研究成果の概要 

 

1期である2001年度から2003年度夏においては、経済(商取引と財政金融)、安全(安全保障と刑事法)、社会(社会の中の個人・家族・社会保障)、情報、環境・人間の5つの問題群を設定し、問題群を担当するエージェントが専門分野横断的研究チームを組織し、問題群毎に「ボーダーレス化」に伴う法的諸現象の現状について共同研究を行なった。研究チームは、法学政治学を専攻する国内の研究分担者(各問題群に公法、私法、国際法、基礎法学、政治学の専門家を幅広く加える)に加えて、工学・理学・医学系等の関係分野の専門家、企業・政府等における実務家、海外の専門家をも適宜研究協力者として依頼し、学際的・国際的作業が行えるようにした。それらの作業を通して、様々なテーマ・政策分野毎に、どのような「ボーダーレス化」が観察されるのか、それらが持つ法的含意は何かといったことについて、ボトムアップの考察を進めてきた。この成果については、2003年度冬以降とりまとめを行い、2005年度には出版を行った。渡辺浩・江頭憲治郎編『融ける境 超える法』全5巻(『市場と組織』、『安全保障と国際犯罪』、『個を支えるもの』、『メディアと制度』、『環境と生命』、東京大学出版会)として出版されている(収録されている具体的論文については、研究成果の発表の項目を参照)。第1期の最終成果の概要は以下の通りである。

『市場と組織』では、競争市場の一員としての政府、多様化する組織(NPO等)に対する課税、公共債のデフォルト可能性に見られるように、デジタル情報への課税といった問題に見られるように、国際的活動の重要性が明らかになった。さらに、多様な形態での信託制度の利用、会社法と証券取引法・民法等との境界の再編成、時価会計が配当規制に及ぼす影響、電子化に伴う証券取引所の変貌、保険とそれに類似する取引との垣根といった問題に見られるように、技術の進展に伴い、市場や、市場を成り立たせている法的基盤自体が変容するという課題が存在することが明らかになった。

『安全保障と国際犯罪』では、国際関係を規定している国際安全保障と、国内秩序を規定している刑事法という従来は対極的であった領域が、相互浸透しつつあることが明らかになった。安全保障の課題は外国国家からの軍事的脅威をいかにとり除くかであり、そこでの力は軍隊であった。他方、刑事法は一国内での国内秩序維持のため、国家が刑罰権を行使することを前提とし、そこでの力は警察と検察であった。しかし、現代社会では、かかる二元論的な思考では解決できない問題が登場してきた。ハイジャック等のテロ犯罪、他方で集団殺害や人道に対する罪といった「個人の国際犯罪」は、その具体的表現である。また、同様の課題は、サーバー犯罪への対応、安全保障要員をめぐる諸問題においても確認される。

『個を支えるもの』では、個人と個人の日常生活と尊厳を確保するために用いられる諸観念・諸制度が大きな変貌を遂げつつあることが明らかとなった。具体的には、人権保障のあり方(途上国における実施方法も含む)、個人の自律・自立と国家の介入・援助の交錯が典型的に現れる児童福祉の問題(児童虐待防止、保育サービスの提供等)、個人に対する支援と抑圧の両面を持つ家族に関する様々な考え方(同性カップル、行政による養育費の取立て、社会保障を世帯単位あるいは個人単位のどちらにするかという問題等)において変化が確認された。

『メディアと制度』では、情報を基点とする現代的な問題の広がりが、たとえ学問体系全体の変容をもたらさないとしても、各学問分野の既存の思考様式に反省を迫る点が明らかにされた。まず、情報化とそれに対応する法制度の展開(電子消費者契約、個人情報保護、サイバー犯罪対応等)が日本社会に対して与えるインパクトについて明らかにされ、次いで、放送・通信法制の現下の諸問題(サーバー法成立の可能性、デジタル化の進展と公共放送、グローバル化の中の通信法制等)について検討された。

『環境と生命』では、進歩する技術や科学的知識あるいは資源の利用が環境や生命に及ぼす影響や、対応上の課題が明らかになった。具体的には、科学的知識に関して一定の不確実性が不可避な中で、いかにしてそのような知識を構築し、それを用いて社会において必要とされる統御=線引きを行っていくのかという課題の存在が、放射性廃棄物規制や食品安全規制といった事例に即して検討された。また、環境汚染への対応のための費用の負担、医療の現場における制裁を伴わないガイドラインや指針といったソフト・ローあるいは「小さな法・柔らかな法」といった、環境・人間に関わる課題に対応する際の法的手法の多様化についても検討された。さらに、多様な国際的な環境条件の中でどのような国際的規範形成と実施のメカニズムを構築するのかという課題に関しては、廃棄物の越境移動、オゾン層保護、捕鯨問題等の事例を素材に、条約策定を国内法や国内の事業者等関連主体の活動に繋げるメカニズムや現場での個別対応を国際的条約策定等の規範形成にフィードバックする柔軟なメカニズムの構築の重要性が分析された。

