イグナティエフ『軽い帝国――ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』
 
 
 副題が示すように、世界の紛争地域へのアメリカ(およびその同盟国)の関与ないし介入が本書のテーマであり、古典的帝国と対比される「軽い」帝国という特徴づけが、著者の視角を物語っている。なお、本書が刊行された二〇〇三年初頭の時点で、イラク戦争そのものはまだ始まっていなかったが、戦争開始は既に必至とみなされており、そのためイラク問題も陰に陽に本書に影を落としている(イラク戦争そのものに著者がどのような態度をとったか――「リベラルなタカ派」としての武力行使支持――は訳者解説で述べられている)。
 著者イグナティエフは、世界各地の紛争に関するルポルタージュ風の書物をこれまで三冊書いており、本書はそれらに続く「シリーズ第四作」ということになる。私は以前に、「第三作」たる『ヴァーチャル・ウォー』を中心としてそれ以前の作品にも触れた読書ノート(以下、「前稿」と記す)を書いたが、この「第四作」はそれらとかなりの程度重なり合うと同時に、それには尽くされないものももっている。そうしたことから、前稿に対する一種の補論として、この本についても読書ノートを書いてみる気になった。補論という位置づけであるので、イグナティエフという人についての全体的な印象とか、前三作と重なる点についての言及はできるだけ省き、本書に固有な点を中心として感想を書き留めてみたい(1)
 
     一
 
 標題「軽い帝国(Empire Lite)」で使われている「ライト(Lite)」という言葉は、訳者あとがきにもあるように、低カロリー食品や低ニコチン煙草などの広告によく使われる言葉であり、語感自体が「軽い」。最近の日本では「ぷち・ナショナリズム」といった言葉が流行っているが、その「ぷち」と多少相通じるところがあるかもしれない(もっとも、日本と違って、アメリカは「ぷち」というにはあまりにも大きすぎる存在だが)。
 学者兼ジャーナリストであるイグナティエフは、背後に理論的考察をもちながらも、それをあまり表だって体系化する形で論述してはおらず、「軽い帝国」という言葉についても、まとまった定義のようなものは下していない。それでも、あちこちの記述からその内容を窺うことはできる。それは「人道主義的な帝国」であるとされ、基本的にはアメリカのことを指しているが、西ヨーロッパ諸国や日本を巻き込んだ多国的現象でもある。「それは、民主的な自由世界であり、西側キリスト教世界である」という(二六‐二七頁)。ついでながら、日本は、自己意識としては「民主的な自由世界」に属するとみなす人が多いだろうが、「キリスト教世界」には明らかに当てはまらない。つまり、この図式は日本のような存在を無視することによってしか成り立たないということになる。
 それはともかく、リベラル・デモクラシーを信条とする人たちにとって、他国への「帝国」的な――まして「帝国主義」的な――介入は自己矛盾的なところがある。そもそも外部からの介入は、現地の人たち自身による民主的統治と反する性格を帯びている。また、他国への介入のために多額の資金や多くの人材を――しかも犠牲者を出す可能性を含んで――投入することは国内有権者からの批判を浴びやすいが、そうした批判を抑え込むためには、世論操作や言論統制のような手段が必要となるかもしれず、それは自国の民主主義と抵触しかねない。そうした自己矛盾を最小限にとどめようとするなら、リベラル・デモクラシーに立脚する帝国は、他国に介入しはするものの、できるだけ早期の撤収を目指すことになる。つまり、「資金を投入し、結果を急ぎ、なるべく早く権限を移譲し、さっさと出ていこうとする急ぎ足の帝国」ということになる(三二頁)。それは、「自らを帝国であると自覚しない帝国」(一〇頁)であり、「権力を行使しながらも、人々から好かれたいという強い思い」(九六頁)によって特徴づけられる。「帝国的な手段で民主主義的な目的を達成するのは矛盾を内に抱えた行為である」と明確に指摘した個所もある(一四五頁)。そのような「一時的な帝国主義、すなわち軽い帝国が、内戦によって引き裂かれた国家の民主化のためには不可欠な条件となった」というのが、イグナティエフの基本認識である(三頁)
