東京大学大学院法学政治学研究科・法学部 グローバル・リーダーシップ寄付講座(読売新聞社)



連続公開セミナー 第1回

「国連平和維持活動の変遷と展望:日本の参加はなぜ低調か」

  • 日時: 2009年4月14日(火曜日)15:30−17:30
    場所: 東京大学本郷キャンパス 小柴ホール
    講師: 明石康(元国連事務次長)
    コメンテーター: 北岡伸一 東京大学大学院法学政治学研究科・法学部 教授


    【前置き】

    (司会:北岡伸一)

    今回の公開セミナーは、我々が立ち上げました東京大学法学部及び大学院法学政治学研究科に、この4月1日に設立されましたグローバル・リーダーシップ寄付講座、読売新聞社さんの寄付によって立ち上げられた講座の第1回の会合であります。この講座には色々なプログラムがありまして、その1つであります「国連安保理と紛争解決」というゼミを1つやっているのですが、その一環でもあり、またこのシリーズの中で予定している連続公開セミナーの第1回でもあります。色々なものを兼ねた催しであります。 1年位前から、このような話を読売新聞社さんとお話して、この講座を作りました。現在の国際社会はグローバルなイシュー、グローバルな課題に国際社会全体で取り組むようになっています。たとえば、アフリカにおける貧困と紛争の問題はアフリカだけの問題ではありません。その国だけの問題ではなくて世界にとっての問題であります。もちろん、地球温暖化のようなそもそも定義上のグローバルな問題もあります。極度な貧困も世界が皆取り組むべき問題であると認識して、国際社会全体にとっての課題であるように取り組みを強化しているわけであります。そこでのアクターは主権国家であったり、主権国家を構成要素とする国際機関であったり、あるいはNGOだったり、企業も重要ですし、個人も大きな役割を果たすこともあります。色々なアクターが絡み合って、そしてそうしたグローバルなイシューに世界はいろんな形で取り組んでいるのが現状であります。

    しかし、その中で日本の果たしている役割は大きいかというと、私は遺憾ながらどうもそうではないと思うのです。振り返ってみますと、かつては国際連盟の最初の頃の事務次長に新渡戸稲造先生がなっておられました。新渡戸先生は本学部の教授でもあったわけですが、それから常設国際司法裁判所の所長には安達峯一郎という外交官がなっておられました。今でも「安達峯一郎賞」というのがあって、若手の国際法の学者には賞を出しているのですが、こうしたグローバルな組織の中で西洋以外の国が名乗りを挙げたのはもちろん日本が最初であります。日本はそうした世界のマネージメントの中で大きな役割を果たすことを戦前からやってきたのです。最近、ようやくハーグの国際司法裁判所に小和田(恆)さんが日本人として2人目の所長になられましたが、どうも日本がそうしたグローバルなイシューのグローバルな解決に向けて果たしている役割は必ずしも大きくない、目立たないのが実態であります。戦前に比べてということは申し上げましたが、戦後だってある意味、非常にはなばなしかったのは90年代ではないかと思います。90年代には今日ご登壇の明石(康)さんがカンボジアと旧ユーゴで、前例のない、巨大な平和維持活動のトップを務めたのです。緒方貞子さんも難民問題で大活躍をされました。このお2人は、女性の年齢を言うのも何なのですが、もう80歳を超えられて、明石さんも、実は私も驚いたのですが、もう78歳でいらっしゃって、我々はそれより若くて何をしているのかというのが私の率直な印象であります。

    こうした国際的な場における活躍が足りないということは大学にも責任があると思います。東京大学法学部にも責任があると思います。むしろかなりあるのではないかと思います。と言いますのは、法律学と政治学というものは、元来、ややドメスティックな傾向を持つものなのです。それを越えて世界に向けて活躍して行こうという、どうも気概、能力、教育が足りないのではないかという反省の基に、そうした面を強化して行きたいという話をして、読売新聞社さんの共感と支持を得ましてこれを発足させたわけです。当面3年間の計画で始めましていろいろんなプログラムをやるということは、今日お配りしたパンフレットにも書いてありますので、追ってご覧頂ければと思います。 もちろん、大学で授業をちょっと聞いたり、大学院で授業をちょっと聞いたり、そうしたことでグローバルなマインドとか、力量が付くというそんな甘いものではありません。しかし、若い時にそうした問題の重要性、世界で何が議論されているのか、そして世界がどう取り組んでいくのかということを勉強しておくと、やはり違うのではないかと思うのです。そうしたことを前にセットして置くと、将来社会に出てどこでもいいのです。日本の外務省でもいいし、それから日本の他の役所でもいいし、国際機関でもいいし、NGOでもいいし、そうしたところでなくでも普通の企業でも、今日CSRというのは凄く重要です。それから個人として活躍できることもあります。そうしたら高い潜在的能力を持った諸君が、この世界をいろんな意味でよくするために活動したい、また活動する必要があるということを知って貰えば、とても将来によいのではないか、そして世界の中での日本の位置というのも、よくなるのではないかということを考えて、こうしたことを始めたわけであります。

    先ほど少しだけ、パンフレットを読んでくださいと言いましたが、このグローバル・リーダーシップ寄付講座、ちょっと長いのでGlobal Leadership Studies: GLSということにしています。このパンフレットの中を見ますと、正規の授業の演習や講義があり、後期には「地球規模課題と日本」という講義を予定していて、この講義をされる鶴岡(公二)さんという方は、今、外務省国際法局長なのですが、実は彼は去年の洞爺湖サミット、その前のハイリゲンダム(Heiligendamm)サミットでの地球温暖化問題で、日本が一定の役割を果たすことができるように動いた立役者なのです。そして、今やっている「国連安保理と紛争解決」というゼミは、私と松浦(博司)さんという外務省の現職の課長が担当しています。私も松浦さんも2005年、2006年の日本が非常任理事国として安保理にいた時のメンバーとして活発に議論に参加した人間であります。特に松浦さんはその安保理の議論の仕方を透明化させることに、かなり大きな貢献をされた方で、いい顔ぶれを持ってきているつもりなのです。それは単位がとれる授業で、それ以外にはまだ準備中なのですが、夏期集中授業とか、これは英語でやる授業にしたいと思っています。それからそれ以外に、公開講演・公開セミナーというのを予定しています。今日はその授業でもあり、公開セミナーでもあります。そして、もっと大きな公開講演会というのは6月3日に、コフィ・アナン、緒方貞子という豪華キャストによる講演会を安田講堂で予定しています。これは皆さん、ウェブサイトに出たら直ぐ申し込みしないと無くなりますので、興味のある方は是非よく見ていてください。以上、このような事をやっていこうと考えています。

    特に東大法学部というのは一方通行の授業が多いところです。大教室で先生が話すと学生は黙って聞いている。そうしたものではなくて、やはり、こうしたものは双方行的であるべきだし、学生諸君が積極的に参加してこそ話が盛り上がって面白くなります。そのように考えていますので、いろんな形でやるこの公開講演・公開セミナーも法学部だけではなくて、他の学部も学内の方も、また学外の方も参加できる工夫を色々しているところであります。 皆さんの中からこの何十人かが核になって、こうした問題に取り組んで行こうという人が出てきてくれたら嬉しいというのが私の願いであります。前置きは以上に致しまして、次に明石先生の講演に行くのですが、その前に一言だけご注意を申し上げます。皆さん普段授業を聞いているから心配ないでしょうが、携帯電話は「オフ」あるいは「マナーモード」にしてください。それから今日はテレビが入っていますから、だからどうってことはないのですが、映りたくない方は映らないようにするとか、映りたいから傍に寄ってくる方は困りますが、ちょっと注意を促しているだけであります。

    と言うわけで、前置きは以上でありまして、今から明石先生のお話をお聞きしたいと思います。割合に詳しいレジュメを用意して頂きました。ご紹介する間もなく、明石さんと言えばミスター国連なのですが、40代の時に事務次長になられて、その後もいろんな役職をやられました。とにかく、今日の話の中心になるところのカンボジアにおける、あれは一種の国作りです。それから今度は旧ユーゴにおいて、国がバラバラになる過程をいかにスムーズに進めるかという難しいところでトップを務めたのです。今、実は、世界に16~17あるPKOでトップをやっている日本人は1人もいないのです。1番小さな東ティモールでさえ、ナンバー2をやっているくらいです。それに比べると90年代の巨大ミッションのトップを2つやられたことは、凄いことだと思います。そうしたことを大分時間が経ってしまったのですが、その結果、いろんなことを各方面に書いておられました。聴衆も結構勉強している者がいますから、今日はまとめてくださるように私が明石先生にお話をお願いしています。それでは明石先生こちらに御出で頂けますでしょうか。では皆さん、拍手で迎えましょう。


    【講演】

    (明石康氏)

    北岡先生からご親切なご紹介を頂きました。明石でございます。北岡先生は我が国の国連外交の担い手の1人として日本政府国連代表部で次席大使としても非常に活躍され、国連内外で北岡先生の名前を知らない人がいないくらいの動きを示していただきました。国連について、大学教授として、また国連の現場での経験を踏まえて、言論活動、学術活動も続けておられますので、私はあまり間違った変なことを言わないように、今日は気をつけようと思っています。今日は読売新聞の寄付講座の最初の講義であるとも聞いています。一番バッターが空振りしたらみっともないので、多少緊張しています。

    国連に何十年も奉職した者として、口を開くとなかなか口が塞がらない悪い傾向がありますので、今日は特別文字盤の大きな腕時計を持って参りました。それと睨めっこしながら、できるだけ皆さんから後で難しいご質問を頂けるように、また北岡先生からいろんな有用なコメントを頂けるように、時間をできるだけ残しておきたいと思っています。皆さん、それぞれお持ちのナイフをシャープにして、難しい鋭い質問を後で投げつけて頂ければ幸いです。

