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ボーダレス化時代における法システムの再構築

■研究会記録

―環境・人間(科学技術の展開と環境・人間)
交通に起因する環境負荷削減における自動車関連税制の役割

報告者:中央大学法学部 谷下雅義           
リスク規制と規制基準          

報告者:上智大学法学部教授 古城誠
「アメリカ土壌汚染法制の展開とわが国への示唆」

報告者:早稲田大学法学部教授 大塚 直    
アジアにおける自動車環境問題とその対応

報告者:日本自動車研究所 湊清之   
有害大気汚染物質及びダイオキシン類排出規制の日米比較とわが国への示唆

報告者:電力中央研究所 田邉朋行                  
論文集『環境と生命』刊行予定

2001年10月25日

報告者:中央大学工学部教授 谷下雅義

交通に起因する環境負荷削減における自動車関連税制の役割

●はじめに

住む,働く,憩う,移動するなどわれわれの生活は,自然資本(森林,河川など),社会資本(道路や公園など)そして制度資本(法律,慣習など)という三つの社会的共通資本(Infrastructure)に支えられている.生活の質(Quality of Life)を高めるために,社会資本の整備,自然資本の管理はどのように行われるべきか,また,制度資本はどうあるべきかについて考えるのが土木計画学であると報告者は考えており,特に制度資本に注目している.

制度とはゲームのルールである.ある社会の構造のもとでルールが決まると,そのルールに基づいて人間が様々な活動を行う.税制もルールの一部を構成する.その結果,社会的厚生,信頼関係,あるいは環境負荷といった成果が得られる.今回は交通部門からの環境負荷削減の観点から自動車関連税制のあり方について検討する.

●交通政策

従来の交通に関する政策目標はモビリティの向上であった.これは二つの要素からなる.一つは効率性で,混雑緩和や運転環境を快適なものにすること,もう一つは,公平性で,例えば,地方に住む人でも病院へ行ってきちんと医療が受けられるように,最低限必要な道路は作らなくてはならないなどである.そのために,道路や鉄道の整備あるいは交差点の改良などの手段があり,これが土木の主な仕事であった.

近年,これに環境負荷削減というもう一つの目標が加わった.交通部門における環境問題には,従来からいわれていた混雑,交通事故に加えて,騒音,振動,局地的な大気汚染(NOx,PM),そして地球温暖化(CO2など)があげられる.CO2に関しては,産業部門の排出量が最も多いが,その伸びという点では,交通部門が最大であり,特に自動車の伸びが目立つ.また,都市部のNOx,PMについては,ディーゼル車が主な排出源とされており,これらの削減をどのように行うかが課題となっている.

さて,環境負荷量は次のように表すことができる.

環境負荷=走行台キロ×台キロあたりの環境負荷

なお,自動車における台キロ当たりの環境負荷は,燃料消費率(燃費の逆数)である.したがって,環境負荷の削減のためには,走行台キロを減らすというのと,燃料消費率を低減する(走行燃費を改善する)という2つの方法がある.

前者については,以下のような手段がある.

  • 課税自動車を取得,保有,使用するときの費用を高める
  • 交通社会資本整備鉄道などの代替交通手段を使いやすくする
後者については次の2つが考えられる.
  • 交通社会資本整備走行環境(移動速度)の改善
  • 規制自動車の単体燃費の向上,燃料の改質(ex燃費規制,排ガス規制)
もちろん,都市構造の見直し(土地利用規制),情報提供,自発的取組みといった手段もあるが,これらについては不確実性が高い,あるいは効果の計測が容易ではないため,今後の課題としている.もうひとつの重要な点は,これらの手段は他の手段とリンクしていることである.まず,課税は税収を通じて交通社会資本整備の財源となる(ex.道路特定財源),また道路整備による走行環境の改善は,走行費用を安くし,それが保有や使用を増加させる(走行環境は悪化する).さらに規制は自動車メーカーの研究開発および生産コストを通じて取得費用を高くする.こうした相互依存関係に留意して政策を検討する必要がある.

従来は,上記の規制と交通社会資本整備が主な削減政策として議論されてきた.ここに税制というメカニズムを活用し,これら三つの政策を合わせてCO2削減政策というものを議論すべきである.税制については,取得,保有,使用段階における課税の方法や負担の程度,規制との組合せ,また課税から得られる税収の使途についても議論の余地がある.報告者はこうしたフレームワークに基づき,自動車関連税制が環境負荷削減に及ぼす影響を分析する定量的モデルを構築している.

●モデル

日本でのモデルの作成にあたっては,道路特定財源という仕組みを考慮すること,また,東京圏では約半数の人たちが鉄道で通勤しているため,公共交通を取り入れることが必要である.また,自動車については所有すること自体に魅力があるということも表現している.走行速度によって排出原単位が異なることにも留意すべきである.交通の分野に関していえば,欧米ではすでに研究レベルは終わり,政策決定のツールとしてモデルが適用されている.具体的な政策の内容としては,燃費の悪い車には税金を高くし,燃費のいい車は安くするというgas-guzzler tax,自動車メーカーに対して実際に販売された自動車の単体の平均燃費が基準より悪い場合,費用を支払うというCAFE(Corporate Average Fuel Economy)規制,さらには,燃費の悪い車にfeeを課し,集めたfeeをrebateとして燃費のいい車に戻すfeebate,車令の高い自動車の廃車促進税,Road pricing政策などが検討されている.一方,日本では,まだ研究レベルにとどまっており,経済学では,課税による台キロ削減に,工学では,台キロあたりの環境負荷削減の方に力を注いでいる(上田他(1998),藤原他(2001),中塚他(2002)).

報告者らが構築しているCHUO(Car-Household Usage and Ownership)モデルは,これらの統合をめざしている.世帯は,所得や時間の制約のもとで,効用を最大にするように行動すると仮定する.そして,自動車メーカーは,多く作れば多く作るほど一台あたりの生産コストが安くなるという規模の経済と,車種ごとに独占的競争をして新車の価格が決まる.政府は規制や税制といった制度の設定者である.税収の一部は道路特定財源という形で道路整備に充てられる.そして道路面積と走行台キロから移動速度が決定し,移動速度は世帯の保有・使用行動にフィードバックするという形でモデル化している.自動車資本と道路サービスという2つの市場が毎期均衡すると考えている.研究室では,ミクロモデルとマクロモデルを構築している.ミクロモデルは,主体(世帯,自動車メーカー)を明示して,その主体の行動を行動規範から解く.それによって,自動車の保有台数や使用距離,さらには世帯の効用水準(満足度)を導き出し,環境負荷量とあわせて,効用水準がどう変化するかということを分析することができる.しかし,世帯は必ずしも所得や時間制約下での効用最大化という形で行動しているわけではなく,自動車メーカーについても独占的競争や規模経済がどの程度働いているのかというのは把握しにくいため,モデリングは容易ではない.一方,マクロモデルは,変数間の因果関係を定式化する.これは,説明力の高いモデルということを目的に作られているため,主体別の行動は明示されない.したがって,税金を変えたらCO2はどれだけ減るかなどの分析はできるが,それによって世帯の効用水準がどう変化するかなどについては分析できない.

●シミュレーション―燃料消費量の弾力性

このモデルを用いて2000年の時点で税制を変更したとき,2012年に環境負荷量が,変更しなかったケースと比較して何%変化するかについてシミュレーションを行っている.取得税,保有税,燃料税をそれぞれ10%変えたときに,燃料消費量が何パーセント減るのかといった弾力性,また,税収一定という条件下で@小型車,軽自動車の燃費を引き下げ,普通車の取得税,保有税を引き上げる(グリーン化),あるいは,A取得税,保有税を引き下げ,燃料税を引き上げたらどうなるか,などといった分析を行っている.ミクロモデルとマクロモデルともに,課税の弾力性は,取得税<保有税<燃料税である.そしてミクロモデルでは,グリーン化はあまり有効でない.燃費のよい小型車が増加するが,それ以上に走行量も増えてしまうためである.取得税・保有税を引き下げ,燃料を引き上げる政策は,2012年で4%程度CO2を減らすことができるという結果を得ている.一方,マクロモデルは,相対的に保有税の影響を大きく評価しているため,ミクロモデルとは逆の結果,すなわちグリーン化の方が有効という結果を得ている.

今後の課題は,たとえば,ガソリン価格が現在1リットル100円のものが110円になったときに,走行量や燃料消費量をどれだけ減るかという弾力性の問題である.ミクロモデルでは,燃料の価格が10%上がったときには,約1.2%の走行量が減り,約1.8%燃料消費量が削減する(2000年に税制変更,2012年の値).Yokoyama et al. (2000)は,燃料消費量の価格弾力性が0.2,また海外では走行量の価格弾力性が0.06という結果を得ている.このパラメータはアウトプットに大きな影響を与えるため,調査等を通じて信頼性を高める必要がある.

●シミュレーション−税収の使途変更

道路特定財源の10%を鉄道サービス水準の向上(運行頻度の拡大)に充当することにより燃料消費量は削減される.また,自動車メーカーへの補助も,研究開発への補助に振り分けることも有効である.しかし,自動車の価格の引下げを行うと,逆に保有を増加させることから燃料消費量が増加してしまう.一方,道路投資だけを10%減らした場合には2つのモデルで反対の結果を得ており,まだその是非は判定できない.

