学術創成研究プロジェクト
平成13年度新プログラム方式による研究
ホーム

研究目的

研究の必要性

研究方法

研究組織

研究会記録

ボーダレス化時代における法システムの再構築

■研究会記録

―安全(安全保障と刑事法)
国際刑法の展開          

報告者:京都大学助教授 高山佳奈子
上官命令の抗弁と「ニュルンベルク原則」

報告者:防衛大学校助手 佐藤宏美   
米国における同時多発テロ事件に対する我が国の対応(対テロ特措法を中心に)

報告者:外務省総合外交政策局 中村耕一郎
国際法上の国家の刑事責任?               

報告者:東京大学大学院法学政治学研究科博士課程 豊田哲也
オサ−マ・ビン・ラーデン主義は存在するか

報告者:防衛大学校講師 保坂修司    
世界戦争・内戦・暴力− 軍と警察の間 −

東京大学法学政治学研究科・教授 藤原帰一
国際テロの諸情勢               

報告者:三井住友海上火災保険(株)顧問 茂田宏
論文集『安全保障と国際犯罪』刊行予定

2001年9月20日

報告者:京都大学助教授 高山佳奈子

国際刑法の展開

はじめに

2001年6月に行われた国際刑法学会第1回若手会議では、「国際刑法の現代的問題」として、国際刑事裁判所、サイバー犯罪、女性と児童の不法移送、国際ビジネスにおける贈収賄罪などの汚職について議論がなされた。これらの犯罪の傾向性として、ジェノサイド、女性・児童の不法移送のような人道に対する罪や、国際機関に対する罪など、国際社会全体に対する罪と考えられるものと、インターネット上の犯罪のように複数の国にまたがった犯罪と考えられるものとの2つに分けられることがいえる。

T問題となる局面

1「国際公法の中の刑事法」と「刑法適用法」
上に挙げたジェノサイド、またハイジャックなどの人道に対する罪は、国際法上の犯罪として処罰される。これに対して、インターネット上の犯罪、外国公務員への賄賂など、複数の国にまたがって行われた犯罪については、どこの国の刑法を適用するかということが問題であり、両者は区別されている。

2「internationalな犯罪」と「transnational」な犯罪
ジェノサイド、ハイジャックのように人道に反する罪は、人間社会全体に対する罪として「internationalな犯罪」ということができ、インターネット上の犯罪や外国公務員への賄賂などは、単に国境をまたがっているものなので「transnationalな犯罪」であるといえる。

3「国際犯罪」とは
しかし、これらの区別は必ずしも厳密なものではない。「国際犯罪とはそもそも何なのか」を議論する必要がある。伝統的に国際犯罪とされているものには、平和に対する罪、テロ、人身売買、麻薬、マネーロンダリングなどがある。しかし、何が国際犯罪であるかということについて、明確な線引きをするのは難しい。たとえば、児童ポルノは、単にその児童に対する犯罪であると捉えることもできれば、子供、あるいは人間全体に対する罪として、広げて捉えることも可能である。このように、捉え方によって、国際犯罪と通常の犯罪の区別は流動的になりうるのである。

そこで、国内刑罰権はどこまで広げられるのか、またこれに対するものとしての超国家的刑罰権の範囲はどう捉えていったらよいかが問題となり、両者がオーバーラップしてくることは多分に考えられる。

U超国家的刑罰権の拡張

1国家刑罰権の機能不全
国際紛争や内戦により、国家刑罰権が十分に機能しない場合には、通常の刑事法の枠を越えた刑罰権が必要となる。これが、超国家的刑罰権である。また、このような場合だけでなく、国家が、自身で犯罪を取り締まるインセンティブが弱く、これを行わないような場合にも、超国家的刑罰権は必要となる。

2種類
以上のような背景から、超国家的刑罰権は拡大してきた。ニュルンベルグ裁判、ルワンダ国際法廷などがこれである。これらは、深刻な国際人道違反など、特定の事件を念頭にアドホックに樹立されたものである。これらに対し、恒常的な国際裁判権を設立するために構想されたのが、'98年のローマ条約による国際刑事裁判所である。

また、ヨーロッパでは、EU独自の刑罰権を創設しようとする動きがみられ、ヨーロッパ検察を設立する案が出されている。

3問題点
しかし、以上のような超国家的刑罰権の拡大には、いくつかの問題点もある。

第一に、多くの国では、罪刑法定主義がとられており、あらかじめ国の議会を通った法律によらなければ刑罰を科すことはできない。したがって、EUで刑罰権を設けたとしても、その刑罰に関する規定は国会を通っていないために、民主主義に反し、憲法違反であることになる。また、刑罰の範囲をあらかじめ明確にすべきであるという自由主義も問題となる。さらに、刑事訴訟についても、各国によってその
手続はさまざまであり、統一的にこれを行うのは容易ではないと考えられる。

第二に、超国家的刑罰権の拡張によって、何が得られるのかということにも疑問がある。たとえば、今回のテロのようなものに対して、あくまでも事後的制裁である刑事法がどの程度の有効性を持つのかは大いに疑問である。アメリカの報復攻撃は、報復としては刑法上正当化できないが、実際には、さらなる被害の防衛措置という機能を果たすと考えられ、そのように理解すれば、刑法上も、一定の範囲においては防衛行為として正当化される余地があるかもしれない。しかし、それは事後制裁という刑事法の役割からは離れたものであることは否めない。

また、国際刑事裁判所は、あくまでも国内の刑罰権がうまく機能しない場合に補充的に機能するにすぎないという限界がある。

真に必要なのは、いかにして、惨事が起こる前に予防するかということであり、この点における超国家的刑罰権の限界を認識すべきである。
 
V国家刑罰権の拡張

1世界主義(普遍主義)の拡張
刑法においては、自国の刑法の適用範囲は、自国で決められるということになっている。ベルギーでは、ジェノサイドについては全ての者の国外犯を処罰するという規定があり、たとえば、ルワンダで集団殺人が起き、被害者も犯人も外国人であるような場合にも、ベルギー刑法によって処罰することができるとされている。

ここで、自国の刑法を無制限に他国に対して適用できるということに問題はないのかという疑問が生じる。やはり、自国の利益に関わるものについてのみ処罰できる、という一定の制限を設けるべきであると思われる。

2場所的適用範囲の限界
刑法の場所的適用範囲の原則は、自国の領域内で行われたものについてはこれを処罰するという属地主義をとっている。また、自国の国籍を持つ者の犯罪を処罰する属人主義、自国に対する攻撃など自国の利益を害する行為を処罰するという保護主義もこれにつながるものである。これは、自国の利害が関係する事項については、他の国任せにしてはいけないという義務としても機能すると考えられる。

3管轄の競合
2で述べたように、自国の利害が関係する場面では自国の刑法を適用したほうがよいということになると、一つの行為について複数の国が管轄権を持つ場合に、実体法として、その刑法の国ごとの違いをどうするのかという問題が生じてくる。

たとえば、インターネット上のわいせつ情報などは、インターネットが世界規模である以上、複数の国で規制することができる。そこで実際には、韓国のわいせつ表現規制が日本のそれよりも厳しいとすると、日本人が韓国でわいせつ情報にアクセスした場合に、それが日本では許容されているものであったとしても、それはやはり韓国の文化秩序を乱すことになるから、韓国の規制を受けざるを得ない。し
たがって、インターネット上の表現は、理論的には、最も厳しい基準をもつ国の法律によって処罰されうることになる。国によって文化的な基準の違いがある以上、世界統一規格を設けるのは難しい。国による相違には、アクセス制限や行為者の引渡しの制限などで対応せざるをえないと思われる。

また、クローン人間のように生命倫理に関わるような科学技術的な問題は、世界規模で進んでいるので、どこか一国でフリーパスであると、他国の規制の意味が失われることになる。これには迅速な国際的対応が必要である。

W国際刑事司法共助

1国家訴追権限の制約
国家の訴追権限の発動は、基本的には国内におけるものに限定される。このことが問題となった例として、アドルフ・アイヒマン事件が挙げられる。これは、ユダヤ人の大量虐殺に関与したアイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンでイスラエル官憲によって拉致され、イスラエルに連行されたという事件である。これは超法規的な行為といわざるをえない。このような強制処分は、国内での執行に限定されており、外国に出て行って勝手に行うことは原則的に認められていないからである。そこで国家間の協力が必要となる。以下では、その国家間協力の種類について述べる。

●逃亡犯罪人の引渡し
 これには、双方可罰性が必要であり、両方の国で犯罪とされるものについてしか適用することができないという限界がある。また、逃亡犯罪人を捕まえるにあたっても、日本では、高等裁判所が拘禁許可状を出さないと身柄を拘束できないという刑事訴訟法上の制限があるため、機敏な対応ができないという問題点がある。さらにインターポールから出された国際逮捕手配書についても、日本ではそれに対応する刑事訴訟法上の規定がないために国際協力ができておらず、問題である。

●狭義の国際司法共助(証拠集め)
 証拠集めについても、アメリカでは司法取引が認められているが、日本では認められていないといった違いがあり、刑事訴訟法上両方の国で許容される範囲でしか処理できないという限界がある。ロッキード事件ではこのために採用されない証拠があった。

以上に加えて、外国で確定した刑事判決を自国で執行するという外国判決の執行、刑事訴追の移管などがある。

3「最大公約数」への拡張
実体法、訴訟法の両面において、最低限、最大公約数的な範囲までの協力は早急に実現すべきである。そうでなければ、相手の国でも自分の国でも犯罪とされる行為がなされたにもかかわらず、逃亡人を捕まえられない、あるいは、証拠が散逸したままになってしまう。物と人の移動が急速に容易化している現在の社会においては、重大な問題である。

おわりに ― 展望

以上に見てきたところによれば、日本は、国際社会において果たすべき責任を果たしているとはいえない状況である。実体法の面においては、刑法の内容を世界の動きに迅速に対応させるべきである。

また、適用については、他の国任せにせず、自国の利益に関わるものついては、自国の刑法の適用を及ぼしていくことが必要である。訴訟法の面では、上述のようにほとんど国際協力ができていない状況であるので、改善が必要である。


TOP

2001年12月6日

報告者:防衛大学校助手 佐藤宏美

上官命令の抗弁と「ニュルンベルク原則」


[1] 問題の所在

ニュルンベルク裁判は、第二次世界大戦後ドイツの戦争犯罪人を国際的なレベルで訴追したものである。同裁判は一般的に、国際刑事法上の重要ないくつかの原則または規則を定立したと評価されているが、そのうちの一つが「上官命令抗弁の否定」である。上官命令の抗弁とは、国際法に違反した国家機関個人が、問題の行為を行ったのは上官の命令によるものであり、自己は国際刑事責任を負わない、あるいは自己の刑は減軽されるべきであると主張するものである。このように各々の国家機関個人が上官命令を理由に自己の免責を主張していけば、責任は際限なく上のレベルまで移行していき、最終的には大統領や元帥、皇帝といった国家元首の問責が問題にされることとなる。ところが、これら国家元首については、少なくとも第二次世界大戦終結前までの時点では主権者無問責の原則がかなり積極的に主張されていたため、その責任追及は理論的なレベルにおいてさえ非現実的であった。国際刑事訴追という理念を打ち出したところで、このような抗弁が全般的に認められることになれば、結局、責任を負う者が誰もいなくなるという状況に陥ってしまう。第二次世界大戦の戦後処理にあたった連合諸国は、このことを問題にしたのである。
 
以上のような状況の中で、ニュルンベルク裁判が上官命令抗弁を基本的にではあっても否定したということは、国家機関の国際刑事訴追の確保という観点からことに高く評価され、同裁判で示された見解は、その後国連総会により「原則」として確認されることになった。しかしそれにもかかわらず、その後の国際法典化作業、特に国際刑事法、国際人道法分野における一般条約の作成作業において、同「原則」は必ずしも決定的な影響を及ぼしてきたわけではなかった。上官命令抗弁に関する問題はこれらの国際法典化作業の中で常に議論の対象になってきたが、'98年に採択された国際刑事裁判所規程の場合を除けば、スムーズな形で結論が導かれたことはない。 それでは、なぜ上官命令抗弁に関する「原則」が、第二次世界大戦後の段階で一応定立されたとみなされたにもかかわらず、その後の一般条約の起草作業においては、これが各条約案の一規定として結晶することがなかったのか。以下では、この点について検討する。

