ハスラム『誠実という悪徳――E・H・カー1892-1982』
一 はじめに
エドワード・ハレット・カーはいうまでもなく二〇世紀イギリスを代表する歴史家・国際政治学者であり、日本でも広く知られ、影響力の大きい人である。しかし、その活躍範囲があまりにも広かったために、その全体像をつかむのは容易ではない。初期の外交官時代はさておくとしても、研究者としての主な対象領域は、一九世紀ロシア思想史研究に始まり、国際政治学・国際関係論、ソ連史研究、歴史学方法論などに及び、著作の数もきわめて多い(そのかなりの部分が日本語に訳されている)。彼の文章は一見したところ明快だが、その背後に意外に複雑な含意を込めている場合も少なくない。また学者として書いた文章とジャーナリスティックな評論との性格の違いとか、それぞれの時点での現実政治状況に見合った論争性――それは当然、時期によってかなりの揺れがある――といった問題もあり、そうした点を踏まえてカーの作品を読み解くのはそう簡単な作業ではない。
こうした事情から、彼の業績の受けとめ方や評価には大きい幅がある。多くの場合、特定の領域における個別の著作だけを念頭においてカーについて論評する――その典型は、国際政治学ないし国際関係論の学説史において、『危機の二〇年』をもとに、いわゆる「リアリスト」の先駆と位置づけたり、そうした「通説」を批判するもの――とか、あるいは全体的評価はさておき個々の部分を断片的に利用する――これはソ連史研究の場合に著しい――といったことになりがちである(歴史学方法論においても、『歴史とは何か』のいくつかの断片だけにもとづいて「カーの歴史観」を語る傾向が強い)。こうした状況はカー生前においてのみならず、近年、「カー・リヴァイヴァル」ともいうべき動きがある(この点については後述)中でも、統一的なイメージはなかなか得にくく、依然として、様々な人がそれぞれにいくつかの側面を論じているという観がある(1)。
そういう中で、カーの最後の弟子によって包括的な伝記が書かれたことの意義は大きい。著者ジョナサン・ハスラムは、正確な生年は不明だが一九七三年(カー八〇/八一歳)に師と知り合ったということなので、相当大きな世代差があり、最晩年に短期間かろうじて直接接したことになる。そのように、弟子とはいえやや距離をおいた立場から、多くの関係者からの情報提供を得て、詳しい資料(私信・日記を含む)に基づき、生誕から死去までの一生を包括的に描いたオーソドックスな伝記が本書である(2)。
イギリスの伝記の一般的な傾向なのかもしれないが、本書は基本的に時系列に沿った淡々とした記述からなっている。全生涯を、それも様々な側面に目を配って包括的に描いたという点で得難い価値がある反面、あまり分析的ではなく、あれこれの記述をどのように読み解くかは読者への問いとして投げ出されている観がある。例えば、イギリスの学界事情とか大学人事の裏話のような事柄に触れた個所は知識社会学的考察の貴重な材料になるのではないかという気がするが、ハスラム自身がそうした考察をしているわけではなく、やや隔靴掻痒の感をいだかせられる。あるいは、私生活(不幸な家庭生活を含めて)に立ち入った個所もかなりあり、それは一個人の生涯を包括的に描くという観点からは当然なのかもしれないが、ある知識人の軌跡という観点から見た場合に、どうしてここまで暴き立てるのかという疑問もなくはない(3)。また死去の時点で叙述が打ち切られているため、死後のカー評価をめぐる論争については一切触れていない。
ここでは、外交官としてのカーや私人としてのカーはさておき、あくまでも学者・知識人としてのカーをどのように見るかという観点に絞って、ハスラムの伝記から触発されたいくつかの感想をつづってみたい。先にも触れたように、カーの守備範囲は驚くほど広いが、彼の主要研究領域のうち、一九世紀ロシア思想史は彼自身にとって外交官時代の余技という位置づけのようであるし、私にとっても特に口を挟める領域ではないので立ち入らないこととし、歴史学方法論については別の個所で一度論じたことがあるので(4)、それ以外の二領域、つまり国際政治学(ないし国際関係論)とソ連史研究について主に考えることにする。そのように限定してもなおかつ、彼の作品はあまりにも多い。私は彼の全業績を読んだなどとはとうてい言えないが、主要業績についてはあらかた読んだつもりではある。とはいえ、その大半は相当以前に読んだので、その記憶はかなり怪しくなってきている。本格的なカー論を展開するためには、それらを丁寧に再読しなければならないが、とてもそんな時間的余裕はない。そこで、ハスラムの伝記を手がかりとしながら、部分的にカー自身の著作を参照しつつ、現時点での私なりの思いをつづってみることにすなる。
二 カーの内的矛盾と二面性
ハスラムは全体としてバランス感覚をもってカーの矛盾を含んだ全体像を描いている。もっとも、ところによっては、わりとあっさりとした「後知恵」的批判をしているところもなくはない(特に冷戦初期のあたり)が、世代を大きく異にする著者の手になるものとしては、それは驚くに値しないことかもしれない。
それはともかく、本書では、カーのうちにあった本源的な矛盾ともいうべきものが各所で指摘されており、私見ではその点が本書の最も優れた部分をなしている。ここで「矛盾」というのは、学者としての論理的一貫性欠如といったような次元のことではなく、むしろ人間としての幅の広さと関係している。どのような人間も矛盾をかかえているものだが、そのあり方如何で、それは他者を戸惑わせもするが、一種独自の魅力と深さの根源となったりもする。カーの場合、まさにこのことが当てはまる。カーの業績の位置づけがたさ、後世における評価の定めがたさはこの点と関わっており、それ故、先ずもってこの点に注目しておくことが、カー論がしばしば陥りがちな一面性を避ける上で不可欠と思われる。
ハスラムの記述の中で特に印象的な例を挙げるなら、カーはインサイダーのように見えながら、内部の奥深いどこかでアウトサイダーだったとして、「隠匿された反逆者」と特徴づけているような個所がある(p. 66; 一〇二頁。前の方は原書、後の方は訳書の頁数。以下同じ)。別の個所では、親しかったアイザック・ドイッチャーとの対比で、イギリス紳士・体制派そのものでありながら反逆者的な思考をするカーと、もともと反逆児・革命家だったドイッチャーという風な描き方をしている(pp. 139-140, 172; 二〇二‐二〇三、二五一頁など)(5)。本来的な体質において対照的である人同士が互いに惹かれ合うというのは珍しくないが、カーの場合、自分自身のうちに「体制派」的な要素と「反逆児」的要素の両方をもっていた点が特徴的である。
ハスラムの記述はあまり分析的でなく、多数の重要な問題が十分腑分けされないままに投げ出されている観があるが、ともかくこれらの指摘を通じて感じられるのは、カーが自己の所属する世界とは異質なものへの感受性を強くもっていた――言い換えれば、自己の所属する世界に落ち着ききれない、一種独自の違和感をもっていた――ということである。一言で言えば、「インサイダーでありながらアウトサイダーに惹かれる」という内的矛盾をかかえており、そのことが彼の知的遍歴において、一種の変奏曲のように、様々な形をとって現われているという風に見える。
若い日のロシアへの関心(ドストエフスキーなど)に始まり、一九三〇年代のナチ・ドイツへの宥和的態度、四〇年代におけるソ連への急激な接近、冷戦期における英米の主流的立場(ソ連を敵とする)への反撥など、一見してどう結びつくのか分かりにくい諸側面も、彼自身(イギリスの体制内エリート)とは異質なものへの関心という点で、ある種の共通性をもっているように思われる。同じことの言い換えだが、骨の髄までのイギリス人でありながら、イギリスの没落を強く意識し、非イギリス的なもの(ロシア、ドイツ、ソ連、第三世界等々)の役割を重視する発想という風にも言える。しかし、それはあくまでも「世界の中心としてのイギリス」へのアンチということであって、例えば第三世界に対して心情的な共感をいだいていたというわけではない(おそらく、最大の研究対象たるロシアについても、そうだったのではないかと思われる)。
このような二面性の故に、批判者のカー・イメージおよびカー批判の方向も、しばしば相異なった性格のものとなる。一方においては、カーがユートピア主義を批判し、リアリズムを説いた点(この点について多少の留保が必要であることは次項で検討する)、理念への関心が相対的に小さく(後にドイッチャーの批判を受けてある程度修正したが)、むしろ法律に体現される統治制度を重視する点、「負け犬」に対して冷たく、「何事かを成し遂げた」人を重視する点、「小国」のナショナリズムに対して冷淡だった点などは、「保守的」「エリート主義」と見なされ、「左からの」批判を受けやすい。しかし、他面では、「歴史の進歩」を信じ、その「進歩」が計画経済・社会主義に向かうと考えて、ソ連に期待を寄せた点、欧米の主流的政治家・知識人とほとんど常に論争的だった点などは、「左寄り」と見なされ、「右からの」批判を浴びる。こうして、「左から」も「右から」も批判がなされるということの意味は、カー自身の二面性を念頭におかなくては理解できないだろう。
