマンの任務も、殺戮地への移送という性格のものとなった(彼自身は、すぐにはそのことに気づかなかったようだが)。
徹底的な「最終的解決」の妨げとなった要因の一つに、外国国籍を持つユダヤ人の処遇問題――国籍国がどう反応するか――があった。ドイツ外務省はそれらの国々の当局に対して、ドイツ帝国は現在ユダヤ人を一掃しつつあり、それゆえ外国系ユダヤ人を巻き添えにしたくなければ彼らを本国に召還することが絶対必要だと通告した。この通告を受け取った諸外国当局は――特に、当該ユダヤ人がその国と実際上の結びつきがないにもかかわらず、何とかして旅券を獲得したような人である場合――、そのようなユダヤ人を引き受ける気はなかったが、それはそれらの国がドイツによるユダヤ人絶滅に黙認を与えることを意味した。自分自身がユダヤ人に避難の場所を与える気のない政府が、自国国籍のユダヤ人全体が追放され殺戮されたからといって急に騒ぎ立てることはないだろう、というのがドイツ外務省の読みだった。これは論理的ではあったが、道理にかなってはいなかった(Perhaps it was logical, but it was not reasonable, p. 161; 一二六頁)。
続いて、西ヨーロッパ諸国(フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア)からの移送が取り上げられる(第一〇章)。これらの国の間にも個々の違いがあるが、大まかにいうなら、どこでも反ユダヤ主義が広がっていたとはいえ、大量殺人の共犯者にまでなることにはためらいがあった。例えばフランスは自国のユダヤ人をドイツに引き渡すことを拒み、ナチもこれを無理強いすることはできなかった。「ゲシュタポやSSといえども冷酷さと優柔さとを併せ持っていた」のである(p. 165; 一二九頁)。イタリアのようなドイツの同盟国も、ヒトラーのドイツとの間には大きな差異があり、ユダヤ人問題の「最終的解決」を事実上サボタージュした(pp. 176-180; 一三七‐一四〇頁)(13)。イタリアではユダヤ人の同化が高度に進行していたことがその背景にあったとされる。
これらの諸国はユダヤ人問題の「最終的解決」に手を貸さなかったとはいえ、それは「二股膏薬や面従腹背のややっこしい手管」(p. 171; 一三四頁)によるもので、ナチの政策そのものへの正面からの異議申立てではなかった。そのような中で、唯一、明確な抵抗姿勢を示したのがデンマーク――国民と政府の双方――だった。これはナチが住民の公然たる抵抗にぶつかった唯一の例であり、ドイツ当局もその抵抗の影響を受けて、「厳しさ」を失う傾向を示した(pp. 171-175; 一三三‐一三七頁)。
次に、バルカン(ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア)からの移送が取り上げられる(第一一章)。アーレントは先ず、イェルサレムでの裁判においてこの地域が西欧・中欧とはっきり区別されなかったことに不審の念を表明している。西欧・中欧では「古いヨーロッパ国民の民族的同質性(ethnic homogeneity)」があったのに対し、バルカンにはそれがなかったというのが彼女の見解である(p. 181; 一四一頁)。これは「西」と「東」を対比して、両者の異質性を強調する、ハンス・コーン以来の古典的な議論である。しかし、私にはむしろ、そうした異質性の過度の強調は、「東」と「西」とがそう明快に区別されるわけではないことを見落とし、「西」の「文明性」に対して「東」を「野蛮」視する西欧特有の偏見(オリエンタリズムの一種)であるように思われてならない(14)。もっとも、「民族集団(ethnic groups)」一般ではなく、ユダヤ人に限っていうなら、東方ユダヤ人は西欧・中欧よりも集住度が高く、「味方からも敵からも他の民族と異なった一個の民族(a distinct people)として認められていた」という点での違いは確かにある(p. 182; 一四二頁)。しかし、それは、西欧の方がかつてのユダヤ人迫害が甚だしく、そこから逃れたユダヤ人たちがポーランドやオスマン帝国に避難地を求めた――他方、西欧に残ったユダヤ人の間では同化が進んだために「一個の民族」としての性格が薄れた――という違いであって、「東」の「西」に対する「遅れ」というようなことではない(15)。
バルカンの中でも個々の国ごとにユダヤ人の状況は異なったが、特に悲惨だったのはルーマニアであり、ここでは強烈な反ユダヤ主義を背景に、激しいポグロム(虐殺)が繰り広げられた。無秩序で残虐な虐殺よりは整然たる移送(つまりは、秩序だった殺人)の方がまだしもマシだというアイヒマンの弁明は、ルーマニアに関してはある程度の説得力をもつ、とアーレントは示唆している(但し、戦争末期にはまた状況が変わるが)。
次は中欧(ハンガリーとスロヴァキア)からの移送である。この地域の状況は、個々にはもちろん種々の差異があるとはいえ、ごく大まかな意味では、先に見た西ヨーロッパ諸国とそれほど変わらないもののように描かれている(第一二章)。
最後に取り上げられているのは、「東方の殺戮センター」(ポーランド、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ)である(第一三章)。この地域には大量のユダヤ人が住んでおり、しかもその大半が殺戮された――「生き残った者の数が全体の五パーセントを上廻ることはめったになかった」とある(p. 206; 一六〇頁)――という意味で、ナチのユダヤ人政策を論じる際に最重要の位置を占める。しかし、他面、この地域はアイヒマンの管轄からは外れていた。そのため、裁判において検察側はこの地域における大量の残虐行為を強調したが、判決はこの地域の事例については控えめに言及するにとどまった。もっとも、判決も東方における犯罪行為の一部についてアイヒマンの責任とする立場に立っているが、アーレントの考えでは、これは余計なことだった。東方についてはアイヒマンは直接の関係がなかったのであり、この部分を無罪としても、それ以外の部分での犯罪性によって被告を極刑に処すことは充分可能だった。こうして、判事たちは、結論そのものは維持しつつ検察の誇張された主張を論破することができたのに、そうしなかった、というのがアーレントの見方である。
