「集団的自衛権に関する現行政府解釈の成立経緯とその影響」

 

 

はじめに−問題の所在

現在、政府の憲法解釈では、日本は集団的自衛権を国際法上保有しているが、憲法で許される自衛権は個別的自衛権までで集団的自衛権はその範囲を越えるから行使できないとしている。この内閣法制局の解釈は、戦後日本が置かれた状況やその過程で選択してきた安全保障政策を考慮すれば、「政策」として理解できないものではない。しかし言うまでもなく多くの問題を内包している。

行使できない権利と言う論理矛盾もさることながら、我が国の安保政策の根幹である日米安全保障条約はそもそも集団的自衛権の行使として締結されていると考えるのが常識であろう。大枠では集団的自衛権の恩恵を受け、東西冷戦下ではいわゆる吉田路線により経済大国の地位を得ることに成功したにも関わらず、同盟国たる米国への協力では集団的自衛権禁止の下に消極主義に止まることが米国などで理解されづらいことは想像に難くない。東西冷戦下では顕在化しなかったこの問題も冷戦終結後、湾岸戦争、北朝鮮核開発疑惑などに伴い近年脚光を浴び、国会での議論も活発になっている。とりわけ2001年4月に発足した小泉純一郎内閣は集団的自衛権に関する憲法解釈を真剣に議論し、研究していくという姿勢を打ち出している。

本稿テーマの先行研究としては、田中明彦の『安全保障』、中村明『戦後政治にゆれた憲法九条』、佐瀬昌盛『集団的自衛権』、坂元一哉『日米同盟の絆』、安田寛・西岡朗編『自衛権再考』、中馬清福『再軍備の政治学』などがあるが、なかでも阪口規純の「集団的自衛権に関する政府解釈の形成と展開:上下」(『外交時報』1996年7・8〜9月号)によって1990年代初頭までの政府答弁の変遷について詳細な研究が行なわれている。

本稿では、これらの先行研究をふまえた上で、集団的自衛権に関する議論の参考に資するため、集団的自衛権が戦後日本の安全保障政策の中で時代毎にどう解釈されてきたのかを、国会における政府答弁を精査し時代背景と併せて分析することによって明らかにする。

阪口規純の論文は、歴代政府解釈の通史的な展開過程と論理の分析に主眼を置き、また1990年の湾岸戦争に関連する議論までを対象としている。そこで本稿では筆者の問題関心である集団的自衛権と海外派兵との関係の分析に主眼を置く。そして、いつ、誰が、どのような理由で集団的自衛権の行使を禁止したのかについて、その経緯と政府解釈の変遷に関するダイナミズムを明らかにしつつ、小泉純一郎内閣が発足した2001年の第151回通常国会までを調査することとする。

第1章では議論の前提として集団的自衛権が国連憲章に採用された経緯とその性格について概観し、第2章以降で集団的自衛権に関する政府答弁の精査と考察を行なう。筆者の見解では1972年をもって政府解釈に大きな変化が生じたと思われることから、1972年以降を第3章として区別することとした。これらの分析を経た上で、おわりに総括を行なって結びとする。なお、年の表示は西暦に統一し、議員の所属会派は質問当時のものとし、敬称は全て省略する。

 

第1章 集団的自衛権とは


(ア)集団的自衛権の成立経緯

よく知られているように集団的自衛権は国際連合憲章で初めて導入された概念である。しかもダンバートン・オークス会議(1944/8〜)提案(Dumbarton Oaks proposals)の段階では含まれておらず、後にサンフランシスコで開催された国際機構に関する連合国会議(1945/4〜)においてダンバートン・オークス会議提案を修正した結果誕生したという経緯がある。

国際連合の目指す第二次大戦後の安全保障体制は全加盟国でもって侵略国を制裁する集団安全保障体制がその中心に据えられていた。地域的取極に基づく強制行動はその補完措置と位置付けられ、かつ安全保障理事会の許可が必要とされていた(国連憲章第53条)。

一方ダンバートン・オークス会議後のヤルタ会談(1945/2)では国連安全保障理事会の常任理事国に、たとえ常任理事国自身が紛争当事国であったとしても国連安全保障理事会における拒否権が認められることとなった。

国連安全保障理事会における大国拒否権の構想は、国際連盟の教訓を取り入れたものである。戦後新たに発足する国際連合では、総会においては従来からの主権平等の原則を維持するとともに、安全保障理事会では五大国(米ソ英中仏)に常任理事国の地位と拒否権という特権を与えることとした。これら国連の安全保障措置は大国の一致した影響力のもとに実施することを通じて戦後の国際秩序を構築し、さらに大国の単独行動を防止しようという、言わば理想(主権平等)と現実(大国拒否権)を両立させようとした妥協の産物であると言える。

しかしヤルタ会談では、すでにポーランドなど戦後欧州のありかたについて米英とソ連の思惑の違いが表面化していた。またソ連が「絶対的拒否権」を強く主張したこともあって、ソ連の拒否権が乱用されることを恐れる国が出始め、国連発足後、安全保障理事会が機能不全に陥ることが危惧されるようになった。

特に強い危機感を抱いたのは米州諸国である。米州諸国は第二次大戦中、ドイツ寄りだったアルゼンチンを除いて団結を維持し、米国の戦争遂行を支持してきた。1945年2月、メキシコ・シティーで開かれた米州会議で、この協力関係を永続的なものとするための共同防衛条約の締結を約した決議[、通称チャプルテペック決議を採択した。彼ら米州諸国の危惧は安保理常任理事国が米州諸国の一部と共謀して他の米州諸国を侵略した場合、安全保障理事会で拒否権が行使されれば米州諸国は被害国を防衛することができなくなるのではないか、というものであった。

米国では西半球諸国への不干渉を掲げたモンロー・ドクトリン擁護の観点からこれら米州諸国の主張に共鳴する者が現れて解決策が模索された。その結果、安全保障理事会麻痺という事態にあっては、「それに対応すべきものは地域的取決めではなく、自衛権の発動である」(西崎文子『アメリカ冷戦政策と国連1945−1950』P.25)という主張が有力となり自衛権を国連憲章にいかに組み込むかが議論されるようになった。「国際組織は、あくまで大国一致の原則を基盤としなければならない。しかし、万一この安全保障体制が失敗に終わった場合、「つまり安全保障理事会が行動を起こすべきときに行動をとらなかった場合、当然各国には自分を守る自由が与えられている」」(西崎P.25)。さらに米州機構のような地域取決の加盟国の集団行動にも、独立国と同等の自衛権を認めるという方向性が生まれた。

これに対して、自衛行為をある国の領域の外でとりうるというのはイギリスにとっては耳新しいこと、といった疑問が提起され、地域ブロック形成に繋がるという批判も起こった(西崎P.32)。自国の国益のために他国を防衛線に組み込むことは古くからよく行われてきたことであり、日本帝国にとっての朝鮮半島、米国にとっての南北アメリカ大陸、さらに外ならぬイギリスにとっての欧州低地地帯など枚挙に暇がない(北岡伸一『日本政治史』P.74)。イギリスの主張は集団的自衛権への反対というより、新しい国連体制下で、自衛権が地理的に結合した国家群(例えば米州機構)にのみ認められることを牽制したと考えられる(西崎P.33)。言うまでもなく、当時のイギリスは全世界にまたがる領土に君臨する「大英帝国」だったのである。

結局、米国がチャプルテペック決議に言及することを控え、数回の交渉・修正案の書き直しを経て(西崎P.35)、ダンバートン・オークス会議提案が修正された結果、国連憲章第51条に個別的自衛権と並んで集団的自衛権が盛り込まれることになった。米国の発言自制は、集団的自衛権は地理的条件に拘束されないことを、イギリスをはじめとする関係国に示す意味があったのであろう。

 

(イ)集団的自衛権の日本における解釈

集団的自衛権(right of collective defence)には現在「武力攻撃を受けた国と密接な関係にある国が被害国を援助し共同に防衛する権利」(栗林忠男『現代国際法』P.174)、あるいは国連憲章「第51条の名において、すべての国連加盟国は、武力侵略の犠牲国である他の国家を救うために武力行使に訴える権利を持つ」(PELLET, Alain『コマンテール国際連合憲章』上P.955)といった説明がなされている。

学説は、@個別的自衛権の集団的行使、A被害国を広く援助する権利、B自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を自国に対する攻撃とみなして反撃する権利、C自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が客観的にみて自国に対する攻撃に等しく、現実にその危険が明白である場合に反撃する権利、の4つに分かれる。本来的にはCが妥当であろうが、実際にはAまたはBの運用が一般的になっている。(栗林P.174)

内閣法制局の見解は、1981年5月29日に国会に提出された、稲葉誠一衆議院議員の質問主意書に対する答弁書で「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。」と定義した。

この定義が上記学説中のどの立場をとるのかについて、答弁書提出後の1981年6月3日、衆議院法務委員会における稲葉の質疑で、角田禮次郎内閣法制局長官は、「自国と密接な関係にある他の国が攻撃を受けて自分の国は攻撃を受けていない、しかし、それをあたかも従来の自衛権の観念に置き直してみれば、自国に対する攻撃と考えることによって他国を援助するというか、他国に対する別の国の攻撃を排除する、こういう意味でございます。」と答弁し、主観的に自国への攻撃とみなすBの立場に立っていることを明らかにした。

次章から、戦後の政府答弁を精査し、集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈が完成していく過程を明らかにしていく。

 

2章 海外派兵を禁止する時代(1950〜)

 

(ア)占領下の議論
時代背景

国会で初めて集団的自衛権に関する論戦が行われたのは、1949年12月である。この頃、占領下の日本をめぐる国際情勢は第二次世界大戦終結直後とは、まったく様相を異にしていた。戦後大きな期待が寄せられた、国連を中心とした米ソ協調による国際秩序の形成は、この頃には極めて困難、というより事実上不可能であることが次第に明らかになっていたのである。

日本で新憲法が施行される2ヶ月前の1947年3月12日、トルーマン米大統領はいわゆる「トルーマン・ドクトリン」を発表、国連における大国協調による平和探求から米国自身の介入で国際秩序維持をはかる方向への政策転換を示した。「同年の春から夏にかけての時期には、米ソの対立は公然たるものとなり、その事態をあらわすものとして「冷戦」ということばが広まった」(紀平英作『アメリカ史』P.336)。

1947年6月5日に発表された「マーシャル・プラン」はソ連の反発を呼び、1947年10月5日のコミンフォルム結成をもってヨーロッパは東西に分断されて東西冷戦が始まった。この東西冷戦は翌1948年6月から1年近くに及んだソ連による西ベルリン封鎖で早くも米ソ戦争の危機を世界にもたらしたのである。

一方日本をとりまく東アジアの情勢も、すでに1946年7月、中国国民党と中国共産党の内戦が再開され、その後も東西冷戦の影響が波及してきていた。1948年8月から9月にかけて朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が相次いで誕生し、南北分断が固定化されていった。1948年10月、こうした情勢を背景に米国は日本を「反共の防波堤」とすべく対日占領政策を転換し、民主化・非軍事化を中止して経済復興を促進する決定を下した(NSC文書13/2)。さらに1949年後半に入って9月のソ連の原爆保有宣言、10月の中華人民共和国の成立など米国にとって衝撃的な事態が進行していた。


集団的自衛権に関する初期の議論

こうした情勢下で集団的自衛権に関する初めての、本格的な質疑が行われたのは1950年2月3日の衆議院予算委員会であった。中曽根康弘(国民)は来るべき講和条約との関連で国連憲章が示している集団的自衛権を認めるか否かと質した。これに対する吉田茂総理大臣の答弁は、「こういう自衛権を認めるか認めないかと言つて、連合国政府から交渉を受けたときには、政府としては見解を発表しますが、お話のような問題に対しては、すなわち仮設の問題に対してはお答えいたしません。」(下線筆者、以下断らない限り同様)と、はなはだ素っ気ないものであった。

一方、西村熊雄条約局長は「国際法上、自衛権について集団的自衛権というものが肯定できるかできないかということが、現下の国際法学者の非常に興味のある、いわゆる研究課題になつておりますので、その研究課題になつておる問題につきまして、専門家でもございませんような一小役人が、こう思うというような意見を述べることは差控えたいと思うのです。」とこちらは極めて慎重である。これと同趣旨の答弁は1949年12月21日、衆議院外務委員会においても行なわれ、これが初めての集団的自衛権議論であるとされる(阪口規純「集団的自衛権に関する政府解釈の形成と展開」上P.71)。

再度の中曽根の質問に西村は、独立国には固有の個別的自衛権と集団的自衛権があると認めた上で、「私が国家にいわゆる個別的自衛権と集団的自衛権があると申し上げましたのは、むろん言うまでもなく、国際連合憲章を受諾いたしまして国際連合加盟国となつておる国については、憲章の明文にそう規定してありますから、そういうふうに解釈するのが穏当であろうと考えております。」とあくまで一般論の域を出ない。

吉田の素っ気ない答弁は、他の中曽根の質疑にも見られるが、西村の答弁の慎重さとも併せて考えると、当時の日本政府内では個別的自衛権とか集団的自衛権に関する具体的な研究が、あまり進んでいなかったことが推察される(阪口 上P.72)。

自衛権そのものについては1950年1月、マッカーサー元帥の年頭の辞で、日本国憲法は自衛権を否定せず、と明言されていた。しかし言うまでもなく問題は単に日本が自衛権を持つか否かという点に止まらず、講和後の日本の安全保障政策の道筋に関わる問題である。

この時期、米国側では対日講和に対する方針が、長期基地自由使用のために早期講和には慎重な立場(国防総省)と、日本を西側へ取り込むために早期講和に積極的な立場(国務省)とに分かれて固まらなかった。また日本国内でも東西冷戦の激化を背景に、全面講和論と多数講和論との間で世論が分裂していた。

吉田は西側諸国を中心とした早期多数講和と講和後も国内に米軍駐留を続けることによる日本の安全保障という選択に固まりつつあった。吉田は旧日本軍のように独善化し暴走する軍部を「政治の癌」と位置付け、当面の安全保障政策は国連または米国に日本の安全保障を委ね、その間経済復興に全力を傾けるとした。その観点に立つならば、日本には国連なり米国なりに守ってもらう意味での自衛権はあっても、非武装状態の日本が自らの力で行使する自衛権の保有を具体的に想定しづらかったことは想像に難くない。その意味で、政府が憲法と自衛権に関する研究の必要性を認識していなかったのではないかと考える。

 

この時代の政府の解釈を総括すれば、政府解釈未完成の時代であるといえるであろう。

いずれにしても、国連が日本の期待通りに機能しそうもないことが明らかになりつつある中、この選択は肝心の米国が同調しなければ空理空論に過ぎないであろう。その意味で政策というより要望といった方が相応しいかも知れない。吉田は1950年4月に池田勇人大蔵大臣が経済視察名目で渡米した折、講和後の在日米軍基地維持につき日本側からオファーしてもよい、との内意を米政府に伝えさせた(いわゆる池田ミッション)。これに類する提案は既に1947年9月に芦田均外務大臣からアイケルバーガー米第8軍司令官に伝えられてはいたが(いわゆる芦田イニシアティブ)、五百旗頭真は、中断していた講和への流れを再起動させようとの試みであろうと分析している(五百旗頭真『日本の近代6戦争・占領・講和』P.372)。こうした日本側の要望と、米国務省・国防総省の二つの立場を一気に結びつけたのが1950年6月25日の朝鮮戦争勃発であった。

 

(イ)講和条約締結前夜

時代背景

朝鮮戦争が日本の安全保障に与えた主な影響は、@米国の要求で非武装方針が転換されたこと、A日本列島の戦略的価値が急上昇し米軍基地の維持が米国側の重要課題になったこと、B日本国内で早期多数講和論が有力になったこと、である。

@については1950年7月8日のマッカーサー書簡により、75000人の警察予備隊が創設され、海上保安庁も8000人の増員がなされた。米側の指示した組織を見れば警察でないことは明瞭であったが、「当時の日本政府の中で、これが後の自衛隊につながる組織であることを予測できた者はほとんどいない。」(田中明彦『安全保障』P.47)。

しかし米国側ではこれが再軍備の第一歩であるという明確な認識があった。当時GHQ民事局長のシェパード少将は警察予備隊編成の幕僚長に任命されたF・コワルスキー大佐に、「警察予備隊というのは、さしあたり4個師団編成で、定員7万5000の日本防衛隊のことだが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ。」と語った(KOWALSKI, Frank Jr.『日本再軍備』 P.57)。

AとBはすでに4月の池田ミッションの頃から日本側の内意が米国側へ伝えられていたが、J・F・ダレス対日講和問題担当国務省顧問が、対日早期講和と日米二国間協定による在日米軍基地の維持という結論に達したことから、1950年9月8日、NSC文書60/1としてトルーマン米大統領の承認を受けるに至った。

米国側の動きに呼応して吉田と外務省は講和条約の準備作業を本格化させていた。1950年10月末の中国人民義勇軍の介入により朝鮮半島の戦局が激化し、また警察予備隊が着々と整備されていく状況にあっても、吉田はなお再軍備を否としていたとされる。この背景としては、日本の近隣諸国をはじめ、外ならぬ日本人自身の再軍備への反対、あるいは日本の経済事情、吉田の国際情勢認識などがあった。さらに吉田が、いずれ再軍備するにしても十分な準備と研究を行った上で、シビリアン・コントロールの行き届いた英米型軍部建設を念頭においていたこともあげられるであろう。果たせるかな1951年1月にダレス特使が来日し吉田と会談したが、吉田は基地提供はあっさりと認める一方、再軍備についてはダレスが不快になるほど渋り続けた。

 

集団的自衛権解釈の具体化

この時期の国会における集団的自衛権に関する政府答弁は、ちょうど1年前のそれからかなり具体化し、初めて政府解釈が明らかになっている。1951年2月21日、衆議院外務委員会において、佐々木盛雄(自由)が他の国が日本のために軍事力を発動することが自衛と言うことができるかどうかと質問した。西村熊雄条約局長は、「集団的自衛権というものは一つの武力攻撃が発生する、そのことによつてひとしくそれに対して固有の自衛権を発動し得る立場にある国々が、共同して対抗措置を講ずることを認めた規定であると解釈すべきものであろうと思うのであります。」と外務省の定義ともいうべきものを示している。この見解は第1章で紹介した学説では@個別的自衛権の集団的行使に該当するであろう。

また1951年3月20日、やはり衆議院外務委員会において並木芳雄(改進)の質問に対し、草葉隆圓外務政務次官は「国家には自衛権という性質からいつて、個別的自衛権なり、集団的自衛権というような二つの別々な自衛権があるものではないと存じます。」と答弁し、自衛権は一つという立場をとった。

外務省の見解がこうして具体化していった背景には、講和条約と事実上一体化した日米安全保障条約をめぐる日米交渉があったと思われる。外務省としては講和後も米軍が日本に留まることを「国民や国会に説明しやすくするために知恵をふりしぼって」(坂元一哉『日米同盟の絆』P.52)、当時国内で絶大な権威のあった国連憲章がうたう集団的自衛の関係に立った条約締結を目指してきた。ところが米国側はNATO結成(1948)に関連して決議された米上院のバンデンバーグ決議を盾に、軍備も自衛手段も持たない日本と集団的自衛権に基づく相互防衛条約としての取決めは結べないと通告してきた。米国の姿勢は「日本の希望する憲章に基づく集団自衛の関係が設定できるようになるまで日本に軍隊をおいて守ってあげる」(西村熊雄『サンフランシスコ平和条約 日米安保条約』P.37)というものであった。

日本側は憲法の制限内で、国内の治安維持、基地提供、生産力あるいは労働力で、バンデンバーグ決議が要求する「継続的で効果的な自助及び相互援助」が出来ると主張したが(西村P.37)、米国側は軍事力以外の援助を認めなかった。当時の警察予備隊はどうみても武装警察の域を出ず、米国の要求する軍事力には程遠かった。本格的な再軍備を渋った副作用とも言える。結果として締結された日米安全保障条約は米国側に日本防衛義務のない、米軍による基地使用を主目的とした駐軍協定とでも呼ぶべきものとなってしまった。

いずれにしても重要な点は、この時代の日本政府の考えでは、日米協力がすなわち集団的自衛権の行使であり、日本の基地提供は、バンデンバーグ決議が求める「相互援助」すなわち集団的自衛権行使の一形態であると理解されていたことである(阪口 上P.75)。現に日本側の交渉担当者は折に触れ、日本の基地提供などが集団的自衛権の行使であると米国側に主張している (西村P.37) 。例えば日本側が提出した質問書「日米協定の性質について」(1951/4/20)では、米軍が沖縄防衛に日本本土の基地を利用することは日本の集団的自衛権の発動ではないのか、と米国側に問いかけている(坂元P.55)。

日本側の主張はもちろん日本も米国を守る義務を負う、NATOのような完全な権利義務関係ではない。防衛義務は米国側のみで、しかも日本は軍事力を行使しないという二重の意味で片務的なものである。しかし現行憲法解釈に見られるような憲法上、集団的自衛権は行使できない、あるいは基地提供・資金援助などの武力行使でないものは集団的自衛権の行使には当たらないという発想は見られない。換言すれば、当時の憲法と日米安保条約との問題点は、第9条と外国軍隊の駐留とに限定されていたのである(阪口 上P.74)。