    今日の本題に入る前に、国連というのは「一体何だろう」ということを皆さんと一緒に考えたいと思います。国連についてそれが何であるか、皆さんはそれぞれのイメージを持った上でお話しになるわけですが、とかく忘れられがちなことは、国連はその主人公として各加盟国が存在することではないかと思います。国連は何も国連ビルという建物ではなくて、また世界連邦のような超国家的な権力を持った機構でもありません。国連はやはり加盟国が作ったものであり、国連が機能しない時はその責任は加盟国にあると言ってもよいと思います。国連にもいろんな機関、機構がありますので、それについてはあとで述べますが、まず国連の主人公は192ある加盟国です。国連が発足した時は51ヶ国しか無かったのですが、ほぼ4倍に拡大して現在の加盟国が存在しているということです。それぞれの加盟国が、国家主権を持っています。基本的には自分の好まないことを否定できる、そうした権限を持った独立国家が国連を構成しています。

    国連憲章を見ますと、第2条第7項には有名な内政不干渉の原則を謳っています。つまり、国家が承知しないようなことに関して、国連を含む国際機関はそれをやってはいけないという条項です。しかし、国連の60年余りの歴史を紐解いて見ますと、国家主権の領域はある程度狭まって現在に至っているということが言えると思います。その典型的な例が、この3年半程前に開かれた首脳レベルの国連特別総会で採択された「成果文書」です。これは「outcome document」と言います。これを外務省が「成果文書」を訳しているのですが、私はちょっと訳し方がおかしいと思います。「outcome document」ですから「結果文書」、ないしは「最終文書」と訳すべきだと思いますが、「成果文書」と訳されています。この中に「保護する責任」ということが明記されています。これは冷戦が終わって世界各地で国内紛争、ないしは民族紛争が噴き出しました。そこで、その紛争の犠牲になった多くの国内避難民、ないしは国外避難民が出たわけですが、そうした避難民が多く出るというような状況になった場合、それぞれの国・政府は自国民を守る責任があります。それぞれの国・政府が自国民に対する責任を果たせない時は、他の国々、ないしは国連のような機関が代わりに、国民を守るために人道的に関与する責任が認められてしかるべきではないかと思われます。つまり、内政不干渉の原則にも関わらず、それをオーバーライド(override)しなくてはならない事態が出てきているという認識が拡がってきて、「保護する責任」が3年半前に「成果文書」の中に盛り込まれることになりました。

    国連はこの60数年の間に、それだけ大きな変化を遂げているとも言えるでしょう。この「成果文書」を見ますと、色々なことが沢山書いてあって私はちょっと煩雑に思いました。その5年前の国連のミレニアム特別総会で採択された「ミレニアム宣言」(United Nations Millennium Declaration)は、もっと簡潔な文書です。これは当時の総会議長を中心に書かれた文書なので、委員会が書く文書とは違います。よく委員会が馬の絵を書くと実際はラクダの形で出てくると言われますが、まさに「成果文書」は、この190何ヶ国が一緒に作った文書ですから、文書としては達意のものでありません。その中に書かれてあることは、大別して3つの柱があります。1つの柱は国際平和に絡まる問題で、最近のテロリズム、核兵器を含む大量破壊兵器、その他の問題を含めた国際平和に関する一連の問題です。もう1つの柱としては、開発に絡まる色々な問題です。今やご承知の通り、世界の人口は60数億人になっていますが、その内5分の1くらいを占める10数億の人々の1日の所得が100円、約1ドルないしそれ以下であるという状況にあるわけです。そうした最貧国を含めたな貧困、新しい数多い感染症、エイズその他の問題、環境破壊問題など、開発や国々の経済的な格差に絡まる問題が国連の2番目の大きな柱になっています。3番目の大きな柱としては、人権や人道をめぐる一連の問題であります。何千万人もの人間が、紛争の犠牲になって自分の国を、また自分の家を離れざるを得ない状況がアジア、アフリカ、中東、その他の地域に沢山見られるようになりました。そうしたことで、人権は当初の国連が考えたものよりも大きな柱になっているのが現状です。この3つの柱のいずれも無視されてはいけないということになるのです。

    先ほど北岡先生から国連のアクターという話がありました。国連の主要なアクターは、主権国家でありますが、最近は国家以外の主体も挙げられます。たとえば、テロリストのような存在も、そうした非国家主体の1つです。最近、新聞をにぎわせているソマリア沖の海賊も、また非国家主体であります。しかしながら、NGOその他、国連の目的を支えるために欠かせない手助けをしている非政府団体も60年前の国連には見られなかった現象です。それから最近の事情として、国連と手を携えて活動している地域機構が活発になってきています。ヨーロッパ連合、所謂EUはまだ超国家的な権能は備えていませんが、それにかなり近いところまで歩みつつあると言えます。また、アフリカ連合もその憲章だけを見ると、EUに近いところまで行っていますが、実態はまだそこまで行っていません。我々のアジアにおいては、東南アジアに10ヶ国から構成されるアセアン(ASEAN)がありますが、コンセンサス方式で動いているせいもあって、はっきりした行動がとれない状況です。ミャンマーの問題などで、挫折感を味わっているのが実態だと思いますが、アセアンにしろ、昨年末にアセアン憲章(ASEAN CHARTER)が採択されました。タイの元外相スリン・ピッツワン(Srin Pitsuwan)という大変元気のいい人が事務総長になって、これからその腕前を見せようとしています。

    国連の60数年の歴史をずっと眺めてきますと、そこに脈々として流れている考え方があり、その1つにuniversalism、普遍主義があると思います。つまり、「大きい国であっても、小さい国であっても、民主国家であってもそうでなくても、一応国としての体裁を整えている国は全部国連に参加すべきだ」というものです。そうした国の大小、政体の在り方に関わらず、全ての人が、全ての国が加わるべきだというのが普遍主義です。これは第2次大戦中にアメリカのコーデル・ハル(Cordell Hull)国務長官が随分強く主張しました。これに対して、そうは言うものの、「大きな国が実力を持っているのだから、大きな国中心の国際機関にするべきだ」という考え方も強いのです。アメリカのフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領やイギリスのチャーチル(Winston Churchill)首相、旧ソ連のスターリン(Joseph Stalin)などは、一種の実力主義、大国主義をふんだんに持っていました。こうした考え方は現在の国連安保理の構成に反映されています。最初の普遍主義は、大きい国も小さい国も1票を持っている、また人口が10万人も達してないような国々もメンバーとして参加することであり、これは国連総会に反映されています。それから3つ目は先ほど触れた地域主義です。チャーチルなどは「世界的な規模の組織を作ってみても、やはり人間の関心は自分の地域に集中するから、地域機構を幾つか作って、その上にポンと国連のような機構を乗せるべきではないか」という考え方をしていました。そうした地域主義的な考え方が国連憲章の第8章として残っているのです。

    しかし、平和と安全に関する問題に関しては、こうした地域機構は安保理事会の指揮下に入るという構成になっています。実力主義を反映した安保理事会ですが、国連が出来た時には、常任理事国5ヶ国、非常任理事国6ヶ国、つまり11ヶ国で構成されていました。その後非常任理事国が4ヶ国増えたので、総計15ヶ国になりました。5つの常任理事国は拒否権を持っています。それを除く10ヶ国が非常任理事国であり、国連総会において、選挙により2年の任期で選出されます。我が国は今10回目の非常任理事国として安保理に参加していまして、非常任理事国に選出される回数では国連加盟国の中で最も多いのです。日本に続く国としては、ブラジルがあります。しかし、非常任理事国には拒否権はありません。

    国連は「何をするのだろうか」と考えてみますと、私は「国連は色々な顔がある」と言っています。まず、何よりも国連には一国の代表、大統領、首相、外務大臣、国連代表部首席代表、次席代表というような人達が壇上に上がって、それぞれの国の立場を思い切り述べる。そうした檜舞台としての国連の顔が1つあります。どんな小さい国の代表であっても、主権において平等ですから、自国の立場を堂々と述べることができます。そうした発言を総合してみると、「世界の関心がどこに向いているのか」がほぼ分かることになります。国連はそうした世界的な意見表明の場として存在すると言えると思います。

    それから国連ビルを見ただけでは分かりませんが、100何ヶ国の国々が多角的な交渉の場として国連を使っていることが分かります。その交渉の内容も平和問題から経済の問題、社会の問題、環境の問題、人権の問題と多岐にわたるわけで、国連にはそのための委員会が7つも8つもあります。他にも経済社会理事会・人権理事会などを持っています。国連総会は、一応毎年9月に始まって12月に終わることになっています。かつては国連外交官は1年を3ヵ月で過ごす優雅な生活ができました。しかし、最近、総会が殆んど恒常的に行われているので、あまり優雅な生活ができないといえます。交渉というのは、水面の下のアヒルの足かきのようなもので、常時絶え間なく行われると言えましょう。そうした交渉の場としての国連の顔が一つあります。たとえば、1960年代の初めのように、緊張関係にあったアメリカとキューバの代表が密かに会える場が国連であり、またベルリンが東ドイツの離れ島として封鎖されていた冷戦の時代に、アメリカとソ連の代表が非公式に食事をしたり交渉が出来る場が国連でした。そうした常時、交渉ができる便利な場所としての国連が存在します。

