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ブレーンストーミング 2003年6月23日 12:00〜13:00 参加者:塩川伸明、長谷部恭男、大村敦志、城山英明 ブレーンストーミング 2003年6月24日 13:00〜14:00 参加者:塩川伸明、中谷和弘、城山英明 (1)「境界」の意味(原理論) 「境界」とは何か、その不確定性・流動性 境界を引くことの根元的恣意性 境界が暫定的に固定化される状況と顕在的に流動化する状況 「再構築」か「再固定化」か (2)「境界」の実体的な変動 国家の統合と分裂(ドイツ統一、ソ連・ユーゴスラヴィア・チェコスロヴァキアの解体、香港の中国復帰、 ありうべき朝鮮半島統一その他) EU(ないし類似の国際組織)の地理的拡大およびその限界 歴史的事例(アメリカの南北戦争、ドイツ連邦、神聖ローマ帝国、ソ連その他) 国家内での地方区分の変更、地方分権、道州制(連邦制)など 係争地における境界線の具体的な引き方 (3)「境界」の意味変容 グローバル化時代における「国境」の意味 国境の敷居が下がる現象と再び高まる現象 ボーダレス現象増大とその意味、それへの法・政治の対応 立法と「外圧」、EU新加盟国の法制度改正、移行諸国への法整備支援など (4)「境界」を越える人の移動 国際労働力移動、移民問題 難民問題 外国人の法的位置 「市民権」概念の変容 (5)「境界」を越える経済活動 経済のグローバル化と国家の経済政策 WTOの行方 IMF・世界銀行の役割、国際金融と政治 負の経済活動としての国際的環境汚染、それへの法・政治の対応 (6)「境界」を越える情報流通 インターネット時代における通信・放送 情報流通に関する一国的規制と国際的調整 「グローバル・スタンダード」は形成されうるか (7)「境界」を越える安全保障問題 戦争と内戦(軍と警察)の相互移行 エネルギー安全保障 国際犯罪とそれへの対応 |
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2004年5月20日 報告者:法政大学教授 杉田敦今日は、私がなぜ政治と境界線について考えることになったのかという自分自身の問題の所在について、とりわけ、最近研究しているジョルジョ・アガンベンの見解との関係を焦点に論じたい。 私はこの数年間、権力概念について研究を行っている。フランスのミシェル・フーコーは、いわゆる主権的権力、規律権力、生権力など、様々な権力観を打ち出したものの、これらの権力相互の関係にはほとんど言及していない。私は、たとえば規律権力的なものと生権力的なものの関係、つまり、ある種の主体に働きかけて特定の行動パターンを植え付ける権力と、人間の群れの存続をケアする権力との関係は、一方がもう一方を包含したり、規定したりするという関係ではなく、双方が協調する場合もあれば、敵対する場合もあるものであるというように考えている。 私の境界線論は、権力と法の関係について考え始めたことに端を発する。ヴァルター・ベンヤミンなどの法に関する議論を参考にしながら、法秩序というものが成立するときに、その過程で、ある種の暴力が伴い、そしてまたそれが維持されるときにも暴力が伴うということを認識するに至った。このような話は、法秩序は暴力的なのでよくないという方向に議論が傾きがちであるが、逆に、われわれは果たして暴力と無縁でありうるのか、ということを考える必要がある。 政治と境界線について考えるとき、一般的には国境などがイメージされることが多いだろう。しかし、それだけではなく、例えば政治と非政治の境界線について考えなくてよいか。政治と非政治の境界線を引くという場合に、誰がどのようにして決めるのかという問題があり、そうした決定もまた政治といえる。 政治とは何かをめぐって、政治とは「対立」であるという見解と、政治とは「合意形成」であるという見解があり、この両者が対比されることが多い。政治が「対立」であるという場合、そこに境界線が想定されていることは明確であるが、「合意形成」であるとする場合についても境界線は存在するのではないだろうか。「合意」について語るには、誰が合意するのかをあらかじめ定める必要があり、そこに境界線が生じると考えられるからである。また、「普遍性」の重要性を唱える人々は、「普遍性」を前提とした秩序は境界線を伴わないとしているが、本当にそうだろうか。普遍性について語ろうとすれば、必ず普遍性の外部というものが生ずるからである。 また、政治については、次のような二つの類型が想定される場合もある。一つは、政治とは政治的単位の境界線の定義づけであるというものであり、もう一つは、政治とは国民を養うことであるというものである。フーコーは、前者はマキアヴェッリ的な政治観、後者は国家理性論に端を発するものであると述べた。近代政治学は、政治を基本的に前者の筋、すなわち政治的単位の境界線の定義づけとしてとらえてきたと言えよう。また、ハンナ・アレントを初めとする現代の政治哲学でも、国民を養うのは公的な事柄ではなく、したがって政治ではないとされる。 しかし、一方で、一般の人々は、政治とはまず国民を養うことであるという認識である。私は、政治とは二つのうちのどちらかに還元されるものではなく、両方のモメントを含むものであると考える。境界線を区切ってその内部の人間たちを養うと称する国家が、人々によってなぜここまで支持されているかについて考える必要がある。