 そのような「帝国」はいろいろと矛盾を抱えるにしても、とにかく不可欠であり、いわば一種の必要悪として肯定される――これが本書の基本的な主張であるかにみえる。もしそれがすべてなら、論争的であるにもせよ、比較的明快な主張であり、「そういう考え方もあるかな」で終わるところだが、本書がそれほど単純一筋縄な作品でないことは、各所で著者自身がためらいをみせたり、議論を曲がりくねらせているところから窺える。そうした屈折は、本書をやや分かりにくいものとしているが、同時に、それこそが独自の魅力のもととなっているようにも思われる(2)
 最も重要な点は、「軽い帝国」は本当に「軽い」ままでいられるのかという疑問にある。イグナティエフ自身、次のように書いている。「しかし、帝国は軽くはなれない。それは、必然的に重厚な存在で、そうでなければ持続しえない。さらに、そうでなければ帝国が維持しようとする平和そのものも持続的たりえない」(一〇三‐一〇四頁)。「軽めの国家建設は、ここマザリシャリフ〔アフガニスタンの都市〕では、あまりに軽すぎ、それがいつまで信用され続けるかは分からない。権威が確立するためには、力はもちろんだが、相手に畏怖の念を植えつける必要がある」(一一四‐一一五頁)。「永遠という幻想は、大英帝国が成功した秘訣であった。常に出口ばかりを見つけようとしている人間が、長期にわたって帝国を維持することは不可能であり、また国益を守ることもできない」(一一六頁)。「人権侵害を正すために帝国的な力を行使すれば、最終的には主権者を置き換え、そして国境を変更する可能性さえも引き受けてしまう〔中略〕。人道的介入が新しい帝国主義になりつつあるということを西側諸国の政府は必ず否定するが、コソボはその先例とならざるをえないであろう」(九二頁)。これらの議論をうけて、「民主主義体制下の人間は、気まぐれな帝国主義者にしかなりえず、彼らは常に帝国的な事業が割に合わないのではないかと疑っている」(一四八頁)ともいわれている。だとすると、「軽い帝国」を不可欠だとする論者は、結局のところ「重い帝国」まで肯定しなければならないということになるのだろうか――こういう疑問が浮かぶ。
 もっとも、アメリカを先頭とする「国際社会」は、紛争地域への関与に際して、「能力(キャパシティ)開発(ビルディング)」「エンパワーメント」などの言葉を使って、国家建設の支援をしており、その意味では「古典的な」帝国とはかなり異なるようにもみえる。しかし、実際には、そこでは「援助国、国連機関、そしてNGOの間で、お金と苦難のマーケット・シェアをめぐって熾烈な戦いが繰り広げられている」。そして、国家建設支援の名の下で行なわれていることは、実は大英帝国の「間接支配」と異ならず、「幻想としての自治と、現実としての帝国による保護、監督の組み合わせ」(一二五‐一二六頁)だ、とも指摘されている。こうして、現代的な「軽い」帝国が、実は、古典的な「重い」帝国と事実上同様な性格をもつことが示唆されているのだが、とすれば、それを一体どう評価すべきなのだろうか。
 イグナティエフはこういう疑問を引き起こさずにはいない叙述をしながらも、その点に明確に答えているわけではなく、問いは読者に投げかけられたままである。結論部で著者は次のように述べている。「リベラルな人々が――私自身もそうである――、新しい人道的な帝国の形成を支持することになるという事実は、皮肉な状況であるといわざるをえない」(一五五頁)。「皮肉」だからどうなのだという結論は明示されていない。文脈から察するに、「皮肉」性を見据えながらもとにかく支持するしかない、という主張であるかにみえるが、そうだと断定しきれるわけでもない。
 本書の前の方には、次のような指摘もあった。「帝国主義は、自己陶酔的な取り組みである。そして自己陶酔は、常に幻滅にいたる」(五七頁)。これは醒めた認識である。そのような認識を持ちながらも、著者自身も時として「自己陶酔」に陥っているのではないか、そしてその後での「幻滅」も分かちもっているのではないか――どうしても、そういう気がしてしまう。
 
     二
 
 本書の中で一つ特に私の目を引いた点として、「帝国」の介入の論理にダブル・スタンダード(二重基準)があるということを認めつつ、それを敢えて肯定する態度がある。世界中のありとあらゆる「破綻国家」に派兵するわけにはいかない以上、「ごく一部の戦略的要衝」に選択的に介入するほかないという指摘がそれである(九三、一四二‐一四三頁)。ダブル・スタンダードといえば偽善という言葉がすぐ思い浮かべられ、排斥すべきものだという結論がすぐ続きそうである。しかし、イグナティエフは、「現代の帝国的な倫理は偽善たらざるをえない」ことを認めた上で、「しかし、偽善とシニシズムは同一ではない。帝国が自ら説くことを実行できないということは、帝国がそれを信じていないということを意味しない。問題は、その信念が誠実なものであるかどうかではなく、それを毎回実行することが不可能であるということだ」というのである(一四三頁、強調は原文のもの)。