●おわりに

以上,交通環境負荷削減という観点から自動車関連税制を検討するための枠組みを示し,定量的モデルについて紹介した.今後,報告者はモデルの改良を行い,またさまざまな政策評価を行いたいと考えている.以下に論点についてのメモを記すが,今後検討すべき政策,モデルの限界などについて,読者から意見をお聞かせいただければ幸甚である.

谷下雅義 tanishi@civil.chuo-u.ac.jp

参考文献

上田孝行,武藤慎一,森杉壽芳(1998):自動車交通による外部不経済抑制策の国民経済的評価−静学的応用一般均衡(CGE)と動学的応用一般均衡(DCGE)の比較分析,運輸政策研究,1,1, 39-53,

谷下雅義,鹿島茂(2002):自動車関連税制の変更が乗用車の保有・使用に与える影響の分析,土木学会論文集,forthcoming

中塚晋一郎・吉田好邦・松橋隆司・石谷久(2002):自動車税制のグリーン化によるCO2削減効果―車種選好モデルによる動学的評価,エネルギー資源学会第18回エネルギーシステム・経済・環境コンファレンス

藤原徹・金本良嗣・蓮池勝人(2001)「環境政策における自動車関係税制の活用の評価」第15回応用地域学会研究発表大会報告論文

Yokoyama, A., Ueta, K., and Fujikawa, K.(2000):"Green Tax Reform:converting carbon taxes to a pure carbon tax", Environmental Economics and Policy Studies, 3, 1-20

●自動車関連税制に関する論点メモ

  • 税の原則(公平・効率・簡素(徴税コスト最小化))から大きくずれている. 
    • 国・地方,特定・一般財源など複雑
    • 取得や消費段階の課税に加えて賦課される消費税は二重課税ではないか.  
    • 暫定税率は法定された本則を大きく超過しており,自動車保有・使用者は過度の負担をしている(固定資産税などと比較しても取得・保有費用の負担の比率は高い)
    • 自動車の普及率からすると資産税的な賦課は不適切ではないか.
    • 貨物車に関して自営で区別する必要はあるか.
  • 多くの税が道路整備計画とリンクしているが,いつまで道路整備に特別措置や緊急措置が必要なのか 
    • 特定財源の必要性に関するほとんどの根拠は,一般財源でもあてはまるので,道路整備にはもっと一般財源を投入すべきである.  
    • 総合交通体系の視点からは,公共交通への補助にも使途を拡大すべきである.
  • 自動車関連税制は社会的費用(環境負荷量)削減に寄与しているか.(道路整備→走行環境改善→自動車利用の増加→…悪循環?) 
    • 軽油・ガソリン車/軽・小型・普通/自家用・営業用間の負担は適切か.  
    • 自動車重量税は,途中で廃棄しても還付されないため,不法投棄の一因になる.  
    • 道路インフラ維持の観点からは,重量の4乗と距離に比例して負担させるべきである.    
    • 自動車メーカーの環境負荷削減技術開発への補助にも充当すべきではないか.  
    • 課税(取得・保有・使用・廃棄)の根拠,方法・・・他の財・サービスとの違い  
    • 税収の使途(道路,公共交通,環境対策,一般財源 
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2002年1月25日

報告者:上智大学法学部教授 古城誠             

「リスク規制と規制基準」

              

環境保護には、自然環境保護と健康に安全な環境保護(健康リスク規制)の二通りある。今回は後者の健康リスク規制を扱う。

安全性を確保するためにはコストがかかる。健康リスク規制において、安全性確保とその為にかけるコストとの間で、トレード・オフが不可避である。換言すると、一方で、健康リスクは人の生命身体に関わる問題であり費用によって犠牲にすべきでない、他方で、甚大なコストを費やしてまで安全を保護することは合理的でないとの議論がある。

問題の本質はどの国でも同じであるが、トレード・オフの基準について直接これに答えるのは難しいし、学問上の一致はない。 そこで、現状、トレード・オフが制度上いかに扱われているかを把握することによって問題を整理する。この問題は、日本では明示的に扱われていないので十分な資料がないので、最も材料を得やすいアメリカにおける議論・実務的扱いを参照する。尚、上智大学でのゼミで扱った資料を用いたことと完成度の低い報告であることを予めお断りする。

危険防止コストにかける費用についての合意が必要である。合意がなければ、軽微なリスクに対して過度な費用をかけてしまう可能性と、逆に、コストを理由に安全性が軽視される危険性がある。

・どの様な基準で行うか?・トレードオフに関する判断を誰が行うのか?

トレードオフ基準については、経済学者を中心に費用便益分析を行うべきであるとの主張がある。この主張は、比例性を欠いた健康リスク規制を行うと、直接的には健康を保護できるが、費用をかけすぎると雇用にしわ寄せが生じて社会全体の富が減少し、結局人命を保護できないとするものである。しかし、このバランシングを徹底して行うと問題がある。

環境保護の便益は、生命身体というデリケートなものであり、とりわけ金銭的評価についてはなかなか合意が得られない。一部の人は、生命身体保護にいくら金をかけても納得しない。 他方、別の人は生命保険の支払額を基準にすべきだというが、生命保険の額は万が一の場合の金額であってこれだけでは納得しない。他の人が犠牲者の場合と自分が犠牲になる場合で、金銭評価に差がある。

この様に、現状、金銭評価の手法・金額にばらつきが有り、あまりに比例性を欠く場合には規制を行うべきではないというところまでの合意しかない。結局、費用便益分析は実務的には十分にパンチの効いた評価手法とはなり得ていない。産業界も費用便益分析の使用を強く主張できなくなっている。

現実のリスク規制において、費用と効果のバランスには大きなばらつきがある。ある問題においては、一般の人々が注目する結果、規制によって得られる効果に対して非常にコストをかけ(高い安全基準)、逆に、注目がない場合にはコストをかけない(低い安全基準)という現象が見られる。そこで、前者にかける費用を削減してその費用を後者にまわせば、全体を見ると費用効果的に高いレベルの安全水準が達成できるとの主張が出てくる。
 
結論として、費用効果性のバランスには手をつけるべきだとの議論が主流になりつつあり、これにはてをつけるべきである。

・ここまでの結論

トレード・オフに関する基準の根拠として費用便益分析が挙げられていたが、根拠がぐらついている。しかし、社会全体で理論的に一致した基準はないが、トレード・オフは避けられない。そこで、誰がトレード・オフについての判断を行うかが問題となる。

・誰がトレード・オフについての判断を行うべきか

@政治的責任を有する議会が行うべきである
議会の選択に国民が反対であれば、新しい議員を選んで議会が構成し、そこで新たな選択が行われれば良い。この様な議論が存在するが、現実的には、議会はトレード・オフの責任を避け、行政官がこれを行っている。その理由は、次の様に言える。即ち、規制を導入した頃には、どの様な規制を行うべきかに関して知識が十分でなかったし、リスク規制がそれ程重大な問題を含んでいるとの認識がなかった。そこで、当時の議会がとった手法は、「リスク・ゼロ規制」と言われる非常に楽観的なものであった。

リスク・ゼロ規制には、便益に比べて費用がかかり過ぎるとの批判があった。そこでの具体的対応策は二つあった。第1に、規制目標達成について猶予期間を与えることによって、技術革新を待つ。これによって、コストをかけ過ぎないで規制を行うことができる。この問題は技術的に処理できるものである。第2に、仮に技術的に対応できなくても、代替品によって対応することができる。

この様な対応の中で最も有名なものは、「デラニー条項」である。ここでは、「発がん性がある物質は全て規制する」と書き込まれた。しかし、科学的知見の進展とともにありとあらゆる物質に発癌性がある事が分かり、ゼロ・リスク規制は維持できなくなった。規制官庁は、「健康に必要な規制」としてどこまでの規制を行ったのか。capture理論によると、産業界よりの非常にゆるい規制になりそうな気もするが、現実はそうならなかった。むしろ、往々にして非常に厳格な規制が行われた。そこで、産業界は非常に不満を募らせた。

「健康保護に必要な規制をする」の解釈として、理論的には、行政官庁はリスク・ゼロ規制を行うこともできた。しかし、実務的には実施コストが高すぎておかしいし、政治的コストも非常に高い。そこで、リスク・ゼロ規制を避け、経済に甚大な打撃を与えないような規制を目指すことになる。経済への甚大な影響を避けるという態度自体は、産業界からは歓迎された。

但し、経済上の考慮は、費用便益的に合理的な規制を導入するために行うのではなく、あくまで経済への甚大な影響を避けるためだけに行うものである。経済に甚大な影響がない場合、費用便益的な対応を嫌い、非常に強い規制−かなりリスクゼロ規制に近い人命優先型の規制−を行った。

そして、経済に甚大な影響がある場合、文字どおり費用便益的に合理的な規制を行うとすると、コストが甚大であることを理由として大きなリスクを放置することになる。この様な重大なトレードオフに関する決定は議会に任せたい。そうでなければ、規制官庁は政治的に持たないし倫理的にも自信がない。

