東京大学大学院法学政治学研究科・法学部 グローバル・リーダーシップ寄付講座(読売新聞社)



連続公開セミナー 第5回

「現代世界におけるユネスコの役割」

  • 日時: 2010年6月3日(木曜日)15:00〜16:40
    場所: 東京大学本郷キャンパス 小柴ホール
    講師: 松浦晃一郎 前国際連合教育文化機関事務局長
    司会: 北岡伸一 東京大学大学院法学政治学研究科・法学部 教授
            中谷和弘 東京大学大学院法学政治学研究科・法学部 教授

    【前置き】

    (司会:北岡伸一)

     今日は皆さんご出席、ご参加頂いてありがとうございます。
    これは我々がやっています昨年読売新聞の寄付で成立しましたグローバル・リーダーシップ寄附講座のスポンサーにかかる講演です。グローバル・リーダーシップ寄附講座と言いますのは、次のような考え方で設けたものです。日本はどうもこの頃、内向きであり、特に国際問題に対する関心が乏しい。ましてや国際機関における活動ぶりはどうも低調だと思うわけです。かつてはそうではありませんでした。1990年代には明石さん、緒方さんを始めとして国際機関にいろんな方が働いておられました。日本の将来を考えても単独の経済大国として他を圧倒する状況でもありませんし、ましてや軍事大国でもありません。それよりも日本が国際機関などで積極的に活動することで日本の発言力・影響力を強化していくことが今度とも望ましいにも関わらず、それに逆行する事態になっているのではないかという問題意識に端を発しています。
     日本は実は国際機関で働いていけるいろいろな条件を備えています。すなわち、日本は19世紀に西洋が支配している西洋中心の国際秩序に編入されていろいろな苦労をしたわけです。条約改正にも大変苦労したし、いろいろなところで様々な有形無形の差別を受けて、これを乗り越えてきました。その後、道を誤って戦争で潰れましたが、また戦後発展してきたというのは、これは多くの途上国にとっては輝かしい業績なのです。かつ日本は、古代の文化と連続性を持っていて、今日の我々が8世紀に出来た万葉集を読み、楽しみ、感動することが出来るといった連続性と、途上国というか後発国の経験があり、文化の連続性があって、かつ立派な近代をここに建設しているのは、多くの国から見て、大げさに言えばやや眩しいような存在です。そのような日本が国際機関などでプレゼンスが小さいというのは非常に困ったことだと私は思うわけです。ぜひ将来、緒方さんや明石さんのような、あるいは松浦さんのような人を輩出したいと思います。もちろん、そうした人材育成というのは、一朝一夕に出来るものではありません。しかし、学生時代にそうしたリーダーたちと間近に接し、議論することがあれば、世界を視野に入れて活動をしようとする人が増えるのではないかということで、我々はこの講座を読売新聞の寄付によって始めました。常時やっているのは、例えば「国連安保理と紛争解決」というセミナーや演習で、世界の紛争に安保理はどのように関わっているのかを演習でやっていますし、あるいは「地球規模課題と日本」、地球の温暖化問題等で日本はどのような役割を果たしているのかについての講義や演習もやっています。その合間にいろんなリーダーの方々をお招きしてはお話を伺っているわけです。

    今日お招きしたのは松浦晃一郎さんです。松浦さんは1937年のお生まれです。外務省に入られまして、在学中に試験に合格して、中退で入られたのではないかと思いますが、それで経済畑で大いに活動されました。経済局長、北米局長、外務審議官などを歴任されまして、駐仏大使を1994年からお勤めになりました。松浦さんは若い頃からアフリカにかなり興味を持たれまして、アフリカの様々な彫刻などに大変お詳しいです。私は何度もお目にかかっていて、私のニューヨークの公邸にもお出で頂きまして、そのようなお話を聞いたこともあります。それからフランスだと有名なワイン通でいらっしゃるのではないかと思いますが、御著書もたくさんおありです。先に申し上げた途上国の気持ちと文化もよく分かる、そして先進国の代表でもあるという日本の強みをまさに具現していらっしゃる方が松浦大使です。ユネスコの事務局長を2期、10年をお勤めになりました。昨年、退任されたわけで1999年から昨年までお勤めになったのですが、その間、松浦事務局長といって大抵の人が思い出すのはアメリカを復帰させたことなのです。ユネスコも国際機関の常でありますが、非常に効率が悪い、あるいは腐敗があるというのがあるのです。加盟国は皆平等という建前なので、そうすると効率の良い人、悪い人がいるので平等主義というのは基本的に効率が悪いわけなのです。そうすると、いろんな昇進の問題で怪しげなところがあるとか、お金の使い方に問題があるとか、このように第3国に媚びて効率の悪い組織にいられるかと言ってアメリカは脱退したのです。確か、1984年ではないかと思いますが、脱退しまして行政財政改革がなければアメリカは復帰しないことを宣言して出ていってしまったわけです。しかし、アメリカのような国がいないと困りますし、どうしたら良いのかということで松浦事務局長が誕生して、以来いろいろな努力をされまして、単独主義のブッシュ政権の下でアメリカは復帰したのです。これは大変な業績を挙げられたということです。その他、実際の中身でも文化多様性条約とか、無形文化遺産保護条約などのような文化の多様性とか、無形文化とかそのようなものを尊重しようとする約束の実施を動かして作るのに大変貢献された方です。これも日本に非常に適しているのです。つまり、日本の切札は文化だと思います。経済は少し停滞しているし、軍事でもないし、政治力も今一です。日本の文化の多様性は凄いと思うのです。

     やや余談の宣伝をしておけば、今年は遷都1300年です。私は奈良県出身ですから何度か呼ばれてそこに行っているのですが、あそこに見られるシルクロードの東の端っことしてのローマ以来のいろいろな地域の文化を受け入れている奈良の文化の多様性というのは凄いと思います。一度、皆さん時間がございましたらいらっしゃることをお勧めします。
     そのような日本のポジションを具現して、まさにそのような機関であるユネスコで10年活躍されたということは我々にとってはとても誇らしいことであり、その話をお聞きすることをとても楽しみにしています。この話を聞いて、将来そのような方向で勉強したい、活動してみたいと思った人が1人でもいれば、大変ありがたいと思っています。 私は、今日はやや体調が優れないものですから、この後割合短時間で引き上げます。後の質疑応答はやはりこのグローバル・リーダーシップ寄付講座の運営委員である法学部の中谷弘和教授にお願いすることにして、お詫びとお断りを申し上げまして、最初のご挨拶に代えたいと思います。それでは松浦さん、宜しくお願い致します。

    【講演】

    (松浦晃一郎氏)