    それから3番目に、国連は国際社会の総意をまとめる場として存在します。何回も会ってそれぞれの意見を交わしている間に、共通の意見が次第に浮かび上がってくるのです。1つの例をとりますと、人権の話ですが、まず1948年に「世界人権宣言」が採択されました。これにはフランクリン・ルーズベルト大統領の夫人であったアナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt)の力も大きかったのです。これは立派な宣言でしたが、拘束力の無いものでした。しかし、1966年に、政治的・市民的権利に関する国際規約(「市民的及び政治的権利に関する国際規約」、International Covenant on Civil and Political Rights)と、経済的・社会的及び文化的な権利に関するもう1つの規約(「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」、International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights)という形で、法的拘束力のある条約が成立しました。現在150ヶ国以上の国が、この2つの規約をそれぞれ批准してメンバーになっています。そうした規約ないし条約がかなり多数、政治問題でも経済問題でも環境の問題でも作られているのが現況です。

    ニューヨークとジュネーヴにある国連の優雅な会議場とか、事務局ビルを見ただけでは分からないもう一つの、現場における国連があります。貧しい途上国や紛争中の国々を助けるために、国連が努力を展開している事務所が百数十ヶ国に散らばっています。国連本体の事務局の他に、UNDP(「国連開発計画」、United Nations Development Programme)とか、専門機関、それから国連総会がつくった付属機関として、UNICEF(ユニセフ「国連児童基金」、United Nations Children’s Fund)、WFP(「世界食糧計画」、World Food Programme)やUNHCR(「国際連合難民高等弁務官事務所」、Office of the United Nations High Commissioner for Refugees)が存在します。UNDP はニューヨークに本部があり、社会・経済・開発関係の色々な活動を束ねようと努力しています。

    先ほど北岡先生が触れられた国連の平和維持活動は、世界中16ヶ国で行われていますが、それもまた現場における国連の存在です。このように、国連は多岐にわたる顔を持っていると言えます。国連を1つの官僚制(bureaucracy)として見ることも可能ですが、現場においてそれぞれの国民、民衆の生活を支え、あるいは保護するために国連は活動しているのです。そうした、地面にべったりと足を置いた国連の存在も忘れてはいけません。

    国連のことについて語る時に、「国連は素晴らしい」という人もいるし、「国連は全く駄目ではないか」という人もいるのですが、国連をもっと長い目で見て貰いたいと私はよく言います。冷戦時代に国連はアメリカと当時のソ連との拒否権の応酬の中で何もできなかった、機能停止に陥っていたという人もいますが、実はその時代でも、国連は色々な役割を果たしました。たとえば、1947年にインドネシアの独立運動を支えて、オランダからこの国を独立させました。また、インドとパキスタンの間のカシミールをめぐる争いも、国連は何とかこれを止めさせることが出来たのです。しかしながら、この問題を根本的に解決する力は国連にありませんでした。中東に関しても、国連の手で休戦協定が作られ、またPKOの派遣があり、戦争の終結や安定には役立ったものの、問題の原因を除去して、紛争の種を無くすことは国連の手に余ることであったのです。その事態は現在まで続いています。

    私が国連に入ったのが1957年2月、26歳の時です。フルブライト留学生としてアメリカに行っていた時です。その前の年1956年秋に、国連は2つの大きな危機に直面しました。1つはスエズ運河をめぐるイギリス、フランス、イスラエルによるエジプトへの軍事介入という大変な事件でした。スエズ運河を国有化したエジプトのナセル(Gamal Abdel Nasser)に対する国際的な抗議として事件が起きたのですが、安保理では英仏が拒否権を行使して問題が片付かなかったので、非同盟諸国とアメリカ、ソ連が一緒になって、「平和のための結集決議」に従って、問題は緊急特別総会に持ち込まれました。そこで総会の総意を反映する決議が次々に採択され、国連事務総長だったハマーショルド(Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjold)とカナダの外務大臣レスター・ピアソン(Lester Bowles Pearson)の2人が協力して作り上げたのが「国連緊急軍」でした。5,000−6,000人の国連緊急軍が直ちにスエズ運河地域に配備され、イギリス、フランス、イスラエルがこの地から撤退するために必要な環境を作り上げるのに成功しました。その功績が認められ、ハマーショルドとピアソンはノーベル平和賞を貰いました。その結果、国連はスエズでは大変な栄光の光を浴びたのです。

    ところが、それとほぼ時を同じくして、東ヨーロッパの一角であるハンガリーでは、ワルシャワ条約のくびきから逃れて自由になりたいと望んだ民衆の蜂起がありました。これに狼狽したソ連は戦車を含む大軍を2度も介入させて、ハンガリー民衆の自発的な蜂起を鎮圧しました。これも国連総会で取り上げられ、総会は非難決議を何回も採択しました。しかし、ソ連をハンガリーから撤収させるだけの決意をする加盟国は、アメリカを含めて1つもありませんでした。それは東西両陣営のバランスを崩すことで、世界戦争になりかねない事態だったからです。ですから、非難決議は採択されるが、武力でもって、この事態を変化させハンガリーの人々の希望をかなえてやる決意は誰も持っていなかったのです。つまりハンガリーは、国際社会から見放されました。これは明らかに国連の限界を示していました。

    ですから、国連を考える時に、スエズの栄光もハンガリーの悲惨も両方ともに忘れてはいけないと私は思います。言えることは、国連は多くの短所、欠陥を持っていることです。我々は国連の改革論を机上で作成するのは、そんなに苦労ではありません。しかし、国連を実際により強い、より効果的な機構にするのは至難の業です。ですから、この欠陥のある国連を、構造的な限界の中で上手く使うこと、つまり「不完全であるが、現代の国際社会にとって不可欠な存在」としての国連という視点を見失ってはいけないのではないかと思うのです。

    北岡先生から特に国連のPKOの問題、また私自身が責任者であったカンボジアPKOと旧ユーゴスラビアのPKOについて話すように仰せつかりました。まず、カンボジアPKOですが、冷戦が終わって国連に大きな期待がかけられた時期に、カンボジアPKOが発足しました。それは1992年の初めから1993年の9月にかけて、1年半に亘って東南アジアの一角カンボジアで展開されました。冷戦時代の遺産としてのカンボジア問題の構成要因を見ますと、まず「冷戦が終わったのだから自分達は手を引きたい」と考えたソ連、ソ連の手足として行動したベトナム、この2国がカンボジアの人民党政権の背後にありました。それからそれと対立する他の3派として、シアヌーク殿下率いるフンシンペック党、ソン・サン率いる仏教自由民主党、それからポル・ポトが率いるクメール・ルージュという3者がありました。この3派もその背後にあった中国や東南アジア諸国、アメリカなどにも、冷戦時代の忌まわしい遺産を何とか片付けたいという願望があったのです。ですから、「カンボジア和平協定」は、1991年10月のパリで調印されたのですが、その背後には国連があり、安保理の五常任理事国があり、アジアでの影響力がある我が国、インドネシア、オーストラリアなどの意思も反映されました。つまり、国際社会の主要な国々の一致した祝福の下に発足したカンボジアPKOでした。総数22,000人で、内訳は軍事部門が約15,900人、文民警察官が3,600人でした。これほどの多くの警察官が動員されたPKOは初めてでした。それから文民の数が2,500人。軍人以外の人達がシビリアンとして多数、多面的な役目を担って参加したPKOも初めてです。今までのPKOを第1世代PKOとしますと、こうした多面的な任務を担ったPKOを第2世代PKOと私は表現しています。

    第1世代PKOは軍人を中心として、国境とか停戦ラインを監視する、またはモニターするものです。第2世代PKOはそれに比べると、よくコンプレックスPKOと言われますが、多面的、多角的なPKOであり、参加する人も多様で、数も多いのです。

    「国連ボランティア」が多数参加したPKOとしても、カンボジアPKOが最初でした。戦争から平和への移行期に国家を代行する実権を与えられた国連暫定統治機構、UNTAC(United Nations Transitional Authority in Cambodia)が作られました。行政部門、文民警察、軍事部門、選挙を実施する部門、人権監視部門、帰還した難民を救済する部門、復興支援部門という7つの部門がありました。実は、四派閥のそれぞれ持つ軍隊を7割方武装解除した上で、我々は民主選挙を行うはずでしたが、ポル・ポト派は「ベトナムの兵隊がまだ各地に隠れている」と主張しました。その上、国連が行政監視を行うにあたって、「ベトナムの影響下にある人民党政権に手心を加えていて、やり方が甘い」と言い出しました。ポル・ポト派は、国連に非協力的になりました。そのため、ポト派以外の三派による武装解除も我々としては途中で止めざるを得なかったのです。 選挙は1993年5月に行われました。イギリスの「エコノミスト」誌を除いた世界中のメディアは、「この選挙は失敗に終わるのだろう」と予想しました。しかし、我々は歯を食いしばって、ポル・ポト派の攻撃があっても、何とか選挙をやり抜く覚悟でいました。選挙の蓋を開けて見たら、カンボジアの有権者の90%が参加する素晴らしい選挙になりました。それを可能にするために、国連は国連放送局というものを初めて作りました。「そうした金のかかるものを作ってどうするのか」とブトロス・ガリ(Boutros Boutros-Ghali)事務総長は反対でしたが、私は何度も彼と話して説得しました。偉力を示した国連放送局は、その後も大型PKOにおいても設置されるようになりました。識字率の低い国で、ラジオは、大変な力を発揮します。「色々な圧力がかかるだろうが、投票場の中に入ってしまったら貴方方は自分の本当に思う政党、思う候補者に投票できる」のだから、恐れることはないことを、我々はカンボジア漫才なんかを利用して徹底的に伝え続けました。選挙後に、新憲法が制定され新政権が誕生し、我々は予定通り安保理が決めたデッドラインにカンボジアを撤収しました。