ダレスは1952年に『Foreign Affairs』誌上に「太平洋の安全保障と日米関係」と題する論文を寄稿した。その中で「日本は、米国と二国間条約を締結することにより、既に集団的自衛権を行使していることになる。」とし、また憲法第9条にも触れ、「日本国民の多くは次のような見解を抱いている。すなわち、日本国憲法は、国連憲章に規定されている「個別的または集団的な自衛の権利」を日本が行使することは妨げておらず、また国連の要請あるいは国連憲章の授権によって創設される集団的安全保障のための部隊に対して日本が貢献することは可能であり、とりわけその構成や責任の性質が国家の膨張や侵略の手段には決してなりえない場合には日本の貢献が可能である、というものである。」(梅垣理郎編『戦後日米関係を読む』P.70)と分析している。後段は1990年代の議論を先取りしているようでもあるが、それはともかく、当時の日米関係者の理解はほぼ一致していると結論できる。

 

この時代の政府解釈を総括すれば、集団的自衛権行使は憲法違反という発想はなかったと結論できる。日本政府が軍備を禁じる憲法と当時の経済的な制約の下で、米国側の求める集団的自衛権(バンデンバーグ決議のいう相互援助)をいかに有効に行使できるか検討し、かつそれを米国側に納得させようとした時代であった、といえるのではないか。

 

(ウ)サンフランシスコ講和条約審議

時代背景

1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結した。

サンフランシスコ講和条約第5条(C)では「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」とうたわれた。

さらに日米安全保障条約の前文では「平和条約は,日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し,さらに,国際連合憲章は,すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。これらの権利の行使として,日本国は,その防衛のための暫定措置として,日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」とされた。

国際法上、日本は集団的自衛権を明確に保有し、しかもダレス論文の如く行使もする国家として独立を回復したことになる。日本の論理としては講和後の安全保障を米国との地域的取極に依拠し、その根拠として国連憲章第51条を日本が保有することを講和条約で内外に宣言したということである(阪口 上P.73)。

 

「海外派兵は許されない」という議論

当時の国会審議を見る場合まず興味深いのは、自衛権問題については日本社会党でも政府と同じような立場をとっていたことである。「日本の個別的、集団的自衛権に制限が設けられなかつたことは幸いであると私は思うのでありますが、自衛の方法や手段は、日本が完全なる独立後において、日本人の自由意思によつて決定さるべきものであろうと思うのであります」。これは吉田総理の講和交渉経過報告を受けた、代表質問における淺沼稻次郎(1951/8/16衆議院本会議)の発言の一節である。

また翌1952年1月25日、吉田総理の施政方針演説に対する質疑で、水谷長三郎は「特にその国際安全保障機能を強化いたしまして、究極的には各国軍備の廃止を主張するものであるとともに、世界の現状におきましては、各国の自由、独立と秩序維持の見地からいたしまして、国連憲章第51條の集団的自衛権と地域的安全保障制度を、憲法の許す範囲において是認するものであります。」と発言した。

後の社会党の安全保障政策に発展していくものもあるが、どちらも集団的自衛権は禁止されていないという立場にたっていることが読み取れる。もっともこの後、社会党内では反安保・反再軍備派が主導権を握るのであるが。

では当時の日本人にとって、集団的自衛権に関する問題点とは何だったのであろうか。おそらく1951年11月7日の参議院平和条約及び安保条約特別委員会における岡本愛祐(緑風)の質問に集約されるのではないかと思う。

岡本の質問は安全保障条約によって日本も集団的自衛権の行使として警察予備隊を朝鮮戦争へ派遣できるという解釈はできないか、というものであった。西村熊雄条約局長は「今御指摘のように、日本は独立国でございますから、集団的自衛権も個別的自衛権も完全に持つわけでございます、持つております。併し憲法第九條によりまして、日本は自発的にその自衛権を行使する最も有効な手段でありまする軍備は一切持たないということにしております。又交戦者の立場にも一切立たないということにしております。ですから、我々はこの憲法を堅持する限りは御懸念のようなことは断じてやつてはいけないし、又他国が日本に対してこれを要請することもあり得ないと信ずる次第でございます。」と答えた。

岡本はさらに日本の個別的自衛権の行使としての派遣の可能性も質したが、「国連憲章の第二條を御覧になりましても、国際連合の第一の原則は加盟国間における主権平等の大原則でございます。日本は独立国として憲法を持ち、その憲法によつて岡本委員が御指摘のようなことは一切やらない性格の国家になつております。」との答弁に加え、「これに矛盾するような要請を国連乃至国連加盟国がしようとお考えになるところに私は或る弱さがあると思うのでございまして、私は総理大臣ではございませんけれども、もう少し御信念を持つていいじやございますまいかと、申上げたいと思います。」とたしなめられることになった。官僚と議員の関係が戦前の雰囲気を残していることを感じさせる。

阪口規純によれば、この西村答弁で重要なことは、日本が個別的自衛権も集団的自衛権も保有していること、集団的自衛権の海外での行使(海外派兵)は憲法違反であること、などであるが(阪口 上P.75)、筆者はここでは海外派兵の部分を強調しておきたい。

これらの質疑を受けた委員長報告(1951/11/18参議院本会議)で、大隈信幸は「政府側から、国家が條約を結ぶ場合は憲法に従つて結ぶのであつて、換言すれば、條約は国内的な努力としては憲法の下にあり、法律の上にある。第五條(a)項の「あらゆる援助」とは、憲法上、法律上、合法的で可能な範囲の援助という意味である。又国際連合も加盟国の法律上不法なことを要請するはずはないし、たとえ、おつても服する要はないとの趣旨の答弁がございました。」と報告した。

当時の日本人が集団的自衛権を持つことを当然とし、しかし不安を感じたのは、日本が米国の戦争に巻き込まれて、再び海外派兵をする(させられる)日が来るのではないか、という点にあったものと思われる。岡本の質疑は日米安保条約のほかに国連軍への参加という観点からも行なわれている。この頃朝鮮戦争は1951年7月に休戦会談が始まったものの、38度線付近を挟んだ塹壕戦に移行し、中国・北朝鮮軍と米軍を中核とする国連軍との間で膠着状態に陥りつつあった。

阪口規純によれば、当時の日本では、警察力しかない日本に米国から共同防衛の要請があるとは切実に思われなかったとしている(阪口 上P.76)。しかし警察予備隊発足直後、吉田と会食したコワルスキー大佐は、警察予備隊の朝鮮派遣の可能性を吉田に尋ねてみることを試みている。そして警察予備隊はあくまで国内の治安活動用であり朝鮮派遣は不可能との吉田の考えを聞き出している。彼はこれで他の米軍将校のような「誤った期待」を持つことはなかったとしておりKowalski P.106)、発足当初から米軍にはその期待があったと思われる。その後、警察予備隊は1951年末には戦車や野砲を装備できる段階に成長しており、隊員には下士卒を中心に旧陸軍出身者も多く、こうした事情から米軍関係者から実戦に臨んでも、「相当立派な働きができたはずである」Kowalski P.205)と見なされていた。また米国では警察予備隊を装備は米国負担で30万人に増強するという計画を立てて日本側に提案したが、吉田はその一部を朝鮮に派遣しろと要求されることを慮って米国の提案をはぐらかし続けたとされるKowalski P.282)筆者の見たところ、以上を総合すれば警察予備隊の朝鮮派兵要請という切実さはあったと考えられる。

占領下ではあったが、1950年10月、海上保安庁の掃海部隊が米海軍と吉田の合意により、秘密裏に朝鮮海域の掃海作業に従事し、犠牲者1名を出していた。吉田の脳裏にこの出来事が色濃く刻まれていたことは想像に難くない。朝鮮特需に伴い経済復興に着手したばかりで、しかも再軍備に内外の抵抗があるこの段階では、海外派兵なかんずく中国人との戦争は日中戦争の悪夢を再現させるものでしかなかった(Kowalski P.283)。

時代は少し下るが、1953年11月4日、衆議院外務委員会において勝間田清一(社会)がMSA協定締結に関連して、アジアの米同盟国が米軍撤退後に米国指揮のもと統一軍になっていくのではないかと質問した。下田武三条約局長は、「アメリカの根本的な考え方は、(略)将来は日本が自分の手で自分の国を守れるようになりましたならば、日本軍というものは自国だけを守るという存在だけにさせないで、よその国まで―すべて民主主義国がそうでありますように、集団安全保障の一環として、一役をになつてもらいたい。それはそういう遠大と申しますか、先の先を考えてのアメリカの政策であることは、私は明らかであろうと思います。」と答弁し、いずれにしても憲法改正を経なければ不可能と結んでいる。

 

こうした内外情勢を背景に、この時代の政府解釈を総括すれば、「海外派兵はありえない、絶対にしない」という答弁を繰り返したと言える。海外派兵禁止が当時の日本人の至上命題であった。この時代からしばらくの間、集団的自衛権の問題は、そういう権利が憲法上あるか否か、あるいは行使できるかどうかではなく、「海外派兵は許されない」という議論を中心に展開していくことになる。

 

(エ)相互防衛援助協定(MSA協定)と自衛隊創設

時代背景

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。講和後の吉田の安全保障政策は外を日米安全保障条約で守り、内は治安維持に主眼を置いて軽武装にとどめるというものであった。軽武装とは言っても次第に軍隊としての機能を整えつつある警察予備隊を、あくまで再軍備ではないと主張する吉田の政策に対し、憲法改正を通じた正面からの再軍備を提起する勢力が現れた。

芦田均以下の改進党(1952/2結党)は、「吉田の「なし崩し的」な再軍備の動きを極めて欺瞞的なものと感じ」(田中1997 P.108)、憲法改正による自衛軍の創設と安保条約の相互援助条約への切り替えを政策として打ち出した。また1951年8月の追放解除で政界に復帰していた鳩山一郎も、吉田自由党の内部から吉田の安全保障政策に反対の声を上げていた。

こうした内外からの突き上げを受けた吉田は自由党内の反吉田分子に打撃を与える目的で1952年8月に“抜き打ち解散”で総選挙を行ったが、その後も自由党内は政争に明け暮れ、1953年2月のいわゆる“バカヤロー解散”で再び総選挙を行うこととなった(石川真澄『戦後政治史』P.63)。

すでに再軍備については国民一般に支持があったものの、青年層と女性層では憲法改正を通じた本格的再軍備に反対が根強いことが読売新聞の世論調査で明らかになっていた(田中1997 P.113)。2回目の総選挙の結果、国会勢力は吉田自由党と再軍備反対を掲げた左右社会党、及び鳩山自由党・芦田改進党が鼎立することとなって、本格的再軍備論者は国会の過半数を得ることはできなかった。

この後、少数与党で組閣した吉田は、政策協調の必要性から改進党総裁・重光葵と1953年9月に会談し、自衛隊を創設することに合意した。すでに1952年10月、国内治安の安定から警察予備隊は保安隊に改編され、軍隊的色彩を強めていた。今回合意した自衛隊はさらに直接侵略にも対抗できる組織を目指すなど、警察力から完全に分離した存在に進化することになった。自衛隊は1954年7月に発足の運びとなる。

さて若干話が前後するが1951年10月、米国では対外援助を米国の国家安全保障と結びつけた相互安全保障法(Mutual Security Act)がトルーマン米大統領の署名を得て成立していた。そして日本にもこの法律に基づく軍事援助を提供しようというわけで、1953年5月にアイゼンハワー政権のダレス国務長官が米側にその用意のあることを発表し、同年6月には岡崎勝男外務大臣が日本側として受け入れ希望を表明した。宮澤喜一によれば、この米提案には同時期の「朝鮮の休戦の結果、陸軍省には相当金も兵器も余っており、できるならばこれを日本に渡したいという気分が濃いこともよく承知していた」(宮澤喜一『東京―ワシントンの密談』P.175)という側面もあったようだ。ともあれ日本側財界などでは「MSA援助が「朝鮮特需」の代替物になりうるのではないかとの期待も生まれていた」(田中1997 P.120)こともあり、1953年10月の池田・ロバートソン会談を経て、1954年3月8日、日本はMSA協定に調印した。

 

海外派兵禁止の確立

MSA協定の国会審議では、池田・ロバートソン会談の際、米国からMSA援助と引き換えに保安隊の大増強を求められたことや、自衛隊法と防衛庁設置法からなる防衛二法案の提出もあり、再軍備との関係で激論を呼ぶことになる。そして同時に米国から海外派兵を求められることになるのではないかとの問題も取り上げられた。MSA第511条では、援助を受ける国は自由世界の防衛に全面的に寄与することが求められ、これを受けてMSA協定第8条でも「自国の政治及び経済の安定と矛盾しない範囲でその人力,資源,施設及び一般的経済条件の許す限り自国の防衛力及び自由世界の防衛力の発展及び維持に寄与」するものとされていたからである。なお日米交渉において日本は米側から対日MSA援助に関する日米往復文書で「軍事的義務の履行の要件は,日本の場合においては,同国が日米安全保障条約の下にすでに引き受けている義務の履行をもって足りるものである。相互安全保障計画にも,または合衆国と日本との間に存在するいかなる条約上の義務にも,自衛のため以外に,日本の治安維持の部隊を使用することを要求しているものはない。」(田中明彦研究室『データベース「世界と日本」』)との一札を得ていた。

1954年3月17日、衆議院外務・内閣・農林・通産合同委員会で飛鳥田一雄(社会)が、日本が集団的自衛権の行使として海外派兵をなす場合が考えられるのではないか、と質した。岡崎勝男外務大臣の答弁は「集団安全保障の権利がここにあるということがはつきりしているのであつて、いかなる集団安全保障とりきめをつくるかということは、これは日本政府独自の立場できめる問題であつて、そういうものに入ることが憲法上違反とすればもちろん入れないし、また憲法上可能であつても、国の政策としてそういうものはとれないといえばこれまた入れないのでありましてまだ集団安全保障組織の具体的なものは、この東亜地域においては発案されてもおらず、また提案もされておりません。」と権利の存在以外は明快さに欠ける。

しかし1954年3月25日の衆議院外務委員会において、穗積七郎(社会)から集団的自衛権というのは軍事的協定を結ぶことができる潜在的権利と解釈してよいかと質されると、岡崎は、「集団的自衛権と申しますものは、(略)何かお互いに兵隊を出してどうとかするというようなことが必ず前提であるとは私は考えておりません。がいずれにいたしましても、国際とりきめの中で、つまり平和条約やその他のものの中に集団的自衛の権利があるというのは、国際的に見たときは日本は広い権利を持つている。その中で日本国内でその権利をいかに使用するかは、憲法その他の問題あるいは日本の政治的な動き方によつても変化があるのであつて、国際的に確保している権利をそのまま使わなければならぬという義務はない。」と国際法上の権利をどう使うかは日本次第だとの答弁をした。岡崎が集団的自衛権行使の形態として「兵隊を出してどうとかする」海外派兵に限定して考えてはいないこと、及び集団的自衛権行使は権利であって義務ではないと理解していることが読み取れる。

この時期MSA協定と並んで国会で審議されていたものが1954年3月11日に提出された自衛隊法と防衛庁設置法のいわゆる防衛二法案であった。この審議に関連して1954年4月6日、内閣法制局は自衛権発動の三要件(現実の侵略があり、排除のために他に手段がなく、必要最小限度の方法をとること)を提示した。こちらの質疑を見ていくと内閣法制局の集団的自衛権に関する見解が完成していく経過と、海外派兵に対する理解を見ることが出来るであろう。

1954年4月16日、衆議院内閣・外務合同委員会で並木芳雄(改進)に、実力行動を伴わない「戦力でないもの」が海外に出ることについて質された佐藤達夫内閣法制局長官は、「理論上の問題といたしましては、憲法においてはいわゆる国際紛争解決の手段としての戦争ということは禁止しておる、それに当らぬものは一応許されておる、それから戦力の保持は禁止されておる、それから交戦権は許されない、こういう条件を規定しておるわけであります。従いまして、今のお話に交戦権というようなお話が出て参りましたが、交戦権を持たずに一体どの程度にお役に立ち得るかどうかという実際問題がまたあるわけであります。それもかまいませんというような考え方、きわめて平和的なお仕事をやらしていただくという場面が理論上ありますれば、これは理論としては当然可能である、これが三段論法の結論であります。」と答えた。

また海外派兵禁止の根拠については、「実力行動はどういう限界でできるかといいますと、かねがね申し上げましたように、自衛権の範囲内においてこれは限られる。自衛権というものはどういうものかということの三つの要件等は申し上げておる通りであります。そういう角度から自衛権を厳格に考えますと、実力行動のできるのは自衛権の限界内しかできないわけでありますから、それがよその国にまで出て行つてその働きをするということは、普通の場合には厳格な自衛権の意味においては限界外のことになりはしないか。そこでかりに交戦権でも持つておるとすれば、またそれはそれとして何かのお手伝いができるかもしれませんが、それは憲法第九条の二項において交戦権はないわけであります。だから活動の範囲は前に申しました範囲内に限局されて来るのではないだろうか、そこで結論は、よそにお手伝いに出てもお役に立ちますまい。」とした。

さらに海外派兵と憲法との関連を質されて、「昔は満州が日本の生命線であるということで、満州を日本の手に納めることは日本の自衛を全うするゆえんであるということで、満州に兵隊を出したことも自衛権と言つておつたわけであります。しかしこれは私の言う厳格な意味の自衛権ではないと思います。自衛権というものの三原則から照らしてみれば、これはそこまで出て行つてどうこうということは自衛権の限界からは明白にはずれておることと思います。それと同じようなことをよその国と一緒にやることは当然できない、こういう結論になります。」と答弁した。満州事変は日本における「自衛戦争」のイメージを大きく損なった例としてしばしば引用されるものである(安田寛・西岡朗編『自衛権再考』P.20)。

佐藤の答弁からは、戦力ではない「きわめて平和的なお仕事」については憲法上可能ということ、海外派兵は自衛権発動三要件から外れるので出来ないこと、自衛権は限定的に解釈すべきもの、という考え方が読み取れる。当時の海外派兵の概念は朝鮮戦争と不可分であったことが推察される。

防衛二法が国会を通過する1954年6月2日の参議院本会議で矢嶋三義(社会)は討論で、自衛隊の「傭兵的性格は極めて明確であるのでございます。更に安保条約、行政協定、MSA協定等から集団自衛の義務が課せられまして、いずれは自衛隊は海外へ出動することがあるであろう。これは国民の最も心配しているところで」ある、と主張した。

また戸叶武(社会)は、「私たちが、国民と共にこの法案に一番心配しておる点は、海外派兵と徴兵制度の復活であります。MSA協定調印の際には、岡崎、アリソンの日米両国代表が、この中に海外派兵が含まれていないと挨拶しております。ところがMSAはそうであつても、(略)政府側の答弁によれば、海外派兵も可能であり、公務員の海外出張と同様に取扱われ、インドシナ等において戦争に協力しても違憲でないとの拡大解釈がなされております。これがために国民の不安が増大し、今年は自衛隊の志願者が激減しております。」と反対討論を展開している。

戸叶の言う「海外派兵」は自衛官の留学などを指しているが(5/27参議院内閣委員会)、それはともかく自衛隊の発足とMSA協定締結により、海外派兵の危険性が高まっていると感じる者が増えたことは明瞭である。

防衛二法通過と同じ参議院本会議で「国民の動揺をふせぐため」(戸叶武の討論)、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が行われた。案文は「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する。」であった。

発議者・鶴見祐輔(改進)の提案理由説明によれば本決議は、「自衛隊出発の初めに当り、その内容と使途を慎重に検討して、我々が過去において犯したるごとき過ちを繰返さないようにする」ためであり、「何ものが自衛戦争であり、何ものが侵略戦争であつたかということは、結局水掛論であつて、歴史上判明いたしません。故に我が国のごとき憲法を有する国におきましては、これを厳格に具体的に一定しておく必要が痛切であると思うのであります。自衛とは、我が国が不当に侵略された場合に行う正当防衛行為であつて、それは我が国土を守るという具体的な場合に限るべきものであります。幸い我が国は島国でありますから、国土の意味は、誠に明瞭であります。故に我が国の場合には、自衛とは海外に出動しないということでなければなりません。」と武力行使を伴う自衛をあくまで日本本土防衛に限定することにより、内閣法制局の自衛権発動三要件と同じ見解に立っていることになる。阪口規純は、この決議は政治的に必要との判断があったと分析している(阪口 上P.79)。

さてこれら懸案が一段落した1954年6月3日、衆議院外務委員会で穗積七郎(社会)から集団的自衛権の定義と自衛権行使の限界を質された下田武三条約局長は、「平和条約でも、日本国の集団的、個別的の固有の自衛権というものは認められておるわけでございますが、しかし日本憲法からの観点から申しますと、憲法が否認してないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国が攻撃された場合の自衛権であると解すべきであると思うのであります。集団的自衛権、これは換言すれば、共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約ということでありまして、つまり自分の国が攻撃されもしないのに、他の締約国が攻撃された場合に、あたかも自分の国が攻撃されたと同様にみなして、自衛の名において行動するということは、一般の国際法からはただちに出て来る権利ではございません。それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があつて、初めて条約上の権利として生れて来る権利でございます。ところがそういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかどうかということは、先ほどお答え申し上げましたようにできないのでありますから、結局憲法で認められた範囲というものは、日本自身に対する直接の攻撃あるいは急迫した攻撃の危険がない以上は、自衛権の名において発動し得ない、そういうように存じております。」と答弁した。