この議論はそれ自体として興味深いものだが、この章は専らこうした問題に焦点を合わせた結果、その地でのユダヤ人虐殺が具体的にどのように展開したのかという問題にはほとんど立ち入っていない。これは、問題が重要であるだけに――そして、これ以前の章では、それぞれの地域ごとの実情を詳しく追っていただけに――やや残念な感をいだかせられる(16)。
実は、この章ではなく、もっと前のほうに、この地域に関連する記述がある。ナチの「過激な」反ユダヤ主義に同調したのは、東方の民族――ウクライナ人、エストニア人、ラトヴィア人、リトワニア人、そしてルーマニア人〔邦訳書で「ロシア人」とあるのは間違い〕の一部――だけだったというのである(p. 154; 一二一頁)。ルーマニアにおける極端な反ユダヤ主義と激しい虐殺が第一一章で言及されていることは先に見たとおりである。事実の問題として、これらの地域でポグロム(虐殺)が特に甚だしかったことは確かだろう。ただ、気になるのは、こういうまとめ方をすると、西ヨーロッパでは反ユダヤ主義があるにしてもそれはそれほど極端な現われ方をせず、「東方」では野蛮きわまりない大虐殺が繰り広げられたという、単純な東西二分論になりやすい点である。イタリアで反ユダヤ主義が強くない点に触れた個所には、「古い文明国民のすべてに行きわたったほとんど無意識的な人間味の所産」という記述もある(p. 179; 一三九‐一四〇頁)。どうもやはりアーレントの意識の中に、西欧=文明、東方=野蛮という図式があるように思われてならない。
六
以上、本書の中心部分をなす第三‐一三章の叙述を見てきた。今度は、アイヒマン裁判そのものについての描写およびそれと関連する考察について見ていくことにしよう。これは最初の二章と最後の二章、そしてエピローグで集中的に論じられている他、それ以外の部分でも、関連する考察が随所に挟み込まれている。
裁判そのものに関わる考察といっても、実は、そこでの論点は一つだけではなく、かなり広い。主だったものとして、そもそもイスラエル国家の裁判所はどういう権限と資格でアイヒマンを裁きうるのか、アルゼンチンにいたアイヒマンを拉致してイェルサレムの法廷に引きずり出したことの評価、検察論告についての評価、判決についての評価、などが挙げられる。これ以外にも、弁護人の弁論、証人たちの証言、被告の態度、当時の西ドイツでの反響(17)等々が取り上げられている。
エピローグで最初に取り上げられているのは、遡及的な法による裁き(その時点で犯罪とされていなかった行為を、後に定められた法によって裁くこと)、また「勝者の法廷」による裁きではないか、という観点からの裁判批判である。この点について、イェルサレムの法廷はニュルンベルク裁判を先例とみなすという形で答えたが、アーレントは次のような議論を付け加えている。即ち、遡及法適用が正当化されるのは、問題の行為がそもそも前例のない犯罪であり、それ故にそれまではそれを裁く法がなかったからという理由付けができる場合である。この観点からいうと、ニュルンベルク裁判には若干の問題があった。「平和に対する罪」についていえば、侵略戦争は史上数限りなくあり、それが正式に「犯罪」と認められたことは一度もなかった(18)。その上、ソ連〔アーレントは「ロシア」と記している〕の対フィンランド戦争(一九三九年一一月‐四〇年三月)などの例を念頭におくなら、「汝もまた(tu quoque)」――裁く者自身の手が汚れているではないかという問いかけ――という疑問が生じる。戦争犯罪についてはハーグ条約のような国際法があり、遡及法は必要なかったが、これについても「汝もまた(tu quoque)」が問題となる。ソ連はもとより、連合国による日本への原爆投下やドイツ諸都市への爆撃なども、ハーグ条約違反とみなされてよいにもかかわらず、不問に付されたからである(pp. 253-256; 一九六‐一九八頁)。ここで触れられている論点が東京裁判をめぐる議論でも繰り返し取り上げられているものだということはいうまでもない。
このようにニュルンベルク裁判の問題点を指摘した上で、アーレントは、すべての戦争犯罪が裁かれなかったのは「勝者の裁き」ということが主要な理由ではなかったという(関連して、ニュルンベルク裁判はドイツ人被告を裁くに当たって、この点で非常に慎重だったと付け加えている)。むしろ、より重要なのは、武器の技術的発展により、ハーグ条約の基礎にあった軍人と民間人の区別、軍事施設と非武装都市の区別そのものが時代遅れになったという事情だと彼女はいう(19)。そのため、あらゆる戦争犯罪を裁判の対象とするのではなく、何ら軍事的必要性がないのに意識的に残忍な意図から行なわれたと証明された行為だけが戦争犯罪として裁かれたのだ、というのが彼女の指摘である(p. 256; 一九八頁)。こうして、「理由のない残虐性」というファクターが、裁かれるべき戦争犯罪を判断する有効な基準となった。
では、「人道に対する罪」はどうか。これは全く前例がなく、そのため、それまでの法に規定されておらず、「汝もまた(tu quoque)」が問題になり得ない唯一の犯罪だった。この犯罪は上記の「理由のない残虐性」で説明されるべきではなかったにもかかわらず、これについても「理由のない残虐性」というファクターが持ち込まれたことによって混乱を招いた、とアーレントは主張する。一民族全体の抹殺とか、一地方からその住民を一掃するとかの前代未聞の行為は戦争とは無関係であり、平時にも続けられるという意味で、前例の一切ない特異な犯罪であり、そのことがニュルンベルク裁判の判事たちを当惑させた(pp. 256-257; 一九八‐一九九頁)。アーレントの考えでは、ニュルンベルク裁判で問題となった三つの犯罪類型――平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪――のうち、これだけがおよそ前例のない特異なものであり、だからこそ遡及法適用が正当化されるということのようである。