    その4年後、カンボジアではクーデターが起こり、フン・セン氏とラナリット殿下の「2人首相制」が解消され、フン・セン首相が率いる政権が現在まで続いています。人によっては、「国連暫定統治機構(UNTAC)が1年半でカンボジアを撤収したのは早すぎた」、「カンボジアの人権が確立し、民主政権が本当に根を張るまで、もっと滞在するべきだった」という批判もあります。しかし、UNTACは国連にとって通常予算を超える大きな財政負担でした。これだけの規模のPKOを支えるのは、国連にとって大きな重荷でした。我々は民主政治の種は蒔くのですが、その種を育てそれに水と肥やしをあげるのはカンボジア国民であると考えて、人権NGOなどの育成に力を入れ、その上で撤収しました。もちろん、国連の開発事業はその後もずっと続けられています。

    我が国の自衛隊が、国連のPKO活動に参加したのは、カンボジアが最初でした。1992年春に、「国際平和協力法」という法律が野党の抵抗の下に、兎も角も国会を通過しました。私は参議院で特別委員会に招かれ、参考人として国連のPKOについて説明しました。国連のPKOというのは武力行使の機関ではなく、言って見れば「デパートのショーウインドーみたいなものだ」と表現しました。なぜなら、持つ武力においてはきわめて小さいが、デパートのショーウインドーを壊すものが出てくればガチャンと大きな音がする。そうすると隣近所のものたちが馳せ参じてくるので、そんな馬鹿なことをする人間はなかなか出ない。それに似た存在だからです。また、国連PKOは本質的に、象徴的・外交的な役割を担っている。「軍人が参加するが、戦争する力も任務も持っていない」ものであることを参議院で述べたのです。国連ボランティアに参加した中田君(中田厚仁)が亡くなり、文民警察官だった高田警視(高田晴行)もポル・ポト派の攻撃を受けて命を失いました。当時の日本では「そんな危ないPKOからは撤退するべきだ」という意見がありました。しかし、それに対し宮沢総理は冷静に対処し、「他の国と一緒に、カンボジアの和平を見とどけるべきだ」という決意の下に、我が国からの派遣隊が留まってくれたことに、私は感謝しています。それにつけても、その後の我が国のPKO参加ぶりが、芳しくないのを残念に思っています。 カンボジアを片づけて、私は国連本部に帰りました。2ヶ月くらいしてから、今度は「旧ユーゴスラビアPKOを担当するように」という命令を、ブトロス・ガリ事務総長から受けました。カンボジアPKOも巨大なPKOでしたが、旧ユーゴスラビアPKOはそれに増した大きなPKOでした。一時は総数45,000人くらいに達し、現在でも史上最大のPKOだと思います。当時の国連通常予算の1.5倍に達する予算でした。

    実は、旧ユーゴスラビア紛争の中に入るのを国連は好ましく思わなかったのです。ところが、ヨーロッパ諸国がどうしても国連に出て行くようにと求めてきたので、当時の事務総長ペレス・デクエアルと、アメリカ元国務長官だった国連アドバイザーのサイラス・バンス(Cyrus Roberts Vance)は、いやいやながら国連PKOの導入に同意しました。最初は旧ユーゴの一角であるクロアチアという国で、伝統的なPKOに近い仕事をしました。ところが、戦乱が次第にクロアチアから隣のボスニア・ヘルツェゴビナに飛び火していきました。ボスニアという国は、民族構成から見ますと国民の44%がイスラム系の人達です。この人達が新政権を作りましたが、これに不満を感じたセルビア系の住民は総人口の31%を占めていました。3番目の民族としてはクロアチア系の人がいて、人口の17%を占めていました。1つの民族対立を収めるのも容易ではないのですが、3民族が三つ巴になって展開し、宗教がイスラム教とクロアチア系のカトリック、それからセルビア系の人達はセルビア正教というロシア正教に近い信仰を持っていました。この紛争を本質的に宗教紛争であると言う人もいますが、私はそうは考えません。民族や文化の違い、経済格差、それからチトー亡き後の旧ユーゴスラビアの新しい政治形態と憲法を作るプロセスの中で起きた紛争であった考えます。そうしたことで、国連は第1世代PKOから、次第に民族紛争のただ中で人道支援と停戦監視を主な役割とするPKOに変わって行きました。

    旧ユーゴスラビアの南側に一番貧しいマケドニアという国がありますが、この国には国連のPKOが、約1,000人配備されました。紛争はそこまで到達していなかったのですが、予防的な展開としてマケドニアにPKOが展開されたのです。このおかげで戦火がマケドニアまで及ぶことはありませんでした。予防的展開はもっと世界各地で活用されてしかるべき活動だと思いますが、残念ながら政治家や外交官は、もう起きた紛争の処理に精一杯で、これから起きそうな紛争に対処する余裕がないのです。そうしたことで、マケドニアPKOは、予防展開の唯一のケースとして現在に至っています。

    旧ユーゴスラビア紛争は非常に激しかったので、国連をNATO(北大西洋条約機構、North Atlantic Treaty Organization)が軍事的に支えることになりました。NATOと国連との間には2重のキーの制度がつくられ、現地の国連代表として私にもNATOによる空爆のキーが1つ与えられました。もう1つのキーは、NATOの総司令官が持つ形でした。私は、こうした物騒なキーを与えられ有難迷惑だと思いました。国連における大国、特にアメリカは、ボスニアのイスラム系勢力を支持する立場を明らかにしました。かたやロシアは、ロシア正教とセルビア正教とのよしみがあるので、セルビア系勢力を支援しました。イギリスとフランスは両者の間で中立の立場を取っていました。常任理事国ではないのですが、ヨーロッパの大国であるドイツは、米英とフランスの中間に立っていました。そうした複雑な構図がありましたので、安保理が採択する決議は、難しい曖昧な玉虫色の妥協の産物であることが多かったのです。決議が曖昧だと、現場で我々が行動を取る上で、どうしたらいいのか分からなくなることが多いのです。私の下で司令官を務めた人達は「決議を何十回も読んでみたが、その意味するところが分からない。自分はこうした決議を読むことは止める」と言っていました。旧ユーゴのPKOに、一番数多い地上軍を参加させたのはフランスで、約6,000人のPKO要員が参加しました。次はイギリスで、約4,000人の要員を出しました。その他オランダ、カナダなど、沢山の国が参加しました。ところが、アメリカは政策が決まっていなかったので、私などは何度もアメリカに地上軍を頼んだのにも拘らず、地上軍を出さずに、「空軍力を使うべきだ。セルビア系勢力を空爆でやっつければ、いいのだ」と言い続けました。

    我々の与えられた主たる任務は、6つの都市に包囲され、閉じ込められた数多い無辜の民衆を保護し、その人達に人道支援を与え続けることでした。また、この紛争がさらに広がらないために、休戦協定を作り、ともかくも紛争を止めさせることが出来ないまでも、それを封じ込めるべく懸命に努めました。平和維持活動は、和平協定ないしは停戦協定が結ばれたところに派遣されるべきなのですが、旧ユーゴでは、紛争の真っ只中にPKOが投入されました。それは国連PKOの力に余ることだったのです。結局、国連の力では足りず、アメリカのデイトン(Dayton)で和平合意が出来たのをきっかけに、1995年暮れに国連保護軍は撤退しました。NATOはそれに代わる兵力約60,000人の多国籍軍を展開することになりました。

    私は停戦協定を幾つか作りました。1つは4ヶ月の停戦協定で、なんとか4ヶ月持たせましたが、それが終わると新しい協定はできませんでした。その前にも4ヶ月の敵対行為中止を作り上げようとしたのですが、アメリカは「4ヶ月は長すぎる。セルビア人勢力の力を固定してしまうような停戦協定は良くない。もっと短い協定にしろ」と言ってきて、残念ながら1ヶ月だけの協定にせざるを得なかったのです。

    空爆に関して申し上げますと、私が空爆のキーをなかなか発動しなかったという批判を受けました。実は空爆には2種類あります。1つは、国連要員が戦車とか火砲の標的になって命が脅かされている場合、攻撃を加えている武器が空中からだけではなくて地上からも確認できる場合、国連要員を攻撃している武器をピンポイントに空から攻撃するもので、それは近接航空支援 (Close Air Support, CAS)とも名づけられます。これは明らかな自衛の行為ですので、私はこうした限定された空爆に承認を与えるのに躊躇しませんでした。15〜6回、許可したケースがありました。

    しかし、もう1つの、本格的な空爆は、空爆を受けた勢力に対する戦争を意味します。それは明らかに政治的行為です。その対象となった民族勢力は、支配する地帯を国連の人道支援トラックが通過するのも許さないことになります。その人達と休戦協定を結ぶことも、交渉することも非常に難しくなります。そうすると、我々の本来の役割が果たせなくなるので、我々は空爆を実施するのに慎重にならざるを得なかったのです。このように、PKOの本来の役割と本格空爆というのは、油と水のように混じり合わないものでした。しかし事態が急迫してきた1995年5月に私は本格空爆のキーを回さざるを得ませんでした。その後、私は空爆のキーを私以外のPKO軍事部門の総司令官に与えることになりました。その年の8月本格空爆の第2回目が行われ、セルビア人勢力が休戦を求めるようになり、12月にはデイトン合意に至ったのです。

    旧ユーゴスラビアPKOはきわめて難しいPKOでした。安保理常任理事国である大国の態度が一致しなかったのが、根本的な問題だったのです。この点、カンボジアPKOと対照をなすものでした。