この答弁で注目すべきことは、政府として初めて集団的自衛権の行使は憲法上許されないと答弁していることである。さらにこの節で取り上げた佐藤内閣法制局長官の答弁との重要な違いは、佐藤は海外派兵と集団的自衛権を一体視せず、憲法で禁じられているのは海外派兵と捉えているのに対し、下田は集団的自衛権行使を海外派兵と一体視して一般的に禁止と答弁していることである。

これまでの政府の解釈では、集団的自衛権は基地提供なども含み、必ずしも海外派兵のみに限定して考えるべきものではなかったはずである。また、社会党の討論でも懸念されていたのは海外派兵であった。集団的自衛権と海外派兵の関係について、政府部内の三当事者、大臣・外務省・内閣法制局間で微妙な相違が現れたことになる。

下田は答弁の中で自分の答弁を政府の確立した解釈ではない、とことわっており、「外務省条約局の研究の段階で得た結論」としている。あえて一般的に禁止と答弁した意図を推測するならば、1954年3月24日の衆議院外務委員会で穂積七郎(社会)に、現行の憲法下では消極的な軍事的義務しか負うことができず完全な同盟関係は締結できない、と答弁しており、完全な同盟関係である集団的自衛権の行使はできないと言いたかったのかもしれない。

 

以上見てきたように、この時代の政府解釈を総括すれば、講和・安保条約締結の頃からの政府の考え方、すなわち漠然と海外派兵は憲法で禁止されているとか、派兵したくても軍備がないという議論から、自衛権発動三要件と関連づけた海外派兵禁止という、より精緻な理論へ進歩していると結論できる。これは自衛隊発足という警察予備隊・保安隊から格段に「再軍備」が進んだことが背景あることは言うまでもない。そして、自衛隊発足とMSA協定締結と引き換えに「海外派兵禁止決議」を受け入れ、海外派兵は決して許されないことを制度的に担保したとも言える。しかし、岡崎外務大臣や佐藤内閣法制局長官の答弁に見られる武力行使を伴わない海外派兵とは違う海外派遣の可否と、外務省が否定した海外派兵と一体視した集団的自衛権そのものの行使については決着がつかず、次の1960年の安全保障条約改定でも議論が続くことになる。

 

(オ)安全保障条約改定

時代背景

1955年8月、吉田内閣のあとを受けた鳩山一郎内閣の重光葵外務大臣は渡米してダレス国務長官と会談、日米安全保障条約の改定を申し入れた。

安保条約が問題点を多々内包していることは周知の事実で、また米軍駐留が「暫定措置」と条約に明記されていることもあり、日本側では早期の条約改定が独立国として是非必要であるとする声が高まっていた。その急先鋒である岸信介の目には、米国の日本防衛義務はなく、基地使用等について日本側に発言権もなく、有効期限もなく、しかも内乱条項まで含む安保条約の、「不平等な法的枠組みそれ自体の存在が問題」(田中1997 P.167)なのであった。岸にとっては、かつて彼が仕えた満州国とだぶって見える不平等を放置しておくことは到底甘受できる話ではなかった。また、岸から見れば、吉田は対米協調、鳩山は独立にそれぞれ偏しており、独立回復と対米協調を両立させることに自分の政治的将来を賭けたともいえるであろう。(北岡伸一「岸信介」渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』P.157)

しかしダレスは重光に対し、安保条約を改定して相互性を高めようというならば、日本には米国領土が攻撃された際の海外派兵の義務を負ってもらう必要があると主張した。そして現行の憲法解釈のもとでも海外派兵は可能だとの重光の反論を一蹴した。

この会談に同行した岸は、重光・ダレス会談の失敗から重要な教訓を得ることになった。海外派兵はすでに見てきたとおり、憲法解釈上も国民感情の上からも、また前年に決議されたばかりの海外派兵禁止決議からも、日本国内で了解を得られる可能性はない。しかし改定は不可避であり、従って改定を申し入れる場合には、海外派兵義務を負う必要がある双務化ではなく、問題点の解消にとどめることが上策であると判断した。

当時の東郷文彦安全保障課長によれば、岸にとっての「対等条約」とは米国の日本防衛義務を条約上明らかにすることであり、自衛隊の海外派兵につながる相互防衛条約を意味していたのではなかった(東郷文彦『日米外交三十年』P.56)。また集団的自衛権行使禁止の解釈が日米交渉をより複雑にしたともされる。つまりバンデンバーグ決議の「武力攻撃に抵抗するための集団的能力」は、日本の防衛力を米国のために使用することになり、これを「共同して維持し発展させる」ことは憲法上許されない。こういう常識的に極めて解り難いことは、日本の事情に精通しているマッカーサー大使ですら理解するのに苦労したし、まして本国に説明するのは骨折りだったであろう、と後日東郷は回想している。(東郷P.75)なお、当時の外務省の言う「集団的自衛権」とは、本稿19頁の高橋通敏条約局長答弁にもあるように海外派兵とほぼ同義であったと思われる。

さて岸が病気退陣した石橋湛山のあとを受けて組閣したのは1957年2月25日であるが、この頃、日米関係はその結びつきが弱まり、「調整期」に入ったと見られていた。1956年10月から12月にかけて鳩山内閣のもとで日ソ国交回復と日本の国連加盟とが実現し、日本が米国の庇護から一人立しつつあるように見えた。1957年1月30日、いわゆるジラード事件が発生し、日米安全保障条約の不平等性が日本国民に憤激を与え、また日本各地で砂川・内灘に代表される反基地運動が高揚していた。

岸はジラード事件後に着任したマッカーサー大使と繁茂に会って信頼関係を築いた。そして1957年4月13日、安保条約の三大問題点(米軍配備・使用の事前協議、安保条約と国連との関係、条約の期限)を指摘したメモをマッカーサーに渡し、これらを条約改正の形式で実現したいとの方針を明確にした(北岡伸一「岸信介」渡邉P.158)。こうした取り組みを経て、1957年6月に岸は安保改定をめざして訪米することになった。

岸は重光の轍を踏むまいと、不平等や従属といった見方をとらず、あくまで両国民の協力体制構築の必要性を前面に押し出した。この結果、1957年6月21日に発表された岸・アイゼンハワー共同声明では「大統領及び総理大臣は,千九百五十一年の安全保障条約が本質的に暫定的なものとして作成されたものであり,そのままの形で永久に存続することを意図したものではないという了解を確認した」(田中明彦研究室データベース)と安保条約の改定について原則合意に達した。

2年前の重光・ダレス会談の共同声明では「日本が,できるだけすみやかにその国土の防衛のための第一次的責任を執ることができ,かくて西太平洋における国際の平和と安全の維持に寄与することができるような諸条件を確立するため,実行可能なときはいつでも協力的な基礎にたつて努力すべきことに意見が一致した。また,このような諸条件が実現された場合には,現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置き代えることを適当とすべきことについても意見が一致した」(田中明彦研究室データベース)と改定の条件が列記されていたことから考えれば米国の対日姿勢は大きく変化したといえる。

重光提案を海外派兵を理由に峻拒した米国が、岸にかくも好意的な姿勢を示したのは、岸の政治家としての力量に対する米側の高い評価のほかに、さきに述べた日米関係の弱化があった。さらに米国側が、日本国内における反基地運動の激化を通して東西間で中立主義をめざす勢力が台頭し、日本が西側陣営から離脱することを危惧したからに外ならない。

ダレスは1958年1月、米国が安保条約の権利に居座ろうとすれば中立主義の日本政府と大衆感情に吹き飛ばされると危惧した(坂元P.192)。また、マッカーサー大使も同年2月に、日本が日米関係への不満からスウェーデンのように自立するおそれを指摘し、これを回避するため、日米安保条約を米国が他の同盟国と締結した安全保障条約に準じた対等な内容に全面改定する案を起草して本国に送付していた(U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States: 1958-60, Vol.]XV (G.P.O., 1994) P.5-10)。米国側にとって在日米軍基地と日本の近代的な施設は米軍のアジアにおける活動に必要不可欠である。日本の中立化によってこれらを失うことを回避するためにも安保条約改定によって日本を他の同盟国と同等に扱う必要性が理解されたのである(坂元P.196)。

この米国側の認識変化に伴って条約改定の条件(海外派兵義務)が引き下げられ、日本の基地提供をもって条約上の対米義務の履行と見なすこととされた。1958年9月11日、藤山愛一郎外務大臣とダレス国務長官との会談で安保条約改定交渉開始が正式に合意され、日米交渉の過程で、米国のバンデンバーグ決議が要求する「自助及び相互援助による、武力攻撃に抵抗するための個別的及び集団的能力の維持・発展」は、新安保条約第3条で満たされることになった。さらに条約の適用地域も「日本国の施政下にある領域」とされたことから、日本の海外派兵の可能性は文言上排除された。

米国側ではこれが、日本に有利な片務条約であるとの批判もあったが(日本国際問題研究所『アメリカ上院における新安保条約審議 議事録全訳』P.3)、1960年6月に上院の承認を得られた。しかし日本では同年6月19日の条約自然承認まで国会を中心に戦後屈指の激しい議論が戦わされることになる。

 

「制限された集団的自衛権保有」

1960年の安保条約改定に関連して、しばしば取り上げられる議論としては、在日米軍基地に対する攻撃を自衛隊が阻止することは米軍に対する集団的自衛権の行使ではなく、日本の個別的自衛権の行使であるというものである。「日本の国内にある米軍の基地なら基地に攻撃を加えるということは、まさに私は日本の領土領海に対する侵略なくしてはあり得ないことだと思います。その場合にはまさに日本の国土が侵されている」(修三内閣法制局長官1959/3/2衆議院予算委員会)、だから個別的自衛権の発動で阻止するというのが論旨である。また、日米ではNATOと違って統一司令部を設けないし、海外派兵もしないことから集団的自衛権の行使ではないという説明もある(赤城宗徳防衛庁長官1959/11/20衆議院内閣委員会)。

この問題については、新安保条約で「“共通の危険に対処して行動することを宣言する”と規定している以上、日本国内では米軍を守るため集団的自衛権を行使することになる。しかしそれを敢て集団的自衛権行使と言わなくても、実際にやることは個別的自衛権行使と同じなので、(略)個別的自衛権行使で押し通したが、米国は、米軍基地を防衛するための日本の行動を日本の集団的自衛権行使と理解している。」(中村明『戦後政治にゆれた憲法九条』P.187)と日米間で理解に乖離があるとされる。

なぜ、「敢て集団的自衛権行使」と言わないようにしたのか。この問題に関連してこの時期の答弁を見ると、集団的自衛権を海外派兵に代表させ、あえて集団的自衛権を行使せずに個別的自衛権で対応する、とする論旨が強まっている。1959年7月10日、衆議院外務委員会における大西正道(社会)の在日米軍基地防衛と集団的自衛権との関係に関する質問に対し、高橋通敏条約局長は、集団的自衛権「を解釈します場合は、海外派兵と申しますか、一国が攻撃された場合に、その国に対して、自国の自衛権ではないが、その国の自衛権が発動する状態のときに、そこに援助におもむいてその国を援助する、そういうふうな権利だというふうに解されていると思います。そういうことになりますと、この場合は、日本にあるアメリカの基地が攻撃されましても、同じく日本の区域内の問題でございまするから、そのような集団的自衛権という権利を援用しなくても、個別的自衛権で法律的には解釈できる問題であると思います。」と答弁した。

また、1959年11月20日、衆議院内閣委員会において、赤城宗徳防衛庁長官は木原津與志(社会)に対して、「バンデンバーグ決議等における集団的自衛権といいますけれども、お互いに対等に、たとえば日本の国が攻撃を受けた場合にはアメリカが出てきて守る、アメリカの本土を攻撃された場合に日本が行ってこれを援助する、こういうような完全なる形が集団的自衛権、国際法上の正当防衛権の集団的発動、こういうふうに見ているわけであります。ところが日本におきましては、日本の憲法上の制約等もありますので、そういうことはできないことになっております。でありますので日本といたしましては、そういう集団的自衛権というもので動くのではなくして、日本のアメリカ軍が攻撃された場合には、これは日本の個別的自衛権の発動として日本の武力を行使する、こういうことに相なろうかと思います。」といった議論を展開している。

「それは集団的自衛権の行使ではない」という議論は安保条約締結そのものにも適用されて来る。すでに述べたようにダレスは安保条約締結後に、これをもって日本は集団的自衛権を行使していると論述した。日本側でも日米協力が集団的自衛権の行使であるとの認識もあったにもかかわらず、修三内閣法制局長官は黒田寿男(社会)に、「アメリカの援助を得ることはあるわけでありますが、これは実は集団的自衛権の問題では私はないと思います。集団的自衛権の問題を云々される場面ではない。日本を守るためにアメリカの協力を得ること、まさに個別的自衛権の問題であると私ども思っております。」とし、さらに「日本の自国を防衛することを数国と共同してやるということは、日本にとっては集団的自衛権の問題ではございません。また日本の憲法違反という問題でもございません。(略)どこかの国の援助を受けて日本を守るということは、これはまさに固有の自衛権、今の自衛隊の認められておる権利、あるいは今の憲法の認めている権利の範囲だと私は思っております。(1959/3/2衆議院予算委員会)と付け加えている。

政府がここまで集団的自衛権行使という答弁を回避しようとする背景について、阪口規純は、米軍基地防衛を集団的自衛権で説明すると、集団的自衛権の中核である海外派兵が禁止されている事実を対外的に説明しにくくなるとの考察を行なっている(阪口 上P.86)。

筆者の推測するところではこれに加えて、海外派兵に対する国内の疑念が根強く、従来からの海外派兵は出来ない、という答弁では足りず、たとえ日本国内でも米軍のために集団的自衛権を根拠に武力行使はできないという形で制約を強めざるを得なかったのではないかと考える。つまり集団的自衛権の中核が海外派兵であり、海外派兵が他国のために武力行使する「他衛」という側面から一般に捉えられている以上、たとえ日本国内といえども「他衛」に武力行使を認めれば、いずれ海外派兵に繋がるに違いない、という国内からの批判を回避したかったのではないか。

しかし現実問題として、在日米軍基地が攻撃されても防衛しないとは答弁出来ない。そこで米軍基地攻撃が即日本領域の侵犯に繋がることを根拠に、集団的自衛権ではなく個別的自衛権で説明することにしたのではないか。これで日米ともに実質的な問題は生じなくなるが、海外派兵に続いて行使できる集団的自衛権の範囲がまた狭まったことになる。

しかし集団的自衛権の問題をもっぱら武力行使の有無に集中すれば、武力行使を伴わないものは憲法に違反しないという議論を立てることが出来るかもしれない。この時代の答弁でも補給などの武力行使を伴わない対米協力を否定しないものが多々見られることから、問題の核心を武力行使の有無に限定する効果はあったと思われる。この効果は後の新冷戦時代に「武力行使を伴わないものは集団的自衛権行使に当らない」という議論になって発揮されることになる。

話は若干前後するが、日米で安保条約改定交渉の準備が行われていた1958年7月、米軍のレバノン出兵に際し、日本政府は米軍撤退とレバノン国連監視団拡充のために奔走し、国連内で高く評価された。ところがこのレバノン国連監視団への自衛隊幹部(将校)10名の派遣を、ハマーショルド国連事務総長から求められた日本政府は、憲法上の問題はないが、法律に違反する恐れがあると断ってしまった。当時の新聞報道によれば、国連内には「割り切れぬ空気」が漂ったという (五百旗頭真『戦後日本外交史』P.89) 。恐らく「海外派兵」との国内の批判を甘受してまで、自衛隊法等を改正して派遣するインセンティブが当時の日本政府にはなかったのであろう。また、安保改定後の1961年2月、池田政権下で、松平康東国連大使が、自衛隊を国連軍の一員としてコンゴへ派遣すべきだ、と新聞紙上で述べた途端に、社会党をはじめとする野党は反発し、政府で擁護する用意もなく、松平は発言を撤回して辞任は免れた(田中1997 P.210)。これらの出来事を通して、当時の日本では、たとえ国連平和維持活動であっても、国内では自衛隊の海外派兵と受け取られ、強力な反対は免れない雰囲気があったことを見ることができるであろう。

実際、集団的自衛権行使を猜疑心のこもった目で見る傾向は、1959年2月10日の石橋政嗣(社会)の、集団的自衛権という思想は「かりに思想であっても、思想そのものがやはり憲法違反だと思う。一体よその国の侵害、侵略まで日本に対する侵略と思うということが、今の憲法で許されておりますか。私はそれに行動を伴わなくても、そういう思想を持つこと自体が違憲だと思います」との主張にも現れている。これら野党の追及の激しさが政府の解釈を抑制的にしたこともあるだろう。

1960年5月16日、衆議院内閣委員会で赤城宗徳防衛庁長官は、集団的自衛権を「行使するということであれば、海外派兵とかあるいは相手国、そのほかの国まで出ていくということでありまするから、これは現在の安保条約におきまして、集団的自衛権で全面的に行使ができるということはないと思います。(略)集団的自衛権という観念をもって解釈するというようなことはまぎらわしいことで、政府といたしましては個別的自衛権の発動だ、こういうふうに解釈して御説明を申し上げておるわけでありますが、私は制限されておることがはっきりしていることでありまするならば、これは集団的自衛権で解釈もできると思いますが、しかし政府といたしましては、御承知のように集団的自衛権を援用してこれを解する必要はない、こういうのが政府の見解であります。」としている。

赤城の言わんとするところは、在日米軍基地防衛を集団的自衛権行使と言うこともできるが、そう言うと「まぎらわしい」ので個別的自衛権行使とさせてもらっている、ということである。なにが「まぎらわしい」のかと言えば、集団的自衛権を行使する(できる)と言えば、いずれ海外派兵もする(できる)という議論になり、批判を呼ぶことになるだろうが、それは政府の本心と違うということではないだろうか。「海外派兵はいたしません。できない。」という岸の発言(1960/4/20衆議院安保条約特別委員会)は、前述の東郷の回想に照らせば、おそらく偽らざる心境の吐露であったろうと思われる。

以上の経緯から、集団的自衛権行使は一般的に憲法違反、という解釈が固まったのは、この安保改定の議論の中であったと考えることもできるであろうが(大森政輔内閣法制局長官1996/4/17参議院予算委員会)、筆者が思うにまだそこまでいっていない。

なぜなら前節で述べたように安保条約改定以前の集団的自衛権に関する解釈は、海外派兵は憲法上許されないとの基本合意のもとに内閣法制局と大臣が海外派兵以外の派遣について可能性を否定しない。その一方、外務省が集団的自衛権の行使を一般的に違憲と答弁している。武力行使を中心に、行使できる集団的自衛権の範囲が狭まっていく議論の流れにも関わらず、実はこの基本線は変わっていない。つまり大臣と内閣法制局は海外派兵以外の集団的自衛権行使をこの段階でも否定していないのである。

林内閣法制局長官は1959年3月2日、衆議院予算委員会で黒田寿男(社会)に対し、「海外派兵ができないということが従来いわれております。(略)そういう意味の集団的自衛というものは日本の憲法から制約される。しかし集団的自衛という言葉をもう少し広く解釈すれば、軍事行動以外の面もいろいろございましょう。そういう面について、日本の憲法上禁止されておるということにはならないと思います。」と答弁し、1959年3月16日の参議院予算委員会、八木幸吉(第17控室)には「集団的自衛という問題は、これはいろいろあると思います。内容は必ずしも一に限らないと思うわけでございます。ただ、先ほど仰せられたように、外国の領土に、外国を援助するために武力行使を行うということの点だけにしぼって集団的自衛権ということが憲法上認められるかどうかということをおっしゃれば、それは今の日本の憲法に認められている自衛権の範囲には入らない、こういうふうに言うべきであろうと思います。」。

さらに具体的に1959年3月19日の参議院予算委員会で栗山良夫(社会)に、「駐留米軍が出て行くという場合には、それに対して補給をすることが憲法違反かどうかという御質問かと思いますが、私はこの点は先ほど総理から仰せられたことで、単に補給するという言葉だけで私は納得できない。内容には非軍事的なこともございますし、軍事的なこともあると思います。いわゆる米軍等の軍事行動と一体をなすような私は補給は、日本の自衛隊の任務とは言えないと思います。しかし先ほど言いましたように、病院にたとえば負傷者を収容するとか、そういうようなこと、あるいは日本が経済的行為として朝鮮事変のときにとったようないろんな便宜を提供することは、これは私は日本の憲法に違反することはないと思います」と答えた。この答弁中には1990年代の「武力行使一体化論」の萌芽と思しきものを見ることも出来るが、ともあれ内閣法制局では集団的自衛権を海外派兵や武力行使と同一視していないことが見て取れる。