      皆さん、こんにちは。
     久しぶりに東大の本郷に参りました。先程先生のお話にもございましたように、私は大学に在学中に外交官試験に受かったものですから中退をしましたが、その後一度、五月祭でお邪魔したことがございます。それは1970年代でしたから、今から考えると40年近く前で、今日は久しぶりにお邪魔したことになります。実は先日駒場に参りまして、教養学部の山影先生にお招きを受けて講演に参りました。駒場は実は50年ぶりくらいで非常に懐かしく思いました。そのようなことで、今日は久しぶりに本郷にお邪魔して懐かしく思っています。
     今日はご覧のように「現代世界におけるユネスコの役割」ということでお話しをさせて頂ければと思っています。私の講義は程々にして、出来るだけ多くの質疑応答の時間を取りたいと思っています。
     今日は入り口のところで配られたと思いますが、ユネスコの概要について紹介するパンフレットがあります。これは私が作ったものではなくてユネスコの国内委員会が作ったもので、ユネスコの設立の経緯ですとか、活動というものを紹介してくれるものです。今日はこれを皆さん方に平板に紹介するのではなくて、私なりにまさに現代社会が特に21世紀において抱えている諸問題に、国連システム全体として取り組んでいるわけですが、その中でユネスコがどのような役割を演じてきているのか、あるいは今後演じて往かなければいけないのかという視点からお話しをしたいと思います。しかしながら、皆さん方はユネスコという名前はもちろんお聞きになったことがあると思います。幸いにしてユネスコは日本で非常に人気のある国際機関です。しかしながらユネスコが具体的に何をやっているのかということについては必ずしもよく知られていません。
     ユネスコの活動の中で一番よく知られているのは、文化、文化遺産、さらに言えば世界遺産です。しかしながら、それはあくまでもユネスコの活動の1つであります。念のため申し上げますと、先程私が「国連システム」という言葉を使いました。国連システムの中には、私なりに分類をしますと4つのグループがあります。まず、国連本体です。それからユネスコのような専門機関であり、ユネスコの他にもWHO(保健・衛生関係)、それからFAO(食糧・農業関係)、ILO(労働関係)などそれぞれの具体的な分野を担当して、条約によって設置されています。それから3番目が、日本語ではあまりそのような表現を使っていないのですが、英語で言えば「Funds And Programs」と言って、直訳すれば「基金と計画」という言葉になると思います。今申し上げた専門機関は、条約を交渉して、条約を批准して設立するので時間がかかります。戦後の当初、それは行われていたのですが、段々専門機関を設置するというのが大変だというので、国連総会の決議で設置しようということになり、今も申し上げた「基金と計画」というカテゴリーが作られて、国連総会の決議で設立されています。それが日本でもよく知られているユニセフ(国連児童基金)、それから私の先輩でもある緒方貞子さんがトップを勤められましたUNHCR(国際難民高等弁務官事務所)、つまり難民関係を担当しているところであります。開発問題の全体はUNDP(国連開発計画)が所管しているということで、これは国連の事務総長の傘下にあります。ちなみに専門機関は国連システムの一員ですが、独立をしてそれぞれのガバナンスの機関がございますので、事務総長の傘下には属していないのです。広い意味では国連のメンバーとして事務総長と一緒に仕事をしますが、私の10年間も事務総長から指示をもらったとか、あるいは事務総長にお伺いを立てたということはありません。むしろ仲間としていろいろ相談して参りました。それから4番目が第2次世界大戦直後に作られたブレトン・ウッズ機構(Bretton Woods system)と言われる経済、金融、貿易を担当しているIMF、世界銀行、WTO、(かつてはGATTだった)、この4つのグループが国連システムを結成しているので、全部足しますと数え方にもよるのですが、34〜35になります。34〜35の機関が国連システムを担当しています。私が今から申し上げます「21世紀の課題」というのは、まさにこの国連システム全体が対応するということをしなければいけないという課題であります。さらに広く言えば、国連社会、国連のみならず国際社会全体が対応しなければいけないということでもあります。1980年代は、とにかく今申し上げたこの4つのグループがばらばらにいろんな問題に対応した傾向がありましたが、1990年代に入ってからはコフィー・アナンが国連事務総長になってこれではいけないということで、今申し上げました34〜35の国連システムの諸機関の長を集めた機関が出来ました。これが今の潘基文国連事務総長も引き継がれていて、私もこの10年間この会議は出来るだけ欠かさないように出席していました。これは英語で言えば、Chief Executives Board for coordinationで日本語になかなかなりにくいところがあるので、英語ではCEBと私共は省略しています。CEBというのは、つまり34〜35の国連システムのメンバーの事務局のトップを集めた会議で年2回会合しています。 そこで全体共通の課題について自由に討議をするということになっていて、さらに言えば皆が取り込まないといけない問題で国連システム全体として共通の立場を打ち出す必要がある時は事前に準備をして、CEBの決定として決めることにしています。コフィー・アナン前国連事務総長もよくやられたと思っていますが、潘基文国連事務総長もこのCEBをしっかり活用していくということに非常に力を入れています。最初、少し申し上げたように専門機関というのは、法律的には国連事務総長の下には入っていないのです。しかしながら最近いろいろな国連システム全体が抱える問題というのは非常にグローバルな問題になっています。
     先程専門機関の担当分野で肝心なユネスコのことに触れませんでしたが、ユネスコはご覧のパンフレットにもありますように、教育、科学、文化、それからこの「その他」になっていますが、本当はコミュニケーションというのがありますので、4分野がユネスコの担当になっています。何れにしましても、ユネスコの守備範囲がかなり広いです。又最近の国際的な課題は専門機関、さらには「基金と計画」の1つのメンバーにすっぽり入るという問題が少なくなってきています。ですから国連システムの関係の諸機関が集まって皆で協力しながら対応するということを益々進めなければいけなくなってきています。

     私は今、私なりには21世紀国連システム全体として、さらに言えば国際社会が全体として抱えている課題というのは5つあると思っています。何れも1つの専門機関、それから1つの「基金と計画」の機関が担当出来るようなものではないので、国連システム全体が対応しなければいけないのです。もちろん私が国連システムという時は事務局だけではなくて、メンバー国がしっかり対応する必要があるということを意味しています。
     第1は、ご承知のように国連が設置されたのは第2次世界大戦直後で、国際連盟の反省を踏まえて世界大戦のような戦いは繰り返させないという決意のもとに作られました。いわゆる平和を実現するためにということで武力紛争の阻止、それから武力紛争が起きた時は出来るだけ早く解決する、それからそれが起こった後のポスト紛争、出来るだけ戦後復興を図るという目的で作られたわけです。終戦60年以上経ちましたが、幸い大戦が起こっていないのですが、残念ながらいろいろな地域紛争が各地で起こっています。これには国連自体が全面に出て対応しますが、そのような紛争を防止するという点からは国連システム全体が、つまり国連単独ではなくて全体がしっかり対応しなければいけないというように考えています。ですから紛争が一旦起これば、それは国連自体、すなわちニューヨークで対応しますが、そのような紛争が起こらないようにしっかり対応する必要があると思います。
     第2は、貧困の除去であります。1つ1つ項目だけを申し上げて、後で詳しく申し上げます。貧困の除去というと最近日本の国内でも貧困層が増えてきていますが、私に言わせれば、世界全体で貧困の除去、あるいは貧困の軽減から除去というのは遥かに深刻な問題です。しかし残念ながら日本では最近ここに注意があまり行かなくなっているのではないかと心配しています。その最たる例がいわゆる日本の政府開発援助(ODA)の予算が年々減少していることです。ODA予算というのは、まさにこの貧困除去のために一番重要な手段でありますが、日本は残念ながらそれを他の国が増やしている時にどんどん削ってきて10年以上前に比べると半分になっているという残念な現実があります。 それから第3は、先程少し北岡先生も触れられましたが、地球規模の環境問題にどう対応するのかということです。
     それから第4に、今グローバル化が非常に急速に進展しているわけで、むしろこちらを第3として申し上げた方が良いかも知れません。グローバル化の進展がいろんなプラスをもたらしていますが、そのプラスをさらに伸ばしていくようにどうしたら良いのかということです。むしろ、ここで地球環境問題を申し上げたいと思いますが、グローバル化の裏返しなので、マイナスの面として地球環境問題というのが起こっているのです。
     それから第5に、最近新聞に随分と生物多様性というのが出ています。現在地球上には3000万の異なる種(Species)が存在していると言われていて、そのうち、かなりの種が絶滅の危機に瀕しているので生物の多様性をしっかり護っていくという必要性があります。同時に先程北岡先生が具体的にユネスコで私が力を入れて作りました条約にお触れになりましたが、この文化の多様性と人類が今まで作り出してきた多様な文化というものを、グローバル化が進む中でどのようにしてしっかり護っていくかというもう1つの大きな課題を持っています。生物の多様性、文化の多様性をどのようにして護っていくのかというのが第5の課題であります。