次いで問題とされているのは、どうして他ならぬイスラエル国家の裁判所がアイヒマンを裁くことが正当化されるのかという論点である。この問題について、アーレントは先ず二つの論拠を検討し、いずれも適切ではないとする。その第一は、被害者はユダヤ人であり、イスラエルのみが彼らに代わって発言する資格をもつという考え(消極的属人主義)で、これはアイヒマン裁判の検察側の主張でもあった。しかし、刑事裁判というものは被害者の報復を国家が代行するのではなく、犯罪によって乱された公共の秩序を回復することが目的である以上、検事が被害者を代弁するという考えは妥当性を欠くと彼女は指摘する。
もう一つの考えは、アイヒマンは「人類の敵」であるから、海賊同様、どの国でも裁きうるというもの(普遍的裁判権説)で、これは判事団の立場だった。しかし、実際にはアイヒマンは「人類一般」の敵としてではなく、ユダヤ民族(Jewish people)に対する罪を問われていた。それに、海賊は一切の法を無視していかなる国旗にも従わないが、アイヒマンの行為はナチ期の犯罪的法律の下に犯罪的な国家によって行なわれたのであり、海賊とのアナロジーはこの肝心の点を曖昧にしてしまう。
一九四八年一二月の国連総会で決議されたジェノサイドに関する条約は、普遍的裁判権説をはっきりと退け、その代わり、ジェノサイドの罪に問われた者は、その領土で犯行が行なわれた国家の裁判所か、あるいは国際刑事法廷で裁かれると規定している。イスラエルもこの条約に調印している以上、国際法廷を設けるように努力するか、もしくは属地主義(犯行が行なわれた土地を領土とする国家が裁判権をもつ)原則への修正を提起すべきだった。アーレントの考えでは、属地主義原則は次のように再定義することができたはずだという。即ち、領土とは一つの集団に属する個々人の間の空間であり、それらの個人は共通の言語、宗教、歴史、慣習、法律に基づく各種の関係で結ばれているという風に考えれば、ユダヤ民族はその離散の時期においても「固有の共属空間(its own specific in-between space)」をもっていたのであり、そのような空間を場として行なわれた犯罪に対してイスラエル国家は裁判権を主張しうる、というのである(pp. 262-263; 二〇二‐二〇三頁)。
この「共属空間」論にはにわかに同意しがたい。アーレントは一時期シオニズムに接近し、その後、そこから離れたとのことだし、現実のイスラエル国家に対して種々の批判をもっていたようだが、ここではやはりシオニズム的発想が示されているように思われる。
属地主義と関連するもう一つの重要問題は、アルゼンチンにいたアイヒマンをイスラエル警察が拉致して、イェルサレムの法廷に引きずり出したことの評価である。アーレントは、これは有効な先例となる資格を欠いたものだということを認める。「もし明日にでもアフリカの一国家がその手先をミシシッピーに送って、人種差別主義運動の指導者の一人を拉致するなどということになったら、われわれは何と言うだろうか?そしてガーナもしくはコンゴの法廷がアイヒマンの一件を先例として挙げたら私たちは何と答えるべきだろうか?」(p. 264; 二〇四頁)。この拉致の正当化理由は、犯罪の先例のなさとユダヤ人国家の成立ということだった、と彼女はいう(しかし、アフリカ大陸からの巨大な規模の奴隷調達も史上類例の少ない犯罪だし、その後におけるアフリカ人国家の成立はイスラエル国家成立になぞらえられないだろうか?)。
国際法の不備のためにやむなくされたものとして拉致を容認する考えもあり得るが、その見地に立つなら、拉致をして裁判に引き出すのではなく、秘密警察をアルゼンチンに送って、アイヒマンを暗殺させるという手もあり得た。実際、これに類似する事例もある。しかし、個人による政治テロならいざしらず、イスラエルという国家によってそういうテロを行なうことは全く正当化できない、とアーレントはいう。
このように論を進めて、アーレントは、イスラエル国家もユダヤ人一般も、ジェノサイドは前例のないものであることを認識することができていないのだと指摘する。彼ら自身の歴史との関連においてのみ物事を考えるユダヤ人の目には、ヒトラーによる大惨禍は、先例のない最新式の犯罪としてではなく、古来ユダヤ人を襲ってきた犯罪――反ユダヤ主義一般や他のポグロム――と連続性をもつものとして理解された。しかし、人種差別、追放、ジェノサイドの間には重大な差異がある。イェルサレムの法廷がそのことを理解していたなら、ここで問題となっているのはユダヤ人の身においてなされた人道に対する罪だったこと、反ユダヤ主義の長い歴史から説明しうるのは罪の性格ではなく犠牲者の選択のみだということが明らかとなったろう。犠牲者がユダヤ人だったという限りで、ユダヤ人の法廷が裁判を行なうことは正当であり、妥当だったが、その罪が人道に対する罪だった限りでは、それを裁くには国際法廷が必要だった、と彼女は説く(pp. 267-270; 二〇六‐二〇八頁)。当時、国際裁判を主張した論者は多数いたようだが、アーレントは特にヤスパースの名を挙げ、共感を示している。
国際刑事裁判というものは、本書が書かれた時点ではニュルンベルク裁判と東京裁判しか前例がなかったが、その後、一九九〇年代に国連の決定により旧ユーゴスラヴィアおよびルワンダに関する国際刑事裁判所がそれぞれ設置され、より一般的な国際刑事裁判所も二一世紀になって設置された。これはアーレントの期待に応えるものという評価もできるかもしれないが、果たして現実にそういう期待が満たされるかどうかについては、別個の検討が必要だろう。
ともあれ、アーレントは実際に行なわれたアイヒマン裁判については、各所で批判的な評価を下している。特に、検察論告についての評価は辛く、「途方もないほど誇張に誇張を重ねてしまった」という文言さえもある(p. 210; 一六三頁)。判決についての評価(第一五章がこれにあてられている)はこれよりは相対的に好意的であり、特に第一審判決は検察の主張のいくつかの部分を退けたことが指摘されている。もっとも、控訴審は原判決よりも検察側の主張――被告は上からの命令ではなく自己の判断で命令を下していたという――に歩み寄ったものになっている、と彼女は指摘する。