さらに、行政官庁は面倒な規制を嫌う。費用便益的に合理的な規制を行うためには、防止コストは小さいが便益が小さい場合でも、細かなデータ集めに手間暇がかかるので、行政官庁はもっと大雑把に規制を行いたい。防止コストが小さい場合には、費用便益的合理性がなかろうが、可能な限り規制を行いたい。産業界からすると非常に横着な理由付けである。しかし、行政官庁からすると費用便益的合理性のある規制では、産業界から足を引っ張られて身動きが取れなくなる。規制官庁は費用便益的トレード・オフを嫌った。
 
そこで、規制官庁は、理想としてはリスク・ゼロが望ましいが、現実的には上記のような議論を踏まえて甚大な経済影響を避けつつ、できる範囲で最大限の規制を行うべきであると考えた。この様な趣旨で「達成可能レベル基準」を採用する。達成可能レベル基準において、行政官庁はできる範囲で安全性を確保するという基準で規制を行う。これはどういう事か?レジュメp.3の右肩上がりの曲線を参照すると、達成可能レベル基準には幅がある事が分かる。達成可能リスクを「産業が技術的に何とか達成できる水準」と定義すると、うまく技術革新が進めば、「規制厳し過ぎケース」に落ち、残りのリスクが非常に小さくなってくる。逆に、技術革新が進まなければ、「規制甘すぎケース」に落ち、非常に大きい残りのリスクを許容してしまう。

行政官庁は、達成可能レベル基準として「規制厳しすぎケース」を選択した。そこで、産業界からは、達成可能リスク基準の下で許容リスク以下のレベルまで規制しているという議論が出てきた。実際には大きな問題とならなかったが、環境保護団体・消費者団体は、達成可能リスク基準では甘すぎると考え、「厳しすぎ基準」を好んだ。
裁判所は、規制官庁が達成可能レベル基準を用いる場合には、規制が厳しすぎたり甘すぎたりすることがあり、健康保護に十分かどうかわからない。そこで、この基準に警戒感を持ち、許容リスク基準を用いることとした。
 
環境規制において、誰がトレード・オフの決定を行ったか。70〜80年代には行政官庁がトレード・オフを行った。議会がトレード・オフ問題に真剣に取組むのは、90年代に入ってからであり、その頃に初めて立法上の解決が図られた。行政官庁によるトレード・オフや許容リスク基準に対しては、産業界も環境保護団体も警戒感を強めた。環境保護団体は、行政官庁によるトレード・オフでは、規制が甘すぎになり易い。環境上のリスクは不確実性を伴うので、原則リスク・ゼロ基準を採用すべきであると考えた。しかし、行政官庁が厳しすぎ基準を採用したことから、本音はあまり不満はなかったのではないか。
 
他方、産業界には非常に不満が強かったのではないか。産業の不満の内容は規制が厳しすぎるというものだった。彼らは、EPA・OSHA等の行政官庁が十分な証拠もないままに過剰な規制を行い続け、手間暇をかけたがらないことに非常に不満を持った。産業界の意見を聞かなかったり、十分なデータ収集を行わない。データがはっきりしている場合でも健康第一と考えて、コストと便益の比例性を無視した規制を行ったり、ケースバイ・ケースで費用効果性にばらつきのある規制を行ってきたと考えた。

産業界の不満は非常に大きく、裁判の土俵において上記の様な不満を表明した。どの様に争われたかに関して、以下、裁判の事例を紹介する。レジュメP.2を参照。

@Lead Industries事件
第1の論点;「規制基準が費用便益的に合理的であるか否か」

健康リスクがあるからといって、それに見合う便益のない比例性を欠くような規制は行わない。既に、1980年にこの様な議論が行われていた。70年代のアメリカでは、ノッキングを避けるため、ガソリンに鉛を入れていた。EPAは鉛の段階的削減・使用禁止を行った。鉛産業は次の様な主張をした。鉛は癌の原因になるが、鉛を完全に取り除くとノッキングが起きる。この様な規制は費用便益的に合理的ではなく、この様な規制は合理的ではないと主張した。
 
これに対して、裁判所は鉛産業の主張を退け、膨大なコストがかかる規制も許されるとした。裁判所が挙げた理由は次の2点である。第1に、政策選択として合理的であるかは知らないが、議会がその様な規制を支持しているから、議会の指示に従うべきである。第2に、環境基準の設定において、全く費用を勘案しないとしても、後で排出基準のレベルを変更したり、猶予期間を考慮することによってある程度対応可能である。現在費用便益的合理性を欠いているように見えても、技術革新によって後で対応可能である。議会がそう言っている以上、やはり裁判所はこれを変えられない。
 
問題点として、議会がコストを考慮しないと言っていても、その点にあまり合理性はなく、やはりコストは考えるべきであるとの指摘が可能である。

第2の論点;「授権禁止違反」
 
本来議会が行うべき重要な決定を行政庁に委ねるのは授権禁止違反である。日本の感覚では、全く授権禁止違反に反するような授権ではなく、環境基準や健康リスク規制は細かい話である。アメリカの感覚では、授権が許される理由としては、専門能力・時間がない等が挙げられる。他方、重大な決定については授権が許されない。授権禁止原則の問題は、授権の幅が広いかどうかではなく、財産権に重大な影響を与えるものであって、かつ、議会が扱える範疇の問題であると考えられている。少数意見は「授権禁止違反」との説を支持し、学会の一部もこの説を支持した。

 多数説は行政庁に委ねるのは仕方がないと考えた。行政庁に委ねて試行錯誤の結果、良いものを作ればよいが、トレード・オフ裁量の濫用をいかに行うかが問題となった。対応として、首尾一貫した基準を形成しその過程で説明をして欲しいとの見解が主張された。この説に対してはかなり強い支持があったが、どの様な形で提示されたか?この点については、次の事件を検討する。

A Public Citizen v. Young
食品衛生法のデラニー条項において、発癌性のある添加物を一切禁止した。結果として、サッカリンの使用が禁止された。甘味料としては砂糖を使うしかない。糖尿病の人は非常に困る。どう考えても、発癌性のリスクよりも糖尿病のリスクの方が大きい。サッカリンは認めた方が良い。発言性があることを表示して、嫌な人は利用しなければ良い。この様な主張がなされた。

現在では、この条項は合理性を欠くと考えられているが、当初、発ガン物質は限られていと考えられていた。科学的知見の進展に伴って、発癌物質が膨大な数に上ることが分かった。確かに、条文を読むと、少しでも発癌性がある物質は、食品添加物として使ってはいけないとしてある。さすがに、行政はこの条項がまずいと考え、解釈において「取るに足りないリスクは目こぼしをして規制対象としない」とした。しかし、この点が訴訟で争われ、裁判所は次の様に述べた。「政策的には、原告の主張には聞くべきものがあるが、立法者はその様な判断はしていない。議会は、取るに足りないリスクは規制しないとはいっていない。改正は立法者のレベルで行うべきである」。

96年になって、この条項は改正された。発癌物質であっても、取るに足りないリスクしかない場合には当該物質を利用してもよい。また、効用が大きい場合も同様であると改正された。政策的には合理的なものに直された。

Bベンゼン事件
p.3の図を参照。ベンゼンは発癌物質であり閾値がない。本来、リスク・ゼロ規制が望ましいが、リスク・ゼロ規制を行うと非常に費用がかかる。できる範囲で最大限の規制を行うこととした。その結果、達成可能レベル基準のうち、「厳しすぎ基準」に落ち着いた。

産業界の主張は、次のようなものであった。ベンゼンの健康影響は微々たるものである。達成可能リスクまで規制すべきではなく、許容リスクのところで止めるべきである。換言すると、significant riskまでは規制できるが、仮に技術的に達成可能であっても、significant riskがなければ規制できない。

同法にはリスク・ゼロか否かに関してはっきりした規定がなかったため、裁判所は主張を認め、許容リスクまでの規制に留めるべきだとした。この事件の判決は1980年に出されたが、費用便益分析がもてはやされた時期で、この事件で産業界が初めて勝った。この余勢を駆って、次の様な訴訟を提起した。

CCotton Dust事件
産業界は次の様な主張を行った。許容リスク以上であっても、費用便益的均衡を欠くような規制を禁じたものである。費用便益的に合理的な範囲で規制をすれば良い。この様に解釈して規制を行うべきである。産業界はここで敗北し、裁判所は「OSHAはコストを考慮し規制を抑制する必要はない」と判示した。許容リスク基準は非常に分かりやすいが、その影響については次の事件を検討する。

DNRDC v. EPA
本件は大気浄化法に関するケースであるが、同法は環境基準を定めている。大気浄化法は、発癌物質について規制を拡大した。発癌物質には概ね閾値がない。この場合、許容リスク基準に沿って規制を行う。EPAは、閾値がない場合には「達成可能レベル基準」を用い、この様な場合、規制厳しすぎケースになることが多かったが、本件は「甘すぎケース」であり、環境保護団体が争った。
 
裁判所は、「達成可能リスクでは足りず、許容リスクまで規制しなければならない」と判示し、EPAの規制を退けてしまった。
 
EPAは許容リスクを同定し、許容リスクのレベルで排出基準を定めるという作業に入らなければなければならなかった。EPAは、前提となるデータを収集しなければならないが、肝心のデータが不十分であった。また、どの程度のリスクなら許容可能かという価値判断を行わなければならなかった。EPAはこれらの作業を行うことができず、EPAは7物質についてしか排出基準を定めることができず、同法は機能しなかった。
 
許容リスクまでの規制は現実には無理であると考えられ、この点は90年法において改正された。以前否定された実務を肯定し、実施可能レベルまで削減を進め、第1次規制を行った。厳しすぎケースの場合には、データ不足であっても、自動的に許容リスクまでの規制を行うことになる。また、甘すぎケースの場合には、達成可能リスク以上の規制を行う必要が生ずる。この場合には、第2段階の作業として許容リスクまでの規制が必要となる。データ不足でも、達成可能リスクまでは規制を認め、規制を行いやすくした。
 
第2に、データ不足はやむを得ないとしても、トレード・オフについて、議会が基準を入れ、100万人に一人のリスクまではやむを得ないとした。以上が大まかな経緯である。

・ 日本ではこの種の議論は顕在化していない。何故か?
 