     私が今日はこの5つの課題の全体について、1つひとつ詳しくお話しする時間はとてもありませんので、むしろ、5つの課題の中でユネスコが、あるいはユネスコの見地から見てどのようなところに力を入れてきたのか、またさらに私自身が50年間どのようなところに力を入れてきたのかということを、具体例を入れてお話ししたいと思います。  第1の武力紛争の阻止、そしてそれが起こった時の解決でありますが、ユネスコが、私自身が非常に力を入れたのは、武力紛争が特に最近では地域紛争ですが、それが起こらないように努力していくということです。そのためには先程触れた第2の貧困除去というのが非常に大きな要素になります。どうしても貧困というのが武力紛争の大きな理由の1つになっています。しかしながら、皆さんご承知かも知れませんが、ユネスコに有名な憲章の前文があります。ユネスコの憲章は1945年の11月に採択されました。ユネスコはその1年後の1946年11月に発足しましたが、ユネスコの憲章は1945年の11月にロンドンで設立総会が開かれて、そこで採択されました。ユネスコの憲章の前文の第1文ですが、戦争というのは人の心の中に起こるので戦争を防止するためには人の心の中に平和の砦を築く必要があるという文章があります。これがいわゆるユネスコの精神と言われるものです。ですから具体的に言えばユネスコが作られた目的は、まさに人の心の中に平和の砦を築くということでありまして、そのために何をするのかということです。それはユネスコの憲章によれば、第2次世界大戦というのは、広く言えば戦争というのは、諸国民の間の意思の疎通が悪いこと、さらには誤解があったということにその原因であるということです。したがって戦争を防ぐためには諸国民の間の意思の疎通を良くすること、交流を進めること、そして誤解が生じないようにするということであるというのがユネスコの憲章に謳われています。そして具体的には先程少し申し上げた4分野であります。すなわち、教育、文化、科学、コミュニケーションの分野で交流を進めていくということによって人々の心の中に平和の砦を築こうとすること、これがいわゆるユネスコ精神です。しかしながら実際には、なかなかそのように簡単ではありませんが、私がこの10年間、非常に力を入れたのは、第1の紛争の事前防止という点からいわゆる文明間の対話、あるいは異なる文化との間の対話を進めるということであります。
     私がユネスコの事務局長になったのは、先程北岡先生からのお話しにもありましたが、1999年11月です。その時、国連総会ではちょうど2001年を文明間の対話の年にするということが決議されていました。それを担当する機関としてユネスコが指名されました。そして私は2001年に向けていろいろな準備をしました。その国連総会の決議で非常にはっきりしているのは、今のユネスコの憲章と似ていて世界にはいろいろな文明があり、いろいろな文化があり、いろいろと異なっているということです。しかしながらその間で誤解が生じてはいけないので、最後には文明間において、あるいは異なる文化の間で衝突が起こらないようにするために対話を進めるのです。そして2001年を文明間の対話の年にするということが決まりました。
     ところが、私自身も2000年にいろいろ準備をして、2001年にいくつものグローバルな会議を開きました。それから地域的な会議などいろいろ開きましたが、非常に残念なことに皆さんもご記憶だと思いますが、まさに2001年の9月に、例の9・11事件がニューヨークで起こり、貿易センターが破壊されるという事件が起こりました。これはいわゆる文明間の衝突ではないと、すなわちこれはイスラム教とキリスト教の衝突ではないというように私は考えますが、しかし当時はまさにそのようなことが強調されました。実際にはイスラム教徒の若い人たちの間でキリスト教を中心とする西欧社会に対する非常に大きなフラストレーションが溜まって、それが残念ながら暴力行為につながっていくということであったわけで、文明間の衝突という言葉で表現すれば明らかに行き過ぎです。しかしながらそのような一群の若い人たち、それもかなり教養のあるイスラム教徒たちが何であのような行動に走ったのか、さらに言えば、それを防ぐ事は出来なかったのかというのがそれ以来大きな課題になっています。未だに決定的な解答はありませんが、これはやはり常日頃からの教育というのが重要であるということです。
     2001年の文明間の対話に戻れば、9・11事件の前でありますが、私自身が非常に力を入れたのは、やはり世界全体で問題の地域がいくつかまだ残っていて、その問題の地域の1つは、なんとかつてバルカン半島と言われた第1次世界大戦の発祥の地にもなり、さらに最近は1990年代にユーゴスラビア連邦の解体に伴って何年にも亘る地域紛争が起こったところであります。このバルカン地域の南東における文明間の対話を進める必要があるということです。また、もう1つはサハラ以南のアフリカの国です。それから私自身が手掛けてそれは決して成功したとは思っていないのですが、東アジアの5ヵ国、つまり日本、北朝鮮、韓国、中国、モンゴルの間の対話を進めるということです。いずれにせよ10カ国以上の元首に集まってもらって全体の会議をニューヨークでコフィー・アナン前国連事務総長と私の主催で開きました。実は2000年の9月に開いて、これはまだ2001年の文明間の対話の年が始まる前でしだが、非常に良いトーンで、主要各地域から主要な大統領・首相にも出席して頂いて、非常に良い形で議論が出来たと思っています。そのようなグローバルな会議を開いた上で、今申し上げたような地域別の会議を開きました。それからアラブ世界も重要だということで、アラブ諸国の間で文明間の対話も推進するということですとか、先程南東欧だけを申し上げましたが、むしろ中東、かつての共産圏諸国だった国や、それに南東も含めての全体の対話を進め、いろいろな地域的な会合も開いて参りました。私にとって今でも一番嬉しいのは、地域的な文明間の対話が一番成功したのは南東欧でありました。そこで私が大統領を10名、実は旧ユーゴスラビアの構成国が中心ですが、その周辺の国も入れまして、2003年から毎年開くことになりました。2001年から2002年にかけて閣僚レベルの準備会合を開いて、2003年からサミットを大統領レベルで開いて、それは未だに続いています。私は非常によく覚えていますが、2003年、マケドニアのオーリッド市で会議を開いた時に各国の首脳がちょうど同じ所で10年前に同じようなサミットを開いて、そこが決裂して武力紛争が発生してそれ以来ユーゴスラビア連邦を構成していた国々の構成国の大統領が一同に会する機会がその後一度もなかったと、今回が初めてであるということを何人かの方が私に言ってくれました。そして、ユネスコのイニシアティブに非常に感謝すると言ってくれました。それ以来のテーマが「文化」であります。やはり南東欧の国々を結びつける共通のものは、「文化」でありますので、その「文化」を中心に進めて行こうと、毎年会合を開いています。これは非常に成功した例で、幸いにしてボスニア・ヘルツェゴビナがデイトン合意で平和的な基盤が出来たこともありましたが、今から考えると良いタイミングでイニシアティブを取れたと思います。そのような意味で私はユネスコのイニシアティブがなければ南東で21世紀に入って武力紛争が起こったとは思いません。やはりユネスコのイニシアティブのお陰で南東諸国間の交流が進んで、これは政治指導者の間のみならず、それを切っ掛けとして国民レベルにも広がったとして非常に嬉しく思っています。ですから第一の点の紛争の阻止という点からユネスコとして手掛けた1つの成功例としてお話ししたいと思っています。
     東アジアに関してなのですが、今日は時間がありませんので、あまり触れませんが、私はぜひ5カ国の対話をいろんなレベルで続けたいと思いました。まず最初に東アジアの児童のレベル、(小学生・中学生、高校生のレベル)で対話を開くということです。これは文化祭を行うということで、中国と手を組んで第一回2001年夏は北京で開きましたが、それ以来毎年持回りで開いています。残念ながら最近の例を取り上げるまでもなく、なかなか朝鮮半島の政治情勢が安定化しないでいる中、この児童文化祭は続けています。今年もマカオで開かれることになっていて、私もぜひ出てくれと言うので行くことにしているのですが、最近の情勢を反映して非常に心配にしています。私が希望したことは、児童レベルで始めてそれが段々大人のレベルに、さらには政治指導者のレベルにもそれを持っていきたいということでした。しかし残念ながらそこまで行きませんでした。以上が第1の課題についてのユネスコの役割です。
     第2番目の貧困の除去について申し上げたいと思っています。貧困の除去については残念ながら先程少し触れましたが、日本では注目度が足りないと思います。もちろん、最近日本国内でこの問題が増え、失業者が増える、あるいはフリーターが増える、就職出来ない方が増えるなど、いろんなことで言われています。いわゆる世界的な規模で見た時の「貧困」、特に日本語には訳しにくいのですが、無理して言うと「絶対的貧困」、これは1日1ドル以下で生活している人をそのように定義していますが、それが21世紀の冒頭に、当時世界の人口が60億人、今は67億人になりましたが、60億人の時代に1日1ドルで生活している人が20%である12億人を占めていました。これを2015年までに半減させるということで、とっても完全に撲滅することは出来ないのですが、半減させるというのが、コフィー・アナン前国連事務総長が音頭をとった2000年の9月にニューヨークで開かれた国連ミレニアム総会の結論であります。その第1の目標がミレニアムの開発目標と言われ、繰り返しますが絶対的貧困を2015年までに半減させるということで具体的な数字は書いてありません。当時の認識では12億の人を6億人にするということであったわけですが、それに合わせてあと7つの目標が挙がっていました。