 ダブル・スタンダードがあるのとないのとどちらがよいかと問えば、ない方がよいというのは当たり前の話である。しかし、世界上のありとあらゆる紛争を全て精密に分析し、完全にバランスのとれた対応をするなどということは、実際問題として至難であることを思えば、「ダブル・スタンダードは排斥されるべきだ」と主張する人は、不可能事を要求しているか、あるいは物事をあまり突き詰めず、軽く考えているのではないかとも疑われる。もしダブル・スタンダード回避が実際問題として不可能ないし極度の困難事であるなら、それがないと強弁するよりは、それがあることを認めた上で、特定の条件下ではやむを得ないと論じる方が、知的に率直な態度ではないかという気もしないではない(3)。そこまでは一応理解できるのだが、問題はその先――「やむをえざる選択」の具体的な説明――にある。
 この点に関わるイグナティエフの議論は次のようなものである。コソヴォと似た状況はチェチェンやウィグルにもあるが、アメリカはコソヴォ問題のみを取り上げ、後二者については介入しようとしない。チェチェンに介入するとロシアと対決することになり、ウィグルに介入すると中国と対決することになるが、そうした核保有国との対決はコストが大きすぎる、というのである(九三、一四二‐一四三頁)。これはそれなりの説明であるかにみえるが、いくつかの問題点を指摘しないわけにはいかない。
 第一に、イグナティエフはチェチェン、ウィグルなどの事情について詳しく検討することなく、それらの地で起きていることは大規模な人権侵害だから、具体的対応方法はともかく、本来放置できないものだという認識を単純に前提している。確かに、ロシアや中国がそれらの地で(あるいはミロセヴィチ時代のセルビアがコソヴォで)大規模に残虐な行為を行なってきたということ自体は否定しがたいだろう。だが、実は、それらはアメリカが世界各地で行なっている「テロリストとの闘争」と同質のものと捉えられる面があるかもしれない(念のためいえば、だからといってそれらを完全に同一視しようというのではない。ただ、政権担当者の説明に関する限り、ともかく類似の要素があり、同じ土俵で検討すべきではないかというにとどまる)。ところが、そうした可能性はイグナティエフの念頭にはおよそのぼっていない。そこには、「アメリカは裁く側であり、ロシア・中国・セルビアなどは裁かれる側だ」という関係を、論じるまでもない自明の前提とする発想が感じられる。そのために、ひょっとしたらこれらの間に共通の問題がありはしないかという問いは全く検討されないままとなる。
 第二に、いまの点と裏表の関係だが、比較されるべき例はチェチェン、ウィグルだけではなく、世界中には多くの大量人権侵害があり、そのうちのいくつかはアメリカが支援する国で起きたりしている。ところが、そうした例には一切言及されていない。
 第三に、アメリカがある場合には介入し、ある場合には介入しないのは、相手がロシア・中国のような軍事強国かどうかによるという考えが、先の個所には示唆されている。だが、それだけでなく、むしろアメリカ側の利害や世界戦略に基づく選択が働いているのではないかという問いも立てられるはずである。アメリカのイラクへの介入は、その表向きの理由のほかに、石油をめぐる利害によるのではないかという議論が提起されたのは記憶に新しい。セルビア空爆にしても、介入後に米軍はコソヴォに重要な軍事基地――中東からカスピ海にかけての地域をにらむ重要拠点となった――を獲得したことから、これこそが介入の本当の狙いだったのではないかという説もある。これらの観測がどこまで当たっているかという問題は別個に検討しなければならないが、ともかくそうした説が現に提起されているのは事実である。ところが、そうした問題もイグナティエフは検討していない。アメリカ(およびその同盟国)は、手段・戦術選択において不適切な判断をするかもしれないが、少なくとも目標に関する限り常に正義の側にあるという発想が、暗黙の前提となっているかにみえる。