三 一九三〇‐四〇年代の体験と現実政治への関わり
一九三〇年代半ばまでのカーは中下級の外交官だったが、三〇年代後半から四〇年代にかけては、学界とジャーナリズムの双方にまたがって(一時期は情報省にも勤めた)、国際政治に関する発言を精力的に行なった(その後、アカデミックな歴史研究への沈潜を強め、時論的発言は少なくなる)。時あたかも、世界史の大きなうねりともいうべきものが訪れていた時期であり、カーの発言もそうした時代状況の刻印を色濃く受けている。
当時のカーの根底にあった――そして基本的にはその後も持続する――発想を一言で言うなら、《自由放任主義の終焉》という時代認識だったといえよう。「自由放任(レッセ・フェール)」の語に象徴される古典的自由主義はカー幼少時代のイギリスの基調をなしていたものだが、まさにその時代が終わったという感覚である。この感覚は第一次大戦の頃からいだかれ始めていたようだが(6)、決定的には、二九年恐慌を経て三〇年代に強められた。キャッチフレーズ的にいえば、市場から計画へ、個人主義から大衆民主主義へ、(古典的)自由主義から広義の社会主義へ、という時代認識である。その一つの集約的な表現は、一九五一年の『新しい社会』にみることができる。
世界史のうねりに関するこのような認識は、当時においてはカーだけのものではなく、かなり広い範囲の人々に共有されていたものと思われるが、カーはそれをとりわけ尖鋭な形で表現し、大胆に発言したという点では、やはり特異かもしれない。そこには、「世界の中心としてのイギリス」の時代が終わったということに関する痛切な意識が込められているように思われる。
この時期を代表する作品『危機の二〇年』(初版、一九三九年)については、最近に至るまで数多くの論評がある(この小文末尾の付録参照)。後々まで賛否とりどりの反応を呼び起こすのは、本書自体の中に一種の二面性があり、それをどう読み解くかによって大きく異なったイメージが形成されるという事情によるだろう。本書の主題は「ユートピア主義」と「リアリズム」の関係であり、全体としては両者の「妥協」を通した総合が説かれているが、そのどちらに相対的な力点をおくかについては、カー自身も時として揺れているように見える。後世のカー評価として、専ら「リアリスト」の系譜に位置づける理解が長らく支配した後、近年の「カー・リヴァイヴァル」の中ではむしろカーが「理念」を重視していた側面が強調されるという推移があるが、『危機の二〇年』自体の中に双方の解釈を許容する要素が含まれているように思われる。ある意味では、ここにも、先に述べたカーの二面性が反映されていると言えよう。
本書の中で、やや異彩を放っているのは、第二部(分量としては全体の約三割程度に当たる)である。ここにおいては、ユートピア主義がレッセ・フェール的リベラリズムと結びつけられ、それに対する批判が主たる内容となっている(特に第五章)。もっとも、第六章では「リアリズムの限界」が語られ、一応バランスをとった形になってはいるが、この章は第五章よりもずっと短い。つまり、第二部の重点は、明らかにユートピア主義(=リベラリズム)批判とリアリズムの主張におかれている。後にカーが「リアリズム」論者とされてきたのはこの第二部によるところが大きいと思われる。
より具体的な国際情勢判断に関わらせていえば、イギリス(「持てるもの」)主導の国際秩序維持論に対する批判が各所に見られる。そのため、ある部分では独・日(「持たざるもの」)の言い分に耳を傾ける形になったり、潜在的にはソ連を高く評価する方向にも行きうる――実際、少し後にそうなった――議論となっているように見える。しかし、それは独・日・ソ連などをそれ自体として肯定的に評価するというよりも、英米主導の国際秩序を安易に前提する自己満足への反省に主眼がおかれているとみるべきだろう。ただ、時事色の濃い個所では、やや「行き過ぎ」気味な表現を含んでいることは否めない。その最大の例として、第十三章でミュンヘン協定に触れた個所では、初版にあった大胆すぎる文言が第二版以降では削除されている(そのため、改訂版だけを読むと、当時の彼が宥和主義を説いていたことがそれほど明白には浮かび上がらない)(7)。このような改訂を施したのは、彼自身がそれらの文言を後に不都合なものと見なしたことを物語っている。
ハスラムの伝記に戻ると、『危機の二〇年』におけるリベラリズム攻撃はカー自身のリベラリズムの残滓のせいでもあったとし、その立場は「純粋のリアリスト」ではなく、「リベラルなラディカリズム、またはラディカルなリベラリズム」だったという解説がある(p. 72; 一一〇頁)。これは興味深い指摘だが、言葉づかいについて多少の補足が必要であるように思う。第一に、『危機の二〇年』においてリアリズムと対置されているのは主としてユートピア主義であってリベラリズムではないが、同書第二部ではユートピア主義の代表例としてリベラリズムが挙げられている。その限りでは、リベラリズムとリアリズムという対置も一応成り立つが、これが本書全体の基本構図をなしているわけではない。第二に、これがより重要な点だが、カーの批判するリベラリズムとは一九世紀イギリス的な自由放任的自由主義であり、二〇世紀以降のアメリカ的な用語法でいうところの「リベラリズム」とはズレがある。現代アメリカ的用語法に直すなら、カーが批判したのは「保守」(あるいは、後に流行する表現では「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」)の立場であり、彼自身の立場は「リベラル左派」ということになるだろう。カーが「リベラリズム」を強く批判したということと、彼の立場が「リベラル左派」と親近性をもつこととは、一見したところ矛盾しているように見えるかもしれないが、「リベラル」という言葉の用語法における違いと考えるなら、一応の説明がつく。
このように考えるとき、一九三〇‐四〇年代のカーが最大の標的としたのがレッセ・フェール的自由主義だったことが明白に浮かび上がってくる。当時の時代潮流全体からしても、それはそれほど特異というわけではないだろう(アメリカのニューディールや日本の「統制経済」などの例がすぐ思い浮かぶ)。もっとも、それから約半世紀を隔てて、一九八〇年代以降の世界は、三〇年代とは逆に、計画から市場へ、社会主義から何らかの意味でのリベラリズムへ、といった流れを強めているように見える(これが最終的なものかどうかはともかくとして)。その意味では、カーの世界観・歴史観は「時代遅れ」になったという批評もありうる。とはいえ、これはあくまでもカー死去後の新しい展開だということは確認しておくべきだろう。
いずれにせよ、レッセ・フェール的な自由主義の批判が基調だと考えれば、三〇年代におけるナチ・ドイツへの宥和主義と四〇年代以後のソ連に対する期待とはコインの両面であり、それほどかけ離れているわけではないということになる。ハスラムはこの点を、「レッセ・フェールに歯向かうものであれば、どのようなシステムにも何らかの推賞すべきものが存在」するという考えと解説している(p. 78; 一一八頁、表現をわずかに改めた)。オーウェルのように、「カー教授はその忠誠心をヒトラーからスターリンに切り替えた」と非難するのは(p. 100; 一四九頁)、まんざら当たっていなくもないが、カー自身にとっては突然の大転向ではなかっただろう。
一九四一年六月の独ソ戦開始以降、カーの「親ソ的」態度は急速に明確なものとなっていく。独ソ戦期から戦後初期にかけて、彼のソ連評価は絶頂に達した。この時期の彼の見解は、『西欧を衝くソ連』(一九四六年)、『新しい社会』(一九五一年)などに代表されている。但し、もともとマルクス主義者だったわけでなく、ユートピア主義に対する醒めた態度をもっていた以上、ソ連の実態を単純に美化ないし理想化していたというわけではない。ソ連に対するカーの高い評価は、初期の革命家たちがいだいていた「人間解放」のユートピア的な理念よりも、むしろスターリンのもとで巨大な犠牲を払いつつ実現されつつあるかに見えた「計画経済」の現実的な力に向けられていた。それは後世から見れば過大評価と評される余地があるが、その時点においては、対独戦争勝利という形でまさしく「現実的」と映ったのである。一九五〇年代以降のカーがソ連史研究に精力を集中したのも、そのようなソ連観と関わっているだろう。もっとも、この後の彼のソ連観はその後に微妙な変化を被ったのではないかと思われるが、この点については後で改めて検討することにする。
四 価値判断について