[2] 「ニュルンベルク原則」の形成

なぜ「ニュルンベルク原則」がその後スムーズに条約化されていかなかったのか、という問題を考えるに当たって、まずはじめに、同「原則」が具体的にどのようなものであったのかということを再確認する必要がある。以下本節では、「ニュルンベルク原則」の形成過程を概観する。

1.ニュルンベルク憲章の成立過程

(1)連合国戦争犯罪委員会
連合国戦争犯罪委員会においては、ドイツ戦争犯罪人の訴追に関する準備作業が進められる中で、上官命令抗弁に関してもかなり立ち入った議論がなされた。米国の政府代表は、原則としてこの抗弁を認めることはできないが、一定の付帯的な要素が伴った場合には、限定的な範囲で免責あるいは減刑を認めることができるとの見解を示していた。委員会ではこの他にも様々な見解が示されたが、特に条件付免責あるいは減刑の場合の細かい決定基準に関しては意見が分かれ、最終的な案はその部分について立場を留保する形となった。結果的に委員会の採用した原則は、上官命令の事実は自動的あるいは絶対的な免責事由にはならないが、個別のケースにおいて、特定事情あるいは状況を検討したうえで免責あるいは減刑を認めることはできる、というものである。
 
(2)ニュルンベルク憲章の起草作業

憲章第8条
 「被告がその政府や上官の命令に従って行動したという事実は、彼の責任を免除するものではないが、裁判所がそれが正義の要請であると判断した場合には、 当該事実を刑の減軽のために考慮することができる。」
 
これは、戦犯委員会の報告と比べるとかなり厳格な内容になっている。同委員会の報告、あるいは準備作業の中での米国政府提案は、限定的にであっても条件付で免責の可能性を認めるというものであった。しかし、憲章第8条は一般的に免責を認めないという形、正義の要請があると裁判所が判断した場合であっても、そこで認められるのは刑の減軽までであるという形をとることとなった。結果的に憲章第8条の規則は、憲章の起草作業に直接携わった英米仏の国内法制が当時採用していた見解よりも、厳格な内容に落ち着いたことになる。

2.ニュルンベルク主要戦犯裁判

(1)検察側の主張
被告は、自己が上官からの命令によって強度の強制下におかれていたと主張したが、検察側は、憲章の第8条を理由としてこれらの主張を斥けた。法の錯誤に関しても、主要戦犯裁判で問題になっている事例はいずれも違法性が十分に明白なものであり、法の錯誤を理由として無罪を訴えることはできないとした。

(2)弁護側の主張
一方、法の錯誤に関して弁護側は、当該裁判は主要戦犯を裁くものではあるが、被告が主張しているように、中には行為の違法性が十分に明白でない場合もあったと弁論した。特に弁護側が強調したのは復仇のケースである。国際法上の復仇とは、違法行為に対してとられる、本来違法ではあるが適法とみなされるべき同程度の対抗措置を指す。弁護側は、一見国際違法行為にみえるものが実際に復仇措置としてなされたものであるのかどうかという判断はトップレベルの国家機関でなければ下し難く、主要戦犯裁判である当該裁判においても、いくつかのケースにおいては法の錯誤を認めるべきであると主張した。
 
また、強制の問題については、当該裁判で問題になっている強制が通常の強制、強迫とは異なっている点が強調された。戦争犯罪に関しては、通常の場合と異なり、精神的、物理的強制に加えて国内法制、国家秩序による法的な強制を考慮すべきである、との主張であった。
 
(3)判決
  「程度の差こそあれ、ほとんどの諸国における刑法に置かれている真実の基準は、  命令が存在していたか  どうかということではなく、道徳的選択(moral choice)が実際に可能であったかどうかということである。」

 ・moral choiceの可能性とは、どのような内容のものであるのか。強制や法の錯誤に関する問題を指しているのか。

 ・moral choiceの可能性が実際にあったかどうかという基準によって決定されるのは、免責の有無であるのか、あるいは刑の減軽までであるのかどうか。

主要戦犯裁判の判決は、以上のような重要な問題への回答を回避する形をとった。裁判後の研究者の見解や国際会議における関連発言をみると、一般的に道徳的選択の可能性の有無は、違法行為を行った国家機関個人が抵抗しがたい強制のもとに置かれていたかどうかを指すものと解釈されている。また、ここで道徳的選択の余地を基準として決定されるのは、免責の有無であるとする見解が多い。もしそのような解釈が妥当なものであるならば、主要戦犯裁判の判決は、起草諸国が意図していたものから一定程度逸脱していたということになる。これは、起草諸国の意図に対する反動とも言える動きである。

3.後続裁判

後続裁判は、ニュルンベルク主要戦犯裁判が終わった後で、ドイツの占領地域において米国の軍事裁判所とフランスの軍事政府裁判所が行った戦犯裁判である。この裁判が拠って立つところの基本文書は、連合諸国が定立した管理理事会法第10号であった。そして、この管理理事会法第10号を通してそれらの裁判所が適用した法は、主要戦犯裁判と同じくニュルンベルグ憲章のそれであった。
 
後続裁判では、被告が強制下にあった場合にはこれに免責を認める、少なくとも、一般的な原則として免責を認める可能性を認めるとの判断が下された。米国の軍事裁判所は大きく分けて12のケースを扱ったが、そのうちの6件においてこのような判断を示した。さらにフランスの軍事政府裁判所についても、強制との関連で免責を認める可能性を明確に示した判例が1つある。このように後続裁判の段階になると、当初憲章の起草者が意図していた考え方、即ち、強制や法の錯誤といったような付帯的な要素を考慮した場合でも免責の可能性を全般的に否定するという考え方が、全くくつがえされる形となった。
 
「ニュルンベルク原則」を、憲章の内容だけでなく裁判の過程も通して全体的に捉えた場合には、これが「原則」として一貫したものであったのか、その内容が確実なものであったか、という点はかなり疑わしくなる。「ニュルンベルク原則」といわれているものは必ずしも全体として混乱しているのではなく、上官命令の抗弁を原則的に否定するという点では、ニュルンベルクでの手続きは一貫していたといえる。

しかし、ケースごとの状況によって免責の可能性を認めるかどうかという問題との関連では、その「原則」としての性質がかなり危うくなってくるのである。 個々の事情による免責の可能性という論点と関係しているは、いわゆる「法による強制」、国内法秩序による強制をどのように考慮すべきなのかという問題である。国家機関の国際刑事訴追を確保するという理念を貫徹させるのであれば、こういった「法による強制」という問題に重きを置くことなく、上官命令抗弁を全般的に認めない見解を積極的に支持すればよい。

しかし一方では、各国家機関は国内法秩序の中で生きているという現実、国内法秩序からの強制に対して国家機関が抵抗した場合に直接国際法秩序による救済を期待することはできない、少なくとも第二次世界大戦当時はできなかったという現実がある。条件付免責の可能性を検討する際には、このように、国際法秩序と国内法秩序とのギャップをどのように調整していくのか、どの程度まで国際刑事訴追の確保という理念を貫徹していくのか、あるいはそこに一定の妥協を認めていくのかということが、根本的な問題となって現れるのである。

[3] ニュルンベルク後の国際法典化作業
 
1.ジェノサイド条約(1948年)
2.ジュネーヴ4条約第1追加議定書(1977年)
3.「人類の平和と安全に対する罪に関する法典草案」
4.国際刑事裁判所規程(1998年)

ジェノサイド条約、ジュネーヴ4条約第1追加議定書の二つの条約に関しては、上官命令抗弁について議論はなされたが、最終的には同抗弁について規定する条文は導入されなかった。「人類の平和と安全に対する罪に関する法典草案」の作成作業においてなされた議論は、国際刑事裁判所規程に関する議論の中に吸収される形で一応の決着をみることになった。
 
これらのうち、ジェノサイド条約とジュネーヴ4条約第1追加議定書については、上官命令の問題をめぐる議論との関連では大きく二つの対立点が生じた。まず第一に、ニュルンベルクでの手続きが示した最低限の原則、上官命令抗弁の自動的・絶対的な免責機能は否定するという点について、これに反対する諸国と、これを支持する諸国とが対立した。前者は、付帯的な状況如何に関わらず同抗弁による完全免責を主張する立場である。第二の対立点は、ニュルンベルクで示された最低限の原則は基本的に支持するが、個別的な状況を考慮して条件付で免責を認める場合、その基準をどのように設定するのかという問題に関わっていた。

しかし、その後の「人類の平和と安全に対する罪に関する法典草案」の作成作業、国際刑事裁判所規程の起草作業の段階では、これらの対立点が表面化することはなかった。自動的・絶対的な免責効果は認めないという点について異議を唱える見解は目立たなくなり、議論の中心となったのは、専ら条件付免責に関する規則の詳細についてであった。 以上の事情から窺える通り、結局ニュルンベルク裁判以降の関連国際法典化作業において一貫して争点となってきたのは、条件付免責の問題をどのように処理するのかということだったのである。

[4] おわりに
 旧ユーゴのための国際刑事裁判所:エルデモヴィッチ事件上訴裁判部判決

当事件は、旧ユーゴ内のセルビア系ボスニア軍の一兵士であった当時23歳のエルデモヴィッチが、同じボスニア内のムスリム系住民の違法な処刑にかかわったとして起訴されたものである。この事件では、エルデモヴィッチが犯行当時強迫下にあったことを主張したため、裁判所は強迫の抗弁について、これを国際法上の問題として検討することとなった。
 
被告は、自分は当時入隊したての下位の兵士で上官の命令には絶対的に従わなくてはならない状況におかれており、銃殺隊の仕事に加わるときには、上官から、命令に従わなければ被告自身を殺し、彼の家族にも害を及ぼすと脅されていたという事実を強調した。これに対し裁判所は、このような問題に対する国際規則が形成されていないということを確認したうえで、国際法上の法の一般原則、諸国の国内法における一般的な規則がどのような状況にあるのかを検討した。その結果裁判所が発見した事実は、大陸法系の諸国と英米法系の諸国では、かなり内容に相違のあるルールが採用されているということであった。

大陸法系の諸国では、強迫の抗弁を一般的に、あるいは均衡性の条件のもとに認めているが、英米法系の諸国では、殺人のような重大な犯罪に関しては一切強迫の抗弁を認めていない。両法系のコントラストはあまりに強く、裁判所はここから法の一般原則を導くことはできないと判断した。このような中で、裁判所は最終的に「政策的判断("policy consideration")」に依拠することとなった。判決によれば、国際刑事裁判所は主として国際刑事法の発展を目的として設立されたものであり、また同裁判所の扱う犯罪はとりわけ深刻な性質を持つものであるので、上官命令抗弁の免責効果を認めることはできない。このように裁判所は、政策的な考慮という判断基準によって、一般的・概括的な形で、上官命令抗弁の免責効果を否定したのである。
 
以上のような上訴裁判部の判断は、上官命令抗弁をめぐるこれまでの議論の流れに照らしてみた場合、果たして適切なものであったのかどうか議論の余地がある。先にみたように、同抗弁をめぐる議論の展開は、既にニュルンベルクでの手続きの段階で広義の絶対責任主義から条件付免責へという、反動ともいえるような動きを見せていた。また、第二次世界大戦後の国際法典化作業においては、条件付免責の問題が常に主要な論点として扱われてきた。これらの事情に十分な考慮を払ったならば、旧ユーゴのための国際刑事裁判所の判決の議論はそれほど単純なものにはならなかったのではないかと思われる。

数百人のムスリムに対する違法な処刑への関与というエルデモヴィッチの犯罪行為は、確かに免責の対象にはなりえないと言えるかもしれない。しかしこのことと、一般的な規則として上官命令抗弁による免責の可能性を一様に否定することとは、根本的に異なっている。同裁判所には、人道法違反の国際刑事訴追を全世界にアピールするという要請もあったとかと思われるが、このような早急な判断を下した上訴裁判部は、第二次世界大戦後にニュルンベルク憲章の起草に携わった諸国と同じ轍を踏んでいるのではないかという印象を受ける。 