アメリカでは、産業界への打撃回避措置が組み込まれていない。即ち、健康基準については達成期限−法制定から3年・7年等々−が決められており、行政庁が勝手にこれを緩めると法律違反になってしまい、規制レベルが決まってしまう。産業に打撃があろうがなかろうが厳しく基準を設定せざるをえない。
 
日本の環境規制では、健康に安全な基準という表現は書き込まれていない。環境規制はあくまで目標として規定されている。また、目標には達成できるかどうかが組み込まれる。自動車の排ガス規制においても、達成可能性が考慮されている。
 
情報不足の場合、規制の初期にはかなり乱暴な規制を行うこともあり得る。アメリカはこのあたりをかなり乱暴に決めることもある。この点、日本はやや丁寧である。
 
新しい知見が出てきた場合、アメリカでも行政は情報不足のままで意志決定を行いたくない。しかし、基準の設定が遅れると、行政不作為の懈怠を問われ、裁判で負けてしまう。最新の知識に基づいて、急いで基準を策定するので、両方にとって不満が残る。日本ではアメリカの後追いであり、相場観のあるところで規制を決定する。結果として、それ程不満は残らなず、達成が困難な基準はできにくい。

・誰がトレード・オフを行うか・方法として費用便益的考慮は妥当か?

ここまで見てきたように、リスク規制においてはトレード・オフが必要である。費用便益的考慮を強く行うタイプには非常に問題がある。緩やかなタイプ−あまりに比例性を欠くほどのコストをかけてまで規制は行わない、コストは考慮すべきだとの趣旨−なら、政策上尤もな話で、合理的であると考える。にも拘らず、費用便益的考慮を行政は行わず、法律も義務付けを行っていない。この様な状況を、アメリカの産業界は怠慢であると評価する。また、経済学者の中にもこの様な主張をする人が多数いる。
 
この様な議論−とりわけ誰が統制すべきか・費用便益的考慮を行うべきかとの問い−に対して、幾つかの対応が考えられる。第1の対応は、大枠の統制は議会が行うべきであると考えて、「議会の尻を叩く」というものである。この説に基づくと、重大で議会が決定を為しうる問題について行政への委任がなされた場合には、授権禁止原則が発動される。第2の対応は、議会ではなく行政庁がトレード・オフを行うにしても、行政庁の尻を叩き、行政にデータを積み上げさせて費用便益的考慮を踏まえた規制をするように統制すべきであるというものである。この議論の背後にあるのは、トレード・オフの基準として費用便益分析を洗練して行かないのは責任回避であるとの批判である。
 
第3の対応は、規制において費用便益的に合理的な規制を行わせること自体は妥当な対応として受容するが、他方、法律上それを義務付けて、裁判所に統制させる仕組みは良くないとするものである。その理由として、第1に、行政庁の判断の基礎データが不十分である。そこで行政庁は費用便益的分析を行わずに、あてずっぽうで規制することまで認めなければならない。第2に、費用便益的考慮を首尾一貫して行う準備は国民や政治家の間にはない。一つ一つの問題に直面した場合に、皆が受容できるような政治的決定を積み上げるしかない。
 
さらに、どうしようもないという議論もあるが、必ずしもそうではない。以前は議会にアカウンタビリティが有り行政庁にはアカウンタビリティがないといわれていた。しかし、行政庁を管理する大統領は選挙で選ばれており、行政庁も政治的責任を負いうる。

大統領が規制官庁を統制できるなら、ある程度試行錯誤の自由度を認めるべきであると思われる。

・ 技術的な話−行政庁に自由度の高いトレード・オフを認めると乱暴なトレード・オフが行われるのではないか?
二つの説がある。第1は、科学的・政治的統制があって、そう乱暴にはならない。非法的な統制に期待できる。第2は、リスク基準選択の理由をもう少し詳しく述べさせ、論理的には緩やかな統制を行いつつ、ひどい場合に裁判で統制する。

<質疑応答>
・ 二点質問がある。第1に、原子力規制において、漸くゼロ・リスクを脱却しつつある。不確実性がある場合には最後は誰がきめるのか?アメリカではチェック・アンド・バランスで決めるという話になりつつあるらしい。しかし、日本でこれに相当するものが十分ないのではないか?日本ではチェック・アンド・バランスが効いていないとすると、どうすればよいのか?第2は、規制値を最初乱暴に入れると政治 的ゲームになるのではないか?一方で、もともと当事者が落とし所を知っている場合には、落としどころを知りつつ議論し、却って、アメリカの国民を混乱させる可能性がある。他方、公開性・透明性を高めるという側面もある。政治的には後者を支持できると考えるがど うか?

・ アメリカでは、情報を整理して出してから、最後は政治選択に任せる。裁判所の方に、重大な選択は政治的選択に任せるべきであり、行政の判断過程に差戻して判断させるべきであるという発想が強い。

・ 自分の知る限り、日本の裁判所は行政側に加担するケースが多い。行政の判断過程さえ間違っていなければ、裁判所は中身について統制しないと考えられているのではないか。

・ 日本の裁判所には、よほどの間違いがない限り専門家に任せるという発想が強い。

・ アメリカでは重大な問題になれば為るほど、学者の間で見解が割れることが多い。その場合、外部から見ても乱暴に議論を進めたかどうかはっきりする。

・ 日本では学会のほうにチェック・アンド・バランスが効いていないのかもしれない。

・ 大気汚染規制上、一定期間の猶予を与えて技術革新を起こさせる。最終的に一定期間後にゼロリスクを達成するものとされていたが 、達成期限までの期間はどうなるのか。一定期間達成を猶予されても無理なものは無理なのではないか。

・ 発癌物質には閾値がないのでゼロ・リスクは無理である。しかし、呼吸器系疾患等を引き起こす物質の場合には閾値があるので、発生量をゼロにしなくても健康リスクをなくすことはできる。程々のところまで有害物質の排出削減が進めば政策目標は達成できる。

・ 今のお話は、環境基準や健康基準を決めるに際して、実現可能性を達成期限等で論理的にどう調整するかという点に主眼が在ったが、執行を担保する手段があるかないかはまた別問題ではないか。例えば、アメリカの連邦政府は、法文上FIP等の手段も持っていることになっているが、実際的には道路建設の補助金をつけるか付けないかという選択肢しかない。連邦政府が混雑緩和のために道路建設に補助金を付けないことによって、より交通事情が悪化して却って大気質基準を達成できなくなるという事も有り得る。アメリカの場合 、日本とは違った形でサンクションのかけ方と政策目標達成の担保され方がうまくリンクしていない。

・ 大気清浄化法上の「許容リスク百万分の一」という数字は良く使われるものか。

・ 原発の場合も多分そうである。

・ 以前は達成可能レベル・許容リスクを定められる対象が7物質だったものが、90年改正において沢山できるようになった。

・ 大気汚染における鉛規制の例は成功例とされるが、この場合の便益の範囲はどのように特定するか?また、NOxの被害と便益は、大気汚染の健康被害を抑制することが便益としてカウントされうるとすると、便益の因果的連鎖を広げれば、いくらでも広がる可能性があ る。前者の例は、80年代の規制インパクト分析によって成功例とされたはずであり、このあたりはどういう議論になっているのか。

・ 規制インパクト分析で考慮されるコストと便益は、直接的なものに限られる。

・ もし、直接的なものに限られるとすると、規制インパクトの過小評価に繋がるのではないか。肝心の便益が抜ける可能性もあるのでは ないか。

・ 間接的な費用・便益も評価の対象とすることは、理論的には正しいけれども、全ての影響を正確に全て評価しようとする手間暇かかり過ぎる。

・ 使う時に限界をわきまえないと、妙な話になってしまうことも有り得る。

・ 便益・費用の評価には様々な類型があり(cost-effectiveness-analysis, quality-adjusted life years等)、便益の評価対象によってそれに見合った手法がある。その範囲では以外に正当な評価がされつつあるのではないか。