カーは学問における価値判断を退けた人としてしばしば描かれている。確かに、そのように見える面がないわけではない。国際政治学においてユートピア主義を酷評してリアリズムを説くのは、理想や価値に重きをおかないからだとの解釈が可能だし、歴史学の方法として「未練史観(might-have-been school)」を批判するのは、「ありえたかもしれない、より良い道」に関する思弁を退けて、ひたすら「現に起きた事実」を尊重する態度のように見える。しかし、他方では、カーはしばしば明確な価値判断を打ち出している。一九三〇年代における対独宥和論にせよ、四〇年代における対ソ提携論にせよ、決して価値判断の回避ではなく、むしろそのあからさまな表明である。ただ、その判断は、常識的には「悪」とみなすのが当然であるような相手(ヒトラーやスターリン)への宥和や提携を意味するから、いわば「通常の価値判断」を覆すような議論となる。図式的にいうなら、「常識的・直観的にみて悪とされるものを単純に断罪しないことが、結果的にかえって善の実現につながる」という発想とでもまとめられるかもしれない。このような主張はなかなかストレートに説くことができにくく、そのために議論が曲がりくねり、表現も微妙なものとなることが少なくない。そのことが、あたかも価値判断否定論であるかのように見える一因なのではないだろうか。
歴史研究において「未練史観」を否定するのも、一見したところ価値判断の回避と映るが、よく考えるならそうは言えない。「未練史観」批判は「歴史におけるif(もし)」の否定と等置されることがよくある――彼自身の記述にも、そうとれるところがある――が、論理的には、これは別の次元の話である。実際問題として、カーもときおり「if(もし)」を語っていないわけではなく、ただその内容が「未練史観」よりも「勝てば官軍(The losers pay)」史観に近いのである。もしブハーリンがスターリンに勝っていたとしても、よりよい社会主義をつくることはできなかったろう、というコーエン批判(pp. 274-276; 四〇七‐四一〇頁)などはその一例である(8)。これは、「より良い道の主唱者が勝っていたなら良かったのに」という発想とは明確に区別されるが、現実政治において無力な政治家(ここでの例で言えばブハーリン)に対して批判的という意味で、一種独自の価値判断を下していることになる。
カーがこのように考える一つの理由として、マックス・ウェーバー流にいうなら「心情倫理」(この言葉自体をカーが使っているわけではないが)に対して評価が辛く、「責任倫理」の方を圧倒的に重視している点が挙げられよう(もっとも、それが本当に「責任倫理」と呼びうるものだったかについては、別個に考える必要があるが)。カーが価値判断を退けているかに見える多くの場合、それは「心情倫理的な観点から是非を言っても仕方ない」という主張であって、それ自体が価値判断否定論であるわけではない。政治に関わる者は悪魔的な力と契約を結ぶものであり、善からは善のみが、悪からは悪のみが生じるというような発想とは無縁だという、ウェーバーの有名な一句(9)は、ナチ・ドイツによるチェコスロヴァキア併合やスターリンのソ連によるバルト三国併合を容認したときのカーの念頭に浮かんだとしてもおかしくない。
これはまた、「より小さな悪(lesser evil)」論ともつながっている。この言葉は『歴史とは何か』にも出てくるが(10)、ハスラムはカーの私信にこの問題に関する詳述があるのを紹介している(pp. 230-231; 三四二‐三四四頁、「よりましな悪」と訳されている)。カーはまさにこうした観点に立って、直観的には「悪」として非難したくなるようなことがらについても、もしそれが「より小さな悪」と見なされるなら、大きな文脈の中では正当化されうると主張した(これまでに挙げた例のほか、『歴史とは何か』の中には、一九世紀ヨーロッパのアジア・アフリカ植民地支配はその長期的な結果が進歩的だったという理由付けによって許されるという趣旨の個所がある(11))。これは価値判断の回避ではないが、「悪をあえて強く非難せずにおく」という態度であることから、価値判断そのものの回避と解釈されることがあるのだろう。
カー流の「より小さな悪」論に対しては、二通りの角度から疑問を提起することができる。一つは、「より小さな悪」といえども「悪」である以上、それを是認ないし放置してよいのかという根本論であり、もう一つは、具体的な個別の事例についてカーが「より小さな悪」と見なしたものは、実は「ものすごく大きな悪」「許容限度を超えた悪」だったのではないかという疑問である。それぞれについて、順次考えてみたい。
先ず第一の根本論は、倫理的には果てしない大問題となる。もっとも、これは実践的態度をとろうとするときにはほとんど常につきまとう問題でもある。「善か悪か」ではなく、「より小さな悪」(と見えるもの)と「より大きな悪」(と見えるもの)の間での苦渋の選択が迫られるのは珍しいことではない(12)。その意味では、これはカーだけの問題ではない。そのことを確認した上で、カーの特徴をいうとするなら、「非現実的な理想論を言っても空しい」という発想が強く、彼が「非現実的」と見なす理想論に対してかなり露骨な反撥を露わにした点が挙げられる(その点では、「リアリスト」というレッテルはあながち的外れではない)。付け加えるなら、一九三〇‐五〇年代初頭のカーは書斎派の学者ではなく、むしろジャーナリスト的な位置にあり、現実政治に関わる発言を積極的にしていたため、自らのコミットメントを鮮明にしていたという事情も想起しておく必要があるだろう(その後、この側面は背後に退く)。
第二の具体的な個別判断についていうなら、三〇年代におけるヒトラーのドイツ、四〇‐五〇年代におけるスターリンのソ連に関する彼の判断は、後から振り返ってみれば甘かったと評されざるを得ないところがある。ただ、全面的に甘かったのではなく(個別の非道な側面について単純に無視していたわけではない)、多面的な要素の総合評価における微妙なバランスの問題である以上、後知恵であっさりと決めつけるのは安易である。もしこの点でカーを批判しようとするなら、結論(対独宥和主義とか親ソ的発言とか)だけを捉えて批判するのではなく、結論を導く立論のうちのどの部分にどの程度の不正確さが含まれたかを精密に確定する必要がある。
また、対独宥和政策はチェコスロヴァキアを犠牲にし、対ソ提携政策はバルト三国やポーランドを犠牲にしたという批判はそれとして成り立つ余地があるが、カーと対立する立場にあった当時の英米の政治家たちは本当にチェコスロヴァキアやバルト三国・ポーランドのことを思いやっていたというよりは、カーとは別の意味で外交政策の道具としてこれらの国を利用しようとしたに過ぎないのではないか、つまりいずれにしても「大国」主導の国際政治上の「将棋の駒」として「小国」を利用するという点では変わりなく、ただその方向性が異なっていただけではないのか、といった疑問を出すこともできる(13)。しかし、これらの点を含めた包括的な検討の作業は、管見の限り誰によってもなされてはいない。そうした点にまで立ち入らないカー批判は、たとえ結論的に妥当なものを含むにしても、底の浅い議論になってしまう(ハスラムにしても、ときおり出てくるカーへの批判めいた言辞は、そうした浅さを免れていない。ついでにいえば、マイケル・コックスがカーのソ連観に軽く触れている個所も同様である)。
五 ソ連観とその変化(その一)
そろそろカーのソ連観に眼を転じよう。一九一七年革命の時点(カーはこのとき二五歳)では、漠たる関心をいだくにとどまり、レーニンやトロツキーについてもマルクス主義についてもほとんど知識がなかった、というのが後の回顧である(p. 20; 三八‐三九頁(14))。その後、一九二五年以降のリガ駐在などの経験を経て徐々に関心を深め、また部分的にはソヴェト体制を評価するようにもなったが、三七年五月のソ連訪問の印象は、ちょうどこの年がスターリンの大テロルが絶頂に達した時期だったという事情もあり、まさしく最悪だった(pp. 75-78; 一一四‐一一八頁)。そうしたソ連への否定的評価が、その反射的効果として、その後数年間の対独宥和主義につながったわけだが、四一年六月の独ソ戦開始以降、ソ連を高く評価するようになり、対ソ提携論を積極的に説いたことは前述の通りである。但し、それはイデオロギー的・理念的な共鳴というよりは、むしろ現実政治上の判断(彼の考えるリアリズムの立場)として、国家としてのソ連の強さを高く評価するものだったということは押さえておかねばならない。ハスラムはこの時期のカーのスターリンに関する判断について、「過度の楽観主義」「幻想」「読み違え」「安易」といった批評をしているが(pp. 104-105, 110; 一五五‐一五六、一六四頁)、その批判の当否は別として、そこで問題にされているのは、ソ連外交がイデオロギーよりもリアリズム的考慮を優先するだろうという読みのことであって、イデオロギー自体への共感とは次元が異なる。