 そして第四に、軍事介入が得策でない場合には、「圧力をかけるためには、武力行使以外の手段を用いなければならない」(一四三頁)とイグナティエフはいうのだが、それをいうなら、セルビア、アフガニスタン、イラクなどの場合にも「武力行使以外の手段」を用いた方がよかったということにはならないのか、という疑問が浮かぶ。イグナティエフは、その「リベラルなタカ派」的主張を説くときには軍事力行使以外の選択肢はあり得ないと断定的に論じるが、そうした論調と、特定の場合には「武力行使以外の手段」を探るべきだという主張との関係は明らかにされていない。
 こういった風にみてくると、やはりイグナティエフ自身が一定の偏った見地を暗黙のうちに採用していて、その合理化をしているのではないかという印象は否みにくい。
 
     三
 
 以前の著作でもそうだったが、イグナティエフは多くの個所で冷静な多面的議論を進めていながら、所々で、未確定な予断を「正しいことがいずれ証明されるであろう」という風に結論先取りをして(三四、八七、九三頁など)、読む人を戸惑わせる。まだ確証されていないことが将来ひょっとしたら確証されるかもしれないというならともかく、必ず「証明されるであろう」などと断言するのは非論理的だということくらい、明晰な頭脳をもつ著者には自明のはずなのに、どうしてこういう議論をしてしまうのだろうか。はっきりしたことはいえないが、一つの理由として、「何が善かはなかなか確定しがたいが、少なくとも、何が極悪非道なことかは明確に確定できる。そして、現に後者が起きているときには、とにかくそれと戦わなくてはならない」という発想があるのではないかという気がする。
 確かに、「あまりにもひどい」と感じさせる出来事が起きるということは実際にある。そして、それに対して「何とかしなくては」という切迫した義務感を人々がいだくのも当然のことである。だが、そうした「あまりにもひどい」状況がどうして生じたのかを考える際、特定の「元凶」――個人や集団とは限らず、特定の状況も含めて――が見つかるかどうかという、もう一つ別の問題がある。もし「元凶」が疑問の余地なく確定できるなら、具体的な戦い方については種々の選択があるにしても、少なくとも戦う相手だけは確定する。それと同時に、「元凶」=敵は向こう側にいるのであって、「われわれ」の側――アメリカおよび同盟国――は、種々の問題性をはらむにせよ、とにかく「悪」と戦う側だ、ということも暗に前提される。だが、そのような「元凶」の設定自体に不確定性が伴うかもしれない――また「われわれ」の側も、実は、ひょっとしたら無自覚のうちに「元凶」となっているのかもしれない――という問題は、ほとんど意識されていないようにみえる。
 こうした問題に踏み込んで論じるのはなかなか難しい。というのも、そこには、正面から論じられていることよりも、むしろ「自明」とみなされているために明示的に論じられていない事項が関係するからである。著者が明示的に論じていないことを取り上げて批判的に論評するというやり方は、往々にして「無い物ねだり」や外在的批評になってしまいやすい。だが、そこに含意されている思いこみが議論の暗黙の前提をなすとすれば、やはりその点に注目しないわけにはいかない。
 その一つは、介入不可避論の前提となる、「破綻国家」という認識――つまり、国家が国家たりえず、最小限の秩序も保証できないような状態は最悪だという認識――である。シリーズ第二作の『戦士の誉れ』(邦題『仁義なき戦場』)にも、既にそのような考えが示唆されていたが(4)、本書ではその点がより一層前面に出ている。
 「破綻国家(failed states あるいはcollapsed states; 前者は「失敗国家」と訳されることもある)」論が本書で体系的に述べられているわけではないが、あちこちに、それと関連する認識が示されている。一九五〇年代以降の民族解放運動の帰結に関するペシミスティックな認識――独立した旧植民地(「とりわけアラブ世界とイスラム諸国」)における国家制度の崩壊――は、その一例である(一七頁)。あるいはまた、次のような記述もある。「国家は時に破綻する。そして、そうなったとき、外部の力、すなわち帝国の力のみが、その国家を元に戻すことができる」(一三五頁)。「彼ら〔アフガニスタンの人々〕が自由を手に入れる一番の可能性は、帝国支配を一時的に受けいれること以外にはないという厳しい真実を彼ら自身がよくわかっているのだ」(一三六頁)。帝国の時代は諸民族独立の時代にとって代わられるはずだったが、「しかし、それは民族浄化と破綻国家の時代に取って代わられてしまった。このために帝国が復活することになってしまった」(一五六頁)等々。