やはりそこには国家理性と国民の「共犯関係」を想定せざるをえない。他方で、政治的単位の境界線を維持しようとするのは、法の管轄権が確立している方が有利であるからである。 イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、フーコーの考え方を次のように批判した。フーコーは主権的権力と生権力が別であるとするだけで、その両者の関係については説明していない。また、フランス革命以前は主権的権力であったが、フランス革命後に規律権力が誕生し、権力の質が変化したとして、時代区分ができるかのような議論をしている。 しかるにアガンベンによれば、この二つの権力は同時的に存在していると見なされなければならない。生権力が機能するためには、それに先だって、生きる資格がある人間が定義されなければならない。それは同時に、生きる資格がない人間を定義することでもある。こうした定義を行うのが、すなわち両者の境界線を引くのが主権的権力だからである。 カール・シュミットは、主権者とは例外状態において決定するものであるとしたが、このことの真の意味はこれまで理解されてこなかったとアガンベンは述べる。一般的には、例外状態と平時とを区別し、主権的権力は平時においては露出せず潜在しているが、例外状態になると露出するものと考えている。しかし、アガンベンによれば、例外状態において決定するとは、そういうことではない。例外状態は境界線という形で常にそこに存在している。国家はいつでも、生きるべき者とそうでない者を振り分けている。それは、生きるべき人々にとっての内部秩序としての平時を定義することで、同時に、生きなくてもよい人々を外部へと放り出し、例外状態の中に置き去りにしているのである。例外状態は、特に収容所において見える形であらわれたが、アガンベンによれば、収容所の常態化こそが現代の課題なのである。 主権的なものと生権力との結合は、とりわけフランス革命以後に顕著になった。それは、人民主権が成立したため、誰が主権者なのか(市民権を持つか)を、「出生」という生物学的な事実によって定義することになったからである。言い換えると、ある群れに属しているかどうかが法的な権利の基礎となった。こうして、人間の身体が権利と結合した。ちなみに、人身保護令状(habeas corpus)は、「身体を持て」ということである。近代においては、主権的なものと生権力的なものが、密接にかかわるということを、こうした事実は示唆している。 このような観点からアガンベンは、ハンナ・アレントの説も批判している。アレントは、生物として人間の生命(ゾーエー)と政治的な存在としての人間の生活(ビオス)との区別を強調した。古代ギリシャでは、オイコス(家)におけるゾーエーと、ポリスにおけるビオスとが区別され、人間はポリスという政治的共同体の中でのみ、つまり公的な空間の中でのみビオスにかかわりうるとされていた。ところが古代ローマ以降、ゾーエーがビオスを侵食し、その先に全体主義が現われ、ゾーエーとビオスが完全に癒着する形になったというのがアレントの批判であった。しかし、これに対してアガンベンは、主権国家がある以上、ゾーエーとビオスは結合されざるをえないとする。特定の人間の身体に市民権を付与することが続くかぎり、両者はつながるのであって、これを批判しても始まらないと言うのである。 要するに、境界線を引いて秩序形成をするときには、内部に秩序があるとすれば、定義上、外部はカオスになる。つまり、あらゆる秩序は、外部性をもつことによって、内部性を保っているということになる。国家が秩序形成するということは、反秩序を外部に追い出すことを意味する。 以上のようなアガンベンの議論と私自身の問題の所在を見比べると、秩序形成と境界線の関係に関して議論を行っていることや、秩序の暴力性についての議論など、一致する点も多い。しかし、アガンベンは、主権的権力と生権力との結び付きを必然的なものとしているが、私はそこまで言い切れるかについては若干の疑問がある。 ちなみにイタリアのアントニオ・ネグリは、『構成的権力』の中で、世界の帝国化に対抗するマルチチュードの自由な活動なるものについて述べている。そしてマルチチュードの活動は、主権を意図するものでもなく、何らかの秩序や主権原理にも還元できないとする。これに対してアガンベンは、マルチチュードが誰であり、どんな人々であろうとも、彼らが何らかの秩序を作れば、そこには必ず主権的権力は発生するはずだと批判しているのである。 私見としては、何らかの秩序を作り出すときに暴力が作用するという点については、アガンベンと一致する。しかし、それが常に生権力と表裏一体かどうかについては、私は断言できない。内部の人間を養わないような権力というものも、ありうるからである。アガンベンの主張は、20世紀的な国民国家の経験と収容所が設けられた経験に引きずられているのではないだろうか。内部をケアすると主張する国家が、実際には、ケアしない人間をたくさん見捨てているということもある。さらに、人々がケアしてもらうことを常に望んでいると決め付けるのも疑問である。さまざまな権力の間の関係については、共振することもあれば打ち消し合うこともあり、一筋縄ではいかないというのが、私の見方である。 |
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