このように種々の点で欠陥のある裁判だったが、結論としての死刑は肯定される、というのがアーレントの判断である。それは、アイヒマンが特別に残酷だったり、上級者として命令していたからではなく、「大量虐殺組織の従順な道具」だったとしても、現に大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持した――政治とは子供の遊び場ではなく、政治において服従は支持と同じことだ――という事実は変わらないからだ、というのが彼女の結論である(pp. 277-279; 二一四‐二一五頁)。
七
以上では、基本的に本書の記述に沿って――もっとも、取り上げる順序はある程度本書から離れて、入れ替えを行なったが――その主要内容を見てきた。その上で、特に注目に値する論点をいくつか取り上げて、個別に見ていきたい。ジェノサイド論、全体主義論、責任論の三つを、この順に検討することにする。
先ずジェノサイド論について。本書では、ナチによる「最終的解決」(単なる追放ではなく、絶滅を目指した組織的殺戮)が大量残虐行為や追放一般とは異なるのだということが強調されている。
本書の各所で使われている「ユーデンライン(judenrein)」とは、ある地域からユダヤ人を全面的に排除することを意味するが、「排除」は必ずしも「殺戮」ではなく、他の地域への移住でもありうる。実際、最初は主として移住が念頭におかれていたが、次第にそれが行き詰まり、最終的に大量殺戮に行き着いたという時系列的変化が本書では重視されている。このことは本稿の四で見た通りである。
一口に「移住」といっても、自発的移住もあれば強制的追放もあり、あるいはその中間ないし混合形態もある。移住が強制的な性格を帯びるほど、その過程で暴力がふるわれることも増え、多数の死傷者が出ることもありうる。その意味では、強制追放と大量虐殺との差異は相対的だが、ともかく追放においては最初から全体を殺そうと目論むわけではない。もちろん、このどれもが差別的で、非人道的だという批判も十分可能であり、その見地に立てば、こうした区別はそれほど大きな意味をもたないという考えもありうる。だが、本書におけるアーレントの議論は、むしろこれらをきっぱりと区別して、最終段階の絶滅作戦の特殊性を際だたせるという観点に立っている。前述のように、彼女がジェノサイドの「先例のなさ」を強調しているのはそのあらわれである。
この観点を延長していうなら、一九一五年のトルコによるアルメニア人強制追放と大量虐殺、第二次大戦前後のソ連における一連の民族の強制追放、一九九〇年代旧ユーゴスラヴィア各地におけるいわゆる「民族浄化(20)」、そしてナチについても一九四一年以前までの時期におけるユダヤ人追放などは、どれも「ジェノサイド」の範疇には当てはまらないということになる。「ジェノサイド」概念には広狭様々な定義がありうるが、アーレントが本書で提起しているジェノサイド観は、通常「狭義」とされている解釈(国際法上のジェノサイド)よりももっと狭い、いわば最狭義の定義である(21)。
このように「ジェノサイド」の語をきわめて狭く定義することにはどういう意味があるだろうか。近年、世界各地で、「ジェノサイド」の語をあちこちの例に拡張適用する傾向があり、そうした拡大解釈に立脚した「比較ジェノサイド論」なるものも提唱されている。代表的なものとして、東京大学大学院総合文化研究科を拠点として二〇〇三‐〇七年度に推進された共同研究「ジェノサイド研究の展開(Comparative Genocide Studies)」(22)がある。私自身は、そこにおいて取り上げられた各種大量残虐行為の比較研究には大きな意義があると考えるが、比較研究をするからといって同じ言葉(ジェノサイド)を使う必要はないと考える。むしろ特定の言葉をむやみと拡張適用することは概念の無内容化を伴いやすい。その言葉が濃厚な政治的含意をもっているなら、なおさらである(かつて「ファシズム」の語が一種の政治的レッテルとして乱用され、その結果、そうしたレッテル貼りに近い性格をもつ議論をした人たちの信用を失墜させてしまった例が想起される)。比較研究を進めるということと、何でもかんでもを同じ言葉で括ってしまうこととは全く別であり、後者を避けつつ前者を進めることは十分可能なはずである(23)。このように考える私としては、アーレントの厳格な定義に共鳴するところが大きい(24)。
もっとも、アーレントがどうしてこのような「ジェノサイド」定義をとるのかについては、やや不分明なところがある。ジェノサイドの前例のなさを強調した個所で、彼女は次のように書いている。
「追放とジェノサイドとは、二つとも国際的罪ではあるが、はっきりと区別されなければならない。前者は隣国の国民に対する罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには〈人類〉もしくは〈人間性〉という言葉そのものが意味を失うような〈人間の地位〉の特徴に対する攻撃なのだ」(pp. 268-269; 二〇七頁)。
この「人類の多様性」に対する攻撃という把握は、おそらく彼女の哲学の根本と関わるのだろう。それはそれで興味深い考察である。だが、多様性の抹殺ということを問題にするなら、ジェノサイド概念をもっと広い様々な事例に当てはめることも可能となり、むしろ拡大解釈に道を開きやすいように思われる。文化的同化政策によって少数派の文化を抹殺していくことを「文化的ジェノサイド」と呼ぶ用語法があるが、これなどは、人を一人も殺さなくてもジェノサイドだということになり、またその実例も、特定の専制的政治体制だけでなく、欧米の「先進国」でも広く見られた――時期的にも、現代に特有ではない――ということになって、本書でアーレントが行なっている狭い定義とはおよそ異なる、いわば最広義のものになる。
言葉は定義しだいで広くも狭くも用いられ得る。どの定義をとるかは論者の選択にかかり、どの定義が絶対に正しいとか誤っているということはできない。ただ、アーレントは本書で、ジェノサイド概念について最狭義の解釈を明示的にとっていながら、それを説明するに際しては最広義の定義に道を開くような議論を提出している。このことに対しては、不審の念を懐かないわけにはいかない。
八