    さらにカンボジアPKOの場合、首都であるプノンペンには安保理の5常任理事国とわが国、タイ、インドネシア、マレーシアなど、キーとなる国々の大使が常駐していました。この人達は私のサウンディング・ボード(sounding board)として大変役に立つ存在でした。私はこの人達の意見もとっくり聴取しながら国連の政策を決めていたのです。これらの大使は自国政府に、こうした会談の結果について報告しますから、これらの国々の代表は国連本部でも同じ意見を述べてくれることになります。ところが、その後私が事務総長特別代表として行った旧ユーゴスラビアのボスニアでは、首都サラエボに駐在している大使は2〜3人しかいなかったのです。そのため、重要な国々の大使と頻繁に協議をすることはできませんでした。協議して意見のまとまりが得られたかどうか分かりませんが、その可能性さえ探ることができなかったのです。

    その後、国連は旧ユーゴスラビアのみならず、それに前後してアフリカ東部のソマリアでも、やや勇み足のPKO活動がありました。現地の国連PKO「UNOSOM II」(第2次国連ソマリア活動)は、武装解除のプロセスにおいて武力の行使を発動し、アイディード派という強力な派閥のしっぺ返しを食い、米軍兵士18人が大変無残な形で惨殺されました。そのシーンはCNNを通じて何度もアメリカで放映され、アメリカは結局、ソマリアPKOから撤退することになりました。国連PKO要員であるパキスタン兵も24人が殺されました。ポスト冷戦期当初における国連のやや強気な姿勢の所産であったとも言えるかも知れません。これがソマリアPKOの挫折です。旧ユーゴの挫折についてはお話した通りです。 もう1つの例として、ルワンダにおいて1994年春にツチ族とフツ族の対立の結果、80万人と推定されるツチ族住民が、フツ族によって大変悲惨な形で殺されました。これは旧ユーゴに比べて、より冷血な、計算されたフツ族リーダーシップによる非人道的な行為でした。ここには、数百人の小規模な国連PKOがいました。惨事が発生したので、国連事務総長はルワンダPKOの増強を安保理に対し要請しました。安保理においてアフリカ諸国はこれに手を挙げて賛成したのですが、実際に武器と装備を持ち、運搬能力を持っている先進国−アメリカ、ヨーロッパ、日本などは、これに対し助けの手を挙げませんでした。ほぼ同じ時にその時に安保理は、旧ユーゴにおけるPKOの状況を審議し、そこでは積極的に踏みとどまろうとしたのですが、ルワンダについてはPKOの大幅縮小という実質的な撤退を決意しました。アフリカ諸国の国連代表が「国連は偉そうなこと言うが、実は道義的に『二重の規格』に立っているのだ」という嘆きをもらしたのは当然でした。

    この3つの悲惨な経験を経た上で、国連は2000年8月に「ブラヒミ報告」を発表しました。ブラヒミはアルジェリア出身の外交官で、私が尊敬する同僚の1人であり、ハイチや、アフガニスタンの事務総長特別代表を務めた有能で個性的な人です。彼は「ブラヒミ報告」をまとめて、安保理と総会に出しました。彼の報告書は、はっきり「国連というのは決して万能ではないのだ」と述べています。そして、「PKOを派遣して良い場所と派遣してはならない場所がある」、「国連には出来ることも出来ないこともある」、「安保理もPKOに出来ないことを要求してはいけない」とはっきり言っています。PKOの設置を決める場合について、「安保理は明確で実行可能な決議を採択しなければならない」、「PKOに対しては現実的で、具体性をもった任務を明記する義務がある」と注意を促しました。また、「PKO活動については最良のシナリオを描くのではなく、最悪の事態を想定しながら計画されないと駄目だ」とブラヒミははっきり言いました。「PKO活動が設置される時には、安保理と総会は、事務総長が必要とする予算と人員をきちんと提供出来なくてはいけいない」とも言っています。私が現場で感じたことを正直に述べていて快哉を叫びたいような勧告がそこに盛り込まれています。

    国連による平和維持はとても重要なことですが、平和維持で全てが終わることにはなりません。アフガニスタンが今焦点になっているのですが、アフガニスタンに侵攻した旧ソ連の軍隊が1986−1987年にかけて撤退したので西側先進国はアフガニスタンへの関心を失いました。その結果、タリバンがはびこることになり、タリバンがアル・カーイダをかくまうという事態になりました。つまり平和維持で事を終えるのではなく平和維持に続く経済的、社会的な条件の整備や、政治や行政に関しての所謂「ガバナンス」が重要です。きちんとした政府がつくられ、効率的で公正な治安の維持が行われ、司法制度や、裁判制度が確立される状況の中で、復興とか復旧事業が行われないと駄目なのです。その一連の仕事は、平和構築と言われます。それを2つに大別しますと、まず平和の土台作りと言うか、コンソリデーション(consolidation)、即ち、より持続的な形で平和を作ることが必要です。その次に、国作りという段階が始まるのですが、平和構築はこの2つを意味していると思います。このプロセスは何年も、何十年も掛かるかも知れないのですが、「平和構築をきちんとやらないと駄目だ」とブラヒミは言いました。紛争が始まると、国連の力で終息する場合もあれば、国連の力を借りることなしに終息する場合もあります。しかし、一度終わった紛争の約半分くらいは、また再発するのです。再発を防ぐためには、平和維持活動が終わった後でも、その国はガバナンスを確立し、平和構築を政治面、経済面、その他の面からきちんとやっておく必要があるのです。

    ブラヒミが言っているもう1つのことは、国連PKOに関する今までの3の原則についてです。第1原則は、国連が紛争当事者全部の合意に基づいて行動することです。2番目の原則は、紛争をしている各党派の間で国連が公平かつ、不偏不党の立場を取るべきだということです。3番目の原則は、国連が必要な時に最小限の武力を自衛のために使うことが出来るということです。これがPKO3原則と言われますが、ブラヒミは「PKO3原則は、将来ともにきちんと守られるべきだ」と言っています。しかし、善い国内勢力と悪い勢力の中間を行くのではなくて、「国連は善い方、正義の側に立つべきである」と言っているのです。これは耳には心地よく聞こえますが、実行が非常に難しい。そのことで国連が不偏性を失ないかねないという大きな問題を内包しています。2000年以後の国連PKOを見ますと、現在16の国連PKOが世界各地に展開していますが、大体において今のPKOは割と「ブラヒミ報告」に盛り込まれた勧告をきちんと守っていますし、安保理も関連した勧告を肝に銘じていると言えるかと思います。

    最後に、日本と国連とのPKO関連のユニークな関わり方について、申し上げて、私の話を終えたいと思います。

    1つには、我が国にはともすると、やや過大な国連へのバラ色の期待が存在していることです。これは恐らく、我が国が国際連盟によって満州事変を批判され、その2年後の1933年に国際連盟を脱退し、それ以来23年に亘って国際社会から孤立してきたからだと考えられます。戦後アメリカによる占領期を経て、我が国は国連への参加を熱望しました。ところが、冷戦時代であったため、ソ連は日本に対して拒否権を3度も浴びせかけた結果、日本はなかなか国連に入ることができなかったのです。何度も拒否されると恋心というのは募るもので、我が国の国連に対する憧れも強くなっていきました。我が国が国連に加盟できたのは、1956年12月18日でした。その後、2年間の我が国の『外交青書』を見てみますと、外交3原則を謳っていました。国連中心主義もその中に盛り込まれています。国連中心主義は美しく聞こえますが、国連では主権国家がその主人公であり、国連を中心にすると言ってもその内容は不明瞭なことがしばしばです。国連の中ではそれぞれの加盟国がビジョンを持ち、開かれた国益に基づいて行動しなくてはならないのです。国連において最大公約数に基づいて行動するといっても、それは無性格・無個性に行動することになりかねません。我が国が国連中心主義を謳っても、日米同盟という現実があり、また欧米先進国と開発途上国が対立する際には、やはり先進国の側に立たざるを得ないことがしばしばです。ジレンマに満ちた苦しい立場に立たされることが多いです。

    PKOに関して言えば、PKOの原型とも言うべき、停戦監視を中心とする第1世代のPKOから、カンボジア型の多面的な第2世代PKOに変わりました。また、ソマリア型の実力行使の第3世代PKOを一度経験して、現在では第4世代のPKOも、見られるようになりました。つまり、基本的には第1世代と第2世代を踏襲しながらも、コンゴ民主共和国とかレバノン南部において展開されているPKOのように、かなり重武装のPKOへの移行も見られるようになりました。コンゴの場合は武装ヘリコプターが使われていますし、南部レバノンでは新型の重戦車や、軍艦も動員されています。かつての軽装備のPKOとはかなり違うものになっています。

    日本の国連PKO参加はカンボジアに初めて自衛隊の1個大隊が参加しましたし、東ティモールにも1個大隊が参加し、ともに真面目な良い仕事をして、関係国に評価され感謝もされました。しかし、その後はあまりぱっとしません。現在、イスラエルとシリアの間にあるゴラン高原で展開しているPKOに約30人の自衛隊員が参加している程度です。他にはネパールの停戦監視や、スーダンの司令部勤務の2人などがあります。国連加盟国の中でのPKOへの参加総数は40人内外ということになり、加盟国中で83番目、ないしは84番目あたりを行ったり来たりしている状態です(ただし、2010年初頭ハイチにおける国連PKOに災害救助のため1個大隊が派遣されている)。戦争中は「人命は鴻毛よりも軽い」ということを日本国民は教え込まれました。戦争が終わってからは180°転回し、「人命は地球よりも重い」という首相が現れました。真理はどこにあるのか。これは皆さん1人1人に考えていただきたいと思います。両極の2つの考え方の間に、我が国のPKOに対する立場が浮かび上がってくるのではないかと思います。戦後我が国が掲げている国際理念・平和理念に基づいて、人道支援とか開発援助、平和構築などを、我が国の特技といいますか、当然担うべき国際的な役割として考えるべきではないかと私は考えます。かと言って、PKO活動を無視することは許されないだろうと思います。第4世代PKOに参加するのは、今の段階ではおそらく荷が勝ち過ぎるのではと思いますが、せめて第1世代や第2世代のPKOだったら、我が国の戦後憲法とも何ら矛盾するものでないだろうと考えています。最近は国連PKOではなく、多国籍軍、つまり有志の国々が国連の決定の下に行動することが増えています。アフガニスタンに展開している多国籍軍(国際治安支援部隊ISAF, International Security Assistance Force)もそうしたものであると言えます。私見ですが、国連決議の下での多国籍軍であるならば、少なくとも、その後方支援、輸送、通信、医療などの側面について、我が国が大きな貢献が出来るのではないかと思います。