 その後、2003年度秋に、第2期として、これまでの5つの問題領域を串刺しにする3つの横断的領域、@)国家の役割と法領域(国家と社会班)、A)国際化と法領域(国際化班)、B)科学技術の発展と法領域(科学技術班)を設定し、今後の法システム再構築に必要なこれらの横断領域における課題と法的対応の方向性について検討することを開始した。メンバー的にも、3つの班の編成に際しては、各班に、5つの各問題分野の担当者が可能な範囲で幅広く参加できるように配慮した。そして、2006年3月に最終報告書をまとめ、現在、計3巻での出版準備を進めている。内容は以下の通りである。

国家と社会班の研究成果である『国家と社会』の内容は以下の通りである。第1部:規範定立・執行における社会集団の役割−江頭憲治郎「経済団体(専門家団体を含む)による法形成とエンフォースメント−経済団体・専門家の利益相反問題」、太田匡彦「ドイツ医療保険法におけるFestbetragsfestsetzung制度の展開」、大串和雄「国境を超える「社会」―トランスナショナル社会運動」、第2部:市場と国家−碓井光明「政府業務の民間開放と法制度の変革」、増井良啓「ボーダレス化時代における租税制度の再構築」、第3部:ボーダレス時代における社会保障・安全確保・司法制度−岩村正彦「社会保障法と憲法についての覚書−社会保障制度における「国家と社会」をめぐって」、田辺国昭「警察行政における計画−街頭犯罪等抑止計画を例に」、ダニエル・H. フット"Judicial Independence Reexamined"、第4部:国家財産法における公法と私法−碓井光明「政府業務の民間開放と法制度の変革」、金性洙「韓国の国家財産法の現況と立法政策的課題」。

国際化班の研究成果である『国際化と法』の研究成果は以下の通りである。第1部:境界(ボーダー)とは何か−原理的考察−杉田敦「生権力と国家−境界線をめぐって」、長谷部恭男「国境はなぜ、そして、いかに引かれるべきか?」、第2部:境界(ボーダー)の変動および意味変容−中谷和弘「国際法における「境界」の位相」、塩川伸明「国家の統合・分裂とシティズンシップ(国籍・市民権)−ソ連解体前後における国籍法論争を中心に」、第3部:変容する国際社会と法・政治の対応−茂田宏「パレスチナ問題と国際法」、元田結花「規範と実践の交錯−開発・HIV/AIDS・人権」、宮川真喜雄「東アジア諸国との経済連携協定の構築とその地域統合促進への基盤形成効果」、松下淳一「法整備支援のあり方について−カンボディア王国民事訴訟法案起草支援作業の経験から」、第4部:人の国際移動と法・政治の対応−廣渡清吾「国際移住の法システムと法政策−ドイツ法とEU法を素材として−」、大村敦志「民法における「外国人」問題−契約拒絶を中心に」、斎藤誠「国際化と地方自治」。

科学技術班の研究成果である『科学技術の発展と法』の研究成果は以下の通りである。第1部:科学技術と生命観−西川洋一「科学技術の発展と法−その歴史的文脈」、神里彩子「イギリスと日本における動物実験規制−動物観と法制度設計」、Britta van Beers "A right not to be born?"、第2部:科学技術と行政−山本隆司 「学問と法システム」、城山英明「リスク評価と法システム」、大塚直「予防原則に関する一考察」、第3部:科学技術と刑事法−山佳奈子「現代型刑罰法規と罪刑法定主義」、山口厚「科学技術の進歩と刑法−過失責任の視点から」、第4部:科学技術と民事法−神田秀樹「証券取引の電子化」、森田宏樹「金銭および有価証券の無体化・電子化と「占有」概念」、第5部:科学技術と国際法−青木節子「非国家主体に対する軍備管理−最先端技術を駆使する個人に対抗する法」、児矢野マリ「国際環境法における科学・技術の限界と「対話プロセス」の意義−事前協議制度を中心に」。

なお、フォローアップとして、2006年度には研究成果公開促進科学研究費を用いて、この研究結果を実務家及び将来の実務家にフィードバックする大規模な会議(200712728日)を計画している。また、このような横断的研究の成果は、公共政策大学院や法科大学院の新たな科目(立法学、事例研究等)にも生かすことができた。

 

 

特記事項

 

法システムというものは、個別的な文脈の中で設計されるものであり、法制度の再構築の一般的な方針を明示化することはなかなか困難である。しかし、本研究を通して、国家と社会、国際化、科学技術発展への対応という、現代の法システムが直面している基本的課題に則して、再構築の方向性は示すことができたと思われる。また、付随して、従来個別の法律毎の解釈論に終始しがちな法律学において、政治学も含めた諸学の協働と、横断的切り口からの比較分析を通して、法制度設計のためのいわば立法学の必要性を浮かび上がらせることができたのではないかと思われる。得られた新たな個別の知見は以下の通りである。