次に全体主義論について。これは本書の主要テーマではなく、あちこちに断片的な言及があるだけだが、冒頭で述べたようにアーレントの全体主義論に抵抗感をいだいていた私としては、本書に見られるいくつかの関連記述にこだわらないわけにはいかない。
たとえば、第三帝国の錯綜した官僚機構に関連して、「この支配形式が一枚岩的な性格を持つなどというのは神話にすぎないことを心得ている全体主義の研究者」という文言がある(p. 152; 一二〇頁)。これは目を引く記述である。全体主義論にもいろいろな種類があるが、「古典的」かつ最もシンプルなヴァージョンの全体主義論は「一枚岩」イメージを基本においていたはずであり、それを「神話にすぎない」というなら、少なくともシンプルなヴァージョンの全体主義論は痛打を浴びることになるはずである(25)。
『全体主義の起原』一九六八年版への緒言には、「われわれがいつもそうではないかと疑っていたが今でははっきりしたのは、この体制は決して『一枚岩』的ではな」かった、という個所がある(26)。ここには、「いつもそうではないかと疑っていた」という文言と「今でははっきりした」という文言とがあるが、前者を重視すればこれは新発見ではないということになり、後者を重視すればこれは新発見だということになる。勘ぐりになってしまうかもしれないが、アーレントはもともとは「一枚岩」的なイメージをもっていて、後になってそれが揺るがされたとき、「自分も実は前からそうではないかと思っていたのだ」と自己正当化しているのではないかという気がしてならない。というのも、初版には、たとえば次のような個所があるからである。
「この箍はすべてをぎりぎりと締め上げて、立憲国家の市民のあいだに存在するような自由な空間のみならず、専制に特有のあの孤絶と相互不信の砂漠さえ消滅させてしまう。まるですべてが融合して巨大な大きさの一つの存在になったかのように見える。……自然もしくは歴史の過程の従順な実行者としてのテロルは、人間と人間のあいだの空間――それが自由の存する空間にほかならないが――を完全に無にしてしまうことによって、人間たちを一つにするということをなしとげたのである。……人間というものが複数ではなく単数でのみ存在するかのように、地上には巨大な一人の人間――その動きは自動的・必然的な自然もしくは歴史の過程と符節を合わせたように確実正確に一致する――しか存在しないかのように人間を組織することにテロルは成功する」(27)。
これはまさに「一枚岩」イメージそのものにほかならない。「巨大な大きさの一つの存在」「人間たちを一つにする」「人間というものが複数ではなく単数でのみ存在する」「巨大な一人の人間……しか存在しない」といった言葉は、それを示唆する(28)。もちろん、これは冒頭で川崎修を引いて述べたように、「現実」というよりは「悪夢」の描写として有意味なのだろう。ただとにかく、一九六〇年代に「一枚岩イメージは神話だ」という認識をもつに至ったアーレントは、五〇年代においては、神話ないし悪夢と現実とを明確に区別する観点をもってはいなかったように思われる(29)。
『イェルサレムのアイヒマン』に戻るなら、次のような個所もある。
「全体主義的支配が、善悪を問わず人間のいっさいの行為がその中に消滅してしまうような忘却の穴を設けようとしたことは事実である。しかし……すべての努力も空しかったのである。忘却の穴などというものは存在しない。人間のすることはすべてそれほど完璧ではないのだ。何のことはない。世界には人間が多すぎるから、完全な忘却などということはあり得ないのである。……その教訓とは、恐怖の条件下では大抵の人間は屈従するだろうが、或る人々は屈従しないだろうということである」(pp. 232-233; 一八〇頁、強調は原文)。
これも注目に値する記述である。どんなに圧制的な政治体制のもとでも屈従しない人がいるという指摘は、読む人を勇気づける。と同時に、この認識は、「全体主義」のもとでは「すべてが融合して巨大な大きさの一つの存在になった」というイメージを事実上裏切っている。「人間のすることはすべてそれほど完璧ではない」というのも、まさにその通りである(特にドイツよりも能率の低いソ連社会では、いくらスターリン官僚が努力しても、その統制は「完璧」からほど遠い水準にとどまった)。ということは、どんなに「全体主義的」といわれる体制であっても、本当に「全体主義」そのものになりきることはありえない、ということを意味するはずである。ナチ活動家といえども、ときとして柔軟性を発揮したことへの言及(たとえばpp. 165, 175; 一二九、一三六‐一三七頁)も、これと関連する(もっとも、本書ではそれが専ら「西欧文明」と関係づけられているのではないかとの疑念もないではないが)。
あるいはまた、次のような個所もある。
「全体主義的支配の本質、またおそらくすべての官僚制の性格は、人間を官吏に、行政装置の中の単なる歯車に変え、そのようにして非人間化することであるということは、政治学および社会学にとっては勿論重要な問題である」(p. 289; 二二三頁)。
ここでは、「全体主義的支配の本質」が「おそらくすべての官僚制の性格」と無造作に結びつけられている。確かに、ここに指摘されているような傾向は、自由主義的な政治体制をとる国の官僚制にも観察されることだろうし、それはそれで重要な点である。他面、その具体的形態や度合いには様々な違いがあるはずだが、いま引用したアーレントの文章は、あっさりと「おそらくすべての官僚制」と言うのみで、そうした差異には無頓着である。これでは、近代官僚制がある限り、それが「全体主義的」と呼ばれる政治体制であろうと「自由主義的」と呼ばれる体制であろうと、何ら変わらないという話になってしまいそうである。
この項の最後に、イタリアとドイツの差異に関連して、「ナツィはイタリアのファシズムよりもスターリン流の共産主義のほうに自分らとの共通点があることを充分心得ていた」という記述がある点に触れておきたい(p. 176; 一三七頁)。ナチ・ドイツとスターリン・ソ連の間にある種の共通性があったということ、またファシスト・イタリアとナチ・ドイツの間にはかなり大きな差異があったということ自体は明らかであり、その点に疑問を投げかける必要はない。しかし、A・B・C三者のうちA・B間の共通性の方がA・C間の共通性よりも大きいというような議論を出すためには、「共通性の大きさ」をどうやって測るのかという厄介な問題があるにもかかわらず、その点については何も論じられていない。またナチ幹部がそういう認識をいだいていたことを示す根拠も何ら示されていない。こうして、この記述は無責任な放言にとどまっている。