岸総理大臣も1960年2月10日、参議院本会議で佐多忠隆(社会)に対し、「実は集団的自衛権という観念につきましては、学者の間にいろいろと議論がありまして、広狭の差があると思います。しかし、問題の要点、中心的な問題は、自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵害されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的の問題になると思います。そういうものは、日本憲法においてそういうことができないことはこれは当然でありまして、そういう意味における集団安全保障というものはないのでございます。」と答弁した。

また1960年3月31日、参議院予算委員会における辻政信(無所属)に対する答弁では「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。(略)しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。」としている。

さらに1960年4月11日、衆議院安保条約特別委員会においては穂積七郎(社会)に対し「日本国も、独立国として、国連憲章五十一条による個別的及び集団的自衛権というものは、他の国と同様に私は持っておるものだと思います。ただ、日本は独自の憲法を持っておりまして、憲法の規定として海外に派兵することはできない、日本の自衛という、この九条というものが非常に限定された趣旨を持っておりますので、従って、いわゆる他の国が、一般の国が持っておりますところの権利は持っておるけれども、それを他の国と同様に行使することはできないんだ、こういうふうに考えるべきものだと思います。」と述べている。

こうした集団的自衛権を武力行使に限らず、幅広く解釈する立場を端的に表しているのは、「集団的自衛権というものは、日本の憲法の第九条において非常に制限されておる、こういうような形によって日本は集団的自衛権を持っておる、こういうふうに考えておるわけであります。(略)平和条約あるいは安保条約等によりまして個別的、集団的自衛権を持つということでありましても、その点は憲法第九条によって制限された集団的自衛権である、こういうふうに憲法との関連において見るのが至当であろう、こういうふうに私は考えております。」という赤城防衛庁長官の答弁(1960/5/16衆議院内閣委員会)であろう。赤城は続けて「現在の安保条約におきまして、集団的自衛権で全面的に行使ができるということはないと思います。しかしこれを制限的といいますか、今の日本の国内における場合、今度の安保条約の問題からいいまするならば、国内においてこれは集団的自衛権を、憲法の範囲内において制限された範囲内の行使というものは、その面からできないということはないと思います。」と述べている。

要するに、集団的自衛権を根拠として、海外派兵はもちろん国内といえども米軍のために武力行使は出来ない。しかし憲法の制約の範囲内で行使できる集団的自衛権というものはあるはずだ、という考えがあるように伺われる。こうした議論は内閣法制局長官の以下の答弁によく現れている。「日本の憲法の解釈といたしまして、集団的自衛権というものは、一概にあるとかないとかいう問題ではないと私は思います。いわゆる事柄の内容によって、先ほど申しましたように、海外に出ていってよその国を守るという意味の自衛権まではない。しかし、日本の国を守り、あるいは日本と密接な関係のある極東の平和に寄与する意味において、基地を外国軍隊に貸すとか、あるいは経済的援助を与えるとか、こういうことは、日本の憲法上許されておる。それを集団的自衛権という言葉で呼ぶ呼ばないは、第二次的な問題でございまして、内容から申しまして、許される範囲と許されない範囲は、ただいままでお答えした通りでございます。」

つまり集団的自衛権かどうかではなく、憲法の精神に照らして出来ることと出来ないことがある、という考え方に集約されるであろう。これは1960年4月20日の衆議院安保条約特別委員会の岡田春夫(社会)への答弁であるが、さらに続けて「基地の提供あるいは経済援助というものは、日本の憲法上禁止されておるところではない。かりにこれを人が集団的自衛権と呼ぼうとも、そういうものは禁止されておらない。集団的自衛権という言葉によって憲法違反だとか、憲法違反でないとかいう問題ではない。内容によって私どもは先ほどから説明しておるのであります。」とも述べている。

 

この時代の政府の解釈を総括すれば、一方で集団的自衛権を広く解釈して基地提供など武力行使を伴わないものを包含し、他方で禁止される集団的自衛権を海外派兵に限定しようとしていると言える。こうすれば、海外派兵を禁止しつつ基地提供や補給・医療など憲法上可能な分野もあるし、「制限された集団的自衛権保有」という解釈に整合性が保てるというわけである(阪口 上P.83)。しかし政府解釈はここでも完成しない。憲法違反の海外派兵や米軍のための武力行使と、憲法に違反しない集団的自衛権の行使という議論は次節で扱う佐藤栄作政権末期の国会論争で取り上げられ、そこで集団的自衛権の一般的禁止という現行の政府解釈の完成へと繋がっていくことになる。

 

3章 集団的自衛権を禁止する時代(1972〜)

 

(ア)現行政府解釈の完成(1972)

時代背景

新安保条約の成立とともに岸内閣は退陣し、池田勇人が新たに総理大臣に就いた(1960/7/19発足)。この池田内閣から佐藤内閣の間(1972/7/7総辞職)、国際社会ではベルリンの壁構築(1961/8/13)、キューバ危機(1962/10/22)と東西冷戦が激化し、アジアでもトンキン湾決議(1964/8/7)以降ベトナム戦争への米軍の介入が本格化していた。

日本国内でもベトナム反戦運動、反基地闘争など騒然とした状況であったが、池田内閣は所得倍増政策に代表される経済第一主義、佐藤内閣は沖縄返還を政権の課題と位置付けるなど、安全保障政策に関しては消極的な立場をとるようになった。1960年代の後半、日本国民の一般的な危機感が、かかる国際情勢にあっても深刻ではなかったという事情もあるが、「二度と再び「安保」のような大騒動を起こしてはならない、との教訓は、安全保障について正面から議論することを避けるような風潮を呼んだ。」(田中1997 P.194)。

またこうした事情から池田時代には集団的自衛権に関する新しい議論もないとされる(阪口 上P.86)。

さて1964年11月9日、佐藤内閣が成立した。翌1965年8月19日に沖縄を訪問して、「沖縄の本土復帰なくして、日本の戦後は終わらない」と沖縄返還に意欲を見せ、以後沖縄返還交渉が佐藤政権の最大の課題になった。その後1969年11月21日、佐藤・ニクソン会談で1972年の沖縄返還が合意された。

この首脳会談の共同声明で佐藤が宣言したのが、いわゆる「韓国・台湾条項」である。その内容は、佐藤「総理大臣は,朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し,韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要であると述べた。(略)総理大臣は,台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとつてきわめて重要な要素であると述べた。」

これに対する愛知揆一外務大臣の説明では「特に韓国に対する武力攻撃が万一発生すれば,これは当然わが国の安全に重大な影響を及ぼすものであります。従つて万一かかる事態が起つた際,これに対処するため,仮に米国より安保条約上の事前協議が行なわれれば,政府はこの一般的認識を判断の重要な要因として,その態度を決定することは,もとより国益上当然のことと考えられます。また,台湾地域に対する武力攻撃発生という事態は,幸いにして現在予見されませんものの,これもわが国の安全にとつて大変重要な要素であり,わが国はこのことを十分認識しておく必要がありましよう。」(田中明彦研究室データベース)と韓国・台湾情勢の重要性に関する日本の認識を披瀝したものであるとし、事前協議にこの認識を反映させるとしている。佐藤のナショナルプレスクラブにおける記者会見では「事前協議に対し前向きにかつすみやかに態度を決定する方針であります。」とその意味するところを明らかにしている。

この「韓国・台湾条項」は国内で激しい議論を呼ぶことになるが、ここではこれらの議論は取り上げない。本章で精査する議論は佐藤政権の末期、1972年5月に「韓国・台湾条項」と集団的自衛権と海外派兵とを関連付けて取り上げた、水口宏三(社会)の質疑である。筆者がこの質疑に注目する理由は、この質疑以降、政府は集団的自衛権を一般的に禁止するという解釈で内部統一したと思われるからである。すなわち、それまでの大臣、内閣法制局、外務省の間で多少幅のあった解釈、例えば憲法に違反しない集団的自衛権行使の可能性とか、憲法で禁じられているのは武力行使を伴う海外派兵であって、必ずしも集団的自衛権そのものではない、などにこれ以後言及することがなくなったからである。集団的自衛権に関する政府解釈の確立と言えるであろう。阪口規純は池田政権から田中政権期を政府解釈の確定期としている(阪口 上P.86)。

ここで統一した政府の解釈は、後に1981年の稲葉誠一議員に対する答弁書に整理されて受け継がれ、今日に至るまで日本の安全保障政策に影響を与え続けるものである。本章ではこの水口の質疑と政府の答弁を分析し、なぜこの時点で政府が集団的自衛権の一般的禁止を決意したのか、その背景を当時の諸情勢と併せて考察することにより、ひとつの仮説を立てることを試みる。

 

水口委員の集団的自衛権に関する質疑

質疑の分析に入る前に水口宏三について触れておきたい。水口は1914年、東京に生まれ、東京帝国大学農学部を経て農林省に入った。戦後、労働運動に参加して全農林職員労働組合を結成して初代委員長に選ばれ、農林省退職後は護憲運動を推進、60年安保闘争のリーダーとしても活躍し、1971年、参議院議員に初当選したばかりであった。当選の直後、今後の抱負として、安全保障問題と行政改革への取り組みをあげている。しかしこの質疑を行った通常国会後に体調を崩して入院、秋から復帰したが、翌1973年3月1日、議員面会所前で演説中に倒れてそのまま死去した(1973/3/7追悼演説より)。58歳であった。

 

1972年5月12日参議院内閣委員会の質疑

5月12日の水口の質疑と政府答弁の概略は以下のとおりである。やや煩雑ではあるが全過程を概観する。なお下記の概観では省略したが、水口は質疑中にしばしば社会党の見解として、憲法9条は自衛権をすべて、個別も集団も認めている。ただしそれを武力でもって行使することは許されないとし、武力行使できるのは個別的自衛権のみとする政府側の解釈との違いを主張している。

 

最初に水口は江崎真澄防衛庁長官に軍事行動を目的とする海外派兵は憲法違反であるという確認をし、江崎は違憲と答えた。

水口は集団的自衛権の定義を質し、高島益郎条約局長は密接な関係にある外国を武力で援助する権利であると答弁した。

水口は佐藤・ニクソン共同声明に絡めて韓国有事における自衛隊派遣の可能性を質し、高島は集団的自衛権は行使するつもりは毛頭ないと答弁した。

水口は、江崎は憲法論で高島は政策論であり曖昧であると質した。高島は集団的自衛権行使は憲法上疑義があり一貫して政策的にそういうことはありえないと答弁した。

水口は疑義があるとかあり得ないという言葉は曖昧で、長官が言うとおり憲法上できないと指摘した。その上で憲法上できないことをなぜサンフランシスコ講和条約や安保条約で確認したのかと質した。高島は権利があっても憲法で行使できないと答弁した。

江崎は国際法上保有していても、憲法で個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は行使できないと指摘した。水口は集団的自衛権が行使できない憲法上の根拠を質した。

ここで昼の休憩に入る。

真田秀夫内閣法制局第一部長が出席し、午前の答弁を引き継いで、独立国として自衛権はあり必要最小限度の武力行使も許される、また憲法が許す自衛権は自国が攻撃された場合である自衛権発動三要件に該当する場合のみであり、集団的自衛権は憲法の許すところではないと答弁した。

水口は国連憲章では個別的自衛権も集団的自衛権も固有の自衛権として差別はない、個別的自衛権なら武力行使ができて、集団的自衛権は行使できない、あるいは発動できないという答弁の根拠を質した。真田は武力行使は三要件の自国が攻撃された場合のみ許されると答弁した。

水口は共同声明で宣言されているように韓国有事が日本の脅威となるならば、集団的自衛権を行使できることになると質した。真田は韓国有事は三要件に該当しないと答弁した。

水口は、江崎は海外派兵は憲法違反だと言い、高島は集団的自衛権は行使しないだけだと言い、真田は憲法解釈上から集団的自衛権は行使できないと言い三者三様であると指摘し、なぜ条約で確認したのかと質した。江崎は国際法上の通念として日本が集団的自衛権を行使しても罰せられることはないが、憲法によって行使はできないのだと答弁した。

水口は個別的自衛権と集団的自衛権とには自国を守る自衛権という意味で本質的な差異はない、だから自衛権発動として武力行使できるなら集団的自衛権でも武力行使できることになると指摘した。さらに固有の権利を憲法解釈論で行使しないのならそれは政策論と混同していると質した。真田は国際法上保有する自衛権の行使のあり方としては自衛権行使の三要件に照らせば個別的自衛権しか該当しないと答弁した。

水口は三要件は単に自衛権発動の条件として取り上げられており、当時、個別的自衛権とか集団的自衛権の問題は議論されていないと指摘し、三要件は個別的自衛権に関する発動要件だと質した。真田は日本が武力行使できるのは三要件に該当する場合のみで結果として個別的自衛権の態様でしか武力行使できないと答弁した。

水口は集団的自衛権を放棄したり憲法で禁じられているのなら、なぜ条約で確認したのかと質した。高島は国家が主権を自ら制限するのは問題だと答弁した。

水口は集団的自衛権を持たないと条約上明記すべきだったと質した。高島は過去の答弁を引用して、集団的自衛権を条約で認めても憲法で自衛権は厳密に解釈すべきものであると答弁している、と答弁した。

水口は過去の答弁では集団的自衛権を禁止するということではなく、行使について憲法に従って厳密にするという解釈以外はないとし、かくも解釈があいまいではいつ韓国出兵があるか分からないと質した。江崎は海外派兵は絶対しないと答弁した。

水口は統一解釈を明確にしてほしいと要求してこの問題の質疑を終えた。

 

1972年5月18日参議院内閣委員会の質疑

水口は1週間後に佐藤栄作総理大臣らの出席を求めて改めて質疑を行った。これも全過程を概観することにする。

 

水口は冒頭で前回の答弁を佐藤に確認した後、まず韓国有事は集団的自衛権を発動し得る状態にあると言えるのではないかと質した。佐藤は自衛権は最小限度の処置のみ許されるものであり、集団的自衛権があっても拡大するつもりはないと答弁した。

水口は自衛権発動の可否は総理の情勢判断であり共同声明でその判断がなされた以上、集団的自衛権発動の歯止めは何かと質した。佐藤は自衛隊の活動は自衛権の範囲に止まり具体的には憲法の精神からして海外派兵をしないことだと答弁した。

水口は憲法に規定がなくとも自然権である自衛権に基づいて自衛隊を作った経緯がある以上、集団的自衛権の発動として韓国派遣があり得ると質した。佐藤は自衛隊法上の自衛隊の使命からして海外派兵はないと答弁した。

水口は日本が国連憲章による個別的自衛権及び集団的自衛権からなる自衛権を確認し、ただし武力による自衛権行使はしないと解釈すればすっきりすると指摘した。しかし政府のように自衛権の保有を確認し、自衛権に基づいて武力行使できるとする立場に立てば、外国から見れば韓国・台湾へ出兵すると受け止められると質した。佐藤は自衛権の限界は憲法の範囲内だと答弁した。

水口は自衛権とは国際的な概念であり日本が勝手に定義してよいものではない。自衛権の行使として武力行使が出来るのならば集団的自衛権の行使で海外派兵も可能という筋道になると指摘した。

ここで総理は退席した。

水口は集団的自衛権が発動される可能性を質した。福田赳夫外務大臣は憲法等で集団的自衛権の発動は制限されていると答弁した。

水口は日本有事の際に対日支援に向かう米軍が公海上で攻撃された場合に、集団的自衛権を発動して救援することはできません、と米側に断る根拠を質した。高島は総理が答弁したように憲法上集団的自衛権は行使できないと答弁した。

水口は、さきほど総理は武力行動を伴う海外派兵は憲法上禁止されていると言ったのであって、集団的自衛権の行使を憲法で禁止しているとは言っていない、集団的自衛権の行使は武力行使には限らないと質した。高島は再度憲法上、行使できないと答弁したが、福田はケースバイケースだが海外派兵はできないと答弁した。

水口は集団的自衛権行使が憲法で禁じられていることを確認した。福田は安保条約では補給とか補修は認められるが共同戦闘作戦をする海外派兵はだめだと答弁した。

 

1972年9月14日参議院決算委員会の質疑

閉会中の9月14日、水口は改めて質疑を行った。内閣は田中内閣に代わり、内閣法制局長官も高辻正巳から吉國一郎に交代している。

 

水口は集団的自衛権の定義を確認した上で、集団的自衛権の基本概念は自国の安全を脅かされることであるとし、援助の概念を持ち込むことは危険だと質した。吉國一郎内閣法制局長官はそういう正当防衛的な説明でよいと答弁した。

水口は海外派兵禁止の憲法上の根拠を質した。吉國は憲法上許されるのは国土防衛のための最小限度の行為であり、集団的自衛権は許されないと答弁した。

水口は憲法9条の原則は戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認であるはずだと指摘して、集団的自衛権禁止の憲法上の根拠を質した。吉國は自衛権発動の形態として最小限度の個別的自衛権しか認められないと答弁した。

水口は自衛権は本質的にはひとつで、個別的自衛権と集団的自衛権は行使の形態を分けたものに過ぎない、集団的自衛権を行使しないのは政策論であると質した、吉國は日本侵略が発生してはじめて自衛権が発動すると答弁した。

水口は内閣法制局が個別的自衛権と集団的自衛権を別個の概念と捉え、政策論でつないでいるのはこっけいだと指摘した上で、集団的自衛権は国際法上の正当防衛権的な自然権なのにそれを行使しないのは政策論であると質した。吉國は自国が侵略されてはじめて自衛権が発動する以上集団的自衛権は行使できないと答弁した。

水口は集団的自衛権における国家間の密接さは政治経済的なものではなく、その国が侵略されたときは自国が侵略されることとなって正当防衛的な自然権が発動されるということだと質した。吉國はいくら密接でも自衛権発動はできないと答弁した。

水口は集団的自衛権は拡大されて正当防衛的ではなくなり軍事同盟になると質した、吉國は憲法では他国防衛はできないと答弁した。

水口は集団的自衛権は正当防衛であり他国防衛ではないと指摘し、自衛権で武力が使えるのなら集団的自衛権だって武力行使できると指摘した。その上で集団的自衛権を行使しないのは政策論であると質した。吉國は最小限度論は法律論だと答弁した。

水口は条約で確認した集団的自衛権がなぜ禁止されるのかと質した。高島は憲法の自己抑制であると答弁した。

水口は禁止の根拠を文書で要求して質疑を終えた。

 

議論の要点

以上見てきたように1972年5月の質疑では、政府側で集団的自衛権禁止をはっきり主張したのは内閣法制局と途中から外務省であり、大臣ははっきり禁止されているのは海外派兵だけであるとしていた。それが同年9月には内閣法制局の答弁が政府を代表したものと結論できる。この後、「海外派兵以外はケースバイケースである」とか「政策的に行使しない」あるいは「集団的自衛権は憲法で制限されている」といった答弁はなくなり、「集団的自衛権は憲法で禁止されている」という答弁が今日まで繰り返されることになる。

水口・政府間の議論の要点をまとめると以下のようになる。

(ア)水口は個別的自衛権・集団的自衛権発動は武力行使以外すべて可能と考え、政府は武力行使可能なのは個別的自衛権のみと捉えているが、武力行使以外の集団的自衛権行使については見解が統一されていない。後に9月には集団的自衛権の一般的禁止で統一される。

(イ)水口は個別的自衛権・集団的自衛権は単一の自衛権概念の行使形態違いと捉えているのに対し、政府はおそらく個別的自衛権と集団的自衛権を次元の違う別個の概念として捉えている、だから個別的自衛権が必要最小限度となり、必要最小限度に収まる集団的自衛権はあり得なくなる。

(ウ)水口はどちらも自国が脅かされたときの正当防衛的な概念と捉えているのに対し、政府は集団的自衛権を他国防衛の権利と捉えており自衛権発動三要件で集団的自衛権は不可とした。

(エ)水口は日本が自衛権を行使できるなら個別・集団どちらもあるはずで、しかも自衛権行使として武力行使可能なら海外派兵も可能と見ている。政府は武力行使できるのは自国防衛(自衛権発動三要件、必要最小限度)だけで他国防衛ではできない従って海外派兵もできないとしている。

(オ)水口は個別がよくて集団ができないのは政策論であるとし、法制局は憲法解釈上必要最小限度でできるのは個別的自衛権まででこれは法律論であるとした。

(カ)外務省・法制局は自衛権の発動を武力行使と同一視し従って集団的自衛権はすべて禁止されると理解しているが、水口・大臣は武力行使以外は多様な形態があり得るとし武力行使以外の態様(補給とか医療)は可能と捉えている。

 

集団的自衛権を一般的に禁止するに至った経緯

1972年5月から9月にかけての政府解釈の変遷経緯は明らかではない。佐藤は日記で、5月18日の水口の質疑について「余りしつこくはない」(佐藤栄作『佐藤栄作日記』P.107)として、目立った記述をしていない。しかし筆者としては、これまでの議論から以下の仮説が可能であると考える。

佐藤総理、福田外相、江崎防衛庁長官ら政治家は平和憲法の精神として海外派兵は許されない、その結果として集団的自衛権も(ほとんど)行使できないという解釈だった。これを平和憲法論とする。海外派兵禁止という立場は戦後一貫している。