                             

TOP

2002年2月14日


報告者:外務省総合外交政策局 中村耕一郎

米国における同時多発テロ事件に対する我が国の対応(対テロ特措法を中心に)



1. はじめに
2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件に対しては、我が国においても、幅広い取り組みがなされた。テロ発生から約1週間後の9月19日、小泉純一郎総理大臣「米国における同時多発テロの対応に関する我が国の措置について」が発表された。これは、1基本方針と2当面の措置の項目に分けられ、自衛隊の派遣、我が国領域における重要施設の警備、情報収集、出入国管理、周辺国に対する支援(特にパキスタン、インドに対する緊急経済支援、人道的支援)、世界経済システムに対する適切な措置などが挙げられた。
 
また、国際的な平面においても多様な取り組みがなされた。外交努力、軍事活動への支援、難民支援、周辺国支援、テロ対策に関する国際協力(テロ資金供与防止条約に署名。国連安保理決議第1373号履行のための法制整備)、アフガン和平・復興(1月21日、22日に復興支援閣僚級会議が東京で行われる)などである。支援の方法にも、さまざまな形態があり、直接の支援(ODAなど)、国際機関を通じた支援、NGOを通じた支援などが行われた。諸外国では、NATOが、NATOワシントン条約5条に基づいて、集団的自衛権の行使として軍を派遣し、豪州やニュージーランドも軍を派遣している。その他には、領空通過の認可、基地の提供、治安維持のための多国籍軍派遣、情報提供、経済的支援、難民支援などが行われた。

 「アメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」(対テロ特措法)は、このような取り組みの一環としてなされたものであり、これが今回のテーマである。同法は、2001年の10月5日に閣議決定を受け、10月29日に国会の承認を得、11月2日に公布・施行がなされた。

2. 対テロ特措法の位置付け
(1)国際法との関係
国連憲章において、武力の行使は、原則として禁止されている。ただし、そこには二つの例外があり、集団的安全保障(国連憲章第7章)と個別的または集団的な自衛権の行使である(国連憲章第51条)。前者については、安保理決議によるAuthorizationが必要であり、後者については、安保理決議によるAuthorizationは不要だが、事後的に安保理に対する報告が求められる。したがって、今回の米国の個別的自衛権の行使、NATOによる集団的自衛権の行使、豪州・ニュージーランドによる自衛権の行使についても、同51条に基づき、安保理に報告がなされた。51条は、武力の行使の外に位置付けられるものとされる。

(2)憲法第9条との関係
憲法第9条は、我が国の武力行使を禁じているが、対テロ特措法は、憲法が禁じている武力の行使ではないというのが大前提である。憲法上許されているのは、個別的自衛権の行使のみであり、集団的自衛権については、国際法上はこれを有しているが憲法上は許されないというのが、内閣法制局の立場である。いずれにしても、今回の対テロ特措法は、憲法が禁じている武力の行使には当たらない。
 
ただし、武力の行使と一体化した支援(行為自体は武力の行使ではないが、他国が行う武力の行使との関係において、一体化とみなされるような状況)は、武力の行使に含まれると内閣法制局は解釈している(これについては、さまざまな議論がある)。

したがって、武力の行使と一体化しない措置は、そもそも違法化の対象になっておらず、国際法上合法でもあるので、これをどのような場合に、どこまで行うかというのは、もっぱら法的な問題ではなく、政策の問題である。

ただし、自衛隊を派遣するにあたっては、我が国の法制上、法律上の具体的な自衛隊の任務・権限の根拠が必要である。そこで、本法律を制定したのである。
 
さらに、参考として、「海外派兵」と「海外派遣」は違うということが、政府の統一見解として出されていることに若干触れる。いわゆる「海外派兵」とは、武力行使の目的を持って武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣することであると定義づけられ、政府は、これを憲法上、許されないとしている。

これに対して、「海外派遣」は、とくに定義づけはされておらず、武力行使の目的を持たないで部隊を他国へ派遣することは、憲法上許されないわけでないとしている。しかしながら、法律上、自衛隊の任務、権限として規定されていないものについては、その部隊を他国へ派遣することはできないというのが政府の見解である。

(3)自衛隊の海外での活動(比較)対テロ特措法
自衛隊が領域外に出て行く可能性のある活動との比較において、対テロ特措法はどのように位置付けられるだろうか。以下では、領域外での活動を行うための権限と任務を規定した法律を順次挙げる。
 
まず、自衛隊法76条は、我が国が外部から武力攻撃を受けたときに、それに対して、防衛出動を行って個別的な自衛権を行使するというものである。

周辺事態安全確保法(1999年)は、日米防衛ガイドラインを実施するために設けられた法律である。「周辺事態」とは、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」(同法1条)と定義され、同法は、このような事態において、米軍に対してどのような協力ができるかということについて定めた法律である。

米国同時多発テロ事件に対する措置について議論されたオプションには、主に以下の二つがあった。一つには、同事件に対応するための新しい法律をつくるべきであるというものであり、もう一つは、周辺事態安全確保法(以下「周安法」と記載する)で対応できるというものである。しかし、同法によって対応することは難しいと考える。その理由は、以下の通りである。

まず、目的が違うということである。周安法は、日米安全安保条約の効果的運用による日本の平和・安全の確保をその目的としていることに鑑みれば(同法1条)、今回のテロ事件およびテロに対する各国の行動と、日米安保条約の効果的運用とは違い、整合性はないのではないか。

さらには、活動の範囲が違うということである。周安法によって、後方地域支援ができるのは、基本的に我が国の領域においてのみとされている(輸送は、日本周辺の公海及びその上空で行うことができるが、いずれにしろ他国の領域における活動は不可能である)。このような意味においても、今回のアフガニスタンにおける軍事オペレーションや、パキスタンにおける人道支援に対しては、周安法は使えないと考える。

また、周安法に基づいて措置がとれるのは「周辺事態」のときのみ、つまり、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」(同法1条)のときのみである。政府の見解は、これは地理的な概念ではなく、その性質に着目するものであるとしているが、現実の問題として、中東やインド洋が「周辺」であるとするのは、少々無理があるのではないかと思われる。

次に国際平和協力法である。いわゆるPKOやその他の人道的支援に対して、自衛隊を派遣するための法律であり、今回のテロ事件において、同法が適用できるのではないかという議論もなされた。しかしながら、これには二つの問題がある。

一つは、PKO5原則との関係で難しいのではないかということである。PKO5原則とは、@紛争当事国間の停戦合意があること、A受入国の合意があること、B中立性を保つこと、C上記の原則のいずれかが満たされなくなった場合には一時業務を中断し、更に短時間のうちにその原則が回復しない場合には、派遣を終了させること、D武器の使用は自己の又は他の隊員(若しくは自己の管理下にある者)の生命、身体の防衛のための必要最小限に限ること、である。

このうちの@については、アフガニスタンにおける軍事オペレーションでは、日本が承認する政府は存在せず、非政治的なentityが活動を行っている状況であるので、停戦合意を得ることができるかという問題がある。また、仮にアフガニスタンに自衛隊を派遣することになったとしても、受入国の合意を得ることは困難であると思われる。そもそも国連との関係においても、PKOは国連が行うオペレーションであるから、安保理決議に基づいて決定する必要があるが、将来、国連がPKOを派遣する見通しはない。したがって、今回のテロ事件に同法を適用することは難しい。

最後に、参考までに国際緊急援助隊派遣法を挙げる。これは、海外地域で大規模災害があった際の我が国の消防士、警察官、国際救援助隊の派遣に関する法律である(同法4条2項)。
今回の対テロ特措法の特色は、自衛隊を派遣する任務・権限に係る他の法律との比較において、多少浮き上がってきたのではないだろうか。逆にいえば、新しい法律をつくらなければ、既存の法律では対処することができなかったということである。

3. 対テロ特措法の実施の構造
対テロ特措法は、法律、基本計画、実施要項(自衛隊による対応措置)の三つの文書から成り立っている。法律については、後述するので、基本計画と実施要項について、簡略に説明する。
基本計画は、同法第4条以下に、@協力支援活動、A捜索救助活動、B被災民救助活動
のための自衛隊派遣について規定している。

次に、実施要項は、同法第6条第2項において、防衛庁長官は、基本計画に従い、協力支援活動(同法第3条第2項)としての自衛隊による役務の提供について実施要項を定め、これについて内閣総理大臣の承認を得、防衛庁本庁の機関または自衛隊の部隊等にその実施を命ずると規定している。

4.対テロ特措法の主要論点(活動の範囲と限界)
(1) 目的(第1条)

国連安保理決議(概要)
安保理決議1368号(2001年9月12日)
9月11日の米国におけるテロ攻撃を国際の平和及び安全に対する脅威と認めた上で(国連憲章第7章39条に基づく安保理の権限より)、これらの攻撃の実行者等を法の裁きに導くための取り組みや、テロ行為を防止し抑圧するための国際社会の一層の努力を求めたもの。

以下の3つの安保理決議はいずれも、テロ行為を非難し、テロリズムの防止が国際の平和及び安全の維持のために不可欠であることを明記しており、国連加盟国に対しテロリズムの防止等のために適切な措置をとることを求めていることに加え、それぞれ概要以下のとおり述べている。

■第1267号(1999年10月15日)
タリバンに対し、テロリストの隠匿と訓練の停止、領域がテロ行為の準備に利用されないことの確保、起訴されたテロリストを司法手続きにかける取組への協力を要請。
タリバンに対し、ビン・ラーディンを裁判にかけるために引渡しを要請。

■第1269号(1999年10月19日)
モスクワにおける爆弾テロを受けて、全ての国連加盟国に対し、テロ行為への資金提供の防止・抑止、及びテロ行為に関連する者の逮捕、訴追、引渡しの確保等の適切な措置を要請。

■第1333号(2000年12月19日)
安保理決議の遵守、特に、ビン・ラーディンの引渡しを求める。
ビン・ラーディン及び同人と関係を有する個人及び団体の資産凍結を決定。

以上が、国際社会における理念を反映した決議である。わが国においても、国際社会における理念に鑑み、「我が国が国際的なテロリズムの防止及び根絶のための国際社会の取組に積極的かつ主体的に寄与するため」に対テロ特措法を設け、「もって我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資すること」を同法の目的として掲げている。

具体的には、「アメリカ合衆国その他の外国の軍隊その他これに類する組織(諸外国の軍隊等)」に対する支援、国際機関の要請に基づく人道的支援を行う旨規定している。対テロ特措法は、国際協力と我が国の安全保障という二つの側面を兼ね備えているといえる。

(2) 地域的範囲(第2条3項)
 対テロ特措法の対応措置は、@我が国の領域、及びA現に戦闘が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる、公海と外国の領域(ただし当該国の同意が必要)において行われる。

これには、二つの縛りがある。一つは、領域国の同意が必要であるということであり、もう一つは、戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為)が行われていない地域でなければならないことである。

(3) 武力行使を行わない(第2条2号)
対テロ特措法第2条2号は、対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならないとしている。この範囲の中において、協力支援活動、捜索救助活動、被災民支援活動を行う旨規定されている(第3条乃至9条、別表を参照)。

具体的には、まず被災民支援活動では、2000年11月から自衛艦(掃海母艦「うらが」)によって、生活関連物資をパキスタンのカラチまで輸送した(同年12月に終了)。協力支援活動は、2000年12月から開始され、インド洋北部において自衛艦による米海軍艦艇への燃料の補給を行った。また、自衛隊航空機(C-130H)による国外輸送も行った。さらに、2001年1月29日には、海上自衛隊の補給艦「とわだ」が、イギリスの補給艦「フォートジョージ」に補給を行っている。


(4)武器使用(第12条)
武力行使と武器使用

我が国の国内法においては、武力行使と武器使用は、概念的に区別されている。「武器の使用」と憲法9条1項の「武力の行使」との関係については、政府としては、以下のように解している。