上記は戦時から戦後初期にかけて、つまり一九四〇年代の話だが、五〇年代以降、彼が大作『ソヴェト・ロシア史』(全一〇巻一四冊、一九五〇‐七八年)に取り組むようになってからはどうだろうか。これは意外に答えるのが難しい問いである。というのも、これ以降のカーは時評的な発言をあまりしなくなり、明確な政治的判断を示すことも滅多になくなっていくからである。ソ連への関心自体は終生変わらないとはいえ、眼前で展開しつつある現実の国際政治に取り組んでいた一九三〇‐四〇年代とは違って、歴史研究に特化するようになった後期のカーが同時代のソ連および世界の動きをどのように見ていたかについては、いくつかの断片的な言及から推測するしかない(なお主著の研究対象は一九二九年まで、その後に取り組まれたコミンテルン史研究は一九三〇年代半ばまでであり、戦後期は完全に範囲外となっている)。おそらく、発想の基調のようなものはあまり変わらなかったと見られるが、それでもなにがしかの微妙な変化があったのではないか、そしてそれはどちらかといえばペシミスティックな方向での変化だったのではないかというのが、ここで考えてみたい仮説である(15)。
一九五〇年代以降のカーが現実政治から距離をおき、アカデミックな歴史研究に集中するようになったことの理由としては、いくつかのものが考えられる。それまで学者としては意外に不遇だった彼がようやくケンブリッジという研究専念の場を得たためか、彼の年齢(六〇歳をこえる)のせいか、一九四〇年代に絶頂に達したソ連観に多少の翳りがさしたせいか、あるいはまたハスラムが執拗に暴いている私生活上の不幸のなせる業か、等々である。これらのどれもありそうではあるが、それらのうちどれが特に重かったのか、またそれらの相互関係などについては、ただ推測するしかない。
やや残念なのは、そうした事情から、一九五六年のスターリン批判およびハンガリー事件への反応があまり明確でない点である。ハスラムの伝記でこの時期に該当する第七章には、「ハンガリーとポーランドの事態について、マルクーゼと何か議論することは拒絶した」という記述しかない(p. 177; 二五八頁)(16)。その時点でカーは既に六〇代半ばに達しており、もっと若い世代のように素朴な衝撃を受けることはなかったということなのかもしれない(17)。しかし、そうした直接的な衝撃――あるいはむしろ衝撃の欠如――とは別に、その頃から様々なソ連関係情報がそれまでよりも豊富に入手可能となり、彼自身の研究も深化したことは、長期的にいって、なにがしかの変化をもたらしたと想定される。ただ、その内容は非常に微妙なものであり、明示的に表現されることはあまりなかった。
こういうわけで、これ以降のカーのロシア革命観・ソ連観の変化を体系的に跡づけるのは不可能に近いが、いくつかの重要論点に即して、円熟期から晩年にかけてのカーのソ連観の特徴のようなものを探ってみたい。先ず、手はじめに、帝政ロシアとソ連の対比という点について考えてみる。これまでも示唆してきたように、ある時期以降のカーは少なくとも四〇年代のようなソ連への高い評価はやや抑制するようになったと思われるが、それでもなおかつロシア革命を世界史上の重要な転換点と見なし、革命後に成立したソ連体制の歴史を自分の最大の研究テーマと見なしたのは、革命以前の帝政ロシアとの対比でソ連体制が大きな「進歩」を示しているという評価があったからだと思われる。
カーは帝政期について正面から取り組んではおらず、ごく断片的な言及しか残していないが、その基調は、帝政ロシアの住民の大半は文字の読めない農民だったということを強調し、帝政期の「後進性」とソ連期の「進歩」を対比するものである(p. 241, 248; 三五九、三六九‐三七〇頁など)。しかし、これには疑問をさしはさむ余地がある。近年のロシア近代史研究は、帝政末期における初等教育普及、識字率向上、出版活動拡大、協同組合や種々の社会団体の登場、あるいはまたそうした社会的変化の中での文化的変容などといったテーマについて、豊富な情報を提供し、近代ロシア社会に関する多彩な像を提出している。だからといって、一九世紀末‐二〇世紀初頭のロシアが着々と「西欧型近代化」の道を歩んでいたということになるわけではないが、ともかくそこには「停滞と後進性」という言葉だけでは尽くせない変化と新しい動きが存在していた。そうした事情に照らすなら、カーの帝政ロシア観は一九世紀末‐二〇世紀初頭における変化を過小評価するものではないかという疑問がわいてくる。ついでにいえば、農民をひたすら暗愚で受身的な存在とする描き方には、農民への蔑視的発想も感じられる。
この論点は「歴史におけるif(もし)」という問題とも関係している。カーが「もし」否定論者であるかに見えながら、実は「もし」を全然語らなかったわけではないということについては先にも触れたが、もしロシア革命が起きずに帝政末期のロシア近代化の試みが続いたらどうなったろうかという問題も、「歴史におけるif(もし)」の一種である。この問いに対するカーの回答は、そうした近代化の継続は大した実を結ばなかっただろう、ということになるはずである。これは「未練学派」否定の一種だが、このような想定自体、「もし」についての別種の答え方というべきである。
「もしロシア革命がなければ」という仮定はあまりにも大きな仮定で、リアルな想像をすることはできないが、あえて抽象論としていうなら、@「もしロシア革命がなかったなら、帝政末期に進行しつつあった近代化がさらに進展し、ソ連体制以上の成果をあげただろう」というシナリオと、A「もし革命がなかったなら、近代化の試みは中途半端なところで停滞し、ソ連体制以下の成果しかあげなかっただろう」というシナリオとが考えられる。しかし、この場合の「もし」はあまりにも多くの条件を変えることになるので、それぞれのシナリオの実現確率を精密に算定することは不可能である。どちらも一応想定しうるというところまでは言えるにしても、どちらの方が実現可能性が高かったろうなどということを断定的に結論するわけにはいかない。
いわゆる近代化論者は@が正しいと断言する。それは十分な根拠を欠くというのがカーの立場で、それはその限りで一応当たっている。だが、だからといってAが正しいとするカーの想定が正当化されることになるわけではない。どちらの側もそれぞれに一面的だというしかない。
六 ソ連観とその変化(その二)
前項では、帝政期とソ連期の対比という問題を取り上げたが、次にソ連期それ自体の「実績」評価について考えてみたい。カーの評価はそれほど手放しのソ連賛美ではないが、多くの犠牲を伴いつつ、とにかくもかなり大きな成果を上げたことを強調するものである。いうまでもなく、これは今日の風潮のなかでは圧倒的に人気の悪い観点である。ハスラムにせよ、『危機の二〇年』新版への序文を書いたコックスにせよ、この点ではほぼ同様に、カーの「甘さ」を批判する見地に立っている。
しかし、あまりにも広く普及し、自明視されている観点に対しては、「そう簡単に言い切っていいのか?」という疑問を出してみる必要がある。私自身はカーのソ連観を全面的に肯定するわけではなく、前項で述べたように彼が帝政期を実際以上に暗く描くことでソ連体制の「進歩性」を主張したことについては批判的だが、その一方、ソ連体制の「実績」を全否定する昨今優勢な風潮についても、それはそれでまた別の問題をはらんでいるのではないかと思う。
ソ連流の指令経済システムが長期的な意味で経済効率性改善に適合的でないことは広く指摘し尽くされているが、それでも、限定的目標へ向けた資源の集中動員のためには一定の有効性を発揮しうる面があり、現に初歩的近代化および戦勝には貢献した(もちろん、大きな犠牲とアンバランスさを含みながらだという点も同時に銘記しなければならない)。その限りで、ある時期までのソ連が「進歩的」と見えたのは全面的に幻想だったわけではない。カーがソ連体制を「進歩的」と見なした一九四〇‐五〇年代とは、まさしくそういう時代だった。初歩的な近代化、戦時体制構築、「重厚長大」産業に力点をおいた戦後復興などにおいてソ連型体制がそれなりの「強み」を発揮したことは、今日では忘れられがちなだけに、一つの歴史的事実として再確認に値する。
もちろん、それで話が終わるわけではない。指令経済システムの限界は、戦後復興が完了に近づき、より多岐にわたってきめ細かい配慮を必要とする発展段階への移行が課題となる中で、次第に明白なものとなった。指令システムの機能不全が大衆的な規模で広く指摘されるようになったのはペレストロイカ期以降のことだとはいえ、それ以前からも、多くの論者による批判および各種改革提案は長年にわたって積み重ねられていた。そうした批判や改革論は一九六〇‐七〇年代を通じて、ソ連・東欧の体制内改革論者の間でも、また欧米諸国のソ連研究者たちの間でも広い範囲で提起されつつあったから、カーもそうした事情を意識していなかったはずがない。先に、カーのソ連評価は後年にはある程度辛くなりつつあったのではないかという推測を述べたが、それはこの点と関わる。やや余談めくが、一九六八年にワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻した時の彼の反応は、ソ連の行動に対しては明らかに否定的だが、だからといってあまり明快な態度決定をすることはできないというもので、全体として沈鬱な気分だったようである(pp. 250-251; 三七二‐三七三頁、一部誤訳を含む)。