 こうした指摘は、現にみられる傾向の認識として、ある程度まで当たっていないわけではなく、そこにはある種のリアルさがあることを認めるべきだろう。だが、そうした傾向をこのように定式化することは、相対的な傾向であるものを絶対化することにつながるのではないだろうか。また、こうした認識に基づく介入正当化が従属状態を一層固定化し、一種の「自己成就する予言」となるかもしれないという懸念もある。ところが、イグナティエフはそうした点については無頓着であるようにみえる。
 構築主義の論法を借りていえば、「破綻国家」という言葉は――また、別の例を挙げるなら、「民族浄化」とか「テロリスト」といった言葉も――「客観的真実」としてあるわけではなく、そういう概念を使うことそれ自体が、現実をある角度から切り取って枠づけ、特定の把握およびそれと関連する実践的結論を正当化する機能(いわゆるフレーミング効果)をもつ。このように述べるからといって、それらの言葉で人々に把握されるような現実が全く架空のものだというわけではない。構築主義的発想を極端化し、戯画的に適用すると、南京大虐殺も、ナチのホロコーストも、スターリンの大テロルも、旧ユーゴスラヴィア各地での大量残虐行為もみな「幻だった」という考えに近づきかねないが、ここで言いたいのはそういうことではない(5)。全くのでっち上げや幻ではなく現実にあったことでも、より具体的な様相は一つのレッテルに収まりきるものではなく、それらの事件をどのように捉え、どのような文脈におき、どのように表現するかは多様であり得る。そして、特定の用語による特定の指示方法をとることは、そのことによって特定の方向に人を動かしていく効果をもつ。たとえば、ある国を「破綻国家」と呼べば、その国の人々には自治能力がなく、「国際社会」が介入するしかないという結論が正当化され、ある人々を「テロリスト」と呼べば、彼らに対しては理性的話し合いなど通用しないので、徹底した取り締まりで対応するしかないという結論が正当化される。そしてある現象を「民族浄化」と呼べば、それを食い止めるために、外部から――必要とあらば軍事力行使を含んで――介入すべきだという議論が正当化されやすい。これらはどれも、個別の具体的事情の丁寧な解明を必要とする事柄であるにもかかわらず、これらの用語の乱発は、そうした作業を省き、「こういう現実がある以上、こういう対応をするしかない」という結論を安易に広めやすい。いわば「思考の節約」とそれに伴う落とし穴ともいうべきものを感じる。
 こう考えるなら、「民族浄化」とか「破綻国家」という言葉を使うときに、それがどういう現実を指して、どのような人々がどういう意味を込めて使っているのかを吟味せずに、スローガン的に乱発することは、時として、非常に偏った方向に人々を誘導していきかねないという危険性をもつ。イグナティエフほどの人がこうしたことを全く意識していないとも思えないが、情熱が先行して書かれた個所では、これらの言葉が説明なしに多用されている印象が否めない。
 あまり正面から論じられていないが間接的に関連するもう一つの論点として、共産主義についての評価がある。ほとんど論じられていないにもかかわらず関連があるというのは、次のような事情を念頭においている。イグナティエフは、現代アメリカ――人道主義的でリベラルな「軽い」帝国――が紛争地域の秩序維持に貢献し、好むと好まざるとにかかわらず不可欠の存在となっていると説くのだが、それをいえば、ソ連帝国も――また「帝国」というほどの規模の存在ではなかったが、多民族連邦国家だったチトーのユーゴスラヴィアも――、それなりに秩序と平和の維持に貢献していたという見方もありうるはずである(6)。ところがイグナティエフには、共産主義国家(ソ連、ユーゴスラヴィア)もひょっとしたら必要な帝国の一種だったかもしれないという発想は全くない。それどころか、「ソビエト帝国」や「チトーの共産主義的な帝国」への言及は、「軽い帝国」と違って「共産主義帝国」はひたすら否定するしかない存在だったという認識を前提しているようにみえる(四四、一五八頁)
 イグナティエフが現代アメリカ以前の「古典的」帝国の全てを暗黒に塗りつぶしているというわけではない。大英帝国については、「被支配者が自治能力を身につけるよう準備して」いたので、「民族自決と帝国支配は相容れないものではない」ことを示した先例とされている(一四六‐一四七頁)。ところが、同様のことが「ソ連帝国」や「チトーの帝国」にも当てはまるかもしれないということは全く念頭におかれていない。ひょっとしたら、白系ロシア人の子として骨身にしみこんだ反ソ・反共意識の故だろうかなどという余計な詮索までしたくなってしまう(7)
 