高島条約局長は1972年5月18日に撤回するまでは、集団的自衛権保有を前提にして、禁止というより政策として行使しないという解釈をとった。これを政策論とする。1954年の下田条約局長の答弁では憲法解釈上自衛権を超えるから禁止されているとし、1960年頃には東郷安保課長は集団的自衛権を海外派兵ととらえて違憲としていた。それを政策的に行使しないと軌道修正した理由は、おそらく講和条約以下、それまで結んだ条約や協定で集団的自衛権の保有を確認し続けたからであろう。つまり安保条約改定時にも憲法で禁止されているものを、なぜ国際法上保有の確認をしたのかと質されており(佐多忠隆(社会)1960/3/31参議院予算委員会)、外務省の行動の整合性上、保有しているが憲法の制約で政策的に行使しないという解釈に傾いたものと思われる。

なお、1966年の外交青書では、「わが国は憲法上,他国の防衛のために日本自らの武力を行使すること(自衛隊の海外派兵)は許されていない。従ってわが国としては,他の集団安全保障体制のように,他国と完全な意味の相互防衛関係を結ぶことはできない」と、この問題では集団的自衛権というより海外派兵を憲法違反としている。

吉國内閣法制局長官、真田第一部長は、憲法上許容される自衛権発動三要件から類推して日本が行使できる自衛権は個別的自衛権までであり、集団的自衛権はその要件を満たさないという解釈をとった。これを憲法解釈論とする。1954年の佐藤長官時代には、実力行動が可能なのは三要件に該当する場合のみで海外派兵は限界外とされていた。また1960年の林長官時代には集団的自衛権のうち海外派兵のみが明確に憲法違反とされ、基地提供や経済援助を集団的自衛権という言葉で理解しても憲法に違反しないとしていた。従って吉國の前任者である高辻正巳長官の時代に集団的自衛権の一般的禁止へ傾斜したと見られる。1964年から1972年まで長官を勤めた高辻の集団的自衛権を違憲とする憲法解釈はすでに1959年の次長時代には明らかになっている(阪口 上P.87)。高辻は集団的自衛権を憲法9条1項がいう「国際紛争を解決する手段」としての武力行使と捉え(安田P.33)、また「自衛権概念の濫用」という考えを内閣法制局に醸成したとされることから(佐瀬昌盛『集団的自衛権』P.46)、高辻時代に解釈が確定した可能性は指摘できるであろう。

高辻は1969年2月19日、衆議院予算委員会で楯兼次郎(社会)に対し、「集団的自衛権というものは、国連憲章五十一条によって各国に認められておるわけでございますけれども、日本の憲法九条のもとではたしてそういうものが許されるかどうか、これはかなり重大な問題だと思っております。(略)他国の安全のために、たとえその他国がわが国と連帯関係にあるというようなことがいわれるにいたしましても、他国の安全のためにわが国が兵力を用いるということは、これはとうてい憲法九条の許すところではあるまいというのが、われわれの考え方でございます。したがって、そういう見地から申しますと、いま御指摘のような関係に立つような集団的安全保障機構というのは、憲法上重大な疑義がある、こういうふうに私どもは考えております。はっきり申し上げます。」と集団的自衛権という考え方に対する憲法上の疑念を表している。また、1972年の著書『憲法講説』でも、たとえ他国の命運が我が国に重大な影響を及ぼすとしても、他国のために武力行使することは憲法の容認するところではない、と明言している(高辻正巳『憲法講説』P.82)。

いずれにしても政府側三者の解釈は以下の問題点を内包していた。すなわち平和憲法論は、その時代の政治家の信条に依るもので確固とした制度的なものではなく、人が変われば変更される可能性がある。政策論は、憲法で禁じられているのではなく政策として行使しないなら政策変更で行使できることになる。憲法解釈論は、水口の主張するとおり集団的自衛権も自衛権の一部であり必要最小限までの自衛権を行使できるという解釈に立てば、必要最小限の集団的自衛権も行使できることになる。

水口は、憲法は日本が自衛権を行使することを禁じてはおらず、従ってその形態として個別的・集団的とも許容しており、ただ武力行使は不可という社会党の解釈を主張した。おそらく非暴力抵抗と国連制裁などが念頭にあったと思われる。水口の論理に従い、個別・集団的自衛権を分離しないで自衛権に一本化して、すなわち自衛のためならあらゆる権利(社会党は武力行使不可だが)を行使できるという考えに立つとしよう。すると政府解釈では、「韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要」であると佐藤・ニクソン共同声明が情勢判断を既に明確にしているため、状況によっては政策などを変更して必要最小限度の海外派兵はあり得るという結論に繋がることになる。

内閣法制局は、高辻の見解に沿って集団的自衛権は憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段」に該当すると主張するか、個別的自衛権と集団的自衛権の概念の違いを強く主張するか、「集団的自衛権は自衛権濫用」と答弁することはできたであろう。しかし答弁を見れば内閣法制局の解釈は、当時はまだ政府内の統一見解にはなっていない。かつ最終的にその違いを追求されると、個別的自衛権は自衛だから合憲、集団的自衛権は他国防衛であり平和憲法に反するから違憲という論理に陥ってしまう。これは集団的自衛権の国際的な理解から遊離するほか、平和憲法に反するものを講和条約以来、確認してきたことを説明出来なくなる。さらに米国の集団的自衛権を根拠にしたベトナム介入を間接的に批判することになりかねない。従って日本独自の基準であり、日本のいわば政策的な限界を表し、価値中立的な自衛権発動三要件以外に主張できることがなかったのであろう。

高島が1972年5月18日に自分の答弁を撤回した上に総理答弁をも訂正して、集団的自衛権を一般的に禁止と答弁した動機はもちろん今となっては判然としない。しかし筆者が思うには、全体的に議論が水口優勢に進んでおり、海外派兵はしないとか(平和憲法論)、集団的自衛権は政策として行使しない(政策論)という三者三様の答弁が内閣法制局の答弁を妨害する形になり、このままでは水口の主張を完全に否定できなくなること。さらに水口が集団的自衛権による米軍救援の例を出したため、答弁で米軍救援を平和憲法に反するとか政策的にしないと発言することが米国側に与える影響を、あるいは考慮したのかもしれない。従って憲法解釈上、集団的自衛権は行使できないし、従って米軍救援もできないという答弁が内外ともにもっとも適切であると高島があの場で判断したのではないかと推測する。おそらくこれは高島一人の判断であり、故に福田はこれについて行けず、最後まで「ケースバイケース」とか「海外派兵はできない」と答弁することになった。

本来、佐藤・ニクソン共同声明は在日米軍基地使用の事前協議について前向きかつ迅速に応じる趣旨であり、自衛隊の派兵とは無関係で、米国も同じ理解であった。しかしそれを強く主張すると米軍基地が所在する自治体や特に沖縄で反発や懸念を呼ぶことが予想された。従って政府としては、水口の質疑を受け、無用な混乱や騒動を回避するため、過去の答弁との整合性を保ちつつ、海外派兵はしないという論理的な統一見解を案出する必要に迫られたのであろう。

水口の追求は究極的には海外派兵をしない確証を求めており、政府側も海外派兵する考えは毛頭なかったと思われることから、最終的に内閣法制局の憲法解釈論に統一したものと思われる。時期が佐藤内閣から田中内閣への移行期に当っていることから、決断がどちらで行なわれたかは定かではない。しかし筆者には、佐藤には後述する時代背景が影響を与えた可能性があり、佐藤内閣の決断であったと思える。

水口が1972年9月14日に要求した文書は同年10月14日に提出された。その要旨は「国家は国際法上集団的自衛権を保有しており、日本も保有していることは当然である。政府は日本が集団的自衛権を有していても、その行使は自衛の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている。憲法は日本存立や国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであり、そのための自衛の措置を取ることを禁じているとは解されない。しかし平和主義を原則とする憲法が自衛のための措置を無制限に認めているとも解されないのであって、その措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。ゆえに武力行使が許されるのはわが国に対する攻撃のみであって集団的自衛権は許されていない。」(朝雲新聞社『平成13年度版 防衛ハンドブック』P.576)としている。

これは1972年9月の内閣法制局の答弁を整理し、自衛権保有の論理と自衛権発動三原則を融合させて集団的自衛権を禁じたもので、この論旨が現行政府解釈の原型になったものである。

この文書の論理構成には政府三者の1972年5月までのそれぞれの解釈が整合性を保つように工夫されているように思われる。日本が平和憲法を持っていても独立国である以上個別的自衛権も集団的自衛権も国際法上保有はしていること(政策論)。しかし実際には憲法上許容される自衛権行使は自衛のための必要最小限度までしか認められないから事実上個別的自衛権に限られ集団的自衛権は行使できないこと(憲法解釈論)。平和憲法が自衛のための措置を無制限に認めていないこと(平和憲法論及び憲法解釈論)。従って他国のために武力行使をする海外派兵はできないこと(三者共通)。である。

この文書の論理をさらに整理して現行解釈、「わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」(1981/5/29稲葉誠一議員質問主意書に対する答弁書)が後に国会に提出されることになった。

しかし憲法に反するものを条約で確認してきた経緯と、「行使できない権利」という矛盾は問題として残ることになった。西村熊雄によれば、平和条約で日本が集団的自衛権を持つことを特に明らかにしたのは、民主陣営が旧敵国たる日独を独立・対等の協同者として自己陣営に包容する政策をとっている。これに対し、共産陣営が旧敵国からくる脅威を名にして自己陣営を結集し旧敵国を中立化することを当面の外交目標としていることを念頭に置いていたものであるとしている (西村P.21) 。

おそらく日本が集団的自衛権を国際法上も憲法上も保有していることについて政府内の基本認識は早くからあったと思われる。安保条約締結や基地提供は集団的自衛権の行使という認識もあった。すでに紹介したとおり、野党ですら独立回復期にはむしろ連合国から日本の自衛権に制限が課せられることを危惧する議論があった。また海外派兵はともかく集団的自衛権の一般的禁止が固まっていなかったので、国際常識からも外務省の処置は無理からぬところはある。

しかし憲法違反となった以上、何らかの説明が必要になる。その結果、「持っていると言っても、それは結局国際法上独立の主権国家であるという意味しかないわけでございます。したがって、個別的自衛権と集団的自衛権との比較において、集団的自衛権は一切行使できないという意味においては、持っていようが持っていまいが同じだということを申し上げたつもりでございます。」(角田禮次郎内閣法制局長官1981/6/3衆議院法務委員会)であるとか、「我が国憲法上これを行使することは許されないものとされておりますので、憲法上は集団的自衛権を保有していないということと結論的には同じことであろうと考えます。」(秋山收内閣法制局第一部長1996/5/30衆議院外務委員会)。

または「国際法上の問題と、そして憲法を頂点とする国内法上の問題点の一つの対立点といいますか、そういう対立点上に存在する問題でございまして、国際法上認められている集団的自衛権であっても、我が憲法がそれを制約する、制約を課しているんであるということでございますので、決して論理矛盾あるいは成り立たない考え方ということではさらさらないというふうに考えている次第でございます。」(大森政輔内閣法制局長官1996/4/17参議院予算委員会)といった不明瞭な答弁で対処せざるを得なくなった。

 

集団的自衛権が禁止された時代背景

前節で1972年の5月から9月にかけて政府内で集団的自衛権禁止の解釈が統一されたと思われる経緯を論述し、政府の内情についても推論を行った。この節では政府に影響を与えたと思われる時代背景を考察する。

1972年に集団的自衛権を一般的に禁止する解釈に統一された事情について、当時の内外状況を考えると、水口の質疑にもあるとおり、佐藤・ニクソン共同声明(1969/11)の「韓国・台湾条項」がもっとも影響が大きかったと思われる。これ以外にもニクソン米大統領のグアム・ドクトリン(1969/7)やニクソン・ドクトリン(1970/2)により、米軍のアジア撤退後に自衛隊の役割が高まることが予想された。「今日のアメリカの対日防衛負担増加要求の根がここにある」(有賀貞・宮里政玄編『概説アメリカ外交史』P.183)。

自衛隊については第二次防衛力整備計画の完成(1966)以降能力がかなり強化されていたが、当時米国議会では自衛隊の対米支援について期待が表明されていた。さらに米国はベトナム戦争で同盟国たるオーストラリア・韓国等に集団的自衛権に基づく派兵を求めたことから、水口の質疑にもあるように、韓国・台湾有事には米国が協力を求めてくることが日本国内で危惧されていた。

実際には佐藤・ニクソン共同声明後(1969/11/21)、ジョンソン米国務次官は背景説明の記者会見で、日本の軍隊が朝鮮防衛のために使用されうるという含みは共同声明にあるのか、との質問に「ありません。私はコミュニケにそういう含みを読みとりません。その問題にコミュニケは全然ふれていません。」、「コミュニケの目的とするところに関するかぎり,これは日本および沖縄にあるアメリカの基地および施設の使用を意味します。現在のところはそれ以上のことをこのコミュニケから読みとるのはまちがいだと思います」(田中明彦研究室データベース)と米政府の見解を公にしている。

しかしこうした状況では政府が海外派兵について誤解の余地なく明確に否定しないと国民の激しい反発が予想された。少なくとも佐藤政権は憂慮したと思われる。言うまでもなく海外派兵禁止決議(1954/6)に抵触するし、ベトナム戦争に伴う国民の米国に対する不信・批判が高まっていた。この時期日本国民の対米感情は良いとは言えず、「日米安保条約に対する信頼性が揺らいだ初めての時期」(草野厚「二つのニクソン・ショックと対米外交」北岡伸一『国際化時代の政治指導』P.107)でもあった。あの安保闘争ですら日本人の親米感情そのものには影響を与えなかったが、NHKの調査では1973〜74年には親米と答えた人は1964年の49%からついに18%まで低下した(高坂正堯「佐藤栄作」渡邉P.226)。

また米国が集団的自衛権をベトナム戦争介入の正当化に使い、特に北ベトナムのハイフォン港機雷封鎖(1972/5/8)について、米国による南ベトナムに対する集団的自衛権の行使であると国連で主張したことがある。こうした事情で集団的自衛権というものが日本国内でかなりいかがわしく受け止められ、しかも佐藤政権が一貫して米国支持を貫いてきたことも、ここでは佐藤の政策を疑うに足るものと見なされたかもしれない。

水口が質疑した第68回国会では、B-52に代表される在日・在沖縄米軍基地からのベトナムへの出撃や、さきのハイフォン港機雷封鎖、日本民間業者による米軍戦車の整備問題が連日のように取り上げられていた。さらに沖縄返還に関連して在日米軍基地機能や自衛隊による対米支援体制が強化されていると追求がなされるような状況だった。

さらに雫石事故(1971/7)、第四次防衛力整備計画予算先取りに伴う国会の混乱(1972/2)、陸上自衛隊の立川基地抜き打ち移駐(1972/3)、自衛隊の沖縄移駐に対する現地の反対(1972/5〜)などで国民の自衛隊に対する印象が一般に悪かった。加えて米中接近などに代表される緊張緩和の時代に安全保障政策や日米同盟を強化するということは常識的には理解しづらいことだったであろう。

以上をもとに筆者なりに推測すれば、佐藤政権は発足以来、米核艦船寄港問題、大学紛争、三矢研究、日韓条約、反基地運動、ベトナム反戦運動など任期中に大騒動を多々経験し、かつ政権末期にあり、再び国論を二分するような騒動の再発を恐れたのであろう。沖縄返還に関連して社会党など野党の要求を考慮する必要があったかもしれない(阪口 上P.87)。また当時の自民党内では各派閥が佐藤後を目指して活発に動いていた。反主流派の政府批判には政権揺さぶりの意図もあり、親中派に代表されるハト派グループには佐藤の安全保障政策に対する不満もあった(大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』P.96)。

こうした時代背景が、佐藤政権をして集団的自衛権の一般的禁止の判断へと導いたのではないかと思われる。ただ実際にそれが明らかになるのは田中内閣が成立した後になる。

この統一された解釈で極東有事における自衛隊の対米支援は事実上不可能になった。海外派兵のみが禁止されるならば、国内での協力は理論上可能となる。しかし集団的自衛権そのものが禁止されたら、国内での協力も日本有事にならなければ不可能であろう。佐藤・ニクソン共同声明は、1978年の日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)につながったとされるが(GREEN ,Michel「日米同盟とこれからの東アジア安全保障」細谷千博・信田智人編『新時代の日米関係』P.6)、これを策定したときにも、日本側の集団的自衛権に対する憲法解釈が障害になり極東有事の際の日米協力が研究課題となって、1997年の新ガイドライン策定まで実に20年間課題のまま残ることになる。

米国側もこうした事態を察知していたと思われるが、これを問題にした形跡は見つからない。この解釈を特に問題としなかった事情としては、もともと1960年の安保条約改定で、基地提供をもって相互義務の履行とみなし海外派兵は求めないことになっていたから当然と言えば当然である。実際問題として日本人の反対を無視して自衛隊に対米支援をさせて、その結果反米感情を高めるより、日本人の黙認を受けた基地利用の方がはるかに望ましかったのであろう。

また朝鮮半島有事は第三次世界大戦に直結する可能性もあり(たとえば1976年8月の「ポプラの木」事件)、どのみち日本が巻き込まれることが予測されたこともあるであろう。台湾については、米中接近で台湾情勢が安定することが予測され、実際に日本の集団的自衛権による支援を求める局面が想定しづらかった。なお、台湾については、米中和解、日中国交正常化によって台湾条項の性格は変化したという認識を日本政府は後に示している(五百旗頭1999 P.161)。

さらに自衛隊が海外派兵できるようになると将来米国の影響下を離れた後、近隣諸国にとって不安な状態になることが懸念されたのかも知れない。何より当時米軍は依然として東アジアでは圧倒的に強力で、基地使用さえできれば自衛隊の支援はさほど重要ではなかったとするのが妥当であろう。

一方日本側にもこの解釈による国益というものはあると言える。おそらく佐藤が望んだように国論を分裂させるような騒動を回避できることが第一だが、この際あらゆる海外派兵を禁止すれば近隣諸国の不安を払拭できる。また海外派兵をしないということになれば、海外派兵に不可欠な兵站部門を整備する必要がなくなり自衛隊をいわば国防軍に特化して効率的に整備できる。さらにアジアにおける米国のベトナム戦争のような冒険主義的行動を抑制できることもあげられるであろう。だが筆者が思うに最大の利点は、日本が米国の戦争に巻き込まれて、韓国やオーストラリアのように後年後悔することにはならないということである。

 

こうして日本はついに集団的自衛権を行使できない(しない)ことになった。最終的に内閣法制局の解釈に統一し、海外派兵のみならず武力行使に至らない集団的自衛権の行使も一般的に禁止されたことで、日本は個別的自衛権の発動である専守防衛の範囲に自らの行動を限定することになった。この答弁の変更は重大な変更であったにも係らず、野党の主張に沿ったものであったからか、どこからも問題視されずにそのまま定着した。以後しばらくこの問題は国会で取り上げられることが相対的に少なくなった。しかし新冷戦の発生とともに、再び国会の論戦に現れることになるが、その基調は日米協力強化という流れの中で、集団的自衛権の事実上の行使と平行して、「憲法解釈の見直し」(筆者)という形をとることになる。

 

(イ)新冷戦下における集団的自衛権(1979〜)

時代背景

1970年代は、ベトナム戦争終結、米中接近、日中正常化、米ソ戦略兵器制限交渉などからデタントの時代と言われる。この時代に日本では、坂田道太防衛庁長官のもとで基盤的防衛力構想を盛り込んだ防衛白書が再刊され(1976/6/4)、「防衛計画の大綱」が決定され(1976/10/29)、防衛費のGNP比1%枠が閣議決定される(1976/11/5)など重要な政策決定が次々となされた。これらは米軍のアジアからの撤退とデタントという国際情勢の変化を受けて推進されたものでもあった。しかしこれらの政策決定からほどなく、ソ連軍の増強が懸念されるようになり、ついにアフガニスタン侵攻(1979/12/27)が発生して「新冷戦」と呼ばれる時代がやってくる。

新冷戦期、米国のカーター(1977〜1981)、レーガン(1981〜1989)両政権は質量ともに増強が続くソ連軍への対抗上、日本に様々な防衛努力の強化を求めてきた。カーター政権は主に防衛費増額を数字の形で要求したが、レーガン政権は具体的な分野を示すという形をとった。米国が日本に求めたのは、太平洋上の対潜・対空作戦における米軍事力の補完であった。レーガン政権発足直後の1981年3月、ワインバーガー国防長官は日本に対し、グアム以西・フィリッピン以北の海域防衛分担を要請するに至った。この頃の海上・航空自衛隊はすでにこうした分野で米第7艦隊の一翼を担い得る重要な戦力に成長していた。

当時のレーマン海軍長官によれば、「もし日本が中立で本当に非武装で自衛隊を廃止していたら、東西バランスは根本的に変わっていたろう。もし日本の自衛力が真空を埋めていなかったらどうなっていたか。自衛隊は千マイルの海上、上空、海中で明らかに優勢であり、そのことは中国もロシアもわれわれも知っている。それは強固な安定化兵力だ」と後に語っている(外岡秀俊・本田優・三浦俊章『日米同盟半世紀』P.392)。