さて、ソ連に対する評価が辛くなった場合、ありうべき転身の方向としては、幾通りかのものがある。欧米で主流的な「保守」の立場への移行は最も容易に思いつく転身先だが、長年にわたって自国のエスタブリッシュメントと論争してきたカーにとって、そのような「転向」はとうてい受け入れられるものではなかったろう。そのような「保守化」を避けつつ、ソ連に対して批判的な立場をとるとすると、スターリン批判後の西欧で台頭した「ニューレフト」や「ユーロコミュニズム」への共鳴などが考えられる。しかし、カーはそれらにも同調しきれないという感覚をいだいていたように思われる(付け加えるなら、前述のようにコーエンのブハーリン伝に辛辣な態度をとったのも、社会主義改革論への懐疑論のあらわれといえる)。
「ニューレフト」については、親友だったアイザック・ドイッチャーおよびその未亡人タマーラとの個人的関係から、一種「つかず離れず」の態度をとったようだが、ハスラム著には、カーが内心で「ニューレフトの政治的ナイーヴさ」に激しく苛立っていた――ユーロコミュニズムについても同様――という紹介がある(p. 285; 四二一‐四二二頁)(18)。ソ連の現状に対して種々の批判はあるが、それを公然と表明すると、英米の保守派を利するか、あるいはニューレフトの「応援団」の立場に立つととられやすい、そのどちらもいやだ、というのが晩年のカーの心境だったのではないだろうか(19)。これは「あれも駄目、これも駄目」というペシミスティックな心境に近い。しかし、同時に「進歩」への希望を最後まで捨てたくないという意地のようなものもあり、そうなるとますます公的な態度表明は難しくなる。晩年のカーが明確な態度表明を滅多にせず、断片的な発言にはある種の苛立ちが込められていたこと、そしてハスラムによれば強い孤立感をいだいていたこと――「私は孤独で、深く不幸です」という言葉が私信から引用されている(p. 298; 四四〇頁、訳文はやや改めた)――は、以上のような状況の産物として理解できるように思われる。
ソ連史における数多くの悲惨な事態(革命・内戦時の大量暴力、農業集団化時の大きな犠牲等々)をカーは明確に認識していたし、それを糊塗すべきではないとも考えていた。他面、ソ連史の全体をそうした否定的現象だけで塗りつぶし、反共主義の正当化に論拠を与えるのも、彼のとるところではなかった。多くの事実をできるだけ公正に記述し、非難すべきは非難するが、全体としての歴史的プロセスに関する「告発状を起草する」つもりはないという言葉に、それが象徴されている(pp. 240-241, 257-258; 三五八‐三五九、三八二‐三八三頁など)。
細かくいうなら、ここには二通りの考えが込められているように思われる。一つは、先に触れた「より小さな悪」論の一つの適用として、個別の「悪」=非難すべき点を認めながらも、全体としての「進歩性」はそれを上回るという判断であり、もう一つは、後で立ち返るが、富者が貧者の悪を非難する資格があるのかという道徳的問いかけである。カー自身はこの二つを分けずに論じているが、私はこれを分けて考えるべきではないかと思う。というのも、今日では第一点は維持することが困難だが、第二点はいわば永遠の問題というところがあるからである。そこで、第二点については後で改めて検討することにしたい。
七 冷戦状況下での知識人のあり方――価値判断問題再論
以上、最晩年に至るまで一通りの知的遍歴を追ってきたが、その上で、冷戦期のカーの選択については、現在の状況ともある程度相通じるところがあるように感じられるので、その点について考えてみたい。
ハスラム著には、冷戦期のカーがきわどい綱渡りともいうべき困難な歩みを辿っていたことが描かれている。次のような個所が代表的である。
「冷戦の絶頂期は、どちらかのサイドにつくことが要求される時代だった。しかし、困難ではあるけれど、これを拒絶したのがカーとドイッチャーだった」(p. 194; 二八五頁)。
「カーは常に流れに抗して書いた。一方では自分の属する〔英米の〕陣営、他方では執筆対象としている〔ソ連〕陣営からという双方の圧力の間で、バランスをとろうとした」(p. 256; 三八〇‐三八一頁、訳文は改めた)。
「バランスをとる」ということには幾通りの意味が含まれるが、ここで特に重視されているのは、当時の論壇で主流的な動向に対して敢えて異論を提起することによってバランスを回復しようとする発想である。
バランスをとることの重要性は、一般論的にいえばごく常識的な話で、特に驚くような話ではない。だが、具体的状況の中で、どのようにすればバランスをとったことになるのか、自分ではバランスをとったつもりでも、傍から見ればバランスを失しているかもしれないという問題にどう対処するのかは、難問である。ハスラムの描き方にも多少の揺れがあり、全体としてはカーが困難な状況の中できわどいバランスをとろうと努めたことを同情的に描いているが、ところによっては、カーがバランスを取り損ね、判断を誤ったことを批判しているように見える。
バランスをとることの難しさという問題は、今日にも当てはまる。当時と単純に同一視できないにしても、現代においても、「新しい冷戦の始まり」が一部でささやかれており、ロシアがその張本人として強く非難される傾向が――度合いはともあれ――ある(20)。そのような中で、ロシアを理想化したり積極的に擁護したりするわけではないが、少なくとも一方的なロシア非難の行き過ぎに歯止めをかけようとする試みは、ちょうどかつての冷戦期において、ソ連を理想化したり積極的に擁護したりするわけではないが、少なくとも一方的なソ連非難の行き過ぎに歯止めをかけようとしたカーのような人々の立場と似たところがある。これと同様の問題は、中国、北朝鮮、イラン等々について発言する際にもあるかもしれない。
そのような発言は、自分ではバランスをとった「中庸」のつもりでも、他者からは、「ソ連(ロシア)寄り」「弁護論者」と見なされてしまいやすい。そこから、論壇における孤立が生じる。なお、この点では、冷戦期の英米と日本とでは論壇状況の違いがあり、カーは英米では孤立していたが、日本では人気が高かった。しかし、今日では、日本の状況もかなりアメリカ的になってきているのではないかという気がする。カー的な立場は、一九五〇‐六〇年代の日本では広く受容されたが、今日では日本でもアメリカ同様に孤立しやすいのではないだろうか。
論壇におけるバランスという問題に加えて、カーの出しているもう一つの重要な論点として、富裕な国々・人々が世界の他の国々・人々にどのような態度をとるのかという問題がある。これは一九三〇年代に「持てるもの」と「持たざるもの」という形で問題にされたもので、『危機の二〇年』以来の一貫した主題でもある。前項末尾で宿題として残した個所には、次のような文章(私信からの引用)がある。
「自分は物質的な豊かさに恵まれているのに、それを持たない人が物質的な安定を要求すると、そのことを卑しめ見下す人がいます。また、貧しい人々が物質的安定を獲得するための戦いに加わると、それを犯罪だと、いとも簡単に言って非難する人がいます。私はそのような人を見るといらいらしてきます」(p. 241; 三五九頁)。
敷衍するなら、相対的後発国の政権が乱暴な手段で経済発展を進めようとするときに、「先進国」の富者である知識人がそれを非難することができるのか、という問いかけといえよう。右の引用のすぐ後には、「我々の祖先はこれと同じ戦いで、時として無慈悲で冷酷な手段を使う誘惑に駆られたかもしれない」という指摘がある。「先進国」の過去における残虐行為を棚に上げて、「後進国」の政権が同様のことをするのを非難できるのだろうか、というわけである(21)。
確かに、自分は豊かな生活を享受している人が、貧者の行なった「悪事」を非難するのには身勝手なところがあり、それでいいのかという疑問がわく。他面、だからといって富者は貧者の「悪事」を非難することができないのか、そうした「悪事」はただ容認するほかないのかという問いは、にわかに回答しにくい難問である。ある時期までの左翼知識人は相対的に裕福な社会層の出身であることが多く、そのことへの「罪の意識」から、左翼運動を支持する傾向があった。今日では、そのような「罪の意識」に基づく左翼運動が巨大な害毒をまき散らしたことが強調されている。その指摘自体は当たっている。だが、それはややもすれば、裕福な人々が貧しい社会層を切り捨てることの正当化につながりやすいのではないだろうか。ここには大きなディレンマがある(22)。