     第2の目標は教育、第3の目標も教育であります。これはユネスコが取りまとめの役を担っていますが、第2の目標は2015年までにすべての児童に対して初等教育を施すということであります。第3番目が教育における男女の平等を実現させるということであります。後で第4、第5と続きますが、環境問題なんかも入っています。私にとってさらにはユネスコにとって嬉しかった事は貧困の撲滅という点から教育が非常に大きな位置を占めたということになります。実はその前に私がユネスコの事務局長に就任して最初に手掛けた大きな会議は、2000年4月に開かれたセネガルのダカールでの国際教育フォーラムでした。それはコフィー・アナン前国連事務総長にも来てもらいましたが、実はユネスコが主催して世界銀行、それからUNDP(国連開発計画)、ユニセフ、それからUNFPAなどの国連メンバーとの協力により開かれました。先程は触れませんでしたが、UNFPAと言い、日本語にすると「国連人口基金」で人口問題を担当していて先程申し上げた「基金と計画」の一員です。これは私が就任した時点で準備が大分進んでいましたが、私が一番、最初に力を入れた会議でそこで2015年に向けて6つの教育関係の、それも初等教育、それから中等教育の一部を取り入れて、私共は基礎教育と呼んでいます。日本で言えば小学校6年、中学校3年合わせて9年を指しています。これを基礎教育と呼んでいますが、基礎教育に関する目標を2015年に向けて採択しました。その時の第1の目標が先程申し上げたミレニアム総会で採択されたミレニアム開発目標の第2の教育関係の目標です。つまり2015年までにすべての児童に対して初等教育を施す。裏を返して言えばすべての児童が初等教育を受けられるようにするということが第1の目標で、これがミレニアム開発目標にもなります。つまり貧困除去との関係でまず教育を施さなければいけないということで取り入れられたので、私は非常に嬉しく思いました。その後、残念ながら開発目標には入りませんでしたが、識字率の向上というものがあります。これは大人の識字率が残念ながら非常に低いわけで、それをさらに2015年までに半減させるということであります。あと、開発目標に入らなかったので今でも残念に思っていますが、教育の質の問題というのが入っています。単に初等教育を施すだけではなくて質的に良い初等教育を施すということは重要です。もちろん皆さんが受けている高等教育にも適用するものですが、まず出発点の初等教育において質的に高い初等教育を提供するということが重要であります。これも残念ながらミレニアム開発目標に入っていないのですが、私は、これは第2の開発目標の2015年までにすべての児童が初等教育を受けられるようにするという時に、単に初等教育で5年ないし6年の間、学校に通っていれば良いというものではないので、5年ないし6年の初等教育を受けて、その結果、それなりのレベルの水準に達するという結果がなければいけないと思っています。日本では6年ですが、国によっては5年のところもあります。私は5年でも良いと思いますが、単に5〜6年くらい小学校に通って卒業して資格を取るだけでは十分ではないと思っています。そのような意味で質的な側面を考えなければいけないので、先程申し上げましたミレニアム開発目標の第2の点は明示的に質的な面が入っていませんが、私はこれを入っていると、むしろ読むべきであると思っています。
     実はユネスコには教育が文化よりも大きな比重を占めていまして、ユネスコでは先程申し上げた4つの分野を担当していますが、ユネスコの一番の重点は教育です。これも日本ではあまり知られていませんが、ユネスコが作られた時は諸国間の教育交流を進めるということに重点を置いていました。しかしその後、途上国のメンバーも増えまして国連システム全体が途上国への支援というものに重点を置くようになり、その関係で教育に関しても今2本柱になっています。伝統的な諸国間の教育交流を進めるというのが1つの柱ですが、もう1つは途上国に対する教育支援です。実はこちらの方が比重としては大きくなってきています。教育というのが、貧困の除去という観点からも非常に重要なのですが、最初に少し触れました人の心の中に平和の砦を築くという見地から、さらに言えば紛争を未然に防ぐという見地からも教育は非常に重要です。文明間の対話の関係でもっと広く言えば、異なる文化の対話を促進するというのも現在の政治指導者あるいはいろんな大人の方々を対象にするのみならず、若い人さらに言えば学生の方々が中心になって、そのような教育の段階でしっかりこの文明間の対話の重要性を認識させる必要があります。私は「文明間」と「異なる文化」という言葉を使ったのですが、実は国連も文明というのをしっかり定義していないのです。世界で7つとか8つあると言われていて、非常に大きく取られるわけですが、文化というと国単位のみならず、それぞれの国の中にもいろんな文化があるわけです。世界全体で194の独立国家がありますが、ユネスコが193ヵ国の加盟国で、国連が承認している独立国家が194ヵ国ですから、194の国家が異なる文化を持っているのみならず、それぞれ国においてまた異なる文化がいくつも存在しているわけで、世界全体で相当多くの文化が存在しています。そういう異なる文化の間の理解を進めるためには教育が非常に必要であると思います。これは最初の第1点を補う意味で、そこにユネスコの役割があるということを申し添えさせて頂きます。
     日本のことについて第2の貧困の除去から申し上げますと、先程申し上げたようなことで日本はもちろん財政難ということが背景にありますが、もう1つはもしODAが日本国民からもっと支持されていればそんなに削られなかったと思います。残念ながらここ12〜13年の間にODAの予算が半額になっています。世界の趨勢から言えば先進国のODAの予算は伸び悩んでいます。しかしながら全体としては増やす方向で努力して、現に増やしている国も多くあるわけでその中で日本だけがODA予算を削っているという状況です。これは残念ながら外から見ていますと先程申し上げましたが、毎日1日1ドル以下で生活している絶対的貧困と、それから先程少し言いそびれましたが、1日2ドル以下で生活している人は24億人で約4割と言われています。ODAはそのような人たちを対象に貧困を除去するということに大きな役割を演じるわけですが、日本国民は貧困の除去に対して非常に低いプライオリティーを置いているという印象を国際的に与えているわけで、私としては非常に残念に思っています。やはりアフリカにおいて貧困の除去という現状がどのくらい酷いものであるかということをもっと日本国民に理解して頂いて、それを除去するために日本も国際的な役割を演じなければいけない、国際的な協力の枠組みの中でしっかりした役割を演じなければいけないということをもっと国民に認識してほしいと思っています。
     時間が大分経ちましたので、少しだけ端折って申し上げますが、先程のグローバル化の進展ということに、これは皆さんに申し上げるまでもなくいろいろな分野でグローバル化が進展していて、ユネスコも基本的にはグローバル化を促進することに努力しています。その一環として推進しているのが先程少し触れました教育交流です。教育交流はユネスコが戦後一番力を入れたもので、そのためにいろいろな障害が第2次世界大戦後にありました。たとえば、いろいろな教育関係の出版物の国際的な流通にも大きな障害がありました。今は貿易が十分に自由化されているので少し考えられないのですが、まず教育関係の教材の流通の障害を取り除くという、すなわち一般的な貿易の自由化に先駆けて取り除くということもしました。それから学者方のいろんな交流を推進すること、また学位の相互認証ということも推進しています。今もユネスコは非常に力を入れていまして、世界全体で今6地域に分けて学位の相互認証の条約というのを作っています。実は私は当時は問題意識を十分に持っていなかったのですが、いまだに感謝しているのは、アメリカ大学への編入です。先程冒頭で申し上げたように私自身東京大学を卒業する前に外務省に入りましたが、アメリカの大学に途中編入させてもらった時に東京大学で取った単位を全部認めてくれまして、それを自分で英語に訳して出しました。その上でアメリカの大学でとった単位を認めてくれて卒業という認定をしてくれました。ところが恐らくその逆は、当時はなかったと思います。恐らく今でもアメリカの大学で取った単位を日本の大学が途中で編入者として認めてその上で日本の大学の学位を出すということはあまりしないのではないかと私は思っています。その点アメリカは非常に寛大だったと思います。今申し上げた6条約というのは地域別ですが、例えばヨーロッパであればヨーロッパ中の大学はお互いに取った学位の相互認証をユネスコが推進して、つまりヨーロッパ全体が大学に関して1つのスペースを作ることに成功しています。そこまで行かなくでも学位の相互認証というのを、それら以外の地域でも推進して、このアジアでもユネスコが作った学院・大学院の相互認証条約とかあるのですが、主な国は重視しているのです。しかし残念ながら日本は重視していません。私は日本政府の関係者に兼ねてから日本も早くそこは踏み切ってほしいということを進言した経緯があります。今ちょうどユネスコで改定条約を作ろうとしていますから今の段階では、ユネスコの総会は2年に1回ですから、来年のユネスコ総会で改定条約が出来ます。ですから、前の条約を批准するよりも改定条約を批准して頂いた方が良いと思っているのですが、改定条約が出来ましたら是非私は優先順位を伏して批准の手続きを進めてほしいと思います。そうすることによって日本の大学とアジアの他の国々との交流が進むし、これは日本にとっても、それらの国にとっても、両国にとってプラスになるだろうと私は思っています。