    日本国憲法第9条を援用して、PKO活動に参加することは許されないという人もいますが、これは憲法の解釈次第だと思います。憲法前文はあくまでも平和主義・国際主義・民主主義を謳っています。憲法第9条を読むと、第1項は国際紛争を解決するためには武力を行使しないと書いてあります。これは国連憲章の精神そのものなので問題は全くありません。問題があるとすれば、第9条第2項について、陸・海・空軍を持たないとか、交戦権を認めないといっていることです。私は、憲法というものは前文の理念の下に解釈されるべきものだと思います。しかし第9条第2項がどうしても気になって仕方がないのであれば、第2項を削除すれば済むのではないかという気がします。我が国は国際・平和国家として、アジアのみならず世界において核のない世界を目指して、国連活動の多面において活動しています。これは我が国の本来の使命に従っていることだと考えます。国内では非常に恵まれた状況におかれてきたので、やや心地よい孤立主義の雰囲気に浸っている面が目立ちます。できれば積極的に国外志向型のビジョンを作り、途上国の貧困の問題や、地球的な環境破壊の解決に寄与するようにしなければ、わが国自身が国境を越えたさまざまのグローバルな脅威に面している現在、国としての責任を果したことにならないでしょう。また、国民としても、そんな消極的な姿勢に決して満足できないのではないかと私は思います。

      (拍手)

    (司会:北岡伸一)

    明石先生、長時間ありがとうございました。これに「vs.」と書いたのは、私が別に明石先生と対決しようとか、そういったことは全然ありません。殆んど全く賛成なものですから、私は先生のお話の長さに従って伸縮自在と思っていました。私はいつもこうしたことをやる時に、一番の主権者と言いますか、最も重要な利害関係者は聴衆の皆さんだと思っています。皆さんが良い話を聞きたい、これをどうしても聞きたいという時には、皆さんには機会が与えられるべきだと思います。私が今から喋ると1時間、2時間も喋るので、それは止めにしまして、後で時間があったら少し喋ることにします。早速、フロアから是非この際はお聞きしたいということがあったら、皆さん時間が限られていますから手短いにお願いします。



    【質疑・応答】

    1.(質問)K大学大学院 Hさん

      今日は貴重な話、どうもありがとうございました。質問につきましては、2000年代のPKOに関してのものです。2000年代のPKOの特徴としまして、国連憲章の第7章に言及したPKOというのが増えてきています。コンゴ、ダルフール、リベリア等々と全てに見られています。この7章の強制措置に言及したPKOということで長期戦に繋がります。ソマリアですとか、旧ユーゴスラビアには失敗になってしまうのですが、これについてはガリの平和の課題、補足版です。また、ブラヒミレポートにおいても、今後強制方面については平和強制はやらないのだというふうに言っているものと理解しています。もちろん、自衛の能力については高めていきますが、武力行使としては違うものにする。そうであれば、現在行われているこのPKOの第7章に言及したPKOというものを、我々としてはどう理解すればいいのか?また、それはどのように仕組まれてきたのか?また、そこへ考えられる問題点というものがありましたら、ご見解をお聞かせ願いたいと思います。

    (司会:北岡伸一)

    関連ある質問の方がいたら、…では宜しいですか?特に無ければ一言を。

    (明石康氏)

     確かにおっしゃる通り、最近の国連PKOは国連憲章第7章に触れている場合が非常に多いです。私が第1世代、第2世代、または第4世代のPKOと称しているのは、基本的には国連憲章第6章に根差したPKOだと考えます。最近の第7章への言及は、レトリカルにそれに言及している面もあるのではないでしょうか。在来型のPKOが国連憲章第6章に根差し、あるいは第6章と第7章との間の活動をしているという意味で、6章半の活動だとも言われます。その意味では、2000年以来の幾つかのPKOは限りなく第7章に近づいている6.9章型だとも言えるのではないでしょうか。それでも私が申し上げた国連PKOの3原則にぎりぎりの線で止まりつつ、しかしながら装備とか武器とか訓練に関しては、かなり現実に当面する厳しいチャレンジに対応している。しかし、自衛の線は踏み外さないということだろうと思います。

    最近の国連安保理決議は、どうしてこんなに第7章に言及するのかという質問は当然出てきます。レトリカルという言葉を使いましたが、国連の権威を軽視する風潮にたいする何か魔除けのためという心理的な側面もあるのではとも考えられます。とにかく、安保理としては、問題を「真剣に取り上げている」とか、「違反行為はタダでは済まない」という決意を示す必要があるわけです。そのことは第7章下における本来の軍事制裁を意味するものでは必ずしもないといえます。私は国連を退職してからスーダンに行って、南部とダルフール地域を視察しました。スーダン南部で国連PKOの一端としてバングラデシュ軍が配備されて、その司令官が、我々は第7章下に派遣されたのだが、自分としては出来るだけ第6章に基づいて行動したいと言っていたのに私は感銘を受けました。態度としてはこれが正しいと思っています。

    (司会:北岡伸一)

     おっしゃる通りだと思います。充分なマンデート(Mandate)と権限があって、それから武器なども充分なものを持って、しかしあまり使わないのが一番いいのです。かつかつ、ぎりぎりものしか持ってないと、かえって危ないのは軍事の常識ではないかと思います。

    2.(質問)T大学3年 Yさん

     貴重なお話、ありがとうございました。僕の質問は、日本と国連の関わりに関してなのです。明石さんの講演の中で憲法の制約ということをおっしゃったのですが、世論についてちょっとお伺いしたいと思います。宮沢内閣の時のカンボジアで2人死者が出たという話があったのですが、その時に内閣の中でもどう対応するかで色々慌てたりしました。後はPKOということでもないのですが、小泉内閣の時でもアフガニスタンに自衛隊を派遣することで、死者が出るか出ないかということで議論になったことを僕も覚えています。この戦争が終わってから、その平和主義の日本は戦争をしないのだということで、それは非常に大切な意見だと思いますが、それによって日本外交の選択肢も制約されてしまうのではないかと僕は思っています。それについて、何か、どう思っていらっしゃるのかを聞かせてくださいませんでしょうか?

    (明石康氏)

     私はむしろ若い人からのご意見を聞きたいのですが、私自身の考えを述べますと、国連PKOは基本3原則のひとつとして、自衛のために必要最小限の武力を使いますが、それ以上は決して行使しないという立場です。不幸にして、この国連の限定された任務達成のために命を失う人が往々にして出てくるのですが、国連PKOに参加して出る犠牲者の殆どは、武力行使の結果、命を失うのではなくて、交通事故や自然災害などのためであるのが一番多いのです。国連が対処しなければいけないのは、停戦ないしは休戦協定に入っていない部族による武力行使、ないしは入っていても上部の指揮に従わない兵士の存在、外国軍隊の存在、それから犯罪分子などによる武力です。そうしたものから攻撃を加えられた場合に、それに最小限の武力を以て対処するのはPKOの当然の権利です。不幸にして犠牲者が出た場合に、国としてPKOから撤収することになると、これはやはり国際社会に対する信用の問題に関わります。実は、私はカナダの例をよく思い浮かべるのですが、カナダはNATOの中でも最もハト派的行動を取ってきた国です。イラクに関してはアメリカの政策に反対して兵を出しませんでしたが、アフガニスタンでは多国籍軍の一端として全面的に行動しているのです。すでに100人を超える死者を出していても、歯を食いしばって頑張っています。ですから、我々は国連を重視する外交に徹するならば、やはり危ないPKOだから参加しない、犠牲者が出たから撤退するというのでは、国際的に鼎の軽重を問われても仕方がないと思います。もっと毅然として踏み止まるべきところには踏み止まるべきであろうと私は考えています。

    (司会:北岡伸一)

     一言付け加えておきますと、カンボジアPKOの時には、今のよりもっと窮屈な制度の下でも700人の部隊を出したのです。今は、もう少し権限(制度?)が緩やかになって、かつ国連も90年代半ばのような無理なPKOをしなくなったのです。ですから、より安全になっているのにも関わらず、700人が40人になるというのは非常に困ったことであって、それは第1に政府の意思、第2に国民の世論から起因するもので、直接憲法を以て引っ掛かっているのではないと思います。但し、憲法に引っ掛かっているところがあるとすれば、9条1項の国際紛争を解決するために武力を用いないという部分です。ここでの国際紛争というのは、日本と他国との紛争のことを指すのでありますが、内閣法制局はこれをあらゆる紛争に関するというものだと誤って解釈したので、それが引っ掛かっているという面もあります。しかし、今の法制度でも、相対的に安全なところで、カンボジアでもそうでありましたように、施設部隊のように道路を工事する、橋を架ける、その結果、民生が安定し、経済が伸びていることは平和構築に非常に重要な部分なので、それができないというのは、政治の意思の問題ではないかと私は思っています。