この小文の二で触れたカーの二面性と関係して、自分自身の本来の体質としては違和感を覚えるような対象に対して、「他者を不当に叩き過ぎまい」として、あたかも擁護するかにみえる態度をとるといったところがあったようにみえる。ナチ・ドイツにせよ、スターリンのソ連にせよ、イギリス紳士たるカーにとっては「他者」であるからこそ、単純に敵視してはいけないのだという風に彼は考えたのではないだろうか。それは自国の立場を単純素朴に擁護する態度に比べれば高潔なもののように思えるが、そこには同時に、「本来擁護すべきでないものを、心ならずも擁護する」ような居心地の悪さがつきまとうのではないかとも思われる。
アナロジーをするなら、凶悪犯罪の容疑で起訴されている被告を、無実と信じるからではなく、「どのような被告についてであれ、公正な裁判を受ける権利がある」という信念から弁護する弁護士の状況を想起することができる。その弁護士がこうした信念から弁護活動を引き受けること、そして例えば「被告がこの犯罪を犯したのは、やむにやまれぬ事情があったせいかもしれない」といった問題提起をすることは、それ自体としてはごく当然のことであり、なんら批判されるべきことではない。「八つ裂きにせよ」と言わんばかりの感情論が高まっているような状況のもとでは、そうした弁護活動は不可欠でさえある。しかし、そうした発言は、ややもすれば、「やむにやまれぬ事情があったのだから免責されるべきだ」といったたぐいの議論――いわば正当な弁護の域を超えた過度の擁護論――に外見上近似し、多くの人からそのようなものとして受け止められてしまう。これは際どい綱渡りにも似た危うい作業といえよう。
八 丸山眞男との比較
このように考えてくるとき、やや突飛かもしれないが、カーと丸山眞男との比較という論点が成り立つのではないかという気がしてくる。といっても、もちろん二人が完全に同じような立場にあったというわけではない。世代からいえば、カーは一八九二年生まれ、丸山は一九一四年生まれということで、ほぼ二世代の開きがある。しかし、戦後期に(特に日本では)冷戦的雰囲気に対抗する左翼リベラルないし「進歩的知識人」の象徴としての位置を占めたという点では共通している。本人は体制内のエリートだが、そこにおさまりきらず、半ば「アウトサイダー」めいた自己意識をもっていた点、アカデミックな学者であると同時に、時としてジャーナリズムで積極的な政治的発言を行なったこと、決して革命家でも反逆者でもないが、「歴史の進歩」は広い意味での社会主義にあると考えていた点、通常の意味でのマルクス主義者ではないがマルクス主義に深い関心をいだき、ある程度まで近かった点(この点ではおそらく丸山の方が格闘の度合いが深かったろう)、自分自身の意識としてはユートピア主義をとらずリアリズムを重視したが、批判者の目からみればリアリズムを欠いていたと評されることが少なくない、等々。
カーについては死去から十数年を経た二〇世紀末から二一世紀初頭にかけて、多数の関連文献が相次いで刊行され、「カー・リヴァイヴァル」が指摘されるようになった(末尾の文献一覧参照)。丸山については、一九九六年の死去以降、今日に至るまで間断なく諸種の議論――批判論と擁護論の双方――が提出され、「丸山産業」といわれている。ある時代に有力だった知的潮流の代表者であるだけに、後世の評価も大きく分かれ、今日に至るまで賞賛と批判の対象であり続けているわけである。付け加えれば、本人が最大の精力を注いだ専門研究(カーの場合はソ連史研究、丸山の場合は日本政治思想史)は狭い専門を共有する研究者以外にはやや近づきがたく、批評の対象になりにくいのに対し、現実政治に関わる評論的発言の方が広い範囲の人々の注目を集め、論評の対象ともなっているという点でも似たところがある。
二人とも多面的な人だっただけに、批判が「右から」も「左から」もなされるという点も共通している。カー批判の二面性については、この小文の二で前述した。丸山に対する批判にもいくつかの類型があり、@アカデミックな政治学としての弱さを批判するもの、A政治的には親社会主義、理論的には講座派マルクス主義に近かったとする「右から」の批判、Bナショナリズムの論理の枠内にあったという「左から」の批判などがある。
もちろん、二人の間の差異も見逃せない。一つには、英米に比して日本の知識人の間では相対的に「左翼的」な雰囲気が強く、決して右翼反共主義が主流ではなかったという点がある。もっとも、現実政治の世界では一貫して保守政治が主流だったわけで、知識人の世界と現実政治の世界には大きなねじれがあった。そのため、「左派」的知識人は現実政治の動向との対比で自己を少数派と見なし、「右派」は知識人の世界の中で自己を少数派と見なす――つまり、どちらもそれぞれに「孤立」意識をいだく――という奇妙な状況が続いてきた。いずれにせよ、丸山はカーのように孤立していたわけではない(カーは英米で孤立する一方、日本では広く受容された)。
もう一つの差異として、カーにとってイギリスを先頭とする西欧近代のあり方は所与のものであり、同時にいまや没落しつつあるものと捉えられていたのに対し、丸山をはじめとする日本の知識人にとって、西欧近代は「見果てぬ夢」であり続けたという対比もある。そこから、両者の思想の内容にも微妙なズレがあったのではないかと思われる。この点を掘り下げていくと面白い論点が出てくるのではないかという気がするが、ここでそこまで立ち入ることはできない。
いずれにせよ、二人とも「リベラル左派」ともいうべき立場にあり(「リベラリズム」に批判的だったカーを「リベラル左派」と呼ぶことの意味については小文の三で前述した)、冷戦状況の中で、「反・反共主義」の態度――「親共」ないし「容共」ではないけれども、とにかく「反共」には反対という立場ないし発想――をとった点で共通する。カーがこの表現を使った形跡は見当たらないが、丸山は明示的にこの表現を使っている(23)。こうした発想は、ある時期のリベラル左派ないし「進歩的知識人」には相当広く共有されていたものと思われる(24)。
今日では、この「反・反共」を、「結局は容共だったではないか」とする観点からの批判が強まっている。丸山に批判的な論者がこの論点を絶好の攻撃材料とするのは驚くに値しないが(25)、丸山擁護論者も、この点については歯切れが悪いように思われる。これは結論的にはまんざら当たっていなくもないが、後知恵による安易な攻撃という観を免れない。この小文の四で述べたように、結論だけを捉えるのではなく、そこに至る立論のどこにどのような問題があったのかを丁寧に腑分けするのでなくては、十分な批判にならないだろう。
冷戦期にソ連べったりではないが、反共一点張りでもない態度をカーや丸山がとろうとしたことをもって、単純に「間違っていた」と結論するのは、当時アメリカで強かった正邪二元論的な対峙図式への回帰につながりやすい。「反・反共主義」は《共産主義イコール「邪」》という単純な等式を批判したが、現在では、やはり共産主義は「邪」そのものだったではないかという決めつけが優勢になっている。
この問題は冷戦終焉の捉え方とも関係する。この点については別個の議論が必要だが(26)、ともかく、ある時期までは「対峙構造の克服」「和解」として冷戦終焉を願望する考え方がかなり有力だったのが、ある時期以降は、むしろ「一方的勝利/敗北」という図式が優越し、そのことと関係して、正邪二元論的対峙図式の発想はそのまま残ることになった(「正」が「邪」に勝つことで冷戦が終わったという総括)。そのことは、その後の世界におけるアメリカ単独行動主義の一挙的強まりの大きな要因となったのではないか。にもかかわらず、アメリカ単独行動主義に批判的な人たちの間でも、冷戦の終わり方の問題は――「社会主義が敗北した」のはあまりにも明らかだという暗黙の感覚によって――問い直されていない。
もちろん、当時のカーや丸山の言説を全面的に賛美したり、丸ごと擁護したりする必要はない。学問的業績についていえば、後代の研究者は先達を批判して乗り越えていくのが当たり前だし、時論的発言については、時を隔てることによって見えてくる限界や誤りというものがある以上、そうした誤りや限界の指摘は重要な作業である。ただ、その際、丁寧な分析を省いて結論だけを「間違っていた」とするのでは、冷戦期の正邪二元論的発想を保存することになりかねず、それは今日の情勢についても安易な二元論を維持することに通じる。冷戦期のカーも丸山も、多くの限界や誤りや人間的欠陥を抱えていただろうが、そうした誤謬・挫折・孤立を含めた知的格闘のプロセスを再検討する作業は、今日の「(始まりつつあるかもしれない)新しい冷戦」状況(前注20照)の下で新たな意味を持つのではないだろうか。
【付録】近年のE・H・カー関連文献(網羅的ではない)
《全般》
早い時期のものとして、八〇歳記念論文集(カー生前の刊行)。C. Abramsky (ed.), Essays in Honour of E. H. Carr, London: Macmillan, 1974.