・ 代替的政策手段の相対的評価としては、その話で良いのかもしれない。しかし、ある政策は様々な因果的連鎖を持つ。鉛規制のケースで言えば、健康リスクが減らせ、三元触媒も使えるので、win-winの部分もある。他方、ノッキング防止には省エネ効果もあるので、 オイルショック時には三元触媒車は嫌われた。この文脈では、健康リスクとコストのトレード・オフの部分もある。個別の政策の狭い評価はうまく行っているかもしれないが、 win-winの部分の評価まではうまく行っていないのではないか。

・ 導入経緯を考えれば、過剰な規制を入れないことが費用便益分析の目標なのだから、便益の評価は控えめに行うことが多かったのではないか。尤も、便益が小さすぎて規制が必要ないという話を避けるためには、便益を大きめに評価したり、直接的でない副産物的便益を入れたりすることも、論理的にはあるかも知れない。

・ ご報告の中のトレード・オフはリスクとコストのトレード・オフが中心であったが、リスクとリスクのトレード・オフもあるのではないか。トレード・オフの種類によって、取り扱いは変わってくる可能性があるのではないか。後者が裁判の中で争われた例はあるか?例えば、ディーゼル車を入れると燃費が良く温暖化対策としては良いが、NOx・PMは増えてしまう。

・ 確かに、今回の報告の中心は、産業界がコストとリスクのトレード・オフに関心を持ってきたという話であったが、リスクとリスクのトレード・オフによって総リスクが減少することは、産業界の規制に対するミニマムな要求である。サッカリンの話はその例である。

・ 立法府の選択が合理的でない場合には、裁判所は統制しない。デラニー条項の場合(食品安全衛生法−サッカリン問題)、ゼロ・リスクが法律上の義務であった。この為、裁判所は立法府による政策選択の統制を拒んだ。

・ 費用便益的合理性の追求は、一般論としては望ましい。しかし、費用便益分析を法文上義務付けてしまった場合には、行政庁にリソースが十分でない場合でも、費用便益的合理性を完全に追求せざるをえず、行政庁は身動きが取れなくなる。

・ 行政にリソースが十分ある場合でも、費用と便益を考慮してはいけない限界があるという事か。

・ 二通りある。第1に、法律が費用便益的合理性を無視しているが合理的でないと判断される場合、裁判所が法律を書き換えるのではなく議会がやり直すべきである。第2に、行政が費用便益分析をしないからと言って裁判所が介入するのは裁判所にとって無理が生じることがある。

・ ベンゼン事件(労働安全衛生法・OSHA、判決は1980年)の場合には、許容リスクレベルを越えて行う達成可能な水準の規制について 、裁判所が介入したものだった。このケースでは、授権禁止違反という主張は退けつつ、文言が不明確であったために、裁判所も一定 程度介入した。

・ 尤も、このケースでは意見が三つに分かれた。第1は、デラニー条項と同じで、裁判所が介入しない、裁判所が「許容リスクレベルまで 規制すれば良い」と判断すると、裁判所にとって無理が生ずるから行政が言っている通りで良いとするもの。第2は、許容リスクまで規制すれば良い、それ以上の規制は合理性を欠くとするもの。第3は、本来、これほど重要な決定は議会の仕事であり、同法は授権禁止違反で違憲とするものであった。

・ これに対して、Public Citizen v. Young(デラニー条項)においては、議会が法を通じて明文でゼロ・リスクを命じた。行政庁は法が合理性を欠くと考え、規則レベルで「取るに足りないリスクに関する規制はしない」としたが、裁判所はこの行政解釈を法律違反として退けた 。デラニー条項は1996年に改正され、「取るに足らないリスクは規制しない」とされた。

・ 「ゼロリスク規制はけしからん」等の憲法上の縛りはあるのか。

・ 合理的な規制でなければならないというのは常識的な話で、裁判所は例外的に合理性を欠く場合のみ統制する。

・ アメリカでは1997年にNOx・PM2.5の規制が進み、産業界はやり過ぎだと主張した。American Trucking 1999−2000は、微粒子・NOxの規制値が争われた事件である。

・ PM2.5等の話は技術的・専門的判断ではないか。

・ むしろ、Circuit Courtはトレード・オフの話は議会が決められるだろうと考えた。閾値の問題は重大な問題であり、能力的にも議会が決められるだろうとの判断であった。

・ 日本では授権禁止なんてとんでもないという感じだが、アメリカでは授権禁止違反との説を2名の裁判官が支持し、学会の中でも支持がある。単なるスタンドプレイではない。

・ 行政官の方に情報が集まって来て判断も行う。しかし、行政官が実質的な判断をすると、産業界からは議会が決定すべきだとの不満が強くなる。

・ アメリカの裁判所は、一時、統制を強めた時期があった。裁判所が憲法保護を最重要視して統制すると、後から見て費用便益的に合 理性を欠く判断であったと思われるケースがあり、逆に、費用便益的判断をすると、裁判所の裁量濫用に思えるケースもあった。行政 のミスを正そうとして、却っておかしな判断をしてしまうという結果を招いた。そこで、全体として、議会は行政庁に裁量を認め、裁判所は行政裁量をきつく統制しないという方向に動いた。

・ アメリカでは、政治学者も議会重視の人がいることは周知の通りである。裁判所は一歩引いて、酷いケースだけチェックする。基本的には、「議会が指示を出しなさい」という態度である。

・ 日本で裁判所がこの手の判断に踏み込まない理由として、専門家集団・情報のばらつきが見えない事が大きいのではないか。アメリカの場合には、NASや役所の研究機関等、科学的知見の調達源を複数持っている。

・ 裁判所に一から学べと言っても不可能である。多摩川水害訴訟の場合に様に、見るからに異端的な人が異論を唱える場合には、切って捨てられる場合もあるかも知れないが、そういうケースはあまり多くない。

・ 大気質基準はどの様な手続で設定するか?

・ 大気浄化法上、CASAC(大気浄化科学助言委員会)に諮問することになっている。具体的には、rule-makingの段階で次の様な作業を 行う。第1に、文献レビューを行い科学的知見を整理する。第2に、代替案を検討するという手続を踏む。第3に、代替案毎に結果を予測 し政策評価を行う。

・ EPAが自動車の排出基準を決定する時には、自身が関わっていない調査の含めて文献レビューを行い、その様な段階を経てパブリックコメントを行っていた。

・ 日本の環境省はあまり科学的知見の整理を行わないが、ダイオキシン法は文献レビュー等を踏まえ、アメリカの手法に近いやり方で決定された。

・ アメリカの場合、基準の候補を幾つか選ぶ。基準選択に際して、必ず理由を付する。理由が酷い場合には「授権禁止違反」、多少酷いがそれほどでもない場合には「理由不備につき差し戻し」という攻撃が可能である。

・ 行政手続法が前提となって、1970年代以降のアメリカでは、判例レベルで代替案の提示・理由付記が必要とされるようになった。代替 案選択の理由が不備な場合には攻撃が可能である。他の選択ではなくその選択を行った理由を直接説明できなければ、恣意的な決 定になって違法である。

・ アメリカの場合には、法律レベルにかなり細かいことまで書き込んである。例えば、環境基準の達成期限が決まっており、排出基準レベルでの指示が入っている。日本では行政のレベルでは達成時期のスケジュールが決まっているが、排出基準レベルでの指示は入 っていない。

・ 日本の排出基準は、昔は政令・現在は省令で決まっている。

・ EPAは万単位の人数の分析部隊を持っていて、試験も自分達でできる。日本の国立環境研究所は分析部隊を持っておらず、2−3人の人達に頼らざるをえない。

・ アメリカでは、健康に安全な環境レベルの達成に関して、産業界側が厳しすぎる環境基準を争い、自然保護の分野では環境保護団体が緩すぎる基準を裁判所を舞台として争った。裁判所を舞台として規制そのものを争った。規制側と被規制側は敵対的な関係にあった。他方、日本・イギリスでは規制官庁と産業界との間に協力関係があった。規制官庁と産業界の関係は何によって規定されるの  か?日本では明確なトレード・オフの基準があったわけではない。

・ 一般に、日本の環境庁はアメリカのEPAよりも産業界よりとは言わないまでも、産業界が納得する規制を行ったといえるだろう。換言すると、アメリカのEPAほど敵対的な立場は取らなかった。その理由として、日本の環境庁は相場観があるところで、無理なく環境基準を決定した事があげられるのではないか。

・ 環境省が無理をしなかったとも言えるし、それだけの政治力がなかったともいえるかもしれない。一般的には、環境省が何となく決めてしまうのではなく、環境法政策をきちんとした証拠に基づいて議論しあい、場合によっては裁判所を舞台として形成することが望まし いのではないか。

・ 狂牛病騒ぎ等を見た感じでは、もしかすると食品衛生・薬事・環境行政を見る感じでは、日本の行政には根本的弱点があるかもしれないという気がする。相場観のあるところで意志決定を行うというスタイルはコストは低いかもしれないが、大失敗を犯す危険がある。