『憲法9条1項の「武力の行使」は、「武器の使用」を含む実力の行使に係る概念であるが、「武器の使用」が、すべて同項の禁止する「武力の行使」に当たるとはいえない。例えば、自己又は自己とともに現場に所在する我が国要員の生命又は身体を防衛することは、いわば自己保存のための自然権的権利というべきものであるから、そのために必要な最小限の「武器使用」は、同項で禁止された「武力の行使」には当たらない。』

また、武器の使用による防護の対象を自己(武器を使用する自衛官)のみに限定していない。自衛官の職務に関連して当該自衛官と行動を共にし、不測の攻撃を受けた場合にも、当該自衛官とともに行動をしてこれに対処せざるを得ない立場にあるものの生命又は身体についても当該自衛官の生命又は身体と等しく保護しようとするものであり、このような防護の対象とするものの範囲については、それぞれの法律において、自衛官が行う活動の態様や場所、どのような者がその職務に関連して行動をともにすることが想定されるかなどを考慮して規定されているものと解される。
 
類似の例としては、2000年秋に、PKO法の武器使用に係る規定の改正(第24条)が行われ、「その職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者」を追加したことによって、無力な者を守るための武器使用を認め、その権限の範囲を拡大した。具体的には、自衛隊の宿営地に所在する他国のPKO要員、国連職員、国際機関の職員、専門家、NGOの職員、通訳、報道関係者などである(ただし自分で武器を所持している者は除く)。

対テロ特措法においては、「自己とともに現場に所在する・・・その職務を行うとともに自己の管理の下に入った者」との規定(第12条)が追加された。これは、不測の攻撃を受けて自衛官と共通の危険にさらされたときに、その現場において、その生命又は身体の安全確保について自衛官の指示に従うことが期待される者を防護の対象とするものである。「いわば自己保存のための自然権的な権利というべきもの」であり、憲法第9条で禁止された「武力の行使」には当たらないと解される。

(5)国会との関係
国会との関係については、以上のような自衛隊に関する措置について、きちんと民主的統制が行われているかということが問題となる。
 
基本計画については、閣議決定(第4条)が必要であり、また、基本計画の決定、変更、終了が行われた場合には、国会へ報告しなければならない(第11条)。

さらに、自衛隊に関して、第5条第1項は、基本計画に定める自衛隊の部隊等が実施する対応措置に関しては、対応措置を開始した日から20日以内に国会に付議して、承認を求めなければならないと規定している。また、同条第2項は、前項の場合において不承認の議決があったときには、速やかに、協力支援活動、捜索救助活動、被災民支援活動を終了させなければならないとしている。

これは、対テロ特措法が時限立法であり、9月11日のテロ事件から生じた脅威という特定の事態に適用される法律なので、法律に対する国会の承認があれば、改めて対応措置に対する新たな国会の承認は必要ないのではないかとの考えからであったと思われる。

(参考)
 防衛出動:原則事前承認(自衛隊法76条)
 治安出動:事後承認(自衛隊法78条)20日以内に国会に付議
 海上警備行動:国会承認の必要なし(同82条)
 国際平和協力業務:いわゆる本体業務に係る海外派遣については国会の承認が必要
(PKO法第6条7)。両院それぞれ7日以内に議決。
 周辺事態:原則事前承認(周安法第5条)

(6) 限界
対テロ特措法には、二つ限界がある。まず一つは、効力期間が2年間であるということである。したがって、2年後の状況については、新たに考える必要がある。

もう一つは、目的との関係である。事態は推移しており、様々なことが起きる可能性がある。例えば、米国が「悪の枢軸」(axis of evil)として挙げた三カ国に対して、何らかのオペレーションを行った場合に、同法との関係はどうなるのかというのは、大きな論点である。

私見としては、同法は、あくまで9月11日のテロ攻撃から発した脅威に対する対処であり、それに対する国際社会の取り組みに対する支援であるから、今後起きてくる事態に対して、どれだけの関連性があるかということは検討する必要があると思われる。

また、諸外国の軍隊等が行う活動の性質との関連性という観点からも検討する必要がある。例えば、アフガン治安維持を目的とした多国籍軍は、どちらかといえば、テロリズムに対する国際社会の取り組みというよりは、新しくできたアフガニスタン暫定政権の治安維持機能がきちんと確立されていないので、国際社会が治安維持を肩代わりするという意味合いが強い。

テロ対策という名目の中で、様々な活動が行われるが、活動の性質自体と対テロ特措法との関連性を考えなければならない。そういう意味で、同法は、限界が多い法律であるということができる。

5.最後に
対テロ特措法は、あくまでも、今回のテロに対して我が国がとった幅広い取り組みの一つであり、今回の事態に対する対処療法にすぎないと考える。要するに、我が国のテロ自体に対する基本的な取り組みを表したものではなく、まさに特別措置法であるということができる。したがって、我が国の安全保障政策については別途議論する必要がある。

これまで、日本においては、いわゆる安全保障に関する議論はあまりなされて来なかった。これまでの安全保障に関する議論は、感情論や、技術的方面に偏った議論であった。また、安全保障論議は、実際には、法律との整合性など法律論議になってしまっており、安全保障自体がどうあるべきかという議論がなされていないという感がある。

対テロ特措法も、極めて対処療法的なものであり、本来は、具体的なシナリオに基づいた政策構築の必要があると考える。今後、日本の安全保障政策そのものについて、きちんと議論を積み重ねる必要があると考える。そのような意味においては、対テロ特措法は一つのとっかかりにはなったのではないだろうか。

【参考文献】
青木信義「テロ対策特別措置法の概要」『ジュリスト』1213号(2001年12月1日号)
谷内正太郎「九・十一テロ攻撃の経緯と日本の対応」(仮題)『国際問題』2002年2月号(予定)

TOP

2002年6月13日

報告者:東京大学大学院法学政治学研究科博士課程 豊田哲也

国際法上の国家の刑事責任?

(1)はじめに
国連国際法委員会(ILC)は、1976年以来、国家責任条文案(「国際違法行為についての国家の責任に関する条文案」)の起草作業の中で、「国家の国際犯罪」に関する第19条を検討してきたが、2001年に国連総会に提出された最終案において同条は削除されていた(いわば「国家の国際犯罪」概念の否定である)。他方で、冷戦後の「国際法の刑事化」を背景として、安保理決議に基づく2つの国際刑事裁判所が相次いで設立され、2002年7月には「個人の国際犯罪」を裁く常設の機関である国際刑事裁判所(ICC)が発足した(いわば「個人の国際犯罪」概念の肯定である)。このように国際法上国家ではなく個人だけが刑事責任を負う状況は、国家を唯一の法主体(ないし唯一の本源的法主体)とする国家間法として形成されてきた近代国際法の理論的枠組み自体を揺るがしかねない意味を持っている。ところが、従来の議論は国家間法としての国際法という理論的枠組みの中で国際社会の分権性の観点から国家責任条文案第19条を批判または擁護するものが大多数であり、そうした理論的枠組み自体の問題性が自覚されることは少なかった。

国内法における本源的な法主体(法的関係の担い手)は個人のみであり、その他の法主体は個人間の合意や特別な制度により派生的に生じるに過ぎない。古典的な国際法理論においては、国内法における個人と同様に、国際法における本源的な法主体は国家のみであり、国際機関や個人等の法主体性は国家の合意から派生的に生じるに過ぎないとされる。したがって、国内法における個人と国際法における国家とは、それぞれが自身の属する法秩序の本源的法主体としての役割を果たしている点で類似している。かつて国際法学の発展の一つの原動力となったのは、ここに成立する国内法における個人と国際法における国家との間の類推であった。

しかし、国内法から国際法への類推を用いた議論の全てが適切なわけではない。刑事責任概念は、そうした類推が一般に否定される概念の一つである。ここで問題となるのは、なぜ、これが否定されるのかである。その答としては、国家間関係の性質を理由とするものと、国家自体の性質を理由とするものとがある。


(2)国家間法としての国際法を前提とした上での、国際社会の分権的性格を理由とする国家の刑事責任の否定
「個人を法主体とする国内法、国家を法主体とする国際法」という二元論の論理構成においては、国内法における個人と国際法における国家との間の相似性が明らかであり、当然のごとく両者の比較がなされる。両者の比較から引き出される素直な結論は、国際法が先進諸国の国内法より、「遅れた法」だということであり、それは国際法を進化させて国内法の水準にまで追いつかせるべきだという発想に結び付く。そうした考え方は、国家責任条文案の起草作業における「国家の国際犯罪」の実定法化を目指す動きと結び付き、同条文案19条の規定として具体化した。

これに対して、国家間関係の分権的な性質を理由として国家の国際刑事責任を否定する見解は、国内法における刑事法は国家権力という上位機関の存在を前提としており(「刑事法は公法である」という基本命題)、分権的な国際社会には国内法における国家(政府)にあたる上位の機関が存在しないことを理由に国家の国際刑事責任を否定する。これは国家の刑事責任を否定する従来の通説的な見解であった。しかしながら、この見解に対しては、国家の国際刑事責任を肯定する立場から「確かに上位機関を全く欠く状況において刑事制度を導入することが出来ないであろうが、国際法と国内法はそれぞれが規律の対象とする社会の性質において少なからず異なっており、刑事制度の導入のために国際法に必要とされる『国家に上位する機関』が国内法における中央政府の如きものであるとは限らない。したがって、そのような中央政府の如き機関がないからといって刑事制度の導入ができないとは限らない。」との再反論がなされ得る。


(3)国家自体の擬制的性質を理由とする国家の刑事責任の否定
報告者は、国家の国際刑事責任を否定すべき真の論拠は国家自体の性質に関わっている、つまり、国家はその性質上刑事責任を負い得ないのだと考える。それは、国家に国際法上の刑事責任を負わせることを可能とする理論構成が、一つの理論としては可能であっても、現実の国際社会における国際法の適用においては、容認しがたい理論構成であり、国家が国際法上の法主体として刑事責任を負い得るという観念の立て方自体が適切でないということである。そもそも、法主体を如何なる性質のものとして観念し、法主体間に如何なる法規則を設定するかは事実の問題ではなく法的な理論構成の問題である。そして、「『国家が』犯罪を犯せるのか」という問題もまた事実の問題ではなく法的な理論構成の問題であり、そこへの整合的な解答には複数の可能性があろうが、その中のいずれを選択するかは法システムの選択の問題である。そうした選択肢の中で現実的妥当性を欠く法的理論構成は排除されざるを得ない。換言するならば、社会的実態に照らして考えたときに「国家」を、刑事責任までをも負い得るような完全な法主体として観念すべきではない、つまり、通常の法的関係の処理のために国家を一個の人格に擬制することが有用であるとしても、国際犯罪という強度の違法行為が行われている状況においてまでその擬制を維持することは適切でないということである。ILCが、条文案から「国家の国際犯罪」の語を削除した理由について、条文案コメンタリーで「国際法に対する犯罪は抽象的主体ではなく人間により犯されるのであり、当該犯罪を犯す個人の処罰によってのみ国際法の規定が執行される。」とのニュルンベルク裁判所判決の一文を引用していることも、この趣旨に理解され得るであろう。

仮に、このように国家の刑事責任が「現在の国際社会の分権的状況の故に」ではなく、「国家という主体の性質の故に」問い得ない、つまり国家は刑事責任を負い得ない主体として観念されるというのであれば、その限りで国家は国際法上の完全な法主体ではないということである。他方で、しばしば「国際犯罪」と評価される重大な国際法違反行為についての責任の取り方は、国家による補償的な賠償(compensatory reparation)だけでは不十分であると考えられているのであり、そうした違法行為について個人の国際刑事責任が追求されることになる。そのことが、「国際犯罪」に関する限り国際法上の法主体は国家ではなく個人であるということを意味するのであれば、国家間法として近代国際法の大原則が大きく揺らぐことになろう。


(4)個人を法主体とする国際責任の理論
確かに、国家間法を前提とする近代国際法においては「国家は、唯一の領土団体であり、原則的に領域内での一切の生活関係を規律する権能をもち、国際法上も生得的・本源的な法主体として包括的な権利能力を与えられている」とされ、これに対し、「個人は国家の判断と合意によって例外的に国際法主体性を持つのであり、そうした特別な場合以外は単なる客体に過ぎない」とされてきた。しかし、全ての論者がこうした近代国際法の理論体系を受け容れていたわけではなく、一部の論者は個人を法主体とする国際法理論を主張してきた。その中で特に代表的なのはケルゼン(Hans Kelsen)とセル(Georges Scelle)である。