     4番目は地球規模の環境問題であります。今一番大きいのは何と言っても地球温暖化にどう対応するかということです。ユネスコは先程も申し上げていますが、科学を担当しています。したがって、この科学という見地からユネスコはいろんなデータをパチャウリグループにも提供しています。2007年にノベール賞をもらったラジェンドラ・パチャウリさん(Rajendra Kumar Pachauri)とは仲良くしていて、よくユネスコに来られるのですが、やはりユネスコから提供されたデータがあってはじめてパチャウリグループでも地球温暖化についていろいろな議論が出来たし、政策判断が出来たと言われています。このような地道な努力ですが、いろんな科学的なデータをユネスコが収集して提供しています。
     他方、ユネスコは科学の関係で倫理問題に非常に力を入れています。これは少し脱線しますが、私も非常に力を入れたのは「バイオエシックス」(bioethics)、すなわち生命科学の倫理、生命倫理であります。今、ユネスコが手掛けようとしていますが、地球温暖化についての倫理問題であります。これは私が辞める時にちょうど小国から提案があって、大国は先進国のみならず途上国、具体的には中国、インドなんかも嫌がったのですが、最終的には去年の総会でユネスコが率先して地球温暖化のための倫理問題について国際的宣言を作るという作業が進みました。その時の前提は去年の12月のコペンハーゲン会議で地球温暖化に関して京都議定書(Kyoto Protocol)に次ぐ次のプロトコルの新しい基本的な合意が出来るというものだったのですが、ご承知の通り出来ませんでした。出来なかったが故に、今ユネスコの作業も動きにくくなっています。本来は倫理問題の方が先行して倫理的な見地から地球温暖化の対応というものを捉えて、そして各国の合意が出来ればその上に具体的なポスト京都プロトコルが出来るという手順が良いのでしょうが、実際にはなかなかそのようには行きません。ユネスコの中も通常は先進国対途上国に分かれるのですが、この問題に関しては大国対小国、その大国は先進国のみならず途上国の大国も入っているので小国は数の上では多いのですが、途上国の大国が反対しているのです。その関係で今、残念ながらあまり進んでいない状況にあります。
     5番目の生物多様性と文化の多様性なのですが、生物多様性については先程総論で触れましたが、文化の多様性ということになるとこれは残念ながらあまり注目されていないのです。5月22日は生物の多様性の日です。これは国連総会の決議で決まっています。今年の秋に名古屋で生物多様性条約の会議が開かれることになって、日本で非常に注目されることになりました。私も非常に嬉しく思っています。しかしその裏返しで、文化の多様性に関してはあまり注目されていないのは残念に思っています。先程触れました5月22日の生物多様性の日ではいろんな催しが日本で行われました。ところが1日前の5月21日は文化の多様性の日でありまして、これも国連総会の決議で決まりました。両方とも国連総会の決議で決まりました。私なりに考えると生物多様性というのは、先程触れたように3千万種もある種の内いろいろなものが絶滅の危機に瀕していて、例えばシロサイですとか、いろいろな動物のことは非常に分かりやすいです。また生物の多様性は、種の多様性の他に種が生きている生態系の多様性、例えばサンゴ礁とか、そのようなものも危機に脅かされているということです。それも分かりやすいです。ところが文化の多様性となると各国で多様な文化が存在するというのは皆認めていますが、なかなかそのように一般にこれだという決まり文句がないのが原因ではないかという気がしています。
     私がユネスコに勤務していた時の1つの例として言語を取り上げると、言語は分かりやすいということで、世界全体で言語が今いくつあるのかと、そしてそれがどういう状態になっているのかというのを調べてもらいました。去年、発表した時点では世界各国でも報道され、日本でも報道されました。いろんな専門家を動員して世界全体で今、言語が6千から7千あると言われています。専門家によっては6千8百という人もいますが、何れにしろ6千から7千くらいの言語があるのです。この数が曖昧なのは、この言語という時にいわゆる方言というのは独立の言語としては見做していません。ですからユネスコの言葉によると地域言語という言葉があるのですが、(日本語にはあまりないのですが)、例えば分かりやすいのはスペインの例です。今スペイン語というのは日本から見て1つのスペインの国語のように取られていますが、これは確かにその通りなのですが、スペイン語というのは元々カスティーリャ地方の言葉であってラテン語からカステヤーノ語が出来たのです。これと同様にカタロニア語、バレンシア語とガルシア語の地方語が出来ているのですが、カスティーリャ地方がスペインを統合したものですから、カステヤーノ語がスペイン語になったのです。しかし、それぞれの地域言語は今も生きていて、自分たちはラテン語から直接生まれた言語であるという誇りを持っています。そのような地域言語は独立言語としてユネスコでは数えています。またアフリカに行きますと、いろんな部族がそれぞれの言語を持っているわけで、そのような先住民とか、あるいは少数民族の言語は世界全体で大体5千と言われていて、これがかなり絶滅の危機に瀕しています。日本で言えば、アイヌ語がそうです。アイヌという先住民の言語がそうで、これは日本でアイヌ文化の保存に関して1997年に法律が成立していますが、やはりそれまでは同一化政策ということで、むしろアイヌという文化を1つの文化として認めるのではなくて、日本文化の中に吸収していくという方向で捉えてきたものでありました。私自身はアイヌ文化をしっかり勉強したことがないので、自身を持って申し上げられないのですが、ユネスコの専門家が言うには、アイヌ語をしっかり喋れる日本人は5人しかいないと見ています。私も非常に心配しています。
     何れにしてもそのような文化の多様性の大きな柱の1つは言語であります。それ以外に先程冒頭に北岡先生がお話しになられた無形文化遺産条約というのを私が力を入れて2003年に作りました。日本の全国的なもので言えば、能文楽の歌舞伎です。また地方のいろんなお祭りや伝統、そのようなものを全部指しています。私が日本に帰ってきて半年になり、いろんなところに講演で行っていますが、幸いにして日本の各地でいろんな地域のお祭りや儀式をしっかり盛り立てて行こうという動きが従来よりも強まっていると思って、非常に私も嬉しく思っています。ですからこのような文化の多様性をしっかり護っていくというのは21世紀の5番目の課題で、これは生物の多様性のみならず、文化の多様性を同時に護っていかないといけないと私は強く感じています。私がユネスコの事務局長になって最初に手掛けたのは、この文化の多様性に関する世界宣言を採択するということで、これは2001年のことですので、私が就任してから2年後に実現させました。あくまでもこれは一般的な宣言です。しかし、非常に重みのあるものだと思っています。繰り返して言いますが、文化の多様性というのは残念ながら日本ではまだまだで説明すれば分かってもらえるのですが、十分認識をされていないような気がしています。マスコミも残念ながらあまり書いてくれていない状況です。個々の世界遺産条約とか、無形文化遺産条約とかということに関しては幸いにして注目を集めるのですが、それを全部統括した文化の多様性を護っていくということに関してはあまり関心を持ってくれないのです。もっと日本国民の方に問題意識を持ってほしいと私は思っています。
     そのようなことで文化に関して国連システムの中でユネスコが単独で対応しています。ですから先程から申し上げたいろいろな課題は国連システム全体で対応しなければいけないし、その中でユネスコがしっかりした役割を演じていかなくてはいけないし、これからも対応するように努力していかないといけないと思っています。文化に関しては、これはまさにユネスコが中心になって今までもやって来たし、これからもやっていかないといけないと思っています。 ちょうど1時間強お話しをしましたので、今5つの21世紀の課題について国連システム全体の対応ぶりと、それとその中でのユネスコの対応ぶりをお話しさせて頂きました。後は中谷先生の司会の下で質疑応答の時間が持てれば嬉しいと思っています。
    どうもありがとうございました。
      (拍手