・ 日本の行政は相場自体の妥当性を判断するような情報基盤を持たない。企業にとって重大な利益がかかった決定に絡む問題でも、 落とし所を知るための情報のチェックを行う機関・人員もない。全てを自分で行う必要もないが、ある程度の人員は必要である。うまく行っている限りでは、低コストで良いのかもしれないが、完全ということはありえないので、とんでもないミスを犯す危険がある。狂牛病はイギリスであれだけ大騒ぎをしたが、レポートを全て読む人などいない。その意味で、落とし所に関する問題ではあるかもしれないが 、「役所は落とし所をわかっている」ということを業界に知らせることが必要だが、この点も十分ではない。

・ 総務庁が予算の都合上、定員要求の話として扱ってしまう。この意味ではシステムが硬直しているといえるのかもしれない。金融のように大スキャンダルが起きると、銀行がつぶれて人材の供給も起きて、結果として改革が進むこともある。

・ この問題は確かに情報基盤の緩さ(合理的決定の基盤として厳格な論理構成・科学的証拠・手続を要求するかどうか)の問題ではある。しかし、同時に法律上環境基準を厳しく決めるかどうか(数値の厳しさというよりは厳格な執行義務を課するかどうかや基準の法的 ステイタス)が重要であるという話でもある。背景に行政手続法が存在することが前提となるが、議会が法律をどう作るか、換言すると、 細かい点まで議会が法を通じて行政に義務を課すからこそ、この種の問題が訴訟の俎上に乗るのではないか。こう考えると、情報生産のパターンと法体系の作り全体の両方が関わっている問題なのではないか。

・ アメリカの場合、議会は、本当に行政にやらせたくないことについては、個別立法や予算を通じて行政に介入する手段を持っている。 他方、議会はやるのが面倒なことについては、行政が裁量を行使して勝手にやっていることにするという形で、産業界からの批判をかわすという側面があるのではないか。行政も議会がやりにくいことを裁量の行使としてやるという役割を承知しているのではないか。この様な形で議会と行政の役割分担がそれなりにうまくできているのかもしれない。

・ この点、日本では指令塔的役割は役所が抱え込み、辻褄あわせを大蔵省等の役所がやることが多い。環境省は霞ヶ関では影響力が小さく異端児であるが、政党やNGOをそれなりに使ったりする点では、手法面ではアメリカの政策形成に似ていなくもない。この点で は意外に共通点があるのかもしれない。尤も、日本の環境省は人数的な制約もあり、遣れることは限られている。
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2002年2月13日


報告者:早稲田大学法学部教授 大塚 直

             
「アメリカ土壌汚染法制の展開とわが国への示唆」 

T はじめに

類似の問題について、昨年9月に日米法学会において報告したものと同趣旨ではあるが、前回の報告では司会を任されていたため、今回は不十分な点を若干付け加えた形で報告を行う。

我が国においても、市街地に関する土壌汚染問題がクローズアップされ立法機運が高まっている。今年の通常国会に提出される可能性がある。立法の機運が高まっている理由として、下記の4点が挙げられる。

@ 工場・廃棄物処分場跡地におけるマンションの建設に伴う土壌汚染が顕在化した。
A 土壌汚染の浄化に関する明確なルールの欠如が、土地の円滑な取引を阻害しているとの懸念が、産業界に見られる。1999年の小渕内閣、経済戦略会議の答申、2001年の規制改革会議の中間答申でも取り上げられ  た。
B 1980年代からアメリカに始まり、90年代には、欧州でも(オランダ・ドイツ・イギリス)、土壌汚染に関する法制度が整備されてきた。
C 環境関連の国際規格 土壌汚染の調査に関するISO14015が制定された。

土壌汚染及び関連する地下水汚染の特色
@ 蓄積性
A 農作物への影響 地下水・直接摂取が主要な経路として生ずる。
B 汚染地の殆どは私有地大気汚染や水質汚濁等の他の公害・環境問題とは異なる。

外国法の中では、アメリカで1980年にSuperfund法が制定された。これは、土壌汚染に関する世界最初の法律である。その後の世界の土壌汚染法制に影響を与えた。水質汚染・大気汚染法制に比べると、アメリカの環境法の中では比較的新しいが、環境法の中で占める割合は大きい。この法律を巡って多くの訴訟が提起されているし、連邦レベルではUSEPA(アメリカ環境保護庁)のリソースの多くがこの法に割かれている。

1990年代に入り、基金の費用徴収の部分の延長・補強を狙った部分を巡って法案が提出されてきたが、全て廃案になった。しかし、今年の1月、その一部について、ブラウンフィールドに関する法が制定された。

本報告では、アメリカの環境法制の一角をしめるスーパーファンド法の評価に関する議論を扱い、それが我が国の土壌汚染の法制に与える示唆を検討する。環境法学の評価の基準としてはいろいろなものが考えられるが、主要なものとして、公正さ・効率性・環境保全の実効性を採り上げる。公正さについては、これまでにも法哲学・法と経済学において議論されてきたところであり、本報告でこれらの問題の本質に答える余裕はない。

しかし、スーパーファンド法に関する問題点が、アメリカにおける公正さの問題に関連しており、報告者が日本法の研究者であることから、基本的にはアメリカの学者の指摘を紹介しながら、問題をより具体的に捉えてみたい。その上で、我が国の市街地土壌汚染浄化法制への示唆に触れるが、既存法の一般原則とを一つの議論の基礎にして、公正さに関する議論の素材を提供する。
アメリカでは、スーパーファンド法に関する批判的論文が多く見られるが、本報告ではその極一部について取り上げる。

U 1980年CERCLA及び1986年SARA

(1)法律名
 1980年12月 Comprehensive Environmental Response, Compensation and Liability Act (CERCLA)(スーパーファンド法・包括的環境 対処・補償・責任法)

 1986年10月 Superfund Amendments and Reauthorization Act(SARA)(スーパーファンド法修正・再授権法)
 スーパーファンド法は、1986年再授権法において、大幅に修正された。本報告でスーパーファンド法という場合には、SARAも含める。

(2)要点
・ 連邦政府や州政府が、有害物質廃棄物放出地の特徴を把握し、かつ、対策の優先順位を決定得るような情報収集分析システム

・ 連邦政府は有害物質について緊急事態に対応し、漏出場所の汚染浄化を行う権限。自ら公表する「NCP」(国家対応計画)に従う

・ 私人(責任当事者 PRP)に対する汚染浄化及び浄化費用の負担義務(連邦環境保護庁−EPA)は司法長官に要請し裁判所に訴えるか、自ら行政命令を出す)

・ 連邦の浄化事業の費用を賄うため、有害物質信託基金(Hazardous Substances Trust Fund)を設置−石油税、化学品税など、産業界から徴収されるものと、一般財源から組み入れられるものがある。 私人が浄化費用を負担する第3の方法が原則。

(3)事業の種類
 除去事業(removal action) 緊急・短期
 修復事業(remedial action) 通常

(4)汚染地の把握、調査 CERCLIS
・汚染地の把握方法
 有害廃棄物を貯蔵・処理・処分する場合の、土地の所有者・管理者は、検出される汚染物質の量・種類を環境保護庁に通知する義 務がある。各地の汚染地からの情報を集約するCERCLISという情報処理システムがある。 この様に、手続が始まる端緒には様々なものがあり、土地の改変には限らない。住民からの情報も含め、多様 な端緒がありうる。

 CERCLISに登録されたサイトは、EPAによって一定レベル以上の汚染があると判断された場合、NPL(全国優先 地域一覧)に登録し、 有害物質放出の恐れ等々を勘案し、修復事業の対象とするかどうかを決定。

(5)浄化の発動要件、基準・手法、浄化事業の手続
(ア)浄化の発動要件−サイトごとのリスクアセスメント
(イ)浄化達成基準の2つの要件
  どこまで浄化するか?(達成基準の問題"How clean is clean?" issue)
  ・ 人間の健康及び環境の保護を確保すること
  ・ 法的に適用可能なまたは適切な要件(legally applicable or relevant and appropriate requirements:         ARAR)を満たすこと→具体的には、連邦法の基準・連邦法よりも厳しい州の基準
(ウ)浄化の手法
(エ)浄化事業の手続き

(6)浄化義務者、費用負担者:潜在的責任当事者(PRP)
 (ア)PRPの範囲(§107(a))
  i) 汚染された施設の現在の所有者及び管理者
  ii) 有害物質が施設に処分された当時の所有者又は管理者
  iii) 有害物質を所有又は占有し、他人によるその処分または処理を手配した者(製造者)
  iv) 有害物質を運搬のため受領し、または、受領したもの
    (判例)子会社の施設に関与した親会社/一定の場合の融資者
    融資者の責任−その後、立法上解決がなされた。

 (イ)PRPが負担する責任の範囲(§107(a))
  i) 合衆国政府・州等が国家対応計画と矛盾することなく支出した、除去事業又は修復事業に要した全費用
  ii) NCPに従ってその他の者が支出した必要な対策費
  iii) 自然資源の損傷、破棄、損失に対する損害賠償
  iv) 人の健康への影響調査又はその評価研究に要した費用