    3.(質問)T大学大学院 Tさん

     旧ユーゴの事例からの質問なのですが、こうした事例の中で軍事力というものをどのように捉えるか、軍事力の有効性というものをどう捉えるのか、どのような教訓がここから得るのかということについてお尋ねしたいと思います。

     先生の著書を拝見しますと、NATOの空爆をテコに紛争当事者と交渉されたというふうに書いてあります。しかし、それはなかなかうまく行かなかったというのが結論であります。しかし、昨年に出版されたイギリスのルパート・スミス将軍(Rupert Smith)がボスニアの事例からこの軍事力を考える時に、これからの戦争は人々の中での戦争だという考え方を出されました。このスミス将軍という方は明石先生と、まさにスミス将軍が空爆の要請をして明石先生が却下されたという関係でもあるわけですが、このスミス将軍の考えについて、どのようなお考えをお持ちかということと、先ほどの最初のポイントですが、国際紛争を解決していく上で、軍事力というものをどのように捉えるかという問いについて質問させて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

    (明石康氏)

     実は旧ユーゴスラビアの任務が終わって、ニューヨークの国連本部に帰る途中に私はロンドンに寄りました。そこでイギリスのインジュ総参謀長と会って話をしました。ルパート・スミス司令官と、彼の前任者であるマイケル・ローズ(Michael Rose)司令官、2人ともイギリス人なのですが、マイケル・ローズは1994年の和平路線を私と協力しながら実施した男で、事態が急迫してからルパート・スミスに代わりました。スミス将軍は、セルビア人勢力が攻勢的になった以上、国連もそれに対抗するしか仕方がないという考え方の人で、どちらかと言えば、NATO的な思考の持ち主でした。インジュ総参謀長が、マイケル・ローズが先でルパート・スミスが後任として任務につくというのでなく、その2人の順序が逆になっていたとしたらボスニア情勢はどのように展開しただろうと、想像をたくましくして笑っていました。私は2人の順序が変わったとしても現実の政策はそんなに変化しなかっただろうと思います。ローズも違った事態においてはもっと軍事的な手段を行使するのに躊躇しなかったのではないか。

    ルパート・スミスの空爆要請を私が蹴ったのは、総司令官であったフランス人のジャンビエ氏も私と同意見で、国連保護軍のザグレブにある本部でシビリアンサイドも軍事部門の方も同じように、あの段階ではNATOの空爆を要請する必要がないという結論に達したのです。それから、本格空爆を要請する場合には、すぐに要請を書面の形で提出するのではなく、事前に我々と「どうしてそうした要請をしなければいけないのか」について協議する手続きが存在していたのです。伝統的なPKO活動として本来ボスニアに送られた国連が、戦局が激化し事態が変わって武力行使を迫られることになった場合、国連本来の任務である人道支援と、事態の悪化を防ぐために停戦を出来るだけ作っていくという本来の任務が事情の変化のために、もう遂行できなくなったという認識がなくてはいけないのです。その辺り、特にボスニアの6つの安全地域に関する決議を見てみますと、決議836がその典型的な例なのですが、我々の取るべき行動に関し、もっと強力な武力行使に出ても良いと読み取れる部分と、我々の武力行使はあくまでも自衛の範囲に止めるべきだというふうに読み取れる部分があり、2つの解釈が可能性なのです。私は最後までその点で悩みましたし、事務総長であったブトロス・ガリも悩みました。私が慎重な姿勢を取る時は、ガリはそれに賛成していましたし、最後の段階で私がNATOの空爆を求めることにした時にも、彼は心情的には私に賛成であったと記憶しています。

    4.(質問)S大学比較文化学部 Mさん

    本日は貴重なお話、どうもありがとうございました。上智大学の比較文化学部の4年生のマタカメノハトコと申します。先ほど最後の方に、国連PKOの積極的な日本の参加を重視して行くべきだと仰っていたのですが、もし日本が積極的に国連PKOに参加した場合、必要最低限の武力を行使することになりますが、その際に中国との関係、日本と中国との関係、アジアの力関係ということを考えた際の中国との関係、また日米間の関係にその日本が必要最低限に武力を行使することに関して影響が及ぼすのかどうか、そういった意見を少し聞かせて頂ければと思います。お願いします。

    (司会:北岡伸一)

     全くないと思います。一応、うるさいことを言う国もあるかも知れませんが、国連の原則とはイコール・フッティング(equal footing)ですから、同じ原則に立って行動するということなので、それは批判の論拠がありようがないのです。たとえば、今ソマリアの沖に日本が出ていく、あるいは中国が出ていく、中国が出ていく時に色々右の方の人で中国の野心がどうと言う人もいます。それを批判できますか?批判できないのです。正しことをするために良いことをすることになっていますから、同じように日本が行っても批判はできないのです。ですから、国際社会というのはそうした現実の利害関係と建前を組み合わせたところがあります。しかも、事実としてPKOに行って日本が仮に本格的に増やしても極めて抑制的にしか軍事力は行使しないと思います。ですから、国内からの批判が出ることはあったとしても、外からの非難はまず、起こらないというのが私の予想です。

    (明石康氏)

    私は北岡先生と全く同意見です。カンボジアPKOにおいては、日本と中国の軍が非常に睦まじく協力しながら仕事をしました。東ティモールにおいては、日本と韓国の部隊がこれまた素晴らしい協力ぶりを示しました。そのように、北岡先生が言われた通り、日本がPKO活動において国連の枠内においても国連の枠外であっても、恐らくアジア諸国が多数参加するのならば、そうした行動に一切中国・韓国からは文句は出ないと私は信じています。数週間前に実は人道支援、その他に関してのアジア諸国の軍事的協力ぶりに関するセミナーがありました。これからこうした活動を増やして行こうという声が圧倒的にいろんな国から上がりました。日本の消極性が非難されることがあっても、積極性が批判されることは私には考えられませんし、できれば日中韓の人達が共同の訓練システムの中で同じ釜の飯を食いながら訓練するのは、信頼醸成を高める所以でもあると思います。

    (司会:北岡伸一)

     ありがとうございます。私も最後に付け加えようと思っていたのですが、一緒にやることによって、お互い相手が化け物でも怪物でもなくて、同じ人間であることが分かって、信頼醸成上大変好ましいものではないかなと思います。日韓中なんかのジョイントのPKOはやはりいいのではないかと私は思っています。では他にいかがでしょう。

    5.(質問)T大学大学院2年 Hさん

     先日、「未来への提言」でジェフリー・サックス氏と対談されているのを拝見しました。その中で明石さんが平和構築と開発は深い関係にあるということを強調されました。今、アフリカでは特に紛争と貧困の問題が密接に関っていると思います。そういった中でPKOの活動と開発援助の間というのはどういった連携があり得るのか、あるいは連携すべきなのかということをお聞かせお願いますでしょうか。

    (明石康氏)

     私が冒頭の話で触れたブラヒミ報告の中では、正に平和維持活動の直後、ないしは平和維持活動が行われている間に、平和構築という活動が始まらなければいけないと書いています。また、平和構築の一部として、開発の問題が大きく姿を現します。これはお金の表と裏のような不即不離の関係にあると私は思います。平和というものは、より長期的な、より堅固な、基礎のあるものにするためにはその裏付けとして開発がどうしても必要であり、治安や司法・行政をふくむガバナンスが必要であると思います。ですから、ODA憲章の中で我が国は平和構築を一所懸命にやることを謳っているのです。また、人間の安全保障も重視しているのです。ですから、PKO活動へのより一層の参加は、平和構築へのより積極的な参加ぶりと同じ発想に基づくものだと私は考えています。

    6.(質問)T大学大学院1年 Sさん

    今の話とちょっと関連するのですが、国連の予算というところで、お話を伺いしたいと思っています。開発援助に踏み込んで活動して行くと、どうしても避けられないのが予算配分の問題かと思います。たとえば、同じ開発援助に携わる国際機関として、世界銀行の人にUNDPとの活動の違いを聞くと、まずおっしゃられるのがプロジェクトの予算の桁の違いであり、世界銀行とUNDPでは数十倍、数百倍もプロジェクトの予算の大きさが違うというお話をされることが多いのです。私なんかは国連で働きたいのですが、そういった予算の調達であったりとか、適切なプロジェクトにどれだけの予算を割り振るのかと、そういった財務戦略と言うか、そういったものが国連内部で、どのような議論がされているのか、もしくはそうしたことに対して明石さんはどのようなお考えか、お伺いしたいと思っています。

     (明石康氏)

    国連の通常予算とPKO予算は、義務的な拠出になっていて、これは加盟国に有無を言わさず出させることになっています。ところが、開発をめぐる一連の活動は、自発的な拠出になっているため、日本は自分で海外の途上国に直接、そうしたお金を出す場合もありますし、国連機関を通じて出すこともあります。また、アジア開発銀行のような地域機関を経過して出すこともあるのです。色々な事態に応じて、色々なプロジェクトに応じて、臨機応変に出し方は変えていいと思います。武装解除、それから元兵士の市民社会参加、そうした一連の活動がありますが、たとえば武装解除は国連のPKO予算に入り、元兵士の市民社会への復帰は一種の開発活動ですから自発的拠出の方、寄付金の方に入るべきだということに関して、そのプロセス全部をPKO予算に入れるべきだとブラヒミは「ブラヒミ報告」の中で主張しました。ところが、我が国を含めて先進国は、残念ながら自発的拠出という線を崩していませんので、その点において「ブラヒミ報告」は採用されていないのが現状です。それから国連に関して、機密情報を国連も持つべきであるというブラヒミのもう1つの勧告に関して、国連自体がアメリカのCIAのようなものを持つのは決して望ましくないという意見を持つ国が多く、その点でブラヒミの勧告は採択されてないのが現状です。でも、「ブラヒミ報告」は85−90%までは賛成だというのが国連での実態だと思います。