また、シーラ・スミスは新冷戦によって「自衛隊ははじめて超大国の戦略的角逐の最前線へと押し出された。(略)地理的位置に由来する日本の戦略的重要性の高さが、自衛隊の強化に大きな意味を与えた。こうして地域における軍事力のレベルは高まり、自衛隊の役割は日本の防衛だけではなく、東アジアの地域的軍事バランスの構成要素の一つとなった」としている (Smith, Sheila A.「日米同盟における防衛協力の進展」GREEN ,Michel・CRONIN ,Patrick『日米同盟 米国の戦略』P25) 。もちろん在日米軍基地の価値が急上昇したことはいうまでもない。

一方、デタント時代の1976年7月に検討を開始した「日米防衛協力のための指針」(日米ガイドライン)はデタント末期に当たる1978年11月27日に決定された。この日米ガイドラインが「新冷戦を「戦う」ための枠組みとなったのであった。」(田中1997 P.286)日米ガイドラインでは、侵略の未然防止態勢、日本有事の対処行動、極東有事の日米協力の三項目についてそれぞれ研究を行うことと、必要な共同演習・訓練を行うことを規定していた。この方針に基づいて海上自衛隊がリムパック(環太平洋合同演習)へ初参加するため日本を出発したのが1980年1月であった。

こうした時代背景のもと、1972年以来取り上げられることが比較的に少なくなっていた集団的自衛権問題が再び論戦に表れることとなった。その主な内容はリムパック参加に代表される、太平洋上における日米海軍協力であったが、集団的自衛権に関する「憲法解釈の見直し」(筆者)とも呼び得る答弁も行われることになる。

 

集団的自衛権の事実上の行使

海上自衛隊は早くから米海軍と協力体制を整備してきたが、リムパックへの参加は、それが日本防衛に限定されないシナリオに沿って行われる演習であったことと、米海軍のほかにオーストラリア、ニュージーランドといったANZUS諸国も参加していたことなどから、従来の共同演習とはまったく違う、言わば西側陣営への参加という批判を呼び、集団的自衛権に抵触するとして国会で追及が行なわれた。

1979年12月14日、衆議院外務委員会において、土井たか子(社会)はリムパック参加の適否を質した。佐々淳行防衛庁参事官は「集団的自衛権の行使を明らかに前提としたような共同訓練に参加をすることは差し控えるべきであろうしこの例として先般御答弁申し上げましたのが、(略)米韓合同の、韓国を北からの攻撃から守るというような目的がはっきりしておる訓練、こういうものに参加することは、この教育訓練に必要な範囲内を超えておると思います。」と答弁し、リムパックは日本が他国を防衛するための演習ではないとした。日本側としては海上輸送に国家の生命線を委ねている以上、海上自衛隊の洋上における作戦能力向上の一助としてリムパックに参加するという姿勢であろう。

なお、この時代から集団的自衛権に関する防衛庁内局の答弁が目立つようになる。防衛庁の地位の向上と集団的自衛権の問題が憲法や外交政策の段階から、ある意味で実施の段階に進んでいることを感じさせる。

「シーレーン防衛」の問題も取り上げられた。米側としては米ソ戦時のソ連海軍による通商破壊作戦を想定し、太平洋における海上輸送路の防衛を海上自衛隊に分担してもらいたいという希望を持っていた。日本から南西と南東に伸びる航路帯は日本にとってもペルシャ湾と東南アジア・オセアニアからの資源・食料の海上輸送路に当たっており、日本側も基本的に前向きに応じる姿勢を示していたが、この場合、日本が他国の船舶や米海軍を護衛することが集団的自衛権に抵触するとして追及を受けた。

米海軍への対応は以下の質疑に集約されるであろう。1981年3月31日、土井たか子(社会)は衆議院外務委員会において、シーレーンにおいて米艦船を防衛する責任はわが国にはないと確認し、伊達宗起条約局長は「二つに分けて考える必要があると思うのでございます。つまり、第五条で日本が攻撃をされる事態になったという場合には日米共同対処ということになるわけでございますから、状況によりましては、日本がアメリカを守るということじゃないにいたしましても、日本に対する攻撃が行われている最中に日本がそれに対して応戦をする、ないしはその侵害を、攻撃を排除するためにやるということの一環においてアメリカ側が守られるという結果になることがあると思います。ただ、五条事態でない、つまり日本が何ら攻撃を受けてないような事態、その場合において日本がアメリカの艦船をどこであろうと守ろうというような義務はございませんし、またそれを守ろうといたしますと憲法上の制約が出てくると思うのでございます。つまり、これは集団的自衛権の発動につながるものであって憲法上できない、そういう問題になると思います。」と答弁した。日本有事なら個別的自衛権の延長で米艦船の護衛は可能、日本有事でなければ集団的自衛権に当たるので不可能ということである。

また他国の船舶についても、1981年4月27日、柄谷道一(民社)が参議院安保特別委員会において、米国が海域・空域の防衛分担を求めるならば、集団的自衛にならざるを得ないと思う、と質したのに対し、味村治内閣法制局第一部長は「たとえばわが国である海域の防衛を分担いたしまして、わが国の船舶のみならず特定の他の国の船舶も含めてすべて防衛するということになりますれば、これは集団自衛権の行使に該当いたしますので、わが国の憲法上許されないことと考えております。」として、あくまで防衛できるのは日本船舶のみであると答弁した。

この解釈は後に次第に変化していくことになる。きっかけは間違いなくこれらの国会質疑の直後に鈴木善幸総理大臣が1981年5月8日、ワシントンのナショナルプレスクラブで行なった演説と質疑である。鈴木はこの中で、米第7艦隊が太平洋からインド洋・ペルシャ湾に移動した後には、日本が周辺数百海里の範囲とシーレーン1000海里を防衛すると発言した。鈴木は憲法やわが国自衛の範囲内と前提条件を付していたが、これが一種の対米公約になり、日本に防衛力増強要求が寄せられることになる。ちなみに集団的自衛権に関する稲葉誠一議員に対する答弁書が提出されたのもこの頃である(1981/5/29)。

こうした中で1982年11月27日に組閣したのが中曽根康弘であった。リムパックへの参加は大平政権下の「西側の一員」政策の反映であったが、中曽根はそれをさらに強力に推進した(北岡伸一・下斗米伸夫『世界の歴史30新世紀の世界と日本』P.305)。中曽根には若手議員時代に吉田茂の安全保障政策と対決した過去があるが、自らが総理に就任した後の「戦後政治の総決算」では吉田路線との明確な決別を意識していた(草野厚「中曽根康弘」渡邉P.413)。

中曽根は防衛費の増額や対米武器技術供与といった政策変更を行った。さらに中曽根の「日本列島は不沈空母である」とか「日米は運命共同体」あるいは「三海峡封鎖」などの発言も批判を呼び、こうした中曽根の一連の姿勢は国会で厳しい追求を受けた。

一連の政策変更と問題発言の直後、1983年2月4日、衆議院予算委員会において矢野絢也(公明)が極東有事で米海軍を公海上で自衛艦が護衛することは個別的自衛権の範囲か否かと質した。中曽根総理は個別的自衛権の範囲内であると答弁した。従来は日本の個別的自衛権行使の結果として米軍が護衛されるという消極的な答弁(丸山昂防衛局長1975/6/18衆議院外務委員会)であったことから積極的に護衛出来るという解釈変更ではないかと紛糾した。矢野が極東有事を前提に質問しているのに、中曽根が日本有事で答えたことが原因だが、中曽根が「率先して日本有事の際の米艦護衛問題にケリをつけようとした」という観測もある(中馬清福『再軍備の政治学』P.138)。

5日、角田禮次郎内閣法制局長官が答弁することになる。「わが国に対する武力攻撃があった場合に、自衛艦が、わが国を防衛するため必要な限度内すなわち個別的自衛権の範囲内において、米艦船と共同対処行動をとることができるということは、従来から申し上げているとおりであります。(略)そういう意味では、集団的自衛権の行使につながるというような例を想定されて言われたものではないというふうに私どもは承知しております。」と従来どおりの答弁を確認せざるを得なかった。

ところが1983年3月15日、政府は「有事における海上交通の安全確保と外国船舶について」とする見解を国会に報告している。その要旨は、@わが国有事の際の海上交通の安全確保はきわめて重要である、A自衛隊が行う安全確保は個別的自衛権の範囲内で行う、B外国船舶の自衛権は旗国にあり、わが国向けの物資を輸送していることのみを理由として、わが国の自衛権を行使することはできない、Cわが国有事の際、敵国がわが国向け物資を輸送する第三国船舶に対し無差別に攻撃を加える可能性を否定できず、そのような事態が発生した場合、自衛隊がわが国を防衛するための行動の一環として、その攻撃を排除することは、わが国を防衛するため必要最小限度のものである以上、個別的自衛権の行使の範囲に含まれるものと考える、である。海上輸送と日本の生存権を結び付けて、日本有事の限定付とはいえ、事実上他国の船舶も護衛できることになった。

時代は下るが3年後、1986年2月6日、加藤紘一防衛庁長官は衆議院予算委員会で矢野絢也(公明)に対し、「極東有事でありシーレーンも有事であるというケースでありますが、シーレーン有事で我が国の船舶が特定国に組織的、計画的に攻撃されているわけで、それが多発的であるという設定でございますので、それは防衛出動は当然のことながらしなければなりません。」として、日本領域が攻撃されていなくてもシーレーンで日本船舶が攻撃された場合には当然防衛出動をすると答弁した。

従来は個別的自衛権の発動は日本領域への攻撃に限っていた(高島益郎条約局長1972/5/18参議院内閣委員会)。おそらく日本有事の想定を広め、個別的自衛権を行使することによって集団的自衛権への抵触を防止するということであろう。「有事における海上交通の安全確保と外国船舶について」と加藤答弁を併せれば、海上自衛隊によるシーレーン防衛の有効性は論理的には著しく高まるであろう。

本来、資源・食料の多くを海外に頼っている日本としては船籍を問わず日本に不可欠な輸送は維持しなければならないことは論を待たない。にもかかわらず、こうした迂遠な解釈を行なわざるを得ないのは、集団的自衛権を一般的に禁止した結果、米軍のみならず他国の民間船舶までも防衛の対象から外れてしまったということであろう。

この時代には集団的自衛権の従来概念を改めるような答弁も多々行なわれた。集団的自衛権が一般的に禁止されているはずなのに、鈴木・中曽根政権では日米防衛協力が推進され、従来より積極的な政策が行われるとなれば、何が集団的自衛権に該当するのか、という疑問に答えなくてはならない。かつては明確に憲法違反なのは「海外派兵」であってそれ以外はケースバイケースという答弁が多かったが、この時代には「海外派兵」に代わって「実力行使」や「武力行使」という言葉がしばしば答弁で利用されるようになる。

1982年3月31日、衆議院外務委員会における東中光雄(共産)の、極東有事で出撃する米軍への自衛隊の協力は憲法上できないということか、との質問に対し、澤田和彦防衛局防衛課長は「私ども、防衛庁、自衛隊が憲法上できないとはっきり申し上げますのは、いわゆる集団的自衛権の行使ということであると承知しております。そして、これはいわゆる武力といいますか実力行使を伴う行動である。したがいまして、それ以外の実力の行使を伴わない、いま先生がおっしゃいました補給とかそういう種類のものは憲法上禁止されている集団的自衛権の行使とは違うと解釈しております。」としている。かつて補給は集団的自衛権行使の一部とされていた。

この時期、超水平線(OTH)レーダーの導入が検討されたり、日米によるソ連潜水艦の情報収集が強化されたこともあり、情報提供関連の質疑も多かった。1982年4月20日、参議院外務委員会で立木洋(共産)に、戦術情報を米軍に提供することは憲法上どうなるか、と質された角田禮次郎内閣法制局長官は「私はそれ自体は武力行使でないならばそれは憲法九条のもとでは禁止されていないというふうに考えます。」と答弁した。西廣整輝防衛庁防衛局長も1985年10月22日、参議院予算委員会で上田耕一郎(共産)に対し同趣旨の答弁をしている。

基地提供は60年安保の頃は集団的自衛権行使のひとつと答弁されていたが(岸信介総理大臣1960/3/31参議院予算委員会)、栗山尚一条約局長によれば、「従来から申し上げておりますように、憲法上禁止されております集団的自衛権というものはあくまでもこれはわが国自身の武力の行使に関してでございますので、これは安保国会以来種々御議論があったところでございますけれども、わが国に米軍の駐留を認めて、その駐留した米軍が、わが国の施設、区域を使って種々の軍事行動をとる、そういうものに対してわが国が便宜供与を行う、これはわが国自身の武力行使に至らない便宜供与でございますが、そういう便宜供与を行うということは、別に憲法九条で禁止されている集団的自衛権の行使には当たらない。これは累次政府が御答弁申し上げているとおりであろうと思います。」(1983/3/04衆議院予算委員会第二分科会)とされる。

集団的自衛権が必要最小限度の自衛権を越えるから憲法違反になるという稲葉答弁書の解釈に対する質問もある。1986年3月5日、衆議院予算委員会において二見伸明(公明)は、必要最小限度の範囲内であれば集団的自衛権の行使も可能だというような、そうしたひっくり返した解釈は将来できるのかと質した。茂串俊内閣法制局長官は「我が国の憲法第九条におきましては、個別的自衛権の行使は認められるものの、集団的自衛権の行使は許されないという解釈をとっておるわけでございまして、ただいま委員の御質問のございましたように、必要最小限度の範囲を超えるような集団的自衛権というものはあり得ないということでございまして、その根拠につきましては、先ほどるる御説明申し上げたところでございます。」とした。答弁中の「超えるような」は「超えないような」の言い間違いであろう。

1981年の稲葉答弁書については、自国防衛ですら必要最小限度しか武力行使出来ないのだから、まして他国のために武力行使出来るはずがないという論理を展開すべきであった(安田P.32)との批判もあるが、内閣法制局が個別的自衛権と集団的自衛権を異なる概念と捉えていることが分かる。同一権利の形態違いならば、必要最小限度の範囲に収まる集団的自衛権の行使もあり得るはずである。

 

この時代の政府解釈を総括すれば、日米防衛協力の分野で、一方で武力行使を伴うものについては日本の個別的自衛権の適用範囲を拡大して事実上集団的自衛権を行使し、他方では集団的自衛権を武力行使と同意義に限定し、武力行使を伴わないものは集団的自衛権の範疇から外す解釈が行なわれたと結論できる。憲法改正も憲法解釈の変更もできない状況下の「憲法解釈の見直し」とも言えるこの手法は、日米協力の実効性を安保改定時の在日米軍基地防衛と同様に保つ効果があったかもしれない。しかし極めて内向きで議論の本質を回避する性格を有していた。それでもこうした流れは新冷戦下、米ソ戦争を想定したもので、日本の防衛と密接な関係があり、従って関係者もその推進に疑問は感じなかったのではないかと想像される。

 

(ウ)国際貢献・日米防衛協力のための論理(1990〜)

時代背景

1985年にゴルバチョフがソ連の指導者となり、1989年12月、マルタにおける米ソ首脳会談で東西冷戦はついに終結した。新しい国際情勢とそれに関連する集団的自衛権の議論の性格は、日本の安全保障に極めて重要ではあっても必ずしも日本が当事者となるものではなくなる。それは国際貢献・国連平和維持活動(PKO)であり、1978年の日米ガイドラインで研究課題とされた極東有事、後の周辺事態に関するものである。

1990年4月23日、海部俊樹総理大臣は衆議院予算委員会において「今目の前に東西の対立とかデタントとか緩和とか、特に欧州を中心に劇的な変化はありますけれども、(略)アジアにおいてそれがきちっと定着をすることを願いつつ、望みつつ、その努力を果たしながら、私は国の安全をきちっと守っていくという国の大きな目標に従ってきょうまでやってまいりました。平和時における我が国の安全を保障するための、確保するための防衛力の維持というものには慎重に対処していかなければならぬ、こう考えております。」と語った。しかし海部が取り組むことになるのは日本の防衛ではなく国際貢献という新しい分野であり、あえて言えば日本の安全保障政策の転換と言えるかもしれない。

海部答弁から3ヵ月後の1990年8月2日、イラク軍がクウェートへ侵攻しこれを占領、翌日両国の統合を世界に発表した。明白な侵略行為であり、国連を中心にイラク非難とクウェートの主権回復へ向けた行動が次々と打ち出された。日本は同月5日、早くも対イラク経済制裁を発表し、「官僚機構が戦後培ってきた手法」(手嶋龍一『1991年日本の敗北』P.134)が効果を表したわけである。しかしその後は米国を中心とする国際社会が軍事力によるサウジアラビア防衛とクウェート奪還に傾く中、日本人にとってまったく未知の人的な協力に対応することが出来ず、世界の批判を浴びることになる。このとき日本が問われたのは「外交能力の問題であるよりも、日本人の国際認識の枠組みそのものであった。」(五百旗頭1999 P.228)。

1990年8月29日、政府は物資・医療・資金協力を軸とする「中東貢献策」を発表した。この目的には「平和回復」がうたわれていたが、侵略に対する国際社会の闘いという事態の本質が理解されているか疑問と言わざるを得ない。また「貢献」という言葉には当事者意識の欠如がうかがわれる(北岡伸一『日米関係のリアリズム』P.47)。しかし政府の認識よりも重要なのは国民一般の感情であった。

もし日米ガイドラインで極東有事対応策が確立していれば、その応用であるいは何らかの有効な協力策が打ち出せたかもしれない。しかし海部内閣の「貢献策」は国内の海外派兵・戦争反対の声で行き詰まることになった。130億ドルというクウェート、サウジアラビアを除けば世界最大の資金援助もそれに相応しい評価を得られなかった。湾岸戦争は日本政府の関係者にとって「試練の日々」として記憶されることになる。

こうして日本にとって1990年代の始まりは不幸なものになった。この頃の日本は経済大国として絶頂期にあり、湾岸危機の勃発とほぼ同時に起こったいわゆるバブル経済の崩壊にも関わらず、低迷する経済に苦しむ米国との間で様々な経済摩擦を惹起していた。それらは感情的な対立に発展していたが、湾岸危機をめぐる日本の消極的な対応で対日感情がさらに悪化した。日本は憲法を「責任逃れの口実に使っている」(栗山尚一『日米同盟 漂流からの脱却』P.42)とまで言われた。

さらに1993年以降、朝鮮半島の緊張状態が北朝鮮による核兵器開発疑惑で深刻化した。1994年の春頃にはまさに一触即発状態になり、朝鮮戦争以来最悪の状況となって(ペリー米国防長官)(船橋洋一『同盟漂流』P.311)、米韓軍は作戦計画の検討に入った。ところが不幸なことに、この朝鮮半島情勢と日本国内の政局混乱(細川連立政権から羽田少数与党政権への移行)とが重なってしまったのである。日本の政治家は政局への対応で忙殺され、「韓国に対する武力攻撃が万一発生すれば,これは当然わが国の安全に重大な影響を及ぼすもの」(佐藤・ニクソン共同声明1969/11/21)であるはずにも関わらず、政治判断はほぼ完全に停止状態にあった。官僚主導で約束できることは現行法令の範囲内に限られ、全面戦争を想定した米軍の膨大な協力要請に応えることは到底出来なかった。かつての「試練の日々」が「悪夢のような経験」(石原信雄内閣官房副長官)となって再現し、日米同盟関係は著しく動揺した。

この二つの事件で日本側の対応の障害になったのは、言うまでもなく集団的自衛権が禁止されていることに伴う人的協力の限界であった。新冷戦期にある程度緩和された集団的自衛権行使の政府解釈は、しかし日本有事を想定していたため、これらの事態に対処することは出来なかった。日本の関係者の得た教訓は、日本有事以外の場合でも何らかの日米協力は不可欠であること、その検討・立案は平時から準備しておく必要があること、の二つであろう。つまり1990年代は、前半の事件が厳しい教訓を残し、後半はこの教訓を得て日米関係者が日米同盟関係の再構築に取り組むことになる。

1996年4月17日、クリントン米大統領が訪日し、橋本龍太郎総理大臣と会談して、「日米安全保障共同宣言」を発表した。同宣言は同盟の意義をうたった後、日米安保条約が「21世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることを再確認し」て日米安保条約に基づく同盟関係を「再定義」した。さらに「米国が引き続き軍事的プレゼンスを維持することは、アジア太平洋地域の平和と安定の維持のためにも不可欠であること」と「「日米防衛協力のための指針」の見直しを開始すること」で「意見が一致した」として、安保体制再構築を宣言した。我が国の協力拡大と、日米安保体制の重点が、我が国防衛からアジア太平洋地域の安定の維持に広がった点に着目すれば従来の「再確認」と言うより新たな役割を「再定義」したと言う方が相応しいであろう。

 