ケルゼンは「国際法主体は国家である」という命題が単なる記述上の便宜である過ぎないとして、「法的人格の責任とは、法的人格によって代表される共同体に所属する人々の集団責任に他ならない。」と言い、「国際法が定めているのは、国家に課せられた義務の違反に対する集団責任である。」と言う。ケルゼンに言わせれば、国際法とはそうした意味でも原始的な法なのである。

こうしたケルゼンのシニカルな態度とは対照的に、セルは、現行の国際法に対して、「国際関係においては人類が依然として野蛮な時代にとどまっており、国際法の伝統的理論においては、集団的損害、集団的責任、国家に対する不正に対する集団的復讐、国家の責任、『戦争に訴える権利』といった神話が注意深く維持されている」との批判を加え、そうした現行国際法の変更を主張する。セルによれば、国家責任は、「一個の人格としての国家は法的擬制であるから刑事責任を負うことは出来ず、せいぜい個人が賠償しきれない分の賠償を義務付けられる客観責任を負うだけ」のものでなければならない。だが、セルの主張は「国家間法としての国際法」という観念が強く根付いている状況においては、一つの型破りな見解に過ぎなかった。

ところが、興味深いのは近年の国際立法がセルの主張した方向性を示していると思われることである。とりわけ、本年7月に発効するICC規程75条2項は、国際犯罪を犯した個人が刑事責任を負うのみならず被害者に対する賠償責任をも負う旨を規定し、同条の規定が効果を発揮するよう財産差押え等の様々な協力の義務を加盟国に課している。犯罪者本人の賠償により被害者の損害が十分に補填されない場合には、被害者の国籍国が加害者の国籍国に対して、通常の国家責任の枠組みにおいて民事責任を追及することが出来るのであるから、結局、セルの主張したとおり、国家(国民全体)は犯罪者個人の賠償能力を超える分を負担するのだということになる。他方で、国家の刑事責任については、「国家の国際犯罪」に関する国家責任条文案19条が削除され、とりあえず否定されたわけである。ICC規程の規定がどれほど実効的なものとなるかについて判断は今後の実践を待たなければ下し得ないが、規定のレベルでこうした理論構成がなされていることは、少なくとも、現在の国際社会全体の法意識がセルの理論に適合的であることを示唆しているよう思われる。

このように、民事責任については集団責任として国家責任があり、刑事責任については集団責任としての国家責任が否定されるという説明は一つの説明として整合的であるように思われる。つまり、少なくとも責任法の分野を見る限り、個人を国際法上の法主体に据える法的な理論構成も十分に可能だということである。国家を法主体として国際法を考えるのか、個人を法主体として国際法を考えるのか、そのいずれの理論構成もが可能であるとすれば、後は、現実の社会現象に照らして検討を行った上で、より現実的妥当性の高い理論構成を考えていくべきなのであろう。


TOP

              .
                               

TOP


2002年9月19日


オサーマ・ビン・ラーデン主義は存在するか

報告者:防衛大学校講師 保坂修司

サウジアラビアは、18世紀半ばに、ムハンマド・ビン・サウードとムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが出会い(1744年)、盟約を結んだことによって誕生した(サウード王朝・ワッハーブ王朝)。サウード王朝では、ムハンマド・ビン・サウードが政治及び軍事を担い、ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが宗教を担った。同王朝は、前者の考えるイスラームのイデオロギーを、後者の軍事力をもって、周辺諸国を征服することにより実現させようという目的のもとに建国されたということができる。

ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブは、イスラーム法学派の中でも最も厳格なハンバリー派の影響を強く受けた。彼の教えにもとづく運動はワッハーブ派と呼ばれ、イスラームにおけるピューリタニズムともいわれた。ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブは、その当時のイスラームは汚れているとの考え、イスラームの純化運動を始めた。これは、新しく何かを生み出そうというものではなく、イスラームが最も純粋であった過去に戻ることを目指すものであった。

ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが考える、最も純粋であった時代とは、預言者ムハンマドやその後継者(カリフ)がいた時代のことであり、この時代の純粋さを取り戻すためには、不純な要素(彼が本来のイスラームではないと考えるもの)を力づくで排除する必要があると考えた。これを実行に移したのがワッハーブ運動である。

その当時、ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブが最も激しく攻撃したのが、聖者崇拝という思想であった。一般の民衆の中には、聖者や聖なる木を崇拝する思想があったが、ムハンマドは、アラビア半島中の聖者廟や聖木などを片っ端からなぎ倒していった。彼の死後もこの動きは広がっていた。しかし、当時のイスラームの盟主であるオスマン帝国によって、これらの動きは鎮圧され、第一次サウード王朝は消滅することになる。
ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの主張の大きな特徴は、イスラームの純化とそのための軍事力の行使の重視であり、この軍事力の行使は、ジハード(聖戦)と呼ばれる。

ただし、軍事力の行使を重視したのは、彼が最初ではなく、イブン・タイミーヤのような彼の先輩たちもこれを強く主張していた。イブン・タイミーヤは、ムハンマドと同じハンバリー派の法学者であり、13世紀のシリアにおいて活躍した人物である。その当時、モンゴルが中東に進出したため、イブン・タイミーヤは、モンゴルに対する聖戦を主張した。モンゴルは、13世紀初頭に中東に現れ、イブン・タイミーヤの時代には、イスラーム化し、イルハン朝という王朝をつくっていた。モンゴル人はこれによってムスリムになったため、「異教徒へのジハード」という概念は本来なら適用できなくなるはずであった。

しかし、イブン・タイミーヤは、モンゴル人は、個別的にはイスラームの教えを守っていても、総体的には守っていないから、まがいもののムスリムであり、彼らはジハードの対象となると主張した。また、既存の宗教勢力や政府に対しても同じような攻撃を行った。イブン・タイミーヤの思想は、既存の宗教勢力や偽のムスリムへの攻撃という点において、ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの思想にもつながり、さらにはオサーマ・ビン・ラーデンの中にもその思想が生きていくこととなる。

オサーマ・ビン・ラーデンを考える上で、もう一つ忘れてならないのは、イフワーンと呼ばれる組織である。これは、20世紀初頭にアブドゥルアジーズ(後の初代サウジアラビア国王)が周辺諸国を征服するに当たって利用した半軍半農の信仰共同体である。アブドゥルアジーズは、遊牧民たちに農業をさせることによって定着させ、中央政府による支配をしやすくしようとした。その際に彼は、遊牧民たちを拘束するイデオロギーとして、ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの思想を取り入れた。わずか20年ほどの間に、この宗教共同体は、瞬く間にアラビア半島の中央のナジュドから西部のヒジャーズ、南部のイエメンのまで進出し、アラビア半島のほぼ全域を制圧し、やがて暴走をし始めた。

イフワーンの特徴は、外部に対するジハードと内部に対する勧善懲悪である。つまり、自分たちと異なる考えを持つ者は、たとえそれがムスリムであったとしてもジハードの対象になるという考えかたと、厳格なシャリーア(イスラーム法)の遵守である。たとえば彼らは「正しいムスリムならば、その信仰は必ず外に現れるはずである」と考える。一日に5回お祈りをすると決められているなら、皆必ず5回するはずであり、断食をする日であるなら、必ずなされるべきで、それをやっていない場合には、正しいムスリムではないから、罰するべきだという考えである。

預言者ムハンマドの言葉の中に、非イスラーム的行為を行っている者を見たら、まず手で直せ、それでも分からなければ口で直せ、それでも分からなければ心で直せ、というものがある。これは、心よりも口よりもまず「力(武力)によって不信仰を正せ」ということである。そしてイフワーンたちはこの教えを厳格に実践したのである。村の中では、宗教指導者が鞭を持って徘徊し、礼拝の時間にそれを行っていなかった者を鞭で打つなどしていた。サウジアラビアでは、宗教警察によって、現在もこのようなことが行われている。とにかく正しいイスラームと彼らが考えているもの以外はすべて拒否するというのが彼らの方針であった。

アブドゥルアジーズ初代国王は、その一方で、近代的な制度や自然科学、技術等を取り入れようとしたが、イフワーンは、これらをことごとく排斥していった。写真、電話、鏡などがその例である。また、サウジアラビアが勢力を広げていく上で、その当時の中東において力をもっていたイギリスという壁にぶちあたり、アブドゥルアジーズは勝算がないことから軍事活動をやめようとした。しかし、イフワーンは、イギリスはキリスト教徒であるからジハードの対象になるとし、イギリスと組んでいるイラクやクウェートも同様であると考え、どんどん暴走していった。そこで、アブドゥルアジーズは正規軍を使って、イフワーンを鎮圧した。組織としてのイフワーンは消滅したが、自分たちの思想を受け入れない者は、罰してよいという考えかたは、現在のサウジアラビアにも強く残っていると思われる。

サウジアラビアは、1932年に正式に国名を「サウジアラビア王国」と改め、またその頃、石油も発見され、経済的、政治的、宗教的にも国際的に大きな役割を果たしていくことになる。1960年代から70年代に、現在のサウジアラビアというシステムが完成したと考えられている。ファイサル皇太子(のち国王)は、サウジアラビアにテレビ局を導入したが、それに反対して王族を含む多くのものたちが暴動を起こし、政府軍によって鎮圧された。ファイサルは結局、この反乱軍に加わり殺された王族の弟によって暗殺されることになる。

1962年には、奴隷制度が廃止され、この年は一つの大きな転機となった。1979年には、イスラエルとエジプトの和平が発表され、イランでイスラーム革命が起きた。また、同年12月には、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、イフワーンの子孫ともいうべきネオ・イフワーンがメッカのハラーム・モスクを占拠した。この年は、イスラーム世界にとって史上もっとも重要な年になった。オサーマ・ビン・ラーデンは、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると同時に、アフガニスタンにジハードに行ったとされている。

1990年には、イラク軍がクウェートに侵攻した(湾岸危機)。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻は、共産主義によるイスラーム世界への侵攻という分かりやすい図式であった。しかし、イラン・イラク戦争、湾岸危機に関しては、いずれもイスラームの国がイスラームの国を攻撃するという未曾有の事件であった。サウジアラビアは、イラク軍からの脅威を撃退するために、国内に米軍を駐留させた。これが、後々、オサーマ・ビン・ラーデンにも影響を与えることとなる。

 サウジアラビアは、湾岸危機を契機に、国内に大量の外国人やメディアが入り込んだことによって揺れ始め、サウジアラビアの現状は間違っているという声も上がるようになった。1990年秋以降、リベラル派が改革を求めたり、また、女性にも運転免許取得を認めてほしいというデモなどが起こった。1991年5月には、宗教勢力の中から改革を求める声が上がった。このサウード王朝の支配にレジテマシーを与える役割をもつ宗教勢力からの批判は、ある意味では、サウジアラビアが最も恐れていたことであり、政権によって重く受け止められた。そして、翌年2月に諮問評議会法が制定されるなど、いくつかの改革案が示されたが、それだけでは不十分であるとして、その後も国内の改革運動は続いた。しかし、これらは全て非合法で行われていたため、次々につぶされていった。

 1993年には、法的権利擁護委員会という反体制派が設立された。これは、人権擁護の団体ではなく、イスラーム法の権利を守り、イスラーム法の施行を政府に対して強制するための組織である。
オサーマ・ビン・ラーデンは、これらの動きに直接関与することはしなかったが、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退とともにサウジアラビアに戻り、反米運動を行った。しかし、国内にいられなくなり、スーダン、その後アフガニスタンへ逃亡した。

1995年には、リヤドで爆弾テロ事件が起こった。リヤドにある米軍関連施設を狙った犯行であった。1996年にも、ホバルという町で、米軍関連施設を狙った爆弾テロが起きている。この時期には、国内の改革を求める比較的穏健な運動が行われる一方で、米軍を狙った過激なテロが行われた。