     四
 
 先に述べたように、イグナティエフは、「軽い帝国」を支持しているようでいながら、ところどころで迷っているかのような態度を示してもいる。著者の叙述から離れて、論理的に考えてみるなら、次のような選択肢があるだろう。
 @「重い」古典的・軍事的帝国はよくないが、リベラル民主主義を伴った「軽い」帝国は存在意義があり、肯定すべきだという考え。イグナティエフは基本的にこの立場であるかにみえるが、ところどころで迷いをみせているようでもある。というのも、一方では、「軽い」帝国は帝国としての責務を十分果たせないのではないか、責務遂行という観点からは、より「重み」を伴った本格的帝国たらざるを得ないのではないかという疑問があり(8)、他方では、「軽い」帝国といえども帝国として、利己的・自己中心的であり、現地住民にとっては疎ましい押しつけをもたらすものではないのかという反省もあるからである。
 こうして「軽い」帝国と「重い」帝国の区別論が維持しがたいということになると、二通りの方向に議論が分かれる可能性がある。
 A「軽い」「重い」を問わない帝国全般の肯定論。帝国支配には様々な否定面が伴うが、それでも現地住民に自己統治能力がない以上は、帝国による秩序維持や平和確保が不可欠だという考え。これは、ある程度までのリアルさをもっているかのようにみえる。但し、このように考える前提として、特定地域の住民には――少なくとも現段階では――自己統治能力がないという判断、また帝国の側にはそうした地域に秩序・平和・安定をもたらす能力があるという想定があるが、このどちらの前提も、疑おうと思えば疑いうる(イグナティエフはこの点をあまり疑おうとしていないようにみえる)。
 B「軽い」「重い」を問わない帝国全般の否定論。これは帝国のもつ様々な否定的特徴への批判としては自然な発想であり、日本の「進歩派」の間ではこの観点が主流である。私自身も、どちらかというとこの考え方に引かれるものがある。だが、では帝国なしで本当に秩序・平和・安定はもたらされうるのかと問うなら、それに答えるのはそれほど容易なことではない(まさにこの問いを提出した点にイグナティエフの議論の意義があるのだろう)。
 こういう風に考えるだけでは、やや単線的に過ぎるかもしれない。先に「軽い帝国」と「重い帝国」の区別が維持されにくいかもしれないことを述べたが、「重い」「軽い」とは別の形での区別もあり得る。たとえば「巧妙な帝国」と「拙劣な帝国」という風に考えてみたらどうだろうか。前者は一種の「必要悪」として肯定されるが、後者は必要ですらない単純な悪だ、というような考えである。そして、ソ連帝国が滅んだのは拙劣な帝国だったからであり、現在のアメリカが栄えているのは巧妙な帝国だからだ、という風に論じることもできるかもしれない(9)
 相対的に巧妙な帝国はそれなりに存在意義があるということが広く認識されるなら、それへの臣従者・追随者が増え、そのことによってその帝国はますます強力かつ巧妙となることが想定される。だが、まさしくそうした成功の故に、帝国は自己過信に陥り、事態の変化への不適応を招き、拙劣な帝国に転化し、それがもとで没落する、といった経過を一般的なものとして想定することができるのかもしれない。かつての古典的(「重い」)帝国も、ソ連も、そのような経過を経て没落ないし崩壊したし、アメリカ帝国も今はその絶頂にあるが、やがてその轍を踏むだろうというような考えが成り立つのかもしれない。もっとも、現実にそうなるかどうかは、未決の問題というほかないだろう。
 
(1)前著『ヴァーチャル・ウォー』の主要テーマと重なる点として、新しい軍事技術は帝国支配のコストを著しく低下させたという議論がある。「テクノロジーのおかげで、アメリカ帝国は、地上にはごくわずかの足跡しか残さず、空からの殺傷能力の高い援護射撃を期待することができる」(一四四頁)といった個所がそれである。後知恵的にいえば、その後のイラク占領下での事態はこの議論が甘かったことを示しているようにみえる。ある政権を倒すだけなら、上空からの爆撃で、低コストで遂行できるかもしれないが、占領は広範囲にわたる地上の支配を必要とし、ゲリラ戦に引きずり込まれやすいからである。それとは別に、最新技術を駆使した空爆は、味方(米軍)の被害を最小化することはできても、「誤爆」による民間人の被害を最小化することには全く貢献しないという問題を指摘することもできよう。