国際貢献に伴う議論

湾岸危機があまりにも突発的だったため、政府には事態に対応する準備が出来ておらず、従来解釈のままで対応せざるを得なかったものと思われる。

湾岸危機に対する最初の貢献策発表の直後、1990年8月31日、上原康助(社会)は衆議院内閣委員会において、軍事活動への資金援助は憲法に逸脱するのではないか、と質した。内田勝久防衛庁参事官は「費用の使途にかかわらず実力の行使には当たらないわけでございますから、我が国憲法第九条の解釈上認められておらないところの集団的自衛権の行使には当たらないという考えでございます。」とした。また経済制裁についても10月3日、参議院決算委員会において、千葉景子(社会)に対し「集団的自衛権の問題はいわゆる武力の行使にかかわる概念でございます。したがいまして、我が国として経済制裁措置をとるあるいはこれに協力するということにつきましては憲法上も問題がないわけでございますけれども、武力の行使にかかわる問題につきましては、先ほどお答え申し上げましたように、集団的自衛権という面で憲法上の制約があるということでございます。」(柳井俊二条約局長)とし、いずれも従来からの解釈の範囲内で答弁した。

しかしこんな答弁もある。1990年8月31日、衆議院内閣委員会で三浦久(共産)から林内閣法制局長官の答弁(1959/3/19参議院予算委員会)を取り上げられた大森政輔内閣法制局第一部長は、「今回内閣において発表されました貢献策というものは、私どもの理解によりますと、このような米軍と一体となるような行動ではないということに尽きようかと思う次第でございます。なお、若干一般的な補足をさせていただきますと、補給業務一般というものにつきまして、そもそも武力の行使に当たらないというものでは必ずしもございませんが、今回の貢献策というものは、武力の行使ないしはそれと一体をなすような行動には当たらないという判断であるということでございます。」と答弁した。従来、補給は武力行使に当たらないという答弁が多かったことを考えると実際に戦争の可能性が高まって議論に現実感が出てきたとも受け取ることもできる。この後、日本の人的貢献策の要となる「国際平和協力法案」の審議が始まると、この1959年の「一体化論」が議論の中心に位置付けられた。しかしこの法案は「その出自から不幸の影がまとわりついていた」(手嶋P.174)、「作成された時から失敗を約束されたも同然の法案」(田中1997 P.313)であった。

「国際平和協力法案」の立法目的を端的に言えば「平和協力隊」の身分を兼務した自衛隊などをサウジアラビアに派遣し、多国籍軍の支援に当たらせようとするもので、補給・輸送・医療などの兵站が主な任務になるはずであった。かつて集団的自衛権が一般的に禁止される前には、これらは直接武力行使をしないことから、少なくとも憲法が禁じる海外派兵とは違うと考えられていた。軍事常識から言えば、大森の言うように補給業務が武力行使に当たらないというものでは必ずしもない、という方が適切な捉え方であろう。いずれにしても、こうした支援に自衛隊を従事させようとすれば、何らかの論理が必要になる。

なぜなら大前提として、武力行使を目的にした多国籍軍への参加は従来解釈では、明らかに憲法違反であり、政府はこれを説明するために、多国籍軍への「参加」ではなく「協力」であると答弁した。「協力」の基準として、多国籍軍の指揮下には入らないとしたほか、多国籍軍の武力行使と一体にならない行為は憲法に違反しないとした。ここで内閣法制局が着目し、30年ぶりに取り上げられたのが「一体化論」であったと思われる。

この議論に関する答弁の代表例は工藤敦夫内閣法制局長官が山口那津男(公明)に行なった以下の長い答弁である。「直接に武力の行使をするのはもちろん許されない。協力をすることが、(略)それがまさに武力の行使と客観的に見られる、そういうものとくっついているとか、過去の答弁例で引きましたけれども、そういうふうな行動に該当することになる、これは憲法の目から見て許されない、こういう意味でまず基準を申し上げているわけでございます。(略)あえてその判断基準の一、二を申し上げれば、先ほど距離的とか時間的とかおっしゃられましたけれども、現にその他のものが戦闘行動を行っている、あるいは行おうとしている、そういった地点とこちら側の行動との間の距離といいますか地理的関係といいますか、そういうふうなものもございますでしょうし、それから我が方のやります具体的な行為の内容もございますでしょうし、あるいはそういう他の、武力行使を現にしているようなものとの関係におきまして、どの程度それに密接になっているかという問題もありましょうし、あるいは(略)その協力しようとしている相手方の活動の現況、こういったものもございます。そういったことを総合勘案する必要がある、こういうふうに申し上げているわけでございます。それで、過去に問題があると言いましたようなケースにつきましては、例えば現に戦闘が行われているというふうなところでそういう前線へ武器弾薬を供給するようなこと、輸送するようなこと、あるいはそういった現に戦闘が行われているような医療部隊のところにいわば組み込まれるような形でと申しますか、そういうふうな形でまさに医療活動をするような場合、こういうふうなのは今のような点から見て問題があろうということでございますし、逆にそういう戦闘行為のところから一線を画されるようなところで、そういうところまで医薬品や食料品を輸送するようなこと、こういうふうなことは当然今のような憲法九条の判断基準からして問題はなかろう、こういうことでございます。したがいまして、両端はある程度申し上げられる、こういうことだと思います。」(1990/10/29衆議院国連平和協力特別委員会)

法案の枠組みとしては、派遣される平和協力隊(自衛隊など)は多国籍軍の指揮下には入らず、答弁にある基準に従った東京の命令に従うとされていた。派遣された自衛隊が現地でどう活動するのか定かではないと野党から批判され、自民党でも消極的な意見が多く(北岡1999 P.327)、他にも答弁の不手際が重なって(手嶋P.189)法案は提出から1ヶ月ほどで廃案になった。しかし「一体化論」は湾岸危機では役に立たなかったが、後に新日米ガイドライン関連法案ではより精緻になって再度取り入れられることになる。

幸いなことに湾岸危機は翌1991年2月には多国籍軍の圧勝で終結した。結局資金以外何ら貢献できなかった日本は、戦争終結を機に人的貢献として海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾へ派遣し、イラク軍が敷設した機雷の処理に当たらせることとした。これも国会で取り上げられた。1991年4月23日、参議院外務委員会において清水澄子(社会)は、敷設国の遺棄宣言も除去依頼もなしに、かつ他国と共同で機雷除去を行なうことと集団自衛権との関係を質した。大森政輔内閣法制局第一部長は「外国による武力攻撃の一環として敷設されている機雷を除去する行為、これはその外国に対する戦闘行為として武力行使に当たるというわけでございます。したがいまして、遺棄された機雷ということになりますと外国による武力攻撃の一環としての意味を失っている。したがって、これを除去する行為というのはその外国に対する戦闘行為ではない。単に海上の危険な妨害物を除去するというもので武力行使には当たらないというわけでございます。(略)集団的自衛権云々という問題も起こりようはないというわけでございます。」と答弁した。新冷戦時代に情報提供などに適用された「武力行使に当たらない」という解釈がさらに軍事色の濃い掃海活動にも援用されたということである。この場合、湾岸戦争終結という現実があるので大森の答弁も説得力がある。しかし「遺棄された機雷」という概念はやはり後に、遺棄されたかどうかは日本側の「慎重かつ総合的な判断」に任されるという枠組みで新日米ガイドラインに取り入れられることになる。

 

さて、この湾岸危機を教訓に、日本の国際貢献を具体化する政策として、国連の平和維持活動(PKO)へ自衛隊を参加させるための「国連平和協力法」(PKO法)が1991年から92年にかけて国会で審議された。PKO活動は本質的に国連憲章第51条とは別概念であり、従って集団的自衛権の問題は生じないはずである。しかしPKO派遣は海外派兵であるとか、現地での武器使用が集団的自衛権の行使に当たるという形で取り上げられることになった。

1991年9月25日、衆議院国際平和協力特別委員会で上原康助(社会)は、派遣される自衛隊員の武器使用が集団自衛権の行使であると質した。池田行彦防衛庁長官は「この法律上与えられております武器の使用の権限はあくまで個々の隊員に対して与えられておるわけでございまして、個々の隊員の権限において、そしてまた個々の隊員の判断において行う」から集団的自衛権の行使には当たらないと答弁した。

国連の要請を受けたPKO派遣は国権の発動としての海外派兵とはまったく別概念であるにも関わらず、武装した自衛隊を海外派遣しても、これが海外派兵ではないという議論を国内向けに立てる必要があった。このため国連指揮権の問題のほかに、隊員の武器使用は正当防衛等に該当する場合のみで、しかも指揮官の命令ではなく、個々人の判断によるものと法律上規定された。これで自衛隊員が海外で紛争に巻き込まれても国家・部隊の軍事行動としての「武力行使」ではなく、個人の自己防衛のための「武器使用」ということで、海外派兵ではなく、従って集団的自衛権行使ではないということである。この規定は1998年に改正され、武器使用については指揮官の命令を受けることとされたが、いずれにしても幸いなことに今日に至るまで自衛隊員の武器使用の例はない。

 

日米防衛協力に関する議論

1996年4月の「日米安全保障共同宣言」で日米ガイドラインの見直しが決まったことにより、国会における集団的自衛権に関する質問が大幅に増加することになる。しかし日米共同宣言が日米同盟を「再定義」したと巷間評される割には答弁のほとんどは従来の域を出ていない。ガイドラインの見直しは日本国憲法の枠内で行なわれることにされたからだが(防衛ハンドブックP.576)、このためすでに完成している従来からの枠組みをいかに拡大解釈して、新しい事態に対応するかという性格が濃厚である。

「輸送でありますとか補給などのいわゆる後方支援と呼ばれるような行動につきましては、その具体的な対応やこれを取り巻く状況が多種多様でございまして、これが武力の行使と一体化したとの評価を受けるかどうかにつきましてあらかじめ単純な基準を設けて一律に断定することは、一般的には困難であろうと考えます。この点は、従前から申し上げておりますような各種の基準を踏まえて、事例に即して総合的に判断していくべきものであると考えております。」(秋山收内閣法制局第一部長1996/5/31衆議院安全保障委員会)といった具合である。

加えて指摘できることは内閣法制局の姿勢あるいは信念である。時代はやや遡るが、1983年2月22日、衆議院予算委員会において、市川雄一(公明)は、憲法解釈変更には憲法改正を要するかと質した。角田禮次郎内閣法制局長官は「ある規定について解釈にいろいろ議論があるときに、それをいわゆる立法的な解決ということで、その法律を改正してある種の解釈をはっきりするということはあるわけでございます。そういう意味では、仮に、全く仮に、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にしたいということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思います。したがって、そういう手段をとらない限りできないということになると思います。」と解釈変更による行使はできないとしている。同趣旨の答弁は1996年4月11日、赤松正雄(新進)にもなされている(江間清二防衛庁長官官房長1996/4/11衆議院安全保障委員会)。

また1996年2月27日、石井一(新進)にも大森政輔内閣法制局長官が「憲法を初め法令の解釈と申しますのは、当該法令の規定の文言、趣旨に即しつつ、立案者の意図等も考慮いたしまして、また、議論の積み重ねのあるものについては、全体の整合性を保つことに留意いたしまして論理的に確定すべきものであるというふうに解しているところでございます。(略)したがいまして、一般論として申しますと、政府がこのような考え方を離れて自由にこれを変更するということができるような性質のものではないというふうに考えております。したがいまして、政府がその政策のために従来の憲法解釈を基本的に変更するということは、政府の憲法解釈の権威を著しく失墜させますし、ひいては内閣自体に対する国民の信頼を著しく損なうおそれもある、憲法を頂点とする法秩序の維持という観点から見ましても問題があるというふうに考えているところでございます。」と政策に合わせて変更することは適切ではないと答弁した。

内閣法制局の憲法解釈が究理学的なものであるとすれば、確かに政策や国際情勢に合わせて変更することは、内閣法制局の権威の失墜に直結するであろう。しかし憲法改正ができない状況で、集団的自衛権行使を含む日米協力を推進しようとすればどうなるか。新冷戦期と同様に従来からの「憲法解釈の見直し」という手段に頼らざるを得ないであろう。

しかし1997年6月7日、ガイドライン見直しの中間報告が公表され、「周辺事態における協力」で日本側の人的協力が具体的に検討されるようになると、政府の答弁にも変化が現れる。1997年6月10日、衆議院安全保障委員会において平田米男(新進)に対し、久間章生防衛庁長官は「はっきり言えますことは、我が国は、武力行使をしないという憲法九条の規定があるために、それに関係するものはできないんだ、そう割り切ってしまえばいいわけでございまして、武力行使をしないことはやれるんだ、そういうふうに理解する方が一番わかりやすいのではないかと思うのです。それを集団的自衛権、個別的自衛権というほかの概念を持ってまいりますと、ほかの言葉を当てはめますと、その言葉が非常に概念として広がってくるのではないか、そういう気がいたします。(略)要するに武力行使をしない、その中で自分の国を守ることはやれる」と明快な答弁をした。出来ることは個別的自衛権まで、という従来の解釈から、出来ないことは武力行使のみ、という発想の転換が伺われる。

この答弁の「武力行使」を「海外派兵」と置き換えれば、1972年に集団的自衛権が禁止される以前の解釈への回帰が感じられるであろう。かつては海外派兵が禁止でほかはケースバイケースとされた。1972年には集団的自衛権が自衛権発動三要件を越えるから禁止とされた。新冷戦時代以降には集団的自衛権とは武力行使を伴うものとされ、従って武力行使を伴わないものは集団的自衛権ではないから可能とされた。1990年代に入ると他国に協力しても武力行使と一体化しなければ可能とされるようになった。そしてこの時代には武力行使(海外派兵)でないものは憲法に違反しないという解釈に戻ったわけである。

1997年9月23日、新ガイドラインが完成し、翌1998年4月28日、「周辺事態法案」など関連法案が国会に提出され(改定ACSAのみ30日)、1999年の第145回国会で関連法案の審査が始まった。

今回、関連法案で規定された、日米協力の要である後方地域支援についても「それ自体武力行使ではない」及び「米軍の武力行使と一体化しない」という解釈が行なわれることになる。おそらく「国際平和協力法案」の教訓を活かしたのであろう。「我が国領域並びに現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国周辺の公海(海洋法に関する国際連合条約に規定する排他的経済水域を含む。以下同じ。)及びその上空の範囲」(周辺事態法第3条の3と極めて具体的に規定した「後方地域」という新しい概念を案出して自衛隊の活動をここに限定し、かつ危険が迫った場合の活動中断も規定し、さらに武器弾薬は提供しないなどの制限も設けて、米軍の武力行使との一体性を避ける工夫がこらされた。

しかしガイドライン国会では、本稿で取り上げてきたような、集団的自衛権の定義や行使の是非に関する質疑は比較的少なかった。むしろ日米協力を前提にした個々の活動に対する質疑が多かったと言える。90年代の国会勢力の大変化でこの法案に反対する議員が少数化した影響もあるであろう。さらに法案提出から成立までの間に、北朝鮮のミサイル実験(1998/8/31)、韓国南岸における北朝鮮潜水艇撃沈事件(1998/12/18)、日本海における不審船事件(1999/3/24)が発生し、インドネシアの政変に伴い邦人退避のための自衛隊輸送機派遣が行なわれるなど(1998/5/18)、危機管理体制整備の必要性を議員に理解させる出来事が連続したことも影響したのかも知れない。

だが以下のような答弁もある。1999年5月11日、参議院の指針特別委員会で依田智治(自保)が、周辺事態法における我が国の行動の性格を質したのに対し、大森政輔内閣法制局長官は「我が国は、先ほど申し上げましたように、平和的生存権を確認する前文とか、あるいは生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を最大限に尊重すべきことを規定する憲法十三条の規定等の趣旨からいたしまして、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うして、これらの責務を果たすことができるように憲法の定める範囲内で必要な措置をとり得る、これは主権国家固有の権能の行使として当然のことでございます。これは狭い意味の自衛権の問題にとどまらない問題でございまして、周辺事態において法が予定します後方地域支援活動等は、以上に述べました考え方に従いまして、国のとるべき政策の選択として、我が国の平和と安全を確保する観点から、日米安保条約の目的達成に寄与する米軍に対して、憲法九条が禁止する武力の行使等に当たらない限界内で主権国家固有の権能に基づく行動として行うものであるということが説明できようかと思います。」と答弁した。かつて自衛権保有の根拠に使われた、平和的生存権や国民の権利がここでは周辺事態における対米支援の根拠として現れている。

また後方地域支援と集団的自衛権の違いについては「この法案で実施することを予定している後方地域支援等の活動と申しますのは、それ自体武力行使に当たらない、(略)そういう行為が米軍の行う武力行使と一体化して、やはり評価としては我が国も武力行使をしているということになりはしないかという御疑問に対してであろうと思います。(略)まずそれを行う場所というのがいわゆる後方地域である。(略)後方地域内においてのみ行うということが現実にも確保、担保される仕組みになっている。このような仕組みのもとにおける後方地域支援と申しますのは、米軍の武力行使との一体化の問題を一般的に生ずるものではないということでございます。そういうことになりますと、我が国が武力を行使して武力攻撃を阻止するという部分が生ずる余地がないわけでございますから、我が国が集団的自衛権を行使するに至るという心配は一切生じないということは、これは詳しく説明すればだれでもおわかりいただけることではなかろうかと思う次第でございます。」

それ自体が武力行使ではなく、米軍の活動と一体化もしなければ集団的自衛権の行使ではなく、従って憲法には違反しないということであるが、逆に読めば、集団的自衛権行使でなくすために後方地域を設けたということであろう。しかし後方地域の設定は現実問題として可能なのか、あるいは後方地域に限定して有効な支援が行なえるのか、という疑問が法案への賛否の立場を越えて問いかけられることになった。

 

この時代の政府解釈を総括すれば、憲法改正も憲法解釈変更もできない状況下で、自衛隊が米軍の兵站に従事しても「それは集団的自衛権の行使ではない」という国内向けの説明に説得力を与えるための内閣法制局の「知的アクロバット」(田中明彦)的な解釈が発揮されたと言える。「他国の武力行使と一体化しない」という解釈は内閣法制局の精密な理論に補強されて、政策遂行の強力な武器になった。しかし議論が精緻化すればするほど現実感が損なわれていくことは否めない。一般的に理解しづらい枠組みを作ってしまったと言えるのではないか。

 

この時代、日米防衛協力の一環として集団的自衛権と抵触するとされたのが、弾道ミサイル防衛(Ballistic Missile Defense)である。これはクリントン米政権では戦域ミサイル防衛(Theater Missile Defense)として研究された。湾岸戦争の教訓や、北朝鮮の弾道ミサイル開発などにも触発され、同盟国や海外に展開する米軍を敵性国の弾道ミサイル攻撃から防衛するための迎撃手段を開発することを目的としている。

日本は早くからこの構想に関心を持っていたが、1998年8月の北朝鮮ミサイル実験を機に、同年12月に日米共同研究を開始する運びとなった。本来、飛来するミサイルを打ち落とすための迎撃手段であり、効果的に迎撃する手段が現在はなく、さらに攻撃用に転用することができないことから専守防衛にかない、憲法上の問題を起こすことは考えにくかった。

しかし日本のシステムを米国のシステムと連動させ、韓国・台湾防衛に使用された場合は集団的自衛権の行使に当たるとする主張がある。日本があえてBMDと呼称しているのも米国との一体性を避けるためと言われる。ただし全般に集団的自衛権抵触を問題視する質疑は少ない。

1995年3月17日、参議院内閣委員会において田英夫(社会)に対し村田直昭防衛局長は、「集団的自衛権の行使に触れるのではないかということにつきましては、このTMDが、専ら我が国に対する弾道ミサイルの攻撃というような事態に対し我が国の防衛のためにこれを防御するための兵器というものを開発するという観点において、そういうものであるならば集団的自衛権の行使に当たるというようなことはないというふうに考えておるところでございます。」と答弁した。「専ら我が国に対する」ということは日本防衛が主目的であるが、必ずしもそれに限定はされないという含意が感じられる。

なお、2001年以降ブッシュ米政権はクリントン政権の政策を変更し、米国本土を防衛するための国家ミサイル防衛(National Missile Defense)を優先開発し、TMDをこのシステムに補完的に組み込んで海外で米国向けにミサイルが発射された場合、発射地点近くで迎撃させる構想を提起した。この結果、日米のシステムを連動させると、日本のシステムは米国防衛に直結することになり、集団的自衛権の行使と言わざるを得ない状況になる。このため日本のシステムは自己完結型として米国システムとは連動させないとする考えもある(中谷元防衛庁長官2001/6)。

米新政権発足以後の政府答弁は、「ミサイル防衛につきましては、(略)今検討して研究しているという段階であるということを、まず基本認識に置いていただきたいというふうに思います。それから、集団的自衛権につきましても、小泉総理がこの間の党首討論でもおっしゃっておられますけれども、ミサイル防衛と集団的自衛権との関係につきまして研究の余地があるというような趣旨の発言をなさっていらっしゃるわけですから、その辺のことについて、やはり私たちもよく踏まえて考えていかなきゃなりません」(田中真紀子外務大臣2001/6/20衆議院外務委員会)と研究中であることを理由に具体的な答弁を避けるようになった。

 

おわりに

(ア)憲法解釈見直しの可能性(2001〜)