オサーマ・ビン・ラーデンを考える上では、ワッハーブ派の流れを考えるとともに、反ソ連、さらに反米へと移っていくベクトルについても考える必要がある。

とりわけ、アフガニスタンに関しては、アフガン・アラブの問題を考える必要がある。アフガン・アラブとは、アフガニスタンに義勇軍として戦いに行ったアラブ人のことを指す。彼らは、ソ連のアフガニスタン侵攻に伴い、政府の反ソ連のキャンペーンに乗ってアフガニスタンに戦いに行ったものの、ソ連の撤退とともに、自国に戻っても居場所がなくなってしまった。武器の使用はできても、事務処理能力など、企業、役所等で働く適性は持ち合わせていなかったのである。

彼らの数少ない行き場は慈善団体であり、その結果、多くの慈善団体がアフガン・アラブによって運営されていくようになる。それでも満足できない人々は、ボスニア、チェチェン、カシミール、東ティモールなどに義勇兵として行った。そのような人々に対して、理論的な、またイデオロギー的なバックグラウンドを与え、さらには、資金援助、訓練キャンプの提供を行ったのがオサーマ・ビン・ラーデンである。

オサーマ・ビン・ラーデンの著作を読む限りでは、反ソから反米へと移っていったのではなさそうである。アメリカもソ連も反イスラームという点で一致しており、反ソ・反米は同時並行的なものであったといえる。

アメリカ軍のサウジアラビア駐留は、オサーマ・ビン・ラーデンたちに、アメリカ軍攻撃の口実を与えた。サウジアラビアは、二聖モスクの地であるから、キリスト教徒であるアメリカ軍の駐留は、十字軍による聖地の占領にほかならないと捉えたのである。また、ムハンマドが死の床において、「アラビア半島から異教徒を追放しなければならない」との遺言を残しており、オサーマ・ビン・ラーデンは、この遺言を実行しようとしたともいえる。
1996年、オサーマ・ビン・ラーデンは、アメリカ軍に対して宣戦布告を発表した。正式なタイトルは、「聖地を占領するアメリカ軍に対する宣戦布告」(ジハード宣言)である。「聖地を占領するアメリカ軍」とは、サウジアラビアに駐留するアメリカ軍のことである。その内容は、「現代のイスラーム世界は、シオニスト十字軍連合によって征服されており、この状況を何とかしなければならず、諸悪の根源は、アメリカ軍による聖地の占領であり、全イスラーム教徒はこの問題に集中すべきである」というものである。

このような考えかたは、過激組織のなかでも実は珍しいほうである。例えば、ルクソール事件を起こしたエジプトの宗教勢力の理論によれば、まず自国の政府を倒し(正しくないイスラーム教徒)、その後、外に向かっていくという考えかただが、オサーマは、まずアメリカを倒すという考えである。この場合には、聖地を占領するアメリカ軍への攻撃は、全ムスリムの義務であるとした。この理論展開は、イブン・タイミーヤが、モンゴルに対するジハードを呼びかけたのと全く同じ論理である。この意味で、オサーマ・ビン・ラーデンは、ハンバリー派、イブン・タイミーヤ、ムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの流れに沿っていると考えることができる。

1996年は、サウジアラビアの駐留アメリカ軍への宣戦布告ということであったが、1997年には、アメリカの民間人の追放も要求するというようにエスカレートした。そして、1998年の2月には、オサーマと側近のザワーヒリーらが、「ユダヤ人と十字軍との聖戦のための世界イスラーム戦線」という組織をつくった。この段階で、彼らは、軍人も民間人も、アメリカ人であるなら必ず殺すというところまで主張するようになった。同年8月には、ナイロビとダルエスサラームでアメリカ大使館の同時爆破テロが起きた。まさに、アメリカ人殺害指令がそのまま実行されたわけである。これらの動きは、2001年9月11日のテロ事件につながるものであるといえる。

一つの重要なポイントとなるのは、9月11日のテロ事件では、自爆テロという方法がとられたということである。イスラームでは、自殺は犯罪とされているが、実際には、自爆という行為は、一般化されている。これは、アラビア語では、「殉教作戦」と呼ばれ、最もレベルの高いジハードであり、これによって、本人のみならず親戚70人までが天国に行けるとされている。

1998年のアメリカ大使館爆破事件では、「同時多発」という要素が加わり、2000年の6月には、イエメンにいたアメリカ軍艦船に対する自爆テロが起こり、これによって、「自爆」という攻撃が行われるようになった。これによって、理論的説明の上でも、また実践という意味でのテロとしても、9月11日事件の先駆けが全て整ったということができる。

オサーマ・ビン・ラーデンは、アメリカ軍のサウジアラビア駐留を、聖地の占領であり、諸悪の根源であると強く主張し続けてきた。しかし、9月11日の事件以降の声明では、その問題は出てこなくなり、もっぱらパレスチナ、イラク問題が全面に出されている。これは、一つの戦術であると考えるべきであろう。

このような彼の考え方に対して、ワッハーブ派の中でも政府よりの人々は、批判的であったが、彼を強く支持する者も多く、またインターネットによって、国外にも彼の思想は広まった。宗教エスタブリッシュメントから見れば、オサーマらは「逸脱した者たち」で、正しいイスラーム教徒ではない。しかし、実際には、中東・イスラーム世界における彼の人気や、彼の思想の浸透度は高いと思われる。

ワッハーブ派の中には、オサーマの思想に賛同する者が多く存在した。9月11日のテロ事件のハイジャック犯19人のうち、15人がサウジアラビア人であり、残りの4人は、1人がレバノン人、1人がエジプト人、2人がアラブ首長国連邦の出身である。アラブ首長国連邦の中でも、1人は、ワッハーブ派の影響を色濃く受けているラスアルハイマの出身であるそこで、実質的には、19人中16人がワッハーブ派の直接の影響を受けていたと考えられる。

オサーマ・ビン・ラーデンの思想が、本当にワッハーブ派の主張に沿ったものであるかどうかについては異論がある。しかし、彼の発言の中には、イブン・タイミーヤ、イブン・クダーマ、イブン・カシールなど、昔のハンバリー派の法学者の発言が多数引用されており、本人自身は、自分がワッハーブ派の本流であるという意識があったと思われる。

オサーマの思想が、宗教エスタブリッシュメントから逸脱したものであるとされる理由の一つに、2002年12月13日に、アメリカ軍が公表したビデオの中で彼が述べた言葉をあげることができる。彼はここで「ムハンマドのフィクフ(知識、法学)」という言葉を使っている。実行犯達には、普通の意味でのフィクフはないが、預言者ムハンマドがもたらした意味でのフィクフをもっていたというのである。

「ムハンマドのフィクフ」が何を指すのか明確ではないが、自分達の目的を達成するためには無実の人を殺してもかまわない、あるいはテロという行動を容認するという考え方であるなら、この考え方と極端な反米主義は、イスラーム、ワッハーブ派、ムスリム同胞団のいずれでもない、「オサーマ・ビン・ラーデン主義」であるといえるのではないだろうか。

■参考文献
(日本語は省略)

──. The al-Qaeda Documents. Vol. 1. Alexandria, VA : Tempest Publishing, 2002
──. Le spectre du terrorisme: declarations, interviews et temoignages sur Oussama Ben Laden. Paris : Editions Sfar, 2002

──. Through Our Enemies' Eyes: Osama bin Laden, Radical Islam, and the Future of America. Washington, D.C.: Brassey's Inc., 2002

As'ad AbuKhalil. Bin Laden, Islam and America's New "War on Terrorism." New York: Seven Stories Press, 2002

Yonah Alexander and Michael S. Swetnam. Usama bin Laden's al-Qaida: Profile of a Terrorist Network. New York: Transnational Publishers, Inc., 2001

Jenny Baxter and Malcolm Downing (ed.). The Day that Shook the World: Understanding September 11th. London: BBC, 2001

Hamid Al Bayati. The Terrorism Game: 11 September Attacks and New Alliances. London: Al Rafid, 2001
Peter L. Bergen. Holy War Inc: Inside the Secret World of Osama bin Laden. London: Weidenfeld & Nicolson, 2001

Florent Blanc. Ben Laden et l'Amerique. Paris: Bayard, 2001

Yossef Bodansky. Bin Laden: The Man Who Declared War on America. Rocklin, CA : Prima Publishing, 1999

Jean-Charles Brisard et Guillaume Dasquie. Ben Laden: la verite interdite. Paris: Editions Denoel (Impacts), 2001

Daniel L. Byman and Jerrold D. Green. Political Violence and Stability in the States of the Northern Persian Gulf. Santa Monica, CA: RAND, 1999

Steven A. Camarota. The Open Door: How Militant Islamic Terrorists Entered and Remained in the United States, 1993-2001. Center for Immigration Studies (PDF)

CBS News. What We Saw: The Events of September 11, 2001-In words, Pictures, and Video. New York: Simon & Schuster, 2002

John K. Cooley. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999

Jane Corbin. The Base: In Search of al-Qaeda - The Terror Network that Shook the World. London et al.: Simon & Schuster, 2002

Jane Corbin. Al-Qaeda: The Terror Network that Threatens the World. New York: Thunder's Mouth Press/Nation Books, 2002

John L. Esposito. Unholy War: Terror in the Name of Islam. Oxford & New York: Oxford University Press, 2002

Mamoun Fandy. Saudi Arabia and the Politics of Dissent. New York: St. Martin's Press, 1999
Fred Halliday. Two Hours that Shook the World: September 11, 2001: Causes & Consequences. London: Saqi Books, 2002

Fabrizio Falconi e Antonello Sette. Osama Bin Laden. Fazi Editore srl, 2001

Rohan Gunaratna. Inside al Qaeda: Global Network of Terror. London: Hurst & Company, 2002

Hassan, Hassan Bakr. The Ideology of Jihad for the Third Islamic Internationalism: The Realities' Index. Tokyo: Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, 2002

James F. Hoge, Jr., and Gideon Rose (ed.). How Did This Happen? Terrorism and the New War. Oxford: Public Affairs Ltd., 2001

Mark Huband. Warriors of the Prophet: The Struggle for Islam. Boulder: Westview Press, 1998

Brian Michael Jenkins. Countering al Qaeda: An Appreciation of the Situation and Suggestions for Strategy. Santa Monica: RAND, 2002 (PDF)

Gilles Kepel. Jihad: The Trail of Political Islam. Translated by Anthony F. Roberts. Cambridge, Massachusetts: The Belknap Press of Harvard University Press, 2002 (Jihad: Expansion et Declin de l'Islamisme, Editions Gallimard, 2000)

Roland Jacquard. In the Name of Osama Bin Laden: Global Terrorism and the Bin Laden Brotherhood. Tr.: George Holoch. Durham & New York: Duke University Press, 2002 (Au nom d'Oussama Ben Laden, 2001)

Roland Jacquard. Les archives secretes d'Al Qaida. Paris : Jean Picollec, 2002

Christophe Jaffrelot (ed.). Pakistan: Nationalism Without A Nation? London: Zed Books, 2002

Elaine Landau. Osama bin Laden: A War against the West. 2001

Kamal Matinuddin. The Taliban Phenomenon: Afghanistan 1994-1997: With an Afterword Covering Major Events since 1997. Oxford: Oxford University Press, 2001 (3rd Impression)

The Middle East Research Institute. A New Myth in the Middle East Media: The September 11 Attacks were Perpetrated by the Jews. Washington, D.C.: The Middle East Research Institute, 2002

Ahmad S. Moussalli. Historical Dictionary of Islamic Fundamentalist Movements in the Arab World, Iran, and Turkey. Lanham and London: The Scarecrow Press, Inc., 1999

Laurie Mylroie. The War against America: Saddam Hussein and the World Trade Center Attacks: A Study of Revenge. Washington, D.C.: Institute for Public Policy Research, 2001 (2nd Revised Edition)

Adam Parfrey (ed.). Extreme Islam: Anti-American Propaganda of Muslim Fundamentalism. Los Angeles: Feral House, 2001

Michael Pohly und Khalid Duran. Osama bin Laden und Der Internationale Terrorismus. Munchen: Econ Ullstein List Verlag GmbH, 2001