(2)現代アメリカを民主的性格をもつ「帝国」と捉える点では、藤原帰一『デモクラシーの帝国』岩波新書、二〇〇二年も同様である。しかし、イグナティエフはより積極的にその「帝国」性を肯定しようとする――それでいて、いくつかの個所でためらいをもみせているが――という点に特徴がある。
(3)ダブル・スタンダードの限定的容認という問題については、大沼保昭「『人道的干渉』の法理」『国際問題』二〇〇一年四月号一二頁も参照。これについては前稿の注26でも触れた。一つの論点として、ダブル・スタンダードが生まれる理由が、あまりにも多数の例をもれなく視野に入れ、完全に公正な対応をすることが事実上不可能だという点だけにあるのか、それとも何か他に、公言できない特定の事情が作用していはしないかという問題が考えられる。本文の少し後にあげる第三点は、これと関係する。
(4)マイケル・イグナティエフ『仁義なき戦場――民族紛争と現代人の倫理』(真野明裕訳)毎日新聞社、一九九九年、一二八‐一三二頁。
(5)構築主義の強いヴァージョン/弱いヴァージョンという考え方について、金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会、二〇〇〇年、および同書への私の読書ノート参照。
(6)このように書くからといって、ソ連が諸民族の解放や同権といった理想を実現していたなどという古くさい擁護論を蒸し返そうというのではない。そうではなく、「ソ連=帝国」という把握を前提しても、「帝国」には一般に秩序・平和の維持者としての機能がありうるし、ソ連にもそうした性格がなくはなかったということである。塩川伸明『〈二〇世紀史〉を考える』勁草書房、二〇〇四年(近刊)、第八章参照。
(7)この点、大英帝国やハプスブルグ帝国に一定の共感を示す穏健保守派ドミニク・リーヴェンの方が、ソ連に対しても相対的にバランスのとれた評価をしているのは興味深い。Dominic Lieven, Empire: The Russian Empire and Its Rivals, Yale University Press, 2000(リーベン『帝国の興亡』上・下〔袴田茂樹監修、松井秀和訳〕日本経済新聞社、二〇〇二年)。
(8)イラク戦争をめぐる言説の型の一つとして、アメリカ社会の民主性・開放性・多元性を指摘し、いまはブッシュ政権による強硬策がとられているが、それへの批判もアメリカ国内にはあるのだから、やがて後者が有力になる可能性に注目すべきだというものがある(なお、この小文を書いているのは二〇〇四年春、つまりアメリカ大統領選挙の年だが、その選挙戦の中での世論の動き方やそれに対応した政治家の言動は、かなり急速な変化の可能性を示しているかに見える。しかし、私はアメリカ政治の専門家ではないし、選挙の結果も見通しがたいので、ここではそうした短期的な変化に注目するのではなく、もう少し一般的な問題について考えてみたい)。この種の議論は、単純なブッシュ政権追随論と反米論の双方を批判し、アメリカの中の多様性を指摘する限りで積極的な意味をもつ。ただ、アメリカの中で対イラク消極論が強まりさえすればそれでよいといえるかには疑問の余地がある。他国に軍事介入をした後で、「もう疲れた」といってあっさりと撤退するのは、かえって現地の事態を一層悪化させることになるかもしれない。ソ連のアフガニスタンからの一方的な撤退(一九八八‐八九年)がその後のアフガニスタンの内戦と荒廃をもたらしたことも、これと似た意味をもっていたのではないだろうか。
(9)もし「巧妙な帝国」がその「巧妙さ」の極点にまで徹底するなら、ユートピアでもあり反ユートピアでもあるような状態が想定されうる。それを「必要悪」として肯定すべきかどうかは微妙な問題である。もっとも、そのような極限的状態は現実にはありそうにないとすれば、わざわざそうしたことを考えるのは取り越し苦労なのかもしれない。
 
*マイケル・イグナティエフ『軽い帝国――ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』(中山俊宏訳)風行社、二〇〇三年
Michael Ignatieff, Empire Lite: Nation-Building in Bosnia, Kosovo and Afganistan, London: Vintage, 2003.
 
 
(二〇〇四年二‐三月)
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