    (司会:中谷和弘)

     松浦様、貴重なお話をどうもありがとうございました。それでは早速ですが、皆様から質問、あるいはコメントを頂きたいと思います。発言の最初にお名前とご所属をおっしゃってから質問、あるいはコメントをして頂ければと思います。挙手してお願い致します。どうぞ。

    (質問)

     お話ありがとうございました。S大学のKと申します。任期中にされたことで、最後にもお話がありましたが、文化の多様性に関する条約と宣言、あと最初の方にアメリカの復帰というお話がありました。その関連性についてお伺いしたいのですが、つまり1つ聞いた事があるのですが、宣言が2001年でそして条約が2005年なのですが、アメリカが復帰するのが2003年だと思います。アメリカが入った後でこの宣言に反対したと思うのですが、アメリカが反対したかったことが復帰の1つの理由にあるのではないかという説を聞いた事があるのですが、それについて如何ですか。また、もう1つは世界中の国の中でアメリカとイスラエルだけがその条約に反対したと聞いた事があるのですが、そこまでアメリカとイスラエルが反対したのには一体どのような理由があったのかということを教えて頂ければと思います。

    (松浦晃一郎氏)

     まず最初に申し上げたいのは、2001年の文化の多様性宣言というのは文化の多様性全体に対応するものです。それに対して今私の説明の中では触れませんでしたが、この2005年の文化多様性条約というのは文化の多様性全体に対応するものではないわけです。私はよく文化の多様性全体に対応する条約として6条約体制ということを言っています。この6条約の中で一番日本で知られているのは何と言っても1972年の世界遺産条約で、世界遺産は全部で890くらいありますが、約700が文化遺産です。これをしっかり保全していくことはまさに人類の財産である、私の言葉でいう有形文化遺産です。建造物やモニュメント、遺跡という3つからなる有形文化遺産をしっかり護っていくことが重要な柱だと思っています。
     それに対して2003年の無形文化遺産条約という無形の文化遺産は、先程少しご紹介したように、一般的には人から人に伝えられるような文化遺産を指します。これに対して2005年の条約は正確に言えば文化的表現の多様性の保護及び促進に関する条約です。これはなかなか一言では説明しにくいのですが、私なりに言えばこれは現代の文化的表現というのはこの無形に対応するもので、具体的には踊りやそれから歌、文学、絵画、映画等々、そのようなものを指しています。これは現代のものとして対応しています。ですから今申し上げた4つと、あと1954年のハーグ条約と言って武力紛争時の文化財の保護条約、それから1970年の文化財の非合法的な取引禁止条約というのがありまして、この2つを合わせたのが6条約になります。この6条約で文化の多様性のいろんな側面を保護・保全する体制を作りました。これは繰り返しですが、最後の条約が2005年でこれは現代の文化的表現、現代のものを対象にしています。これがなぜアメリカとフランスの対立になったかと言えば、政治的な問題がその背景にあります。もう1つは文化というものに対するアメリカの対応の仕方であり、この2つが入り混じっています。
     後者から最初に申し上げればアメリカには文化省というものがありません。日本ももちろん文化省ではなくて文化庁が文部科学省の1つに入って、政府がやはり文化政策を推進する体制を取っています。政府が文化政策を先頭に立ってしっかり進めていくという一番しっかりした方針を持っているのはフランスで、文化省があり、文化大臣があって、遡ればアンドレ・マルロー(Andre Malraux)という立派な文化大臣がいました。文化大臣というのはフランスの中でも非常に重要な地位を示しています。これはフランスにとって政府が文化政策を進めていくということになります。その逆の極端がアメリカで、文化というのは国民レベルで対応するものであって国民が推進するもので政府が先頭に立って進めるものではないと考えています。したがって、文化省がなければ文化大臣も置いていないのです。ですからユネスコが文化についていろいろな条約を作っていくことに関してアメリカは基本的にあまり賛成ではないのです。ですから文化関係の必要な条約は、世界遺産条約は批准していますが、アメリカはあまり批准していないのです。今の文化の多様性条約に対してアメリカが反対したのは、文化に対応するに当たって政府がどのような役割を演じるかということについて、アメリカとフランスの間で大きなギャップがあったということが第一です。アメリカはそういう文化関係の条約を作るということに基本的に賛成していないということなのです。
     それから第2番目の政治的な背景というのは、アメリカが反対するものですから、フランスがEUを背景に意図的にアメリカを押さえ込んだということです。ちょうど文化の多様性条約を議論している時に、まずフランスは外交で成功していまして、EUの態度を一本化させます。このEUの議長国がイギリスです。ですから形としてはアメリカ対イギリスになりました。またその背景にちょうどイラク戦争があって、アメリカとフランスがイラク戦争をめぐって非常に対立したのはご周知の通りですが、ユネスコの次元で見ると、このイラク戦争の問題ではイギリスはアメリカと肩を組みましたが、文化の多様性条約ではEUのことがあったので、イギリスがフランスと組むということになりました。イギリスとは必ずしも本心でそうしたのではないようで、未だに2005年の条約にイギリスは批准していないのです。しかし、そうは言ってもイギリスは文化省があり、文化大臣が置かれているので、アメリカのように文化というのは民間に任せれば良いという態度ではないのですが、かといってフランスのように文化は政府が第一線でやるべきだという態度も取っていないわけです。何れにしましても、文化に対する態度が米・仏の間で違うと同時にちょうどイラク戦争を背景としてアメリカ対フランスという対立があって、フランスが意図的にアメリカをここで追い込もうと働きました。私は、前者は止むを得ないと思っているのですが、後者は私の見地からしてもあまりフランスがここでどぎつくやるのは賛成ではなかったのです。そのような見地から介入をしました。
     それから3番目に、反対したのはアメリカとイスラエルだけではなくて親アメリカ政権、当時はホンジュラスとか中米の国ですが、4~5ヵ国が反対したので、決してアメリカとイスラエルだけではないです。彼らが本心からこの条約に反対したというよりも、アメリカから言われたから反対したというのが本音だと思います。ちなみに日本は賛成しましたが、まだ批准していません。私は早く日本政府も批准すべきだと思っています。