追悼文。溪内謙「E・H・カーとロシア革命」『世界』一九八三年三月号。
R. W. Davies, "Edward Hallet Carr," Proceedings of the British Academy, vol. 69, 1983.
伝記。Jonathan Haslam, The Vices of Integrity: E. H. Carr, 1892-1982, London and New York: Verso, 1999; 『誠実という悪徳』現代思潮新社、二〇〇七年(書評として、R. W. Davies, in Russian Review, vol. 59, no. 3, July 2000.)
Michael Cox (ed.), E. H. Carr: A Critical Appraisal, London and New York: Palgrave, 2000. この論集のうち、カーの「自伝的覚書」およびA・リンクレイター「E・H・カー、ナショナリズム、主権国家の未来」の邦訳は『思想』二〇〇二年一二月号、ロバート・W・デイヴィス「E・H・カーの知的彷徨――変化するソ連観」の邦訳は『思想』二〇〇〇年一一月号にある。
《『歴史とは何か』関連》
第二版(序文と準備ノートが付けられているが、本文自体は初版と完全に同じもの)が、著者死去後の一九八六年に出た。E. H. Carr, What is History?, Second edition, edited by R. W. Davies, London; Macmillan, 1986.
第二版をそっくり復刻しつつリチャード・エヴァンズの新しい序文をつけた新しい版。E. H. Carr, What is History?, with a new introduction by Richard J. Evans, London and New York: Palgrave, 2001.
カーを主要な批判の標的としたジェンキンズの書物。Keith Jenkins, On 'What is History?': From Carr and Elton to Rorty and White, London and New York: Routledge, 1995.
塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第V篇。
『歴史とは何か』出版四〇周年を記念し、改めて、「いま歴史とは何か」を問い直したシンポジウムに基づく論文集。David Canadine (ed.), What Is History Now?, Palgrave Macmillan, 2002; デイヴィッド・キャナダイン編『いま歴史とは何か』ミネルヴァ書房、二〇〇五年。
《国際政治関連》
David Long and Peter Wilson (eds.), Thinkers of Twenty Years' Crisis: Inter-War Idealism Reassessed, Oxford: Clarendon Press, 1995; デイヴィド・ロング、ピーター・ウィルソン編『危機の二〇年と思想家たち――戦間期理想主義の再評価』宮本盛太郎・関静雄監訳、ミネルヴァ書房、二〇〇二年
Charles Jones, E. H. Carr and International Relations: A Duty to Lie, Cambridge University Press, 1998.
Tim Dunne, Michael Cox and Ken Booth (eds.), The Eighty Years' Crisis: International Relations 1919-1999, Cambridge University Press, 1998.
二〇〇一年には、『危機の二〇年』が長文の序文(マイケル・コックス)および各種付録を付して再刊された(付録には、初版と再版の詳しい対比も含まれる)。E. H. Carr, The Twenty Years' Crisis 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, New York: Palgrave, 2001.なお、日本でも改訳版が一九九六年に岩波文庫から出た。
山中仁美「E・H・カーと第二次世界大戦――国際関係観の推移をめぐる一考察]津田塾大学『国際関係学研究』第二八号、二〇〇一年。
同 「『E・H・カー研究』の現今の状況をめぐって」津田塾大学『国際関係学研究』第二九号、二〇〇三年。
同 『新しいヨーロッパ』の歴史的地平――E・H・カーの戦後構想の再検討」『国際政治』第一四八号、二〇〇七年。
遠藤誠治「『危機の二〇年』から国際秩序の再建へ――E・H・カーの国際政治理論の再検討」『思想』二〇〇三年一月号。
中村研一「ポスト軍事主権の平和構想――E・H・カー安全保障論の再検討」磯村早苗・山田康博編『いま戦争を問う(グローバル時代の平和学2)』法律文化社、二〇〇四年。
細谷雄一「『新しい社会』という誘惑――E・H・カー」『大英帝国の外交官』筑摩書房、二〇〇五年
酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』岩波書店、二〇〇七年、三二‐三九頁および二七七頁の注59。
三牧聖子「『危機の二十年』(1939)の国際政治観――パシフィズムとの共鳴」日本政治学会編『年報政治学2008‐T』木鐸社、二〇〇八年
《全般》の項に挙げたリンクレイター論文も参照。
(1)近年の「リヴァイヴァル」の中で最も集中的に「見直し」の対象となっているのは国際政治・国際関係論の分野だが(この小文の末尾の付録参照)、そこにおいては、カー自身が最大の力を注いだ分野たるソ連史研究は、至っておざなりな扱いしか受けていない。
(2)なお、マイケル・コックスが『危機の二〇年』の新版に付した詳細な解説は、ハスラムの伝記の少し後に出ており、いくつかの新情報を付け加えている。Michael Cox, "Introduction," in E. H. Carr, The Twenty Years' Crisis 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, New York: Palgrave, 2001.但し、コックスの専門が国際政治ないし国際関係論であり、またあくまでも『危機の二〇年』の解説という趣旨で書かれているため、包括性という点ではハスラムの方がまさっている。
(3)ハスラムの記述を信じるなら、カーは個人としては相当欠陥の大きい人間だったように見える。そのとおりだったのかもしれないが、多少の誇張があるのではないかという疑問もありうる(この点、デイヴィスの書評を参照。Russian Review, vol. 59, no. 3, July 2000)。結論が明示されているわけではないが、「家庭のことを顧みず、女性を見下し、仕事に全精力をさくような人間だったからこそ、あそこまで大きな仕事ができたのだ。普通なら、もっと多くの時間を家庭や日常生活にさいただろうが、その場合には、あそこまでの仕事はできなかったろう」という感慨が込められているようにも見える。
(4)塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第V篇。
(5)カーとドイッチャーの対比については、Michael Cox, "E. H. Carr and Isaac Deutscher: A Very 'Special Relationship'," in Michael Cox (ed.), E. H. Carr: A Critical Appraisal, London and New York: Palgrave, 2000も参照。この対比との関連でいえば、溪内謙は体質的にはカーの方に近いが、思想的立場としてはドイッチャーの方に近かった。
(6)E. H. Carr, From Napoleon to Stalin and Other Essays, London: Macmillan, 1980, p. vii; 『ナポレオンからスターリンまで』岩波書店、一九八四年、iii頁、E. H. Carr, "An Autobiography," in Michael Cox (ed.), op. cit., pp. xiv-xv; カー「自伝的覚書」『思想』二〇〇二年一二月号、五三頁、また塩川『《20世紀史》を考える』二二八頁も参照。