 (ウ)PRPの抗弁(§107(b))
  不可抗力/戦争行為/第三者の作為又は不作為
  「第三者」
  善意の購入者の抗弁(§§101(35), 107(b)(3))−SARAにおいて善意の購入者の抗弁の条項が追加され  たことが重要な点。
  −施設の購入者が不動産の所有権を取得したときに「有害物質がその施設に処分されていたことを知ら  ず、 かつ知るべき事情がなかった」ことを証明すれば、責任を免れる。
  但し、判例上、この抗弁を認めたものは殆どない。

(7)責任原理
  厳格責任/連帯責任(SARA)/多くの判例は責任の遡及を認める

(8)PRPによる負担のプロセス
  PRPの範囲がきわめて広く、きわめて緩やかな要件の下で責任を認める理由

・ 現在生じている有害廃棄物の問題に関して、過去に不十分で安い費用しか拠出せずに利益を得たものに、浄化費用を負担させる
 べきである(上院の法案において指摘されている)。

・ 浄化事業には多額の費用がかかり、基金だけでは費用を賄いきれないことから、広範囲のPRPに負担させるほかない(政策的理由 )。

・ SARAによる和解の重視。

V スーパーファンド法の評価、1996年改正法、根本改革案

(1)問題点とその原因

 (ア)スーパーファンド法の効果の問題点
  ・ 浄化の遅延と高いコスト
  ・ PRPが本法の関係で用いる費用のうち浄化に直接用いられない取引費用、特に訴訟費用が高い
   ブラウンフィールド問題 

 (イ) 問題の原因
  @責任当事者の過剰 
  A連帯責任の問題 
  B発動基準の不明確性
  C 達成基準の不明確性
  D 浄化後の訴訟の不安 
    責任の遡及効の問題

  @・C→これらが相俟って、浄化費用、潜在的浄化責任の算定の困難を引き起こしている。

 (ウ) 立法ミスの理由

(2)原因@(責任当事者の過剰)に対する立法上の対応

(3)より根本的な改革の提案

W ブラウンフィールドに関係する問題 連邦・州の対応とその評価

(1)ブラウンフィールド問題
(2)州の対応
(3)連邦の対応
(4)州、連邦の自主的浄化プログラム、州のブラウンフィールド法に対する学説の評価基準

X 比較法的に見たスーパーファンド法の特徴

・ 責任当事者に多くの者を含めた立法、判例−4種のPRP(原因者でない土地所有者・管理者を含む)、親会社、 融資者
・ 厳格責任、遡及責任、連帯責任、因果関係の(立証責任の)緩和
・ 浄化発動基準についてサイトごとのリスクアセスメント
・ 浄化達成基準についてARAR

W わが国の市街地土壌汚染浄化法制の議論への示唆

@責任当事者
 ○善意の購入者をどう扱うか
A連帯責任の問題
B発動基準・C達成基準の問題
D遡及効の問題。
E残された問題:被害者の賠償・補償について民事責任以外の制度を構築する必要
  @)環境法制の評価
  A)法律の効果
  B)環境と正義の議論

<質疑応答>
・ 経済界が委任拠出の形で資金を拠出するという話は、昔からある話だが、公健法の指定地域と共通する問題があるという印象を持つ 。公健法地域指定(第1種地域指定)の場合、個別的な因果関係がない場合でも、地域的な因果関係が認められる場合には、汚染の 寄与度によって支払いを行わなければならない。第1種地域の問題とある程度共通しているのは、浄化を行わずに倒産した企業の不始末を、優れた企業がカバーしなければならない。この様に、競争上も非常に不公正な事態が発生する可能性がある点が共通する  のではないか?基金の場合には、寄与度と全く関係ないところで、負担が強制されてしまうという問題があるのではないか。アメリカとの対比で、日本の今回の案についてどのように評価されているのか伺いたい。

・ 基本的には、任意に拠出していただければ法的に問題はないが、審議会でもこの点は問題となった。(原因者・負担者について問題と なるのは、)大企業であるというよりは、化学工場や有害物質を作っている企業であると考える(尤も、「過去に作っていた企業」であり、 現在作っている企業ではないので、この点は整理しなければならない。また、リサイクルで言う拡大生産者責任の議論との関連の問題もあるが、すぐに法的な議論にはならないかもしれない。土壌汚染の場合、土壌を汚染したという排出行為をした人が原因者である )。有害物質を作り出した人がいても、その有害物質を捨てるかどうかは、排出者が判断することであり、因果関係が切断されると考え ることは可能である。しかし、広い目で見れば、有害物質を作れば大気・水・土壌のどこかに行くのは当然であり、偶然土壌へ行くだけ だと考えることもでき、製造者の責任を問うことも考えられる。任意拠出ができない場合、化学工場ではないかという気がする。

・ この場合、「クリーニング屋さんが気の毒だ」という話になってしまう部分もある(石油系の洗剤は火事になるかもしれないからテトラク ロロエチレンを使用しろと厚生省から指導された。土壌汚染の問題が出てきたら責任の遡及だという話が出てきた。有害化学物質使  用の経緯を考えると、酷な部分もある)。

・ 有害物質を作ればどこかには行くはずで、これは税の話に結びつくが、基金を作るために強制的に資金を拠出して頂くならば、製造者ではないかと思う。ここでいう責任は直接の責任ではなく、原因者・土地所有者が無資力・不明の場合の責任である。その場合には 、製造者に拠出して頂くということはあり得る。

・ 税とは、一般的な税ではなく目的税である。一般的な税は汚染者負担原則から乖離するので、目的税のほうが良いと考える。

・ この点は、私有地における汚染であるという点と関連するのではないか。

・ (名古屋地判)公害防止事業者負担法において、5つ事業を指定している。その中で、農用地の土壌汚染については、過去に汚染をした人から原因者としてお金を徴収し、公共事業として浄化事業を行う。ダイオキシン類の対策についてもこの仕組みを用いた。

・ 但し、この仕組みの対象になるものとならないものがある。それら以外は、規制型でやるという仕組みを用いた。

・ 今回の法律において、農用地は特別扱いであるが、その理由として、人間の健康に直接影響があること等が挙げられ、だから公共事 業でやるという説明が行われている。また、ダイオキシンはあれだけの騒ぎになったために(「有害性が高い」との説明はあるが、同じぐらい有害性が高いものは他にもあるのでこの説明は採らない)、それ以外の部分について規制型でやるということになった。

・ カドミウムの問題では、農民にやらせるという発想はなかった。

・ (製造物責任法との関連)土壌汚染における負担の原則は、 製造物責任における情報の非対称性をどう扱うかという問題と近いものがあるのではないか。物を作る側は情報を持っているから、そちらに負担させれば効率的であるという発想は、製造物責任と類似する かもしれない。その様な議論はあるか?

・ 確かに、ドイツでは同じような議論はあったし、その様な問題が実際にあるかもしれない。ただ、廃棄物リサイクルの問題は、(製造物責任と)さらに共通点が多い。過去に生産したものについて、消費後にメーカーに戻すという問題で、こちらの方がもっと似ている。

・ 先ほどは拡大生産者責任の話をしたが、あれはイレギュラーな問題である。本来、土壌汚染の問題では、原因者である排出者と土地所有者の責任の関係が問題である。

・ 容器包装リサイクル法・家電リサイクル法の問題 製造者が消費後についてまで、責任を持って処理するというコンセプト。これらは、 拡大生産者責任とは呼ばれるが、製造物責任とかなり類似する。土壌汚染における原因者は、排出した人・化学物質を作った人・土地所有者の3者である。これに対して、製造物責任では、土地所有者の問題が出てこないし、問題とされているのは作った人の責任である。

・ PLにおける製造物の所有者との関係は?欠陥の問題であり、所有者の責任は殆ど出てこない。

・ 排出者とは、論理的には何か?誰が責任を負うべきか?

・ 排出者・土地所有者の責任があって、生産者の責任はその次の話である。

・ しかし、一度作られた化学物質が大気・水・土壌のどこかに排出されることは確実であり、有用性・危険性について情報を持っている人は生産者である。土壌汚染法制で扱われるべき問題か、あるいは、例えば化学品管理法制で扱われるべき問題かという点はあるのではないか。化学物質の包括的管理にはまだつながっていないということか。

・ 確かに、メディア・スペシフィック(媒体別)規制が残っている。

・ 地下への浸透については、日本では水質汚濁防止法に規定がある。地上においた場合に関する規定はなく、不十分であるという批判はありうる。

・ 製造物責任の製造物には、化学物質は入らないのか?

・ 廃棄物リサイクル法制にいう拡大生産者責任の対象になるわけではない。法律で決めたものに限定しないと、引き取って何でもリサイクルさせるとなると、社会的なコストが非常にかかる。

・ 不法行為の製造物責任では、製造物に欠陥があればなんでも対象になる(尤も、農作物や血液はおそらく入らない)。

・ 土壌汚染で問題となる化学物質とは?