九
最後に責任論について。歴史上の大きな惨禍に関して、それに関与した人たちがどのような責任を負うと考えるべきかという論点は、多くの人々の関心を引きつける重大問題である(30)。
責任という問題を考えるに当たっては、どのような人の責任を念頭におくのかの特定が欠かせない。「誰の責任」をいうのかによって、「どのような責任」かも、自ずと異なるからである。本書の主題との関係でいえば、以下のような人々を区別することができるだろう。
@アイヒマン個人。
Aドイツ人全般。
Bユダヤ人、とりわけシオニスト。
Cヨーロッパ諸国の人々。
Dアイヒマン同様の「陳腐」な官僚、あるいはより広く「ありふれた普通の人間」。
これらのうちのどれに重点をおくかは、それぞれの人がどういう立場にあるかによるだろう。アイヒマンと同時代の人々にとって、@が強い関心の対象だったのは自然である。また、自分自身がドイツ人である/ユダヤ人である/シオニストである/ナチ・ドイツに協力した国の人間である等々の場合には、それぞれに応じてABCが深刻な問いとなるだろう。また、哲学者や心理学者はDの問題に興味をいだくだろう。
アーレントの場合、アイヒマンと同じ時代を生きていた(二人とも一九〇六年生まれで、完全に同年代)ことからして、@への関心が強烈だったのは驚くに当たらない(実際、彼女はわざわざ自ら志願して『ザ・ニューヨーカー』誌の特派員となり、アイヒマン裁判の現場取材に携わったという)。また、ドイツで生まれ育ったユダヤ人で、全ヨーロッパ的視野をもち、一時期シオニズムに惹かれたことがあり、また哲学者でもあるという彼女のパーソナル・ヒストリーを考慮するなら、ABCDのすべてに強い関心をいだいていたことも容易に理解できる。現に、本書ではこれらのどれもが主題となっている。それはこの本の内容を豊富にしている反面、主題が拡散しすぎて、どこに重点があるのかがつかみにくい結果にもなっているのではないかという気もする。たとえば、戦時下ドイツにおける「内心の反対」に関する辛辣な評価(pp. 126-127; 一〇〇頁)などは、それ自体として興味深い指摘だとはいえ、本書全体の主題からいえば一種の脱線という印象を受ける。
日本人の関心のありようについていえば、ドイツをはじめとするヨーロッパ史やユダヤ史・イスラエル史などを専攻している研究者は職業柄ABCに関心をもつだろうが、それはむしろ例外であり、一般的にいえば、それらの論点への関心はあまり高くないだろう(但し、Aについては、一五年戦争に関する日本人の責任問題に置き換えることによって、間接的に関心の対象となりうる)。@についても、いまとなっては遠い過去に裁かれた一個人であって、とりたてて強い関心の対象にはなりにくい。そうした事情から、Dつまり「普通の人間」の責任という観点が最大の関心の対象になる傾向があるのではないかと思われる。
ところが、そういう関心をもって本書に立ち向かうと、やや肩透かしの感をいだかせられる。というのも、本書はDの問題にもある程度触れているとはいえ、それは特に中心的に掘り下げられているわけではないからである。
本書は「悪の陳腐さ」という副題をもっており、アイヒマンは例外的に残虐かつ悪辣な人間だったのではなく、想像力を欠いた官僚としてその任務を遂行したに過ぎないという観点に立っている。だが、では本書の記述が「普通の人間」のおかしうる悪行およびその責任という問題に焦点を当てているのかというと、そうでもない。やはり焦点は、最終的にはアイヒマン個人に当てられている。たとえ彼と同じような人が同じようなことを犯したかもしれないとしても、だから彼が免責されるわけではない、というのがアーレントの結論的主張である。これはこれで十分成り立つ議論ではあるが、では、同様のことを犯したかもしれない他の「普通の人々」についてはどう考えるべきかという問題には、本書はあまり立ち入っていない。
こういうことを私が気にするのは、本書刊行後の様々な議論を既に知っているからかもしれない。たとえば、ミルグラムの心理学実験――残酷な行為をするよう命じられた人の多くが、その指令に従うことを示したもので、「アイヒマン実験」とも称される――などはその代表的なものだろう(31)。あるいはまた、ホロコーストそのものに関しても、ブラウニングの研究やゴールドハーゲンの論争的著作が、「普通の人々」もしくは「普通のドイツ人」――この二つの表現の間の差異という問題もあるが、ここでは立ち入らない――のホロコーストへの関与について論じている(32)。私自身はこれらの議論についてよく知っているわけでもなければ、立ち入って論じる資格があるわけでもないが、とにかく、極端にサディスティックというわけでない「普通の人間」が恐ろしいことを犯しうるという問題提起は、今日ではむしろありふれているだろう。そうした観点を既に知っている今日の立場からは、アーレントもこの問題に取り組んでいるのではないかという期待をもって本書に向かうことになりやすい――少なくとも私はそうだった――が、この期待は空回りに終わる。やはり本書はあくまでも、アイヒマンの責任を論じた本なのである。
*
以上、いくつかの項目に分けて検討してきた。いくつか批判がましいことも述べたが、そうした批判の作業自体が知的にスリリングなものだったことはいうまでもない。アーレントの記述が多岐にわたるのに対応して、この読書ノートもあれこれの論点に触れることになってしまい、議論をどこに集約してよいのか分からないという戸惑いも残るが、ともかく本書を味読し、自分なりの感想をまとめるのはそれなりに刺激的な作業だった。
(1)よく分からないが、どうもアーレントが肌にあう人とあわない人とがいるようである。長谷部恭男「自己目的化の陳腐さについて」東京大学出版会『UP』二〇〇七年七月号参照。