Simon Reeve. The New Jackals: Ramzi Yousef, Osama bin Laden and the Future of Terrorism. Boston: Northern University Press, 1999

Adam Robinson. Bin Laden: Behind the Mask of the Terrorist. Edinburgh and London: Mainstream Publishing, 2001

Barry Rubin and Judith Colp Rubin (ed.). Anti-American Terrorism and the Middle East: A Documentary Reader: Understanding the Violence. Oxford and New York: Oxford University Press, 2002

Julian Smith (ed.). The Rants, Raves & Thoughts of Osama bin Laden: The Terrorist in His Own Words+Those of Others. New York: On Your Own Publications, LLC, 2002

Der Spiegel Magazine. Inside 9-11: What Really Happened. New York: St. Martin's Press, 2002 (Der Spiegel. 11. September Geschichte eines Terrorangriffs. Deutsche Verlags-Anstalt, 2001)

Strobe Talbott and Nayan Chanda (ed.). The Age of Terror: America and the World after September 11. Perseus Press and Yale Center for the Study of Globalization, 2001

Joshua Teitelbaum. Holier than Thou: Saudi Arabian Islamic Opposition. Washington, D.C.: The Washington Institute for Near East Policy, 2000

Luis S. R. Vas. Osama Bin Laden: King of Terror or Saviour of Islam? Delhi: Pustak Mahal
Paul L. Williams. Al Qaeda: Brotherhood of Terror. Alpha, 2002

CD-ROMs, DVDs and Videos

CNN. America Remembers: The Events of September 11 and America's Response. (CNN, 2002)
PBS. Frontline: In Search of Bin Laden. PBS

ABC and A&E Television. Osama bin Laden: In the Name of Allah. ABC and A&E Television

Monographs

Samina Ahmed. "The United States and Terrorism in Southwest Asia: September 11 and Beyond." International Security, Vol. 26, No. 3 (Winter 2001/02)

Doug Bandow. "Befriending Saudi Princes: A High Price for a Dubious Alliances." Policy Analysis, No. 428 (March 20, 2002)

Rafael Berastegui. "Present Pasts: Clues to the "Ultras" of Allah." Estudios Publicos, 84 (Spring 2001)

Peter Bergen. "The Bin Laden Trial: What Did We Learn?" Studies in Conflict and Terrorism, 24:6 (Nov-Dec 2001)

Ladan Boroumand and Roya Boroumand. "Terror, Islam, and Democracy." Journal of Democracy, Vol. 13, No. 2 (April 2002)

John Calvert. "The Islamist Syndrome of Cultural Confrontation." A Journal of World Affairs, 46:2 (spring 2002)

G. Cameron. "Multi-track Microproliferation: Lessons from Aum Shinrikyo and al Qaeda." Studies in Conflict and Terrorism, 22:4 (1999)

Daryl Champion. "The Kingdom of Saudi Arabia: Elements of Instability within Stability." Middle East Review of International Affairs, 3:4 (December 1999)

Michel Chossudovsky. "Who Is Osama Bin Laden?" Global Dialogue, 3:4 (Autumn 2001)

John K. Cooley. "Terrorism: Continuity and Change in the New Century." Global Dialogue, 2:4 (Autumn 2000)

Anthony Cordesman. "Islamic Extremism in Saudi Arabia and the Attack on Al Khobar." (Review Draft)

Mark A. Drumble. "Judging the 11 September Terrorist Attack." Human Rights Quarterly, 24 (2002)

David B. Edwards. "Bin Laden's Last Stand." Anthropological Quarterly, 75:1 (Winter 2001)

Timothy R. Furnish. "Bin Ladin: The Man Who Would Be Mahdi." Middle East Quarterly, 9:2 (spring 2002)
F. Gregory Gause, III. "Be Careful What You Wish For: The Future of U.S.-Saudi Relations." World Policy Journal, 19:1 (spring 2002)

Rosalind Gwynne. "Al-Qa'ida and al-Qur'an: The "Tafsir" of Usamah bin Ladin." http://web.utk.edu/~warda/bin_ladin_and_quran.htm

Ahmed S. Hashim. "The World according to Usama bin Laden." Naval War College Review, (Autumn 2001)

Agnes Heller. "911 or Modernity and Terror." Constellations, 9:1 (March 2002)

Farhang Jahanpour. "The Rise of the Taliban and Its Regional Repercussions." Critique, 15 (Fall 1999)
Tim Judah. "Taliban Papers." Survival, 44:1 (spring 2002)

Peter J. Katzenstein. "September 11th in Comparative Perspective: The Anti-terrorism Campaigns of Germany and Japan." October 2001

Valdis E. Krebs. "Mapping Networks of Terrorist Cells." Connections 24 (3) (2002)

James Kurth. "The War and the West." A Journal of World Affairs, 46:2 (spring 2002)

Ann M. Lesch. "Osama Bin Laden: Embedded in the Middle East Crises." Middle East Policy, 9: 2 (June 2002)

Bernard Lewis. "License to Kill: Usama bin Ladin's Declaration of Jihad." Foreign Affairs, 77:6 (November-December 1998)

Jessica Mathews. "September 11, One Year Later: A World of Change." Policy Brief, Special Edition 18 (August 2002)

Sean D. Murphy (ed.). "Terrorist Attacks on World Trade Center and Pentagon." American Journal of International Law, Vol. 96, Issue 1 (Jan. 2002)

Michael E. O'Hanlon. "A Flawed Masterpiece." Foreign Affairs, 81:3 (May-June 2002)

Gwenn Okruhlik. " Understanding Political Dissent in Saudi Arabia." Focaal: tijdschrift voor antropologie, 38 (2001)

Benjamin Orbach. "Usama bin Ladin and al-Qa'ida: Origins and Doctrines." Middle East Review of International Affairs, Vol. 5, No. 4 (December 2001)

Michael Radu. "Terrorism after the Cold War: Trends and Challenges." A Journal of World Affairs, 46:2 (spring 2002)

Oliver Roy. "Kriegsziel erreicht? Bin Laden bewirkt den Untergang der Taliban." Internationale Politik, 56:12 (Dec 2001)

---. "Qibla and the Government House: The Islamist Networks." SAIS Review, Vol. XXI, no. 2 (Summer-Fall 2001)

---. "Rivalries and Power Plays in Afghanistan: The Taliban, the Sari'a and the Pipeline." Middle East Report, Issue 202 (Winter, 1996)

Malise Ruthven. "The Eleventh of September and the Sudanese Mahdiya in the Context of Ibn Khaldun's Theory of Islamic History." International Affairs, 78:2 (April 2002)

Mustafa Al Sayyid. "Mixed Message: The Arab and Muslim Response to 'Terrorism.'" The Washington Quarterly (Spring 2002)

Jillian Schwedler. "Islamic Identity: Myth, Menace, or Mobilizer?" SAIS Review, Vol. XXI, No. 2 (Summer-Fall 2001)

Kimberley L. Thachuk. "Terrorism's Financial Lifeline: Can It be severed?" Strategic Forum, No. 191 (May 2002)

Stephen M. Walt. "Beyond bin Laden: Reshaping U.S. Foreign Policy." International Security, Vol. 26, No. 3 (Winter 2002/02)

Ruth Wedgwood. "Al Qaeda, Military Commissions, and American Self-Defense." Political Science Quarterly, 117:3 (Fall 2002)

---. "Al Qaeda, Terrorism, and Military Commissions." American Journal of International Law, Vol. 96, Issue 2 (Apr., 2002)

Ruth Wedgwood. "The Law at War: How Osama Slipped Away." National Interest, 66 (Winter 2001-2002)

Unni Wikan. ""My Son-A Terrorist?" (He was such a gentle boy)." Anthropological Quarterly, 75.1 (2002)

David Zeidan. "The Islamic Fundamentalist View of Life as a Perennial Battle." Middle East Review of International Affairs, Vol. 5, No. 4 (December 2001)

2003年1月16日

世界戦争・内戦・暴力
− 軍と警察の間 −

報告者:東京大学法学政治学研究科・教授 藤原帰一

T.三つの疑問

1.世界戦争は終わったのか
1)総力戦論 消費資源の拡大と軍事力の高度化
2)核兵器と世界戦争論 大国主体/全面波及 
3)軍事技術 攻撃優位と防衛優位 戦間期と冷戦 
4)力の分布と世界戦争

2.内戦と戦争の境界
1)国家対国家 国家対社会 社会内部の抗争 
2)宮廷外交における家庭争議と国際紛争
3)主権国家と国民国家の間 生存圏と軍事介入
4)冷戦期における内政と外交

3.軍と警察の連続と断絶
1)無法の国際関係・法治の国内社会
2)機能的分化 主体/対象/手段/制度的制約
3)規範の収斂 国際関係における法化と倫理化
4)権力の集中 一方的抑止と先制攻撃の合理性


U.三つの転換

1.権力分布の変化 相互抑止から一方的抑止へ
1)権力集中・競合の存否・権力行使の意思
2)軍事力の分布 大戦から冷戦終結まで
3)一方的抑止の復活・大規模介入の復活

2.同盟と介入 冷戦期集団安全保障の変化
1)軍事力の一元性・経済資源の多元性
2)同盟国 出口の不在・発声の限界
3)多国間協調と一方的行動の間


3.テロリズム 私人による大量殺人 対象における軍と警察の融合
1)多数者の非暴力/少数者のテロリズム
2)国家への擬制とその限界 ヨルダンとPLO
3)権力真空の問題 ミンダナオとアブサヤフ
4)軍事行動と刑事警察の交錯 
 
V.三つの帰結

1.軍事的制約の解除 戦火拡大・同盟・国際機構
1)戦火拡大の不在 大規模介入の可能性
2)同盟依存の低下 単独介入の合理性
3)国際機構とその限界 

2.戦争の違法化と倫理化 戦争の違法化・戦犯裁判・抑止としての記憶
1)封じ込め評価の変化 ギャディスの冷戦解釈
2)戦争の違法化/制裁の合法性
3)伝統的権力政治とダブルスタンダード

3.デモクラシーの帝国 市民秩序と帝国秩序・底からの眺め
1)民主主義の両面 権力制限と権力行使
2)国際協議とクレディビリティ問題
3)帝国秩序とその外延


Doyle, Michael W., "Kant, Liberal Legacies, and Foreign Affairs," Philosophy and Public Affairs, 12-3 / 12-4 (Summer / Fall,1983).
Gaddis, John Lewis, The Long Peace. Oxford: Oxford University Press, 1987.
Gaddis, John Lewis, We Now Know. Oxford: Oxford University Press, 1996.
Hoffmann, Stanley, World Disorders: Troubled Peace in the Post-Cold War Era. Lanham, MD: Rowman & Littlefield, 1998.
Hoffmann, Stanley, "Sovereignty and the Ethics of Intervention," in his, The Ethics and Politics of Humanitarian Intervention. Notre Dame: University of Notre Dame Press, 1996.
Huntington, Samuel, "The Lonely Superpower: America's Misguided Quest for Unipolar Hegemony in the Post-Cold War World," Foreign Affairs, March/April 1999.
Kagan, Robert, "Power and Weakness," Policy Review, No.113 (2002).
Lemann, Nicholas, "The Next World Order," The New Yorker , April 1, 2002.
Nye Jr., Joseph S., The Paradox of American Power: Why the World's Only Superpower Can't Go it Alone. Oxford: Oxford University Press, 2002.
Smith, Tony, America's Mission: The United States and the Worldwide Struggle for Democracy.
Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1994.
Tucker, Robert W. and David C. Hendrickson, The Imperial Temptation: The New World Order and America's Purpose. New York: Council on Foreign Relations Press, 1992
TOP

論文集『安全保障と国際犯罪

安全保障は、古典的には、そしてまず第1に、国家安全保障を意味し、そこでの課題は何よりも、外国国家からの武力攻撃に対して自国をどう軍事力によって防衛するか、そして外国国家からの軍事的脅威をいかにとり除くかということであった。そこでの「力」は何よりも軍隊であった。