1999年に周辺事態関連法が成立した後、集団的自衛権問題は、また少しの間国会の議論で取り上げられることが少なくなる。

最初の変化は米国から来たと言えるかも知れない。2000年10月に「The United States and Japan:Advancing Toward a Mature Partnership」が公表された。これはR.アーミテージ、K.キャンベル、M.グリーン、J.ナイといった米国の知日派グループが超党派で作成した政策提言であり、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している。」(米国防大学国家戦略研究所(INSS)特別報告書 世界週報2001/1/30)と明快に指摘している。

さらに2000年の米国大統領選挙で8年ぶりに政権交代が行われ、共和党のブッシュ大統領が誕生した。ブッシュはクリントン政権の対日政策を転換し、日本を同盟国として重視する代わりに同盟国としての義務の履行を従来より積極的に求めることになる。

一方、日本でも2001年4月に小泉純一郎が総理大臣に就任し、集団的自衛権の憲法解釈の見直しに言及した。「集団自衛権または日米安保条約、憲法九条の問題というのも私なりに勉強してきましたが、これは、時々によって、また人によって解釈が変わる場合が結構あるんですね。(略)私は、そういう点についていろいろ、今までの憲法解釈を変えるのは難しいけれども、そして憲法を守るのは当然であるから、その点でもっといろいろ熟慮、研究していい余地があるのではないかということを申しているわけであります。(略)あるいは日米協力関係を緊密にしていくためにはどうしたらいいかということをもっと真剣に議論しても、研究してもいいのではないかということを発言していることを御理解いただきたいと思います。」(2001/5/14衆議院予算委員会)。この発言には護憲勢力から批判があるが、政治生命を揺るがすほどのものではまったくない。小泉に対する国民の圧倒的な支持もあり、小泉の発言に反対することを躊躇わせる傾向も指摘される。

かつて1994年、羽田孜内閣の柿澤弘治外務大臣が就任直後に集団的自衛権の憲法解釈について変更すべきだと述べた途端に与野党双方から批判を受け、「余り先入観を持たずに議論をしてみてはどうか、また、国民の皆さんも含めて広く議論をしていただくことが大事ではないか、こういうことを申し上げたわけでございまして、閣僚として憲法解釈の見直しに触れたわけではございません。(略)またさらに、集団自衛権につきましては、羽田内閣として、前内閣の考え方(略)を継承していくということでございますので、私も内閣の一員としてその方針を守ってまいりたいと思っております。」(1994/5/18衆議院予算委員会)と自説を撤回せざるを得なかった。羽田内閣が少数与党政権という特殊事情を考慮しても印象深いものがある。

2001年5月15日、衆議院予算委員会において岡田克也(民主)は、国会決議をもって集団的自衛権行使を容認するという考えに対して憲法改正の方が望ましいと質した。小泉は「私も基本的には同じ考えです。しかし、いろいろ研究についてまで否定することはない。特に、憲法の改正については十分な配慮が必要ですし、国民的な議論も見きわめなきゃならない。私自身も常々申し上げておりますように、政府の解釈については、長年国会の審議等積み上げられたものがあります。これをもし変えるというのであれば、よほど慎重な十分な配慮がなされなければなりませんし、そういう点も含めまして、私は、幅広い議論が行われることが必要であり、もしも変えるということがあったとしても、これは十分に慎重に検討しなきゃならない。本来望ましいあるべき姿は、(略)きちんとそういう誤解のないような形で憲法改正という手続をとってやった方がより好ましいというのは、岡田議員と同様の考えを持っていると私は認識しております。」と答弁し、当面議論が大切であるという立場を変えないが、あるべき姿は憲法改正であることを明確にしている。

過去、柿澤の例に見られるように一議員ならともかく、大臣の地位にある人間が憲法解釈の見直しに言及することさえはばかられた時代は長かった。こういう時代は20世紀とともに終わったと言えるのかもしれない。

 

(イ)  結語

政府解釈のダイナミズム

以上、1950年から2001年まで、半世紀にわたり国会における集団的自衛権に関する議論をたどった結果、その変遷についてダイナミズムが現れてきたと思う。戦後、政府の立場で一貫しているのは、「海外派兵は許されない」というものであった。集団的自衛権の議論は突き詰めれば常にこの一点を巡って交わされてきた。

海外派兵はできない、しかし憲法で許されることは何か、という問題意識で始まった政府解釈は、飛躍的に高まる日本の国力と国民意識との狭間で次第に屈折することになった。50年の流れをかえりみれば、小泉総理が「時々によって、また人によって解釈が変わる場合が結構あるんですね。」(2001/5/14衆議院予算委員会)と捉えているのは的確である。

一言でいえば、集団的自衛権の典型例である海外派兵に対する野党・国民の疑念を払拭するための答弁が、次第に集団的自衛権そのものの行使を制限し、ついに一般的禁止に陥ったということである。しかもその後は正反対の力学が働き、自分で禁止したものを事実上行使するための「憲法解釈見直し」や「知的アクロバット」的解釈に追われてきた、というのが筆者の結論である。

 

時代ごとの政府解釈の曖昧さ

上記のダイナミズムは、政府に確立した理論があってのダイナミズムというわけではない。歴代の政府答弁を見ると、むしろ「集団的自衛権行使とは何か」あるいは「なぜ集団的自衛権は行使できないのか」という根本的な問題に関する政府の考え方の曖昧さがうかがわれる。

集団的自衛権は様々な形態がありうるのか(72年以前)、武力行使を伴うもののみなのか(70年代末以降)。軍備がないから行使できないのか(50年代初期)、自衛の必要最小限度を越えるから行使できないのか(50年代中期以降)。行使できる集団的自衛権もありうるのか(72年以前)、集団的自衛権は一般的に禁止なのか(72年以降)。海外派兵とは何なのか、自衛目的でも海外派兵は禁止されるのか。時々によって結構変わる(小泉総理大臣)のは解釈だけではなく、解釈の前提となる定義も同様である。

これらの食い違いはその時々に従来解釈との矛盾という形で問題となる可能性はあった。たとえば1972年に集団的自衛権が一般的に禁止とされたとき、60年安保当時の答弁を引用して、在日米軍基地提供を今後は拒否するのか、という議論が起こっても不思議ではなかった。しかし全体の議論の流れが集団的自衛権を自己規制する方向に推移していった経緯から野党側でも問題とされなかったと思われる。政府はこれを幸い矛盾を放置して、当面の国会審議を乗り切ることに注力してきた。

矛盾の中でも特に重大なものは、禁止される集団的自衛権を広く捉えるか、武力行使に限定するのかという部分であろう。武力行使のみが禁止されるのならば、後方支援・情報提供などは可能となるだろう。しかし「集団的自衛権行使とは何か」という問題が、海外派兵から武力行使を伴わないものへと拡大(72年)し、一般的に禁止とされた結果、これも不可能となった。1970年代末以降、内閣法制局は武力行使を伴わないものはそもそも集団的自衛権行使ではないとか、他国の武力行使と一体化しなければ可能、という解釈を新たに立てなくてはならなくなった。これらの矛盾がさらに表面化したのが90年代以降の議論であったと言えるであろう。

内閣法制局の「憲法解釈見直し」や「知的アクロバット」は当面の政策遂行には寄与しても、実際には危うい脆さも内包しているのではないだろうか。

 

「憲法解釈」の影響

あるいは田中明彦が述べているように、内閣法制局はすでに確立した自衛権発動三要件を使って、個別的自衛権を守るため、集団的自衛権を憲法違反として区別しようとしたのかもしれない(田中1997 P.178)。1972年段階では、個別的自衛権行使で専守防衛さえ出来れば日本の安全保障と米国との同盟関係に支障ないと判断したのも止むを得なかったかもしれない。しかしその後ほどなくして新冷戦が発生し、日本が有力な西側同盟国として認められる時代がくる。その中で日本はシーレーン防衛のように従来の専守防衛を超える協力を求められ、この集団的自衛権禁止という解釈が日本を自縄自縛状態に追い込むことになった。新冷戦期は個別的自衛権の拡大解釈や「憲法解釈見直し」で対応できたが、ポスト冷戦時代が来ると「知的アクロバット」的解釈によってしか日米関係や国際的な地位を守る術が無くなる。

日本には既に自衛権発動三要件で、個別的自衛権についても武力行使は専守防衛に限定するという制約がかかっていた。これは政策として基本的に優れたものではあるが、たとえば1956年2月に取り上げられた、いわゆる「敵基地攻撃と自衛権質疑」 (1956/2/29 衆議院内閣委員会)に見られるように、敵の攻撃を待って武力行使を発動するという制約を固守すると、長距離誘導弾などの軍事技術の進歩に伴い、「座して死を待つ」事態を引き起こしかねない、という危惧も指摘されている。集団的自衛権禁止の制約と併せれば、日本には自衛・同盟の二段階に二重の自縄自縛がかかっていると言えるかもしれない。

あえて言えば、海外派兵・集団的自衛権禁止は憲法解釈ではなく、非核三原則や武器輸出禁止と同様に政府の政策という手法で規定すべきものだった。水口宏三が1972年に指摘したように、政府自らが国家として当然保有しているとする権利の行使をしない選択は、法律論というより政策論といった方が理解しやすい。政策ならば防衛費のGNP比1%枠や対米武器技術供与のように時代の要請に合わせて変更することも可能で、変更に当たって適切な制約を課せば国内も説得しやすい。もちろん政策による禁止では50年間の国会論戦に耐えられなかったかもしれない。しかし自縄自縛が避けられたことは間違いない。

ともあれ憲法解釈で禁止した結果、政策に合わせた解釈変更が憲法を頂点とする法秩序(大森政輔内閣法制局長官)を揺るがすという内閣法制局の筋論の前に政府は抗弁できないのではないか。現在の津野修内閣法制局長官も解釈変更は事実上不可能という立場を堅持している(2001/11/6朝日新聞)。付言すると内閣法制局の解釈は本稿で見てきたように時々の政府の政策に法的正当性を与えるために案出され続けた性格が濃厚で、その点で「政策」の色彩が強いものではあるが、こうした事情から解釈変更を迫る主張は政府内で強力になりにくいと思われる。

 

日米関係における集団的自衛権

日本が日米安保体制を安全保障政策の主軸のひとつと位置づける以上、同盟国としての義務を果たす意思は不可欠である。しかし平和憲法の精神に照らせば、海外派兵が不可能にして不適切であることは歴代政権が一致して答弁しているとおりであるし、この方針を変える必要はないであろう。従って集団的自衛権の核心部分が海外派兵による国家間の相互防衛であるとすれば、日本はその義務を果たすことはできない。しかしアジア諸国の感情も考慮すれば米国もそれを強く求めているとは思われないし、そもそも安全保障条約上の日本の義務は自衛と基地提供のみと主張することも十分できる。

しかし海外派兵はともかく、武力行使を目的としない対米協力までも集団的自衛権の行使という形で一般的に禁止した結果、日本は安全保障問題で自衛を越える積極的な活動がほとんど不可能になった。東アジア情勢の安定を背景にした集団的自衛権禁止は、早くも1970年代の終わりには新冷戦に直面し、日米同盟が強化される流れの中で日米協力の制約要因になってしまった。

東西冷戦下においては日本が自国防衛に専念することは、そのまま東アジアで米国の対ソ戦略の一翼を担うことにもなり、集団的自衛権が行使できないことは日米間でそれほど深刻な問題にはならなかった。しかし1990年代に入り地域紛争発生の可能性が高まり、米国から同盟国として応分の協力を要求される時代になると、集団的自衛権が日米間で放置できない問題となった。特に朝鮮半島情勢や中台情勢が緊迫する中、米国は基地使用や資金援助だけではすでに満足せず、人的協力を切実に求めてくる。集団的自衛権行使を前提とした日米協力態勢の構築は日米同盟関係の存立そのものに関わることになった。日米安保条約の枠組みでは日本に対米支援の義務は無かったが、新日米ガイドライン成立以降、日本は安全保障条約外の義務を自ら進んで引き受けることになった。しかもアジアにおける米軍兵力の退潮傾向と反比例するように自衛隊の能力が強化され、日米同盟における米側の不満が高まるようになる。

現在自衛隊は、種々の弱点を抱えているとはいえ、少なくとも通常兵力としては、確実に世界でもトップクラスの実力を備えている。しかも冷戦後の欧州における軍縮のおかげで相対的にその地位を高める結果になっている。当然のことながら米軍は自衛隊の実力を熟知していると思われる。従って自衛隊が常に憲法をはじめとする国内議論に拘束されていることに同情する半面、あるいは「戦友」として割り切れなさも感じているであろう。

 

憲法解釈の限界

日米同盟の重要性に関する議論を避け続けた政府側の姿勢は55年体制下において憲法改正が困難で、社会党の抵抗など安全保障問題の政治的コストが著しく高かったことを勘案すれば、止むを得なかったという評価も成り立つだろう。しかし安全保障問題に極めて内向きで、常に問題の核心を忌避する手法をもたらしたという点で負の影響が大きかったと言わざるを得ない。この影響は90年代に際立ってくる。

90年代の憲法議論は「それは集団的自衛権の行使ではない」、「危険なところへ行くわけではない」、「他国の武力行使と一体化しない」、「武力行使に該当しない」、「わが国への攻撃を正当化しない」など、もっぱら日本側の主観的な基準で日本の活動を国内的に正当化することに焦点がしぼられるようになった。こうした日本の基準が現実的であるかどうかははなはだ疑問で、実施の段階で混乱することは想像に難くなく、さらに紛争当事国に日本は紛争当事者になる気はないことを納得させることは絶望的であることは論を待たない。議論は精緻になるが、その分いよいよ現実感を失うことになる。結局こうした無理な答弁を続けざるを得ないのは、行使すべきものを禁止してしまったことが原因か、禁止されたものを無理に行使しようとしていることが原因か、論者によって評価が分かれることであろう。

議論の現実感をつかれると、政府は大胆な答弁をすることもある。1998年3月12日、衆議院安全保障委員会で赤松正雄(新党平和)が、ガイドラインに関連して日本が後方地域で一線を画したと思っても紛争国が攻撃してきた場合について質されると、「仮にその武力攻撃が自衛権発動の三要件に該当するということであれば、それはまさに自衛権の行使が可能な状況になるということになろうかと思います。」(佐藤謙防衛局長)と答弁した。紛争に巻き込まれて日本有事に発展すると言っているに等しく、時代によっては内閣の倒壊に繋がったかもしれない。

 

日本国民の意識

政府・国会の状況とは別に日本国民の意識は着実に変化している。自衛隊が国民的な認知を受けてすでに久しい。日本の防衛力について、増強、現状維持を合わせて2000年1月の内閣官房の調査で79.6%と国民の支持は確立している。また、自衛隊のPKO活動は、1991年では賛成20.6%、どちらかと言えば賛成を合わせても45.5%と過半数に届かなかった。2000年1月では、賛成40.5%、どちらかと言えば賛成を合わせれば79.5%に達し、PKOも国民の認知を受けたといえるであろう(防衛ハンドブックP.751)。

集団的自衛権について、2001年8月から10月に毎日新聞が行った電話世論調査が興味深い。2001年8月末時点(2001/9/11ニューヨーク・テロ事件以前)では、集団的自衛権行使可能派25%、行使禁止派66%と2倍以上の開きがあった。それが事件直後の9月24日の調査では、可能41%、禁止52%とかなり縮まる。さらに10月14日の調査では、可能35%、禁止56%とやや開きが大きくなった(毎日新聞HP http://www.mainichi.co.jp/)。

また、日経リサーチ(http://www.nikkei-r.co.jp/index.htm)が2001年6月に実施した世論調査では、行使賛成58%、現状維持24%という結果が出ている。

小泉政権への一般的な支持のほか、テロ事件や自衛隊派遣が現実になる中で、国民感情がかなり揺れている傾向が伺えるが、状況によっては集団的自衛権行使に国民的な支持を得られる可能性は指摘できるだろう。

 

集団的自衛権に関する7つの問題点

集団的自衛権行使の可否・是非について論じることは本稿の目的ではない。しかし今後議論が必要になるだろうと筆者が考える7つの問題点を述べて締めくくりとしたい。

第一に、憲法解釈の限界である。本稿で指摘したとおり90年代以降の議論は実際的ではなく、今後も新たな展開を開くために憲法解釈に頼るのは果たして妥当であろうか。「国家の契約文書である憲法を守ることが国民の安全につながらない可能性があるのであれば、契約文書を直すのが常識的だと思う」(田中明彦『新しい「中世」』P.251)という立場もある。方向性はどうあれ、本来政治がとるべき「政策」の責任を内閣法制局の「解釈」に頼ることの適否について検討が必要なのではないか。

第二に、国際社会における信頼性の維持である。仮に集団的自衛権を行使するとして、諸外国と同様に行使することは適当であろうか。特に憲法改正を伴わない場合、日本の平和原則や過去の政策との整合性をある程度は保つ努力を続けないと、国際社会から日本は国家の基本原則を簡単に放棄する国だと受け止められないか。日本の国際社会における信頼性をいかに維持するか配慮が必要であろう。

第三に、二と関連するが、ドイツの先例をいかに日本の場合に活かすかである。日本人の中には統一後のドイツの安全保障政策変更を賞賛する傾向がある。しかしドイツが手続きを踏んで憲法裁判所の判決を受けて、ボン基本法を事実上改正し、さらに海外派兵を国連・NATOの枠組みに限定していることはあまり意識されていないようだ。ドイツが安全保障政策を変更しても欧州社会で信頼性を保っている理由は何なのか、同様の歴史を持つ国家としてよくよく研究が必要だろう。

第四に、中国、韓国といったアジアの近隣諸国との関係である。残念ながら日本は未だに隣人との間に信頼関係を築けていないと言わざるを得ない。日本人はここ10年ほどの経済危機の影響で全体的な国力がかなり低下したと感じ、かつ伝統的に自衛隊の実力をあまり評価していないようだ。しかしこれらのアジア諸国では日本の国力も自衛隊の実力も、日本人が感じている以上に高く評価していると思われる。このギャップは日本の外交政策の影響力を日本人に過小評価させている。これにバブル経済崩壊後の内向き志向とナショナリズムの高揚が加わって、海外から来る批判に感情的に反応する遠因になっているように思われる。集団的自衛権の行使は日本と他国の利益とが両立するように行うのが望ましい。仮に日本が集団的自衛権を行使しても、近隣諸国から批判が起きるような事態を避けるためにはいかなる配慮が必要なのか、検討が求められる。

第五に、米国との関係である。米国は日本が集団的自衛権を行使すればもっぱら受益者の立場に立つので近隣諸国のような批判が起きることは想像しづらい。それだけに日米関係の視点に囚われると、行動が対米追従的になる可能性が高い。これを防止して独立国として日本の自立性をいかに確保するのか、外交交渉能力が求められる。

第六に、国連PKO活動の実効性の確保である。PKOは国家の自衛権とはまったく異なり、従ってそもそも集団的自衛権問題ではない。しかし1992年のPKO国会以来、PKOが海外派兵の一形態という理解が未だに日本国内にあるため、自衛隊は日本独自の制約を受けた参加を余儀なくされている。PKO参加国は日米同盟のように互いの事情を熟知した「戦友」ばかりではない。日本の特殊性が全体の活動の障害になったり、他国の当惑を引き起こすならば参加は遠慮した方が良いのではないか。何より派遣される自衛隊員が無意味な危険にさらされることになる(杉山隆男『兵士に聞け』P.532)。PKOを国際協力の主軸と位置づけるならば、その参加に関して、集団的自衛権議論を適用することは必要なのか、再考が求められる。なお、国会ではここ数年、東ティモールPKOなどを視野に入れて参加五原則等の見直しやPKO法改正の機運が高まっている。

最後に、集団的自衛権の行使について国民の理解と支持をいかにして得るかである。現実問題として、国民の支持が得られなければ、集団的自衛権の行使を内外に明確化することは諦めざるを得ないであろう。逆説的に言えば、海外派兵は国民と無関係に自衛隊のみでも実施可能だろう。しかし武力行使を伴わない形態の集団的自衛権は、周辺事態の後方地域支援など民間・地方自治体にも頼らざるを得ない分野が大きい。政府に強制権限を付与するならいざ知らず、内外に集団的自衛権は行使できると宣言しても、自治体・労組・住民の反応を考慮すれば心許ないのではないか。筆者の見たところ、集団的自衛権を行使しようという最近の議論でこの点が一番見落とされているように感じられる。総理大臣の政治決断でも、安全保障基本法制定でも、国会決議でも、憲法解釈変更でも、国民の理解と支持をいかに確保するかという視点が明確ではない。国会が決めれば国民は従うべきだと言うのも議会制民主主義のひとつの見識だが、日本は民主主義国なのだから、政治は国民の支持を調達するところから地道に始めるべきではないだろうか。

 

以上

 

参考文献

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船橋洋一『同盟漂流』岩波書店1997
PELLET, Alain『コマンテール国際連合憲章』上 東京書籍1993
米国防大学国家戦略研究所(INSS)特別報告書「The United States and Japan: Advancing Toward a Mature Partnership」『世界週報』2001年1月30日号〜2月6日号
細谷千博・信田智人編『新時代の日米関係』有斐閣1998
宮澤喜一『東京―ワシントンの密談』中公文庫1999
安田寛・西岡朗編『自衛権再考』知識社1987
油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社1998
渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』中公文庫2001