(2)この観点が明示されているのは、一九六八年版への緒言である。そこにはスターリン晩年の反コスモポリタニズム旋風への言及があり、そのナチズムとの共通性が強調されている。ハナ・アーレント『全体主義の起原・3・全体主義』みすず書房、一九七四年、緒言、xxiv‐xxvi頁。しかし、実は、初版にはこの種の記述はほとんど見当たらない。「反ユダヤ主義」と題された同書第一巻はほぼ全面的に西欧におけるユダヤ人問題にあてられていて、ロシア・東欧にはほとんど触れていないし、「全体主義」と題された第三巻もナチズムとスターリニズムの共通性を一般論として強調するだけで、ソ連におけるユダヤ人問題に触れるところはほとんどない。初版が刊行された一九五一年には既に反コスモポリタニズム旋風が始まっていたのだが、アーレントはまだそれをよく知らなかったものと思われる(大急ぎでざっと見直してみたところ、八一頁の注24や一二五‐一二六頁にごく短い言及があるのしか見つけられなかった)。なお、二〇四頁には一九六八年版における追加個所が挿入されているが、そこには「ソ連ではまったく前例のない公的な反ユダヤ主義の突然の出現」とある。この記述から、これ以前の時期については、ソ連に強烈な反ユダヤ主義があるわけではないというのが彼女の認識だったことが分かる。一九六八年版は、一方においてフルシチョフ後のソ連がもはや全体主義でなくなったとして、初版への一定の修正を提起しているが、他方ではスターリン末期のユダヤ人迫害をとりあげることで、より鮮明にナチズムとの共通性論を押し出しているわけである。
(3)この重要問題について全面的に取り組んだ研究はまだないが、先駆的問題提起として、長尾広視「『コスモポリタン批判』再考――ソ連演劇界にみるスターリン統治の論理」『思想』二〇〇七年四月号参照(アーレントへの言及は一一〇頁)。私自身は、長尾の研究に触発されつつ、ごく簡単な概観を試みたことがある。塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』岩波新書、二〇〇八年、一一五‐一一八頁。
(4)川崎修『アレント――公共性の復権』講談社、一九九八年、三八頁。
(5)川崎修「全体主義」福田有広・谷口将紀編『デモクラシーの政治学』東京大学出版会、二〇〇二年所収、七四頁。
(6)英語版と邦訳書を参照したが、訳文に特別の問題がない限り、引用は邦訳書に従った。但し、邦訳書のカタカナ表記および用語法にはやや不自然と感じられるものもあるので、直接引用以外の個所では、それらはより自然と思われる表記に直してある。
(7)現代史における時間感覚という問題については、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第一章参照。
(8)塩川伸明「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」『国家学会雑誌』第一二〇巻第七・八号、二〇〇七年、一三九頁の注1を参照。
(9)「水晶の夜」に七五〇〇のユダヤ商店が破壊され、二万人もが収容所に送られたとある(p. 39; 三〇頁)が、その日のうちに殺されたのは一〇〇人以下だった。その後、ドイツ国家は約六〇〇万人のユダヤ人を殺したが、一日当たり一〇〇人の割合で殺していくと、これだけの数に達するにはほぼ二〇〇年を要する。つまり、この日の殺戮とその後のホロコーストの間には、その規模において質的な差があった。小坂井敏晶『責任という虚構』東京大学出版会、二〇〇八年、五三頁。
(10)マダガスカル案については、芝健介『ホロコースト』中公新書、二〇〇八年、七九‐八四頁参照。
(11)なお、第六章の出発点たる独ソ戦開始(一九四一年六月)と第七章の主題たるヴァンゼー会議(四二年一月)のどちら――あるいはその間のどこの時点――がユダヤ人絶滅作戦の決定的転機だったのかという点については、歴史家の間で論争があるようである。一九四一年七‐八月に絶滅命令が出されたとする見解を批判して、その時点ではまだヨーロッパ全体におけるユダヤ人絶滅となったわけではなく、一二月の対米戦争布告以降、文字通りの世界戦争・総力戦が展開する中で絶滅命令が出されたとするのは、永岑三千輝「独ソ戦・世界大戦の展開とホロコースト」『ロシア史研究』第八二号、二〇〇八年。他方、芝健介、前掲書は特定の時期を明確な区切りとするよりも、時間的経過の中での漸次的変化を細かく追っている。この問題は、いわゆる「意図派」「機能派」の論争とも絡む大問題だが、これ以上立ち入ることはできない。
(12)芝健介、前掲書、九〇‐九五頁は、ユダヤ人評議会のメンバーたちは「苦悩の選択を余儀なくされた」として、やや同情的な評価を示唆している。アーレントは自分自身がユダヤ人であるが故に、ユダヤ人指導者の「裏切り」的行為に、より厳しくなっているのかもしれない。
(13)イタリアに関するこの指摘は、もう一つの同盟国だった日本はどうなのかという疑問を喚起する。私自身はこの問題に自分で取り組んだことはなく、特別の見識をもっているわけではないが、敢えてごく大ざっぱな推測をいえば、イタリアでさえこうだとしたら、ユダヤ人がほとんどいないために草の根の反ユダヤ主義の伝統もない日本では、ナチ・ドイツのような強烈な反ユダヤ政策がとられなくても不思議ではない。もちろん、一部の人たちは「国際ユダヤ資本の陰謀」に対する警戒を呼びかけたりしただろうが、他方では、むしろユダヤ組織に恩を売る政策を考えた人たちがいてもおかしくはない。仮にそうした事例があったとしても、それは日本が断固としてナチの非人道的政策に抵抗したことを意味するわけでないのはもちろんである。
(14)塩川『民族とネイション』一八九‐一九七頁。
(15)同右、六〇‐六二頁。
(16)ガリツィヤ(ウクライナ西部とポーランド東南部にまたがる地域)の状況については、野村真理『ガリツィヤのユダヤ人』人文書院、二〇〇八年が詳しい。その他、芝健介、前掲書、一二三‐一二五頁も参照。バルト三国やウクライナの反ソ的民族運動がナチとともに――場合によってはナチ以上に熱心に――ユダヤ人虐殺を行なったという事実は重い意味をもっており、近年、改めて歴史論争の焦点となっている。