他方、刑事法は、古典的には、一国内での国内秩序維持のため(一国内での政治的・経済的・社会的保護法益の擁護のため)、国家が刑罰権を行使することを前提とし、そこでの「力」は、警察と検察であった。

但し、安全保障が「外」(外敵に対抗する秩序維持)、刑事法は「内」(内敵に対抗する秩序維持)という区別は、過去において完全に切り分けられていたというわけでもない。たとえば、内乱に関しては、国際法上は国内問題として扱われてはいたものの、軍隊の使用は不可避であり、また内乱罪や外患罪は刑事犯罪とされていた。

さらに、海賊は、古くから「人類共通の敵」とされ、どの国も刑事管轄権を行使できるとされてきた。このような「接触」はあったものの、原則的には、外と中の区別は維持されていたといえる。

しかしながら、現代社会においては、このような二元論的な思考では解決できない問題が登場してきている。それが些少な問題であれば例外的事象として無視できるのかもしれないが、まさに中心的な課題にさえなっているゆえ、一国完結主義的な刑事法観も外国国家による武力攻撃のみを想定した安全保障観も維持できなくなってきている。刑事法と国際政治といういわば法学政治学分野での対極にあるともいえる学問の双方の知見を動員しないと理解できない問題の登場である。

このような問題は、具体的には、一方でハイジャックをはじめとしたテロ犯罪において現われ、他方で集団殺害や人道に対する罪といった「個人の国際犯罪」において現れた。そして、2001年から2002年にかけては、同時多発テロの発生と国際刑事裁判所規程の発効という、この2つの問題の重要性を象徴する出来事が生じている。

本巻では、以下は、この2つの問題を中心にして、現代国際社会における「安全保障と刑事法の交錯」について検討する。同時に、外国軍隊やPKO要員といった安全保障要員は、その円滑な機能のために特別の国際法上の保護を享受するが、他方、これらの安全保障要員が刑事犯罪を犯した際にどうなるかという問題(安全保障と刑事法の交錯の裏の側面といえる)についても検討する。

全体の構成は、「理論的基礎」「現実の諸課題」「安全保障要員と刑事管轄権」の3部からなる。 

第1部「理論的基礎」
高山佳奈子 国際刑法の展開
藤原帰一  軍から警察へ−冷戦後における紛争解決の変化―
佐藤宏美  国際法上の上官命令抗弁にみる「政策的考慮」
豊田哲也  国際法における国家の刑事責任

第2部「現実の諸課題」
山口 厚  サイバー犯罪条約の実体法的検討
中谷和弘  現代国際社会におけるテロリズムへの諸対応と国際法
堀之内秀久 9月11日の8時間
中村耕一郎 日本の安全保障法制の検討

第3部「安全保障要員と刑事管轄権」 
山田哲也  PKO要員の保護と刑事管轄権
今井健一朗 米軍地位協定における刑事管轄権の比較検討

TOP

2003年7月17日

国際テロの諸問題;情勢、対策、影響


報告者:三井住友海上火災保険(株)顧問
 茂田 宏 氏



1、国際テロ情勢概要
2003年4月30日に米国国務省がPatterns global terrorism(テロ白書)を発表した。米国は、2002年9月11日の同時多発テロ以降、様々な措置をとってきた。例えばアフガン戦争、国境での管理などである。

テロの件数推移は、全体としては減ってきている。ただし南米での減少が主要因である。2002年には199件で、最近では最少であった。また、地域別件数(1997〜2002年)では、死傷者数はアジア、中東、ユーラシアで多く出ている。攻撃対象は、ビジネス関係が多く、政府、外交官、軍が襲われることもあるが、圧倒的に民間企業がその対象となっている。また、攻撃のタイプは、爆弾テロが圧倒的に多く、約7割を占める。

テロ白書を発表した米国のテロ担当大使は、テロが減少した理由として、以下の4つの要因を挙げている。アフガン戦争による約3000人のアル・カーイダのメンバーの逮捕、国境や飛行場などにおける保安警備対策の強化、全体的なテロに対する意識の高まりによる国際協力、コロンビアにおける石油パイプラインの爆破の件数の減少である。ただ、テロの頻度ということに注目してみると、南米では確かに減少しているが、他の地域ではそれほどではないと思われる。

米国務省は、テロを「通常、観衆に影響を与える意図をもった事前に計画された政治的な動機をもつ非戦闘員に対する非国家組織または秘密工作員による暴力。」と定義している。

2、現在の最大の脅威―アル・カーイダを中心とするイスラム過激派
世界には様々なテロ組織が存在するが、活動範囲の広がりや目的等から判断して、現在の最大の脅威はアル・カーイダを中心とするイスラム過激派である。アル・カーイダの現状についていえば、その指導者は、オサマ・ビンラーデンであり、現在も生存しているといわれている。ちなみに、アル・カーイダのナンバー2のエジプト人、ザワヒリも生存している。

米国が約3000人のアル・カーイダ「兵士」を殺害、あるいは拘束した後でも、まだテロを行う能力は残されていると考えられる。イギリスのIISSは、未だ1万7000〜8000人の「兵士」が残っていると推定している。アル・カーイダの組織は、ピラミッド型で存在するのではなく、国際的にひろがった幾重かのネットワークになっている。

次に、アル・カーイダを含むイスラム過激派と日本について考えてみたい。日本では、1980年代に、東京のサウジ航空の支店で、爆弾が爆発し、それと同時刻にイスラエル大使館の近くの駐車場で爆発が起きた。この爆弾は、プラスチック爆弾であったが、その当時、日本の過激派はプラスチック爆弾を使用していなかったため、外国人によるテロとされた。

さらに1991年には、筑波大学の五十嵐助教授が研究室で殺害される事件が起きた。殺害の仕方は、非常に残忍であり、サルマン・ラシュディが著した『悪魔の詩』を翻訳したために、イスラム過激派に殺害されたのではないかといわれている。

1994年末には、フィリピン航空434便が、沖縄の南を飛行中に機内で爆発が起き、日本人がひとり死んだ。その後、マニラのアパートで火事が起きたが、そこで爆弾の材料となる部品等が大量に発見された。残されていたパソコンのデータなどから、このアパートに住んでいた者たちが、434便を爆破させたテログループであったことが判明した。それに加えて、そのテログループは、ボジンカ作戦という11機の米国の航空機を太平洋上で同時に爆破する計画していたことが判明した。434便の爆破は、ボジンカ作戦の予行練習であった。同作戦の首謀者ラムジ・アフメド・ユーセフは、現在米国において、240年の禁固刑に服している。
 
以上のように、日本に関連した事件が起きてはいるが、イスラム過激派はいまのところ直接日本を狙っているわけではない。ただし、オサマの側近の調達の責任者が再三日本を訪れ、自動車や通信機器(無線機等)を購入していることが分かっており、資材調達先として、日本は利用されていた。

日本において、イスラム過激派のテロ発生の危険度が低い理由の一つとしては、オサマやアル・カーイダは、「ユダヤと十字軍に対する聖戦」を唱えており、ここでは日本は視野に入っていないということがある(ただし日本国内の米国等の権益等には注意する必要はある)。さらに、もう一つの理由としては、アル・カーイダは現地に支援細胞を作った上でテロを行なうという方法をとっているが、日本ではアル・カーイダの支援細胞は現在のところ見つかっていない。在日のイスラム教徒は約9万人いるといわれており、モスクは、約100箇所ある。過激な説教もあるが、テロを示唆するようなものはないということである。
 
東南アジアにおいては、様々なテロの脅威が存在する。中でも、アブバカール・バシール率いるジュマ・イスラミヤが最大の脅威である。2002年10月に、サリークラブが爆破されたバリ島事件が起きた。これは、ジュマ・イスラミヤによるものである。アブバカール・バシールは、バリ島事件後に逮捕された。東南アジアでは、フィリピンとインドネシアが、テロ発生の危険性が高い。特に、インドネシアはイスラム教徒が多く、また、スハルトの強権政治が終わって、民主化のプロセスにあるため、テロとの戦いはその流れに逆行することになるため困難を極めている。
 
フィリピンでは、アブサヤフやモロ・イスラム解放戦線などの組織がテロを行っている。シンガポールやマレーシアには、Internal Security Actという強力な治安維持ための法があり、人権の観点からの問題は多いものの、テロの抑止には大きな力を発揮している。バリ島事件後逮捕されたジュマ・イスラミヤのメンバーの1人であるサムドラのホームページには、日本をもテロの対象とすると記載されていた。オサマは日本を狙っていないと先述したが、東南アジアでは少々事情が異なっている。アジアにおける日本のプレゼンスの大きさということも関係しているかもしれない。

3、テロ対策として何がなされているか
テロ対策としてどのようなことを行えばよいだろうか。まずは、テロリストに安住の地を拒否することである。具体的には、対アフガン戦争によってタリバン、アル・カーイダの聖域をなくす、テロ関連条約の批准促進、入管体制の強化、テロ支援国家に圧力をかけるなどである(シリア、リビアなど)。

二つ目は、テロリストにテロを行う手段を拒否することであり、具体的には、テロ資金の取り締まり(ハワラ摘発等)、武器の規制等(WMD関連、携帯式地対空ミサイル、爆薬等)である。銀行での本人確認もこのためであり、また、金融機関にはsuspicious trading reporting obligationを課している。したがって、銀行などの表のルートを通して資金を調達することは難しくなってきているということができる。しかし、ハワラ(地下銀行)の取り締まりは大変難しい。また、アル・カーイダなどは、お金を宝石や貴金属に変えて移動させている。武器に関しては、オサマ・ビン・ラーデンは、大量破壊兵器の入手は宗教的義務であるとしており、これを入手するために大変な努力をしている。アメリカは警戒を強めている。
 
三つ目は、テロへの脆弱性を克服することであり、具体的には、航空保安、重要施設警備等の強化、ソフト・ターゲット(警備の手薄な場所)でのテロに注意することなどである。
 
また、テロ対策には、国際協力が重要であることはいうまでもない。ただし、国際協力を行っていくにあたって抜け穴となるのは、テロ支援国家や破綻国家の存在であり、これらの国家を、主権を有する国家として尊重していくべきかどうかということは、難しい問題である。他方、テロ対策には、「やりすぎ」の問題がある。例えば、テロ対策のやりすぎによって人権の侵害、生活の便宜が妨げられるなどの問題がある。したがって、脅威のレベルとテロ対策との均衡をいかにとるかということを考えていく必要がある。
 
最後に、2001年9月11日の同時多発テロ以来、テロの問題は、国内治安問題(警察問題)から外交安保問題へと移っていった。テロの歴史は、人間の歴史と同じぐらい古くからあるもので、これを完全に撲滅することは難しいと思われる。ただし、テロ問題を外交安保問題から国内治安問題に押し戻すことはできるのではないだろうか。つまり、まずテロから生ずる国際政治上の問題を解決し、後は国内において警察による解決を図ることを目標にするということである。

4、テロの原因
なぜテロは生ずるのだろうか。根源にあるものは何だろうか。しかし、この問いに答えを出すことは容易ではない。貧困だという意見もあるが、オサマ・ビン・ラーデンは非常に裕福である。背景として考えうるのは、米国の一極支配、さらには、グローバル化、アラブの近代化の失敗などであるが、これらの背景がどうテロに結びついていくかということは、心理学や精神病理学などの学問の視点からみることも必要であり、社会経済的なアプローチのみでは十分ではない。ただ、公正な社会をつくるということは、テロの動機に対する取り組みとしては必要である。軍事的対応のみではテロの問題の解決には限界があるといえる。

5、テロの影響
テロは世界にどんな影響を及ぼしただろうか。米国の脅威認識や安全保障観の転換(戦時メンタリティ、国土安全保障、WMDとテロの結びつきへの警戒、MADからMDへ、抑止から先制攻撃論へ)が大きな影響を世界に与えている。国際秩序のあり方についての論争も出てきている。つまり、米国を中心とする一極世界でもいいという意見(イギリス、日本など)と、多極世界がいいという意見(フランスなど)の論争などである。米欧間のイラク戦争を巡っての亀裂、アド・ホックな有志連合の問題、国連の役割など多くの問題がでてきている。
TOP

Home