    (質問)

     こんにちは。メディア関係の仕事をしていますMと申しますが、2つ質問があります。ユネスコの仕事の中で、ディビジョンの中で非常に重要なものを最近支援してきていると思うインフォメーション・コミュニケーションのディビジョン(情報・コミュニケーション局)についてなのですが、今のグローバル化された中でメディアの果たす役割というのは非常に大きいと思うのですが、メディアによる相互理解とか、民主化への取り組みとか、表現の自由への取り組みとか、非常に重要な仕事がたくさんあると思うのですが、これからどのようなものにプライオリティーをおいて、そこを発展させて行かれたいのかというのが1つです。 もう1つの質問は松浦さんの資料にも書かれていますユネスコの西欧中心主義なのですが、そういった中で松浦さんの在職の間に東アジアの文明間の対話ということで、東アジアのことに取り組まれたことは非常に貴重なことだったと思います。今の朝鮮半島の情勢もあって非常に重要なものだと思うのですが、新しい事務局長になられて、その辺のプライオリティーはどのようになっているのかをお伺いしたいです。

    (松浦晃一郎氏)

     最初の点について申し上げますと、コミュニケーション、特にメディアとの関係ではユネスコの重点事項は2つです。1つはメディアが重要な役割を演じるためには、やはり報道の自由が確立されていなければいけないのです。メディアの報道に対して、もし政府が制約を加えるということになれば、せっかくのメディアの本来の役割が果たせないわけです。しかし残念ながらユネスコが協力しているいろいろな国際的なNGOの調査によれば、報道の自由が確立されていない国が世界全体で3分の1あると見ています。確立された国は3分の2ですが、その3分の2の中でも100%確立されているとは限らないのです。大体確立されているというのを入れて3分の2なのです。ですから報道の自由が確立されるように努力するということです。
     それからもう1つは、今の続きですが、やはりメディアにとって重要なのはしっかりしたジャーナリストが育っていくということです。ところが、途上国の場合はそうではないのです。ですから途上国に対してはしっかりしたジャーナリストを育てる支援をしていくということで、これはかなり力を入れてやってきています。最初の点に戻れば5月3日が報道の自由の日になっているのです。日本で言えば憲法の日なのですが、私がかつて朝日新聞に投稿させて頂きましたが、5月3日が報道の自由の日で日本ではそれがあまり報道されないのは残念です。もう1つ残念なのは、報道の自由についていつも5月3日に大きなセミナーをいろいろなところで開いています。今年は私の後任のボコヴァ事務局長がオーストラリアで開きました。いつも200人くらいのジャーナリストが集まるのですが、日本からのジャーナリストの参加者は0です。日本では報道の自由が確立されて当然視されているのですが、私が朝日新聞にも書きましたし、日本に帰ってきて一度外国人特派員クラブでの講演でも申し上げましたが、日本は報道の自由をもっと広げることに努力しないといけないのです。そのためには今申し上げたようなユネスコが主催する国際的な会議、一番重要なのは5月3日の会議ですが、そういうものに日本の新聞記者が参加されて発言していくということをしてほしいということを日本の記者も大分居られたから申し上げました。北岡先生とこちらにくる前にお部屋でお話した時も、北岡先生は残念ながら日本の国際的なプレゼンや、いろいろな国際的なセミナーに行ってもなかなか他に日本人がきていないし、日本人の発言が少ないのは残念だとおっしゃっていました。残念ながらメディア関係がまさにこれに当てはまるのです。ですから日本のメディアの方にはもっと日本のメディアとしてしっかりした役割、しっかりした報道をするということに加えて、そういう国際的な場でメディアを代表して発言して頂きたいと思います。
     それからもう1つの西欧中心主義というのは、ユネスコは事務局長の地域的なローテーションというのが確立されていません。私が第8代目ですが、私の前の第7代目まで5人が欧米出身です。それが象徴しているように西欧中心です。さらに言えばそもそもユネスコを作ったのがアメリカ、イギリス、フランスです。イギリスでは設立の総会が開かれて、本拠地がパリにあるということでも象徴しているように、どうしても西欧中心ということで、大げさに言うと西欧のインテリから見るとユネスコというのは西欧文明の申し子であるというところがあるわけです。ところが、先程7大文明ということも言ったのですが、私も7つか8つかは、はっきりしませんが、西洋文明というのはあくまでもその1つで、非常に重要な文明ですが、決して世界を代表しているわけではないので、やはりもっと世界全体を代表する形にしなければいけないのです。
     少し脱線しますが、たとえば世界遺産条約の運用に当たっても非常に西欧中心的な概念だったのを段々グローバルなものにしていく努力をしました。しかし同時に先程申し上げた西欧では文化遺産というとどうしても有形の文化遺産になります。それに対して無形の文化遺産というものを条約化するということに一番抵抗したのは西欧です。文化遺産というのは、世界遺産条約で十分であるというのが彼らの言い分でしたが、幸いにしてアフリカの国々とアジアの国々が賛成してくれまして私の努力が実を結びました。私は有形の文化遺産だけを世界遺産と称するのは、本当はおこがましくて無形と有形それぞれが全体として世界遺産を構成すべきたと思います。その意味で2003年度の無形文化遺産条約というのは、ユネスコがグローバルなものになった1つの所作であったと思っています。

    (質問)

     お話ありがとうございました。T大学のSと申します。配布資料の中でも、ユネスコが西欧中心主義だということでおっしゃられたのですが、それでもう1つの柱として無形文化遺産を強く促進していくために、無形文化遺産が強い日本は大きな役割を果たせる可能性があると思うのですが、実際の今の政治の状況を見るに文化に対する予算は削減する方向であって、日本国内としては文化の保護強化に対するプライオリティーが低いと思われます。その大きなマイナスのベクトルが働いている中でそれを少しでもプラスの方向に向かわせるためには手段としてどういう役割の人間がどういう働きかけをすれば良いと思われますか?