(17)アイヒマン裁判への西ドイツおよび東ドイツの反応、またイスラエル政府の思惑などを、ドイツの「過去の克服」問題との関連で記述したものとして、石田勇治『過去の克服――ヒトラー後のドイツ』白水社、二〇〇二年、第四章が参考になる。佐藤成基によれば、ナチスの非人道的犯罪行為を「ドイツの過去」として受けとめ、その過去の「克服」を自らの義務と捉える発想は、戦後まもない時期から西ドイツ知識人の間で提起されていたとはいえ、この頃まではまだ主流ではなく、一九六〇年代を通して徐々に「ホロコースト・アイデンティティ」ともいうべきものが確立した。佐藤成基『ナショナル・アイデンティティと領土――戦後ドイツの東方国境をめぐる論争』新曜社、二〇〇八年、第五章(アイヒマン裁判への言及は一四四頁)。
(18)この点はおそらく国際法学者の間で異論がありうるだろうが、ここでの主題ではないので立ち入らない。
(19)この指摘も、現代的な「新しい戦争」の特徴に関わるものとして興味深い論点だが、ここでは立ち入らない。
(20)「民族浄化」については、研究ノート「『民族浄化』という言葉について」参照。なお、ナチの使った「ユーデンライン」とは、「(ある地域を)ユダヤ人から浄化する」という意味なので、これが「民族浄化」の語源になったとも考えられる。その際、本文に記したように、移住や追放も含めて考えるか、それとも「最終的解決」=絶滅作戦に焦点を絞るかは、議論の分かれるところである。
(21)国際法上のジェノサイド定義(一九四八年ジェノサイド条約による)は、ある集団の「全部あるいは一部」の破壊を意図した行為としており、石田勇治はこれを「狭義のジェノサイド」としている。石田「ジェノサイドへのアプローチ」黒木英充編『「対テロ戦争」の時代の平和構築――過去からの視点、未来への展望』東信堂、二〇〇八年、三六頁の表1参照(定義自体は三一頁に引用されている)。しかし、この定義に含まれる「全部あるいは一部」という言葉は著しくあいまいであり、拡大解釈の余地がある。確かに、「全部」という言葉を結果に即して考えるなら、文字通り集団全部の破壊はありそうになく、そのような実例は存在し得ないということで非現実的な定義になってしまうが、結果ではなく意図に着目するなら、「ある人間集団全部の破壊を目論み、その目的に向けて組織的な政策を現実に推し進める行為」という風に定義することもできる。アーレントのジェノサイド観を定式化するなら、このようなものになるはずであり、これは石田の言う「狭義」よりもずっと狭い。
(22)日本学術振興会「人文・社会科学振興プロジェクト研究事業」領域U‐1「平和構築に向けた知の展開」の一環として推進された。
(23)私はこのことを、ワークショップ「旧ソ連・東欧における大量弾圧――ジェノサイドか?」(上記プロジェクトの一環として東京大学駒場キャンパスで二〇〇四年一一月二〇日に開かれた)におけるコメント発言で指摘したことがある。この発言の一部は、「『民族浄化』という言葉について」(前注20参照)の「追記の二』の末尾に引用しておいた。
(24)念のために断わっておくなら、このように論じることは、「狭義のジェノサイド」に該当しないもろもろの事例を軽視したり免罪したりするということを全く意味しない。ここで問題になるような様々な事件は、きわめて悲惨な大量残虐行為であり、強く弾劾されて然るべきだということは、当然の出発点である。その上で、そうした残虐行為が多種多様に存在することから、それらをよりきめ細かく認識していく上で、言葉づかいはできるだけ厳格にした方がよいのではないかというのが、ここでの提言である。
(25)全体主義論については、塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、第三章、『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、一五〇‐一五二頁など参照。
(26)アーレント『全体主義の起原・3・全体主義』緒言、xvi頁。
(27)同右、二八〇‐二八一頁。
(28)なお、本文で引用した個所の少し後に、「われわれはまだ完璧な全体主義的支配機構を見てはいない。そのような支配は全地球の制覇を前提とするだろうから」とある。これは「全体主義」が未だ「完璧」ではないことを認める留保のようにも見えるが、「全地球」はともかくナチ・ドイツやスターリン・ソ連の内部に関する限りは、「すべての人間が一人の人間に、すべての個人が種の一個体に、そして人間のなすことのすべてが歴史もしくは自然の合法則的な運動機構の中での加速スウィッチに」なってしまったという認識であるように見える。同右、二八一‐二八二頁。
(29)「全体的支配は夢想ではない」と書いた個所もある。同右、二五八頁。
(31)ミルグラム事件については、小坂井、前掲書が詳しい紹介を行なっている。
(32)クリストファー・ブラウニング『普通の人びと――ホロコーストと第101警察予備大隊』筑摩書房、一九九七年、ダニエル・J・ゴールドハーゲン『普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人』ミネルヴァ書房、二〇〇七年。特に後者は、米独両国でセンセーショナルな大論争を巻き起こしたことが日本にも伝えられ、よく知られている。私自身はいくつかの紹介ないし解説類で何となく論争の内容が分かったような気がしてしまったことと、あまりに厚い大著であることから、今のところ同書そのものを読んではいない。問題の書そのものを実際に読むことなしに論評することが許されないのはいうまでもないが、敢えて本論からの脱線として軽い感想を述べるなら、ゴールドハーゲンの著作が大反響を呼び起こしたのは歴史学自体の実質的な問題というよりはむしろ学問のジャーナリスティックな利用という文脈に関わるような気がしてならない。
*Hanna Arendt, Eichman in Jeruslem: A Report on the Banality of Evil, Penguin Books edition, 2006; ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』みすず書房、一九六九年(新装版、一九九四年)
(二〇〇九年一‐二月)