(7)初版と改訂版の異同については、二〇〇一年パルグレーヴ版の付録で詳しく跡づけられている。E. H. Carr, The Twenty Years' Crisis 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, New York: Palgrave, 2001, pp. lxxii-lxxxii. なお、岩波書店の邦訳書初版は原書一九四九年版、改訳岩波文庫版は原書一九八一年版(いずれも四六年改訂版を再刊行したもの)を底本としているため、原書初版にあった問題個所は含まれていない。また、邦訳はところどころで文脈の取り違えによる誤訳を含む。
(8)この点につき、塩川伸明『ソ連とは何だったか』勁草書房、一九九四年、一二六頁参照。「歴史におけるif(もし)」については、塩川『《20世紀史》を考える』二一四‐二一九頁も参照。なお、コーエンのブハーリン伝に対するカーの書評(一九七四年)は、『ナポレオンからスターリンまで』(前注6)に収録されている。
(9)マックス・ウェーバー『職業としての政治』角川文庫、九一頁。
(10)E. H. Carr, What is History?, with a new introduction by Richard J. Evans, London and New York: Palgrave, 2001, p. 73; 邦訳『歴史とは何か』岩波新書、一九六二年、一一五頁。
(11)What is History?, p. 75; 邦訳一一七頁。
(12)塩川『《20世紀史》を考える』、二三三頁参照。
(13)なお、ここではポーランドを当時の英米独ソなどとの相対比較で「小国」としたが、ポーランドを常に「小国」として見ることが妥当かという点にも疑問がある。しかし、この問題を論じ出すと本論からの逸脱がはなはだしくなるので、ここでは立ち入らない。
(14)これはカーの「自伝的覚書」からの紹介。E. H. Carr, "Autobiography", p. XV; 『思想』二〇〇二年一二月号、五三‐五四頁。なお、カーのソ連観の変遷については、R. W. Davies, "Carr's Changing Views of the Soviet Union," in Michael Cox (ed.), op. cit.; ロバート・W・デイヴィス「E・H・カーの知的彷徨――変化するソ連観」『思想』二〇〇〇年一一月に詳しい。
(15)デイヴィス(前注14の論文)、溪内謙(『現代史を学ぶ』岩波新書、一九九五年、八二‐八五頁、同「E・H・カー氏のソヴィエト・ロシア史研究について」〔カー『ロシア革命』岩波現代文庫、二〇〇〇年、所収〕)はそれぞれに戦後のカーの変化について触れているが、ここではそれらと多少異なる像を描いてみたい(後注19参照)。
(16)ここでマルクーゼの名が出てくるのは、この当時カーが訪米中で、ブランダイス大学でマルクーゼと接する環境にあったという事情による。ついでながら、ちょうど同じ時期に溪内謙もアメリカに留学し、カーと知遇を得た。
(17)スターリン批判を歴史として再考察した最近の仕事の例として、松戸清裕「スターリン批判とフルシチョフ」『ロシア史研究』第八〇号(二〇〇七年)、ハンガリー事件に関する最近の研究動向のまとめとして、平田武「一九五六年革命とハンガリー現代史研究」『東欧史研究』第三〇号(二〇〇八年)、日本での反響について、富田武「スターリン批判と日本の左翼知識人」『現代の理論』二〇〇六年秋季号、また私の研究ノート「スターリン批判と日本」も参照。他国の状況について正面から議論する準備はないが、例えばイギリスなどでも、左翼的な社会科学者に与えたスターリン批判の影響は非常に大きかったように思われる(私はある有名なイギリスのソ連研究者が「われわれ一九五六年世代」と語るのを印象深く聞いた覚えがある)。それに対比するなら、カーはそういう影響を受けるにはもはや老成してしまっていたのではないかというのがとりあえずの推測である。
(18)ニューレフトおよびユーロコミュニズムに関する辛口の批評は、一九七八年のインタヴュー(前注6の『ナポレオンからスターリンまで』に収録)にも見ることができる。なお、同じインタヴューには、当時のカーター米政権が展開していた「人権外交」について、本来普遍的であるべき「人権」概念を特定国非難の外交的道具とすることへの強い批判が述べられている。これはかつてナチ・ドイツやスターリンのソ連に対して英米諸国が一方的非難を浴びせることに反撥したのに似た発想であり、彼一流の「バランス」論――英米の世論が一方に傾きすぎているときには、あえて逆向きの態度をとろうとする――のもう一つのあらわれと言えよう。もっとも、若い頃と違って、老齢のカーはそうした「反主流」の見解を大声で説くのではなく、憂鬱な述懐として漏らすにとどまっているが。
(19)この点、前注15のデイヴィスおよび特に溪内は後期カーをややニューレフト寄りに引きつけて解釈しすぎているように思われる。
(20)ロシアとNATO諸国の間の「新しい冷戦」的状況の兆しということは、二〇〇五‐〇七年頃にあちこちでささやかれていた。もっとも、「新冷戦」が本格的に始まったという議論は稀だったし、〇七年半ばあたりから、アメリカではブッシュ政権が末期に入って対露敵視政策をやや弱め、二〇〇八年にはメドヴェーヂェフ・ロシア新大統領が欧米諸国との関係改善を目指すかの姿勢をとってみせるなど、情勢の変化が生じており、事態は流動的である。いずれにせよ、これは本稿で論じきれる問題ではない。
(21)これはラウエのコンクェストに対する反論(塩川『《20世紀史》を考える』二四一‐二四二頁参照)とも相通じるところがある。
(22)この問題は、「中心」に位置する人が「周縁」に対してどのような態度をとるかという問題と言い換えるなら、藤原帰一「忘れられた人々――テロ・カトリーナ・周縁」『国際政治』第一四九号、二〇〇七年の主題と重なる。その論文で藤原は、「中心」の「周縁」に対する態度の類型として、@慈善・社会政策、A管理・統制、B連帯・革命を挙げ、今日では、経済グローバル化に伴う財政上の制約から@が切り縮められ、Bは完全に無意味化したとしている。とすると、残るのはAだけということになりそうだが、結論は明示されていない(論文の後半では、「周縁」の声をどのようにして聞き取るかという問題が提示されているが、それが前半の議論にどのようにはねかえるのかは明らかでない)。確かに、各種の「連帯・革命」論が無惨な破綻を明らかにし、いまでは無意味化したという結論を全面的に覆すのは難しいだろう。だが、それがすべてなのか、このような結論をあまりにもあっさりと投げ出すだけで話が終わるのか、という疑問は残る。
(23)「政治的には、私は自分なりの状況判断として反共主義に反対という意味での反・反共主義でずっとやってきました」。梅本克己・佐藤昇・丸山眞男『現代日本の革新思想(丸山眞男対話篇3)』下、岩波現代文庫、二〇〇二年、二八三‐二八四頁(初出は一九六六年)。
(24)ほとんど全く関係がないにもかかわらず、意外な接点のある発言として、クリフォード・ギアツ『解釈人類学と反=反相対主義』みすず書房、二〇〇二年、六〇頁。「反・反共主義」については、大嶽秀夫『新左翼の遺産――ニューレフトからポストモダンへ』東京大学出版会、二〇〇七年、八二、二一一頁(大嶽は「反反共主義」という表現をとっている)、および同書への私の読書ノートも参照。
(25)通俗的なレッテル貼りについては取り上げるまでもないが、それよりは多少ソフィスティケートされた議論の例として、水谷三公『丸山眞男』ちくま新書、二〇〇四年、第四章(丸山と関連づけたカー批判もある)、竹内洋『丸山眞男の時代』中公新書、二〇〇五年、一一七‐一二〇頁などがある。なお、水谷著の二三九頁に「前述の塩川も認めるように」という文言があるが、何を指すのか不明である。
(26)とりあえず、塩川『《20世紀史》を考える』第9章参照。
*Jonathan Haslam, The Vices of Integrity: E. H. Carr, 1892-1982, New York, 1999; 『誠実という悪徳――E・H・カー1892-1982』現代思潮新社、二〇〇七年
(二〇〇八年六‐七月)