    (松浦晃一郎氏)

     日本は幸いにして民主主義の国ですから、大げさに言えば国民レベルで国の予算を含めてですが、やはり文化がもっと重要で、文化に対して政府がもっとプライオリティーをおかないといけないと、さらにはもっとお金をかけないといけないということをどんどん言ってほしいと思います。しかし同時に私が主張したいのは、やはり国民レベルで文化に皆がもっとしっかり参加しなくてはいけないと思います。極端に言えば、政府がお金を出すだけではなくて民間の会社も、個人個人も大げさに言えば身銭を切って文化に参加していくということが必要で、この両方がなければいけないと思います。ですから、政府がもっと文化政策を重視するべきであり、もっと文化政策にお金を回すべきであると思います。これは正しい主張なので、大いに言って頂きたいと思います。しかし同時にそれだけではなくてもっと皆さん方を含めて、皆が文化に自らが参加していくということです。そして自分たちも貢献していくという両方がないといけないと思うのです。ですから先程少し申し上げたように、アメリカというのは大げさに言えば後者だけなのですが、しかし後者で成り立つのはアメリカの民間企業が膨大なお金を文化に回していくし、個人も回すのです。政府も若干補助的な役割を果たしていますが、文化省がなくても決して先程私が申し上げたことで誤解があったらいけないのですが、アメリカに文化がないわけではないのです。ご周知の通り、アメリカはしっかりしたいろんな文化を育てているわけです。それは民間の力によるのです。ですから、繰り返しなのですが、政府の力と民間の力という両方がなければいけないと私は思います。

    (質問)

     OBでGと言います。今の民間の力ということですが、私はユネスコ協会というのを全然知りませんでした。前にユネスコにおられた服部英二さんという方と時々、今仕事をやることがあって、この間頼まれてパネル・ディスカッションに出たのですが、ついそれまでそういうものがあることすら知らなかったのです。このパンフレットを見ると300くらいあるということですが、その民間の力でやっている方は一所懸命にやっているのですが、少なくとも我々の中に知名度がないという状況でこれを松浦さんは事務局長時代にどのような形で強化して行こうと考えていらっしゃったのか教えて頂ければと思います。

    (松浦晃一郎氏)

     今のお話を伺って、やはり日本全体におけるユネスコに対する態度が終戦直後と現代とでは相当変わってきていると思います。幸いにして現時点でも先程申し上げたように、ユネスコというのは、名前は非常に知られているのですが、それは主として文化、あるいは世界遺産を通じてであってユネスコの活動全体ではないのです。それからさらに言えば、自らがそのようなユネスコ活動に参加して行こうというところまでなかなかいっていないのです。ところが、世界全体で見ますとユネスコ協会、ユネスコクラブという民間のイニシアティブで出来ているのが4,000あまりあるのですが、一番活発なのは日本のもので、300くらいあります。ですから今お話になっているのは、決して間違っていないのですが、世界全体で言えばまだまだ日本には多いのです。ところが、日本の場合は年配の人が多いのです。私も実はそのグループに入りますが、この戦後のユネスコの民間活動というのは湯川秀樹博士を始めとして皆さんそうそうたる学者の方が先頭を切って進められたのですが、それでユネスコ活動というのが大学のみならず高校、場合においては中学校でも行われてきたのです。ところが先程少し申し上げたように、国際化もいろいろとたくさん出来てくるし、さらに申し上げれば、日本が戦後一番最初に加盟したのがユネスコです。それは1951年7月で、国連に入ったのがその5年後ですから、当時はまさにユネスコというのは日本が入っている唯一の国際機関でした。先程私が冒頭で披露したユネスコ精神というのは非常に国民に受けたわけです。ですからユネスコ協会を通じていろいろやろうという状況があったのですが、残念ながら国連の組織もいろいろ出てきて、ユネスコはあくまでもその1つになったので、ユネスコ協会もその煽りで年配の人が多いのです。なかなか若い人が参加してくれないのです。私はやはり若い時にユネスコに接する、あるいはユネスコが何をやっているのかということを知ることは重要だと思います。実はユネスコスクールというものがあります。ユネスコ協力スクールで英語ではUNESCO Associated Schools と呼んでいますが、世界全体に7000くらいあります。日本は従来20しかありませんでしたが、これは小学校、中学校、高校を対象にしているのですが、文部科学省にもっと増やしてほしいと言いました。やはり若い時にユネスコの名前を聞き、さらに言えばユネスコについて勉強すれば、卒業してからもユネスコに関心を持ってくれるでしょう。あるいはユネスコ協会やクラブに入って続けるようになるということで、文部科学省も理解してくれて今400くらいに増えました。ただ20が400になったから若い人のユネスコに対する関心がわっと増えるということでは残念ながらないので、それは時間がかかることだと思っています。
     私がもう1つ言っていることは、世界遺産には非常に関心があるのですが、世界遺産というのはあくまでもユネスコの活動の1つなので、例えば私は山口県の出身ですが、隣の島根県の石見銀山はかなり早い頃から世界遺産にするにはどうすれば良いのかと相談を受けまして地元にも行きました。しかし驚いたことに、地元にユネスコクラブがないのです。私は石見銀山を世界遺産にしたいというのであればまずユネスコ協会、ユネスコクラブを作りなさいと言いました。そうすることで声を上げて石見銀山を世界遺産にするという運動をしなさいということを言って、早速出来ました。非常に嬉しく思っています。ユネスコ協会の全体の取りまとめの連盟で、そこの特別顧問をしていますので、よく講演をしに地方に行くのですが、世界遺産があるところ、世界遺産にしたいと思っているところにはぜひユネスコクラブ、ユネスコ協会を作ってくれということをそこで話しています。例えば、鎌倉を世界遺産にしようとしてその活動をする協会が出来ていますが、その1つの中心部隊がやはり鎌倉ユネスコ協会なのです。私は非常に嬉しく思っています。
     くどいのですが、日本はユネスコクラブ協会活動が、それでも他の国に比べればまだ盛んなのですが、しかしながらまだまだ不十分だし、それからメンバーの方に若い人が少なく、年配の方が少し多いので、若い人を惹きつけないといけません。単に若い人に入ってくださいと言っているだけではだめなので、若い人を惹きつけるのは何かということを皆でよく考えなければいけないのです。一番分かりやすいのは世界遺産なのですが、自分のところを世界遺産にしたいと思うのなら、まずユネスコクラブやユネスコ協会を作りなさいと、あるいはそこに入りなさいと、このように言っています。いろんな形で若い人にもっと関心を持ってもらい、日本におけるユネスコの活動というのがやはり裾野の広いものにならないといけないと私は思っていて、地域的に広がったものになってほしいと思います。やはりそれはユネスコ協会やユネスコクラブだと思っています。

    (司会:中谷和弘)

     どうもありがとうございました。そろそろ時間でございますので、本日の連続セミナーを終了させて頂きます。松浦様にはご多忙のところおこしくださいまして貴重なお話を真にありがとうございました。また、皆様もご参加くださり、どうもありがとうございました。

    (拍手、講演会終了)