    7.(質問)T大学大学院1年 Aさん

     ご貴重なお話、ありがとうございました。PKOの予防展開のことについて質問したいのですが、お話の中で旧ユーゴPKOの一環として行われたマケドニアPKOの予防展開は、紛争の拡大を防ぐのにある程度成功したと仰いました。また、一方でカンボジアや旧ユーゴは大規模で、かなり財政的な負担が大きいPKOになってしまったと仰いました。この2つのことから考えると、PKOの予防展開の効果や重要性がもっと広く認識されて、注目されてもよいと思いますが、国連の内部からPKO予防展開を充実させようというような動きはないのでしょうか。また、それがPKOの予防展開を増加させることが難しいとすれば、その原因はどこにあるとお考えか、お教えてください。

    (明石康氏)

       実はマケドニアに展開された国連予防展開部隊(UNPREDEP)は国連唯一のPKO予防展開です。これはその任期満了時に安保理に継続の承認が求められました。ところが、中国が拒否権を行使したために残念ながらマケドニアのPKOの予防展開は、それで終わりになってしまったのです。その後、私は中国に行って上海の国際問題研究所の人達と日本の国際問題研究所との共同研究の席で話す機会がありました。上海国際問題研究所の人達が北京政府の決定は間違っていると言ってくれたので、大変嬉しいと思いました。北京政府がマケドニアPKOに拒否権を行使したのは、マケドニアが国家承認を本土の中国政府から台湾政府に替えたことに対する抗議として、嫌がらせをやったのです。 実は紛争予防、予防外交というのはとても大事なものです。予防外交が成功するならば、PKOの膨大なコストを掛ける必要がなくなるのです。しかし、そこが人知の限界と言いますか、悲しさであって、たとえば国連事務総長はコソボの問題が1999年に、あのような形で噴き出す2年以上前から、こうした紛争になると予告していました。それからルワンダの隣のコンゴ民主共和国の東部における人道危機が酷くなる時も、事務総長は「そうなりますよ」と、「その準備が必要です」ということを安保理に対してきちんと言っていました。しかし、政府も、我々個人の生活を取ってもそうですが、皆目前の問題に気を取られて将来のために起きるかも知れないが、起きないかも知れない事態にお金を掛けることはなかなかしたがらないのです。事務総長の呼び掛けも無視されて現在に至っています。事務総長は、国連憲章第99条の下で国際平和を脅かすような事態に注意を喚起する権限は持っていますが、安保理の行動を強制することはもちろん不可能です。我笛吹けども安保理が踊ってくれない悲哀を事務総長は、しょっちゅう噛みしめているのです。

    8.(質問)T大学法学部 3年 Nさん

    今日はお話、ありがとうございました。ブラヒミ報告についての質問なのですが、いろんなやり方の質問です。何らかの価値を良い側の方に立つべきではないか、何らかの価値を実現するためのPKOであるべきではないかというような、上手くまとめられないのですが、そうしたお話があったと思います。明石さんは、あくまでも中立を目指すPKOが好ましいと思われますか、それとも何らかの基本ライン、人権とか、平和構築、開発という形を実現するためのPKOが望ましいと思われますか?突然混乱して、緊張してしまったのですが。

    (明石康氏)

     非常に難しい問題です。実は旧ユーゴスラビア紛争に関して、国連PKOが取った態度についてなのですが、特にスレブレニツァというところでムスリム系の男性が約7,000人、セルビア人勢力によって惨殺された事件があり、「国連は何をしていたのか」ということが問われました。そうした世論の高まりの中で、「ブラヒミ報告」が書かれたので、「国連の中立は価値における中立ではなくて、政治的な中立であるのだ」とブラヒミは言っています。やはり、善と悪の間で中立と言うのは許されないので、国連としても善の側に立つのが当然であるというのがブラヒミの意見です。

    皆さんに最近出た大変良い研究書を紹介致します。『スレブレニツァ−あるジェノサイドをめぐる考察』という本で「難民を助ける会」の理事長である長有紀枝という女性が東大の博士論文として書いた論文で、資料も万遍なく集められ、分析されています。この本は、欧米的なややせっかちな価値観に基づいて評価したものではなくて、国連としても事態の中で出来ることは限界までしたということを客観的に評価している大変良い本です。世の中のこと、国際政治とか外交上の問題とかが、善と悪のどちらかに分類出来るならば、我々の仕事はこれほど楽なものはないのですが、殆どのことは善と悪の中間の限りない灰色の何処かに存在するものであると思います。それぞれの次元で我々は精一杯の判断をすることしかないのではないかと私は思っています。

    その意味においては、「ブラヒミ報告」のその部分については、言葉としては美しいのですが、どのようにしてそれを実際に適用するのかという疑問を私は持っています。国連のアナン事務総長が出した「スレブレニツァ報告書」も、私はその前半のスレブレニツァに至るプロセスを記述している部分については、素案の段階でコメントを求められたので、色々と事実の誤りを直すことが出来ましたが、結論の部分はアナン氏自身の結論であったので、コメントは慎むことにしました。私自身がその結論の部分を書くのであれば、やや違ったものになったのではないかと思っています。

    (司会:北岡伸一)

      ありがとうございました。少々3〜4分、まとめの話をして終わりたいと思いますが、PKOというのは、次々に色々な事態に応じて発展して来たエボルビング・コンセプト(evolving concept)だと思います。冷戦期は全然違いましたし、その後90年代には少々過剰な期待で行き詰って、その後2000年代に入って落ち着いているわけです。これは大規模な展開をしているが故に落ち着いているところもあるのです。コンゴみたいに大きな国で、もし必要最小限、ぎりぎりの数だったら、もっと紛争は続いて拡大したかも知れません。所詮、国際社会は主権国家の層となっていて、カナダがいかに熱心でやろうが、自分の国から遠く離れたところに自分の国の予算と人員、国民を危険にさらすでしょうか。そう簡単に出来るわけがないです。皆、ある意味で逃げ腰です。レバノンのPKOを強化しようという決議が2006年に通って、私が居た時の最後の仕事だったのですが、それでPKOを強化すると募ったら皆一斉に手を挙げて自分は海軍を出すと言ってきたのです。海軍なんか要らないのです。陸上はレバノンとイスラエルが危ないのですから、皆、本当は行きたくないのです。ですから、怖々屁っぴり腰で不器用に行動する、しかし、それが信頼でもあるのです。妙に野心的に急激に入って来たりしない。ですから、そうした臆病に出来ることをやって行くと、ブラヒミ報告の出来ることをやると、出来ることと出来ないことを考えてやって行くというのは非常に良い教訓だと思います。

    ただ、それでも日本はこの中立原則とか、日本のPKOの5原則とかがあって、一見国連の原則と似ているのですが、日本の解釈は非常に厳格なのです。たとえば、中立原則も確かブラヒミさんは少々悪い奴と善い奴を区別しようではないかというのがあるのですが、日本の場合は少々でも反対する奴が居たら、もう止めようというふうになるのです。どんな国にも何十人か、反対する人間はいます。こうしたのはきちんとした正統性を持つ集団というよりは、国連では「スポイラー(spoiler)」と「和平に対する妨害者」という扱いで、本当に少数の反対は気にしないで展開することになっています。実際、100人の動きとかもあって、それも気になることもあるのですが、それはそんなに気にしません。

    他方で日本の重視している原則になるべくお金を節約するとか、それから主役は当事者、その国の国民だということで、我々が出来るのは外からの手伝いだということで、あまり外から強制するのはどうかというのもあります。今、展開されている幾つかのPKOで、そんなに手を掛けなくてもいいのではないかというのもあります。この間、私はコートジボワールのPKO(UNOCI)を見て来たのですが、あそこでサッカーの試合があって、閉幕すると22人が亡くなりました。大変な惨劇だったのです。PKOで、これまで数年間やっていて亡くなった方は18人だったのですが、全員交通事故なのです。だからいいってことではありませんが、選挙の準備に何年も掛けてやっているのです。選挙ぐらい自分の金でやったらどうだと思わないでもないのですが、しかし、これはもちろん昔のフランスの植民地ですから、フランスが国際社会の資源をそこに投入したいのです。また、アメリカは元の植民地であったリベリアに投入したいのです。そうやって皆自分の息のかかったところに国際社会の資源を投入したいと思うのです。そうした中で日本は割合にフェアな立場を取れる国だと思います。それから日本は、軍事力の行使には極めて慎重ですから、どうせ日本が果たす役割は多分輸送、それから道路工事みたいなインフラ整備とかが中心になって、それで非常にいい効果を上げることが出来ると思います。日本の欠点は直ぐに法律論になることだと思います。これは何々に違反しないのか、それから直ぐ、こうしたことをしたら外からどう思われるのかというのです。むしろ先ほど、明石代表が言われた通り、日本が消極的にやることに対する批判はあっても、積極的にやることに対する批判はまずないと思います。ともあれ、これは法律学というよりも政治学なのです。政治というのは可能性の技術です。できるだけ少ないコストで、たとえば人の安全、生命、平和を何とか少ないコストで実現しようとする凄く崇高であり、立派な仕事をやって行くものです。しかし、立派な仕事をやって行くためには色々なグループのドロドロした利益とか、考え方を真似して行くということもあって、そうしたタフな仕事だと思います。そうしたことをやってこられた明石先生、今日お話を聞いて、とっても良かったと思います。少々時間を大分超過してしまいましたが、長時間どうもありがとうございました。心よりお礼を申し上げて、今日の会合を終りにしたいと思います。どうもありがとうございました。

    (拍手、講演会終了)