1に、国家による市場の規律よりは、市場の自律に委ねるべきであるとする自由化傾向、国家の保有する情報、技術力の限界、家族、会社、地域というような単位における「社会」の機能が弱体化に対応して、国家と社会の関係の再編成が進んでいることが明らかになった。まず、国家が細部にわたり規範を定立することの限界から、一定の業界団体、学界等の自己規律が重要な役割を果たすようになった。薬剤を医療保険給付でいかに扱うかという負担決定が高額薬剤の競争力を奪い市場から退出させることを狙うものであることにみられるように、規範の定立が直接には市場に向けられていないにもかかわらず、市場への影響を意識している場面もある。また、規制緩和による市場の重視の流れの中でも、市場を機能させるためには国家に不可欠な役割があり、業務の民間委託のための法制度変革、証券市場規制、租税制度の再分配機能はその例に当たる。さらに、「家族」「会社」「地域」などの「社会」の機能が弱体化する中で、社会保障制度や警察制度の再構築が問われている。そして、公法は、国家と私人、あるいは国家内部を規律するのに対して、私法は私人相互間、すなわち社会を規律するという考え方が支配してきた中で、国家財産は、公法と私法が混在する領域であるが、公法の支配する行政財産においても私法の規律を取り込む融合現象が生じている。

第2に、国境という「境界(ボーダー)」の設定は本来的に恣意性をはらまざるを得ず、絶対的に「真」なるものとして境界を画定するのは不可能であり、本来的には境界はむしろ可変的なものであるが、原理的には恣意的であるからこそ、各当事者はそれぞれの「正しい」と信じる境界に拘泥せざるを得ないという基本的課題が明らかになった。その上で、国境線画定の作業を実際に行なうときに生じる具体的な諸問題、国家結合およびその分離の法的意義をめぐってかわされた法学的議論の蓄積、国家の統合・解体とシティズンシップ(国籍・市民権)の関係が論じられた。これらを通して、境界(ボーダー)の変動がどのような法的・政治的・社会的意味をもつかが多角的に再確認された。更に、そうしたボーダレス化現象の増大に対して法/政治システムがどのように対応しようとしているかについて、国際紛争への国際法の対応、国際開発協力、地域的経済連携、国境を越えた法整備支援、人間の移動への対応を通して方向性を明らかにした。

3に、科学技術の発展が法システムに対して大きな挑戦を意味するのは、それが伝統的な法的思考の最も中核にある考え方とそれを基礎づける人間観(形而上学的な「人格」の概念から派生する特有の思考方法)を大きく揺るがせるからであることを明らかにした。確かに、人間にとって深刻な帰結を有する刑法では、例えば予測可能性に帰責を基礎付ける「自由の形而上学」が依然として妥当性を持っている。しかし、科学技術の発展によって、刑事法的な対応のみでは、従来刑事法が追求してきた社会的な価値が実現できなくなっている局面が増大していることも明らかであり、想定される結果の重大性に応じた類型化、行政的制裁や自治的規制との連携といった工夫も必要になる。他方、環境法のような新分野では、「予防原則」という新たな概念が主張され、その適用に際しては比例原則等の利用が論じられてきた。また、民事法においては、新しい技術の導入に際して伝統的な法思考を組み替えることに成功してきた面もある。例えば、金銭・有価証券の権利移転を規律する上で重要な「占有」という概念は、電子化という技術革新の下でも、「占有」を物理的支配から客体に対する事実上の権限というように新たに概念規定することによって、強靭に有用性を維持してきた。他方、技術の巨大化に伴う「主体」とその主体の「行為」との複雑化は、「権利」と「義務」ないし「責任」を明確に一つの法主体に負わせることや、一つの行為を法的効果の原因として特定することを不可能にしており、組織的自己規制メカニズムの強化や、新技術のコスト・便益を比較衡量する社会的判断メカニズム、責任追及と切断された補償メカニズムの必要性が高まってきる。また、社会的に知識革新を促すメカニズムとしても「学問の自由」という概念は新たな重要性を帯びつつある。さらに、科学技術の発展は、保護すべき対象としての「人間」の概念についても再編成を迫っている。一方では、診断技術が進歩する中で、人間の中でも保護されるべき対象を差別化する議論が出てきており、他方、動物実験規制における動物の苦痛軽減や動物の権利の議論に見られるように、人間以外の「生命」をも一定の保護対象としようという議論が出てきつつある。このような科学技術発展の状況を前提としつつ、法システムが実現し、確保しようとしてきた「自由」を筆頭とする諸価値をこの新たな環境の中でも維持しようとするならば、法的に有意味な社会的過程が多様な要素の間の複雑なインターアクションの複合体であることを認識しつつ、インターアクションのあり方に応じて公正で透明な評価のメカニズムを作り、組み合わせることをめざさねばならず、それは、伝統的な法的思考の妥当する範囲を意識的に限定するとともに、従来の法的手法とは異なる多様な手法を柔軟に用いることが要請されるプロセスであることが明らかになった。