・ 具体的には2種類である。重金属(鉛・銅・水銀・カドミウム等)と有機溶剤である。

・ 拡大生産者責任の考え方を推及して化学工業から基金を集める趣旨は、リサイクルしやすい製品を作る誘因を与え、環境負荷の低い製品を作ってもらうという趣旨

・ 化学物質の利用者は、資力もあるし代替物質を需要することもできる可能性がある。

・ ご指摘の点は、リサイクルにおいて、誰に費用を負担させるかという大問題と関連する。個人的には作っている人が半分以上であると考えるが、利用者であると考えている学者もいる。

・ 環境負荷の低い製品を作ってもらうと考えるか、理想を低くして回収しやすくするほうに重点を置くか?目的の設定の仕方によって変わってくる。

・ 充填業者がある程度負担すべきであるとは思うが、充填業者だけが負担するというのは問題があるのではないか。

・ PLでは損害賠償が中心であり、損害の発生抑制に経済的誘因を与えるという視点は理論的にはありうるが、法律家の元来の発想は損害の填補である。これに対して、拡大生産者責任には、経済的誘因を与えるという視点が強い。

・ 「拡大生産者責任」の「拡大」の意味は、販売後についてまで責任を負うという意味である。

・ 主目的が「損害の填補か経済的誘因か」という話は、費用負荷のかけ方とかかわってくる。経済的誘因を与えるためには、単に化学業界に経済的負荷をかけるというだけでは足りない。ドイツのDSDにおいても、どの部分に費用負荷をかけるかが問題となった。最初は単に容積にかけるという方式であったはずであるが、改定後、重量比等の物質特性の要素を取り入れて、原因者負担に近づいた。 リサイクルのコストをかける製品には経済的負荷をかけるという方向にシフトした。

・ 環境負荷かリサイクルの負担か?

・ この場合には、リサイクルの負担ではないか。

・ 環境全体のことを考えて化学業界にかけるというほうに行くとすると、LCA等も必要になるだろう。

・ そもそも、どこに化学物質の所在に関する情報はあるのか?

・ 経済産業省が情報を持っている可能性はある。

・ 情報公開請求によって情報は出てくるか?

・ 法人等情報に該当する可能性がある。尤も、総量は出る。

・ 化学品という大枠ではなく、物質特性を勘案しリスクに応じた経済的負担をかけるという選択になる。リスク税・リスク課徴金という選択 肢がこれに当たる。損失余命という概念を用いた研究がある。

・ リスクの厳密なアセスメントは存在するか?

・ 環境リスク規制は、温暖化ガス規制におけるGWPの議論同様、不確実性があるところを、合意でだましだまし動いている。

・ 基金の額は?−年間5億円・毎年。財務省は余計な金は一銭も出したがらないし、化学業界も不景気である。

・ マテリアル・フローの全体像は分かっているか?

・ PRTRによって、ある程度の全体像ははっきりする。

・ サイトの中に残る量は、総量から大気・水・外への排出を差し引いて、マス・バランスから算出する。

・ 健康が関係する場合には、リスク・ベネフィットの比較は望ましくないと考える。尤も、全く費用を考えないというわけにもいかない。他方、費用と健康リスクが同じレベルで扱われるべきであるとは思えないので、実行可能な限りでリスクを低減するということを前提として、費用を考えるべきである。リスクが100年後に出てくる場合(遺伝子組み換え作物の環境への影響等)、リスクとベネフィットを比較するという主張にはあまり意味がないのではないか。

・ 損害賠償においては、費用便益分析的発想はよくないという主張があり、基本的にはこの意見に賛成である。差止においては、費用と便益を比較せざるをえない。

・ 土地所有者と原因者が離れている場合、求償訴訟が多発すると予想している。

・ 土壌環境基準によって、基準超過を判断する。

・ 求償訴訟について、手続を作らないとまずいかもしれない。

・ 状態責任(行為責任)が所有者責任か?

・ 行政法の人は、警察責任という発想から所有者責任という方向に行く傾向はある。

・ 所有者の責任が前面に出てきた理由は?

・ 規制型か公共事業型か?

規制型に最初から決まっていた。オランダのようにならないようにという趣旨であったが、行政に金がないということである。

・ 所有者が善意であるかいなかは考えていない。規模の議論もない。

・ 所有者責任をとるとすると、浄化費用が大きすぎる場合、所有権放棄を認めるかどうか、また、受益者負担的な発想と矛盾する可能性があるが、そのあたりはどうするか?

・ 放棄はできないという発想である。

・ ドイツ法では、警察責任−直接その人に直接の責任がなくても危険な状態を作った責任−が所有者にあると考える。

・ 警察責任とは?土地所有者が地下にガソリン・タンクを作っておいたら、地下道が後からできた場合に所有者に責任を負担させるという風な発想である。ドイツの場合、判例上は、警察責任(所有者の責任)の発想が強い。

・ ガソリン・タンクは意図的な行為だが、有害な化学物質を置いておくのは意図的な行為ではないのではないか(所有者の責任のみならず発生者の行為における主観的態様の違いも勘案する必要がある)。

・ ドイツ法的な警察責任の考え方は、自分のところから危険を作っている所有者は自分のコストで危険を作った責任を負担すべきであ るという考えに基づく。他方、後から近づいてきた人に責任があるとも考えられる。ドイツ法でも、保険的な警察法では状態責任の発想 がある。また、まだ読んでいないが、「本邦における占有と物支配」という教授資格論文があり、カタログを読んだ感じでは原因者主義  に傾きすぎだという論文らしい。

・ 財産権を守る−自衛−という意味では、警察機能の担い手は所有者であるという発想は、古典的だが基本的である。行政法的意味での所有権者責任(警察責任)の発想に基づくのは、防火責任管理者である。

・ あまり浄化費用がかかると地価がマイナスの価値になってしまう可能性もある。地方都市の郊外の土地の場合、一坪10万円ぐらいの土地1億円

・ 1?掘ると3300万円ぐらいかかる3m掘ると、土地の価格と同じぐらいになってしまう。5m掘るとマイナスの価値になってしまう。実際には汚染が浅いケースは非常に少ないから、殆どの場合巨額の費用がかかる。

・ 具体的には、どの産業部門が影響を受けるか?

・ 電子部品・半導体産業等がリストラクチャリングを行う場合、不動産を売却したいと考えても売却できない。金融機関は、土地を担保と して融資を行っており、土地の価格がマイナスになると不良債権が急速に拡大するということもありうる。

・ 保険をかけるのは誰か?原因者が保険をかけるというわけにはいかないから、加入するのは購入者か?

・ 現在の所有者に対して、購入者が保険をかけさせるということはありうるだろう。浄化したはずの土地で残存リスクが発覚し、もとの所 有者がつけていた保険で対応するという議論は、容易にはいかないがありうるだろう。また、土地開発者が開発・売買した先に対して保証するという議論もありうるだろう。
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2002年6月18日


アジアにおける自動車環境問題とその対応

報告者:日本自動車研究所 湊清之

1.はじめに

持続的な高度成長を遂げてきたアジア諸国は、一時、アジア通貨・金融危機により深刻な景気後退を余儀なくされたじきもあったが、その後は、大方の予想を上回るスピードで急回復している。世界的な情報技術(IT)革命が進行する中で、アジア経済は新たな発展の機械と挑戦に直面している。21世紀のアジア諸国は経済成長と共に自動車保有台数を大きく増加させることは確実である。この結果、現状のままであればCO2排出量は現在の3〜4倍程度になり、年の大気汚染はさらに悪化すると予測される。都市環境問題への対応は、その都市、地域、さらに地球規模での持続的な発展を実現するために極めて重要である。

2.アジア各都市の持続可能への問題と対策

モータリゼーションが進むアジアの各都市が抱える自動車関連問題は共通しており、交通需要の増大に伴う道路混雑と都市環境の悪化である。大気汚染の解決策としては、長期的な都市開発ビジョンの基に持続可能な都市交通政策を展開すべきである。ここでは、自動車が確実に関わる問題について、短・長期的な解決策を提示する。現在すぐにでも着手しなければならない課題としては、(1)燃料性状対策(ガソリンの無鉛化政策、燃料中硫黄含有量低減政策)、(2)排出ガス規制、(3)渋滞対策、(4)車検制度と使用過程車の取扱い、(5)行政・自動車関連人材育成等が挙げられる。

2−1燃料性状の改善
排出ガス対策技術として、ガソリンの無鉛化と低硫黄化が大きな課題である。ガソリン性状に関しては、フィリピン、インドネシアで無鉛化対策の遅れが目立っており、大気中の鉛濃度増加が懸念されている。軽油の低硫黄化はディーゼルの排気浄化にとって必須の条件である。このためには、強力な環境政策の下に石油精製等に関連投資を促進し、高品質のガソリン・ディーゼル燃料を確保することが重要である。ディーゼル車に対しては黒煙および微粒子の低減も要求されており、燃料の低硫黄化や三元触媒およびDPF等の排気浄化システムの導入などが重要である。アジア地域における無鉛化政策の成功例として、タイの大気汚染改善が挙げられる。これまで、タイ・バンコクでは代替交通機関の未整備と増加する自動車によって生じる渋滞と有鉛ガソリン使用等による複合作用により、大気汚染が広がってきた。しかし、国の強力な無鉛化政策の結果、大気中の鉛濃度問題はほぼ解消された。このタイ・バンコクの例は大気改善策の成功例としてアジア各国の手本となっている。

2−2排出ガス規制動向
アジア各国の排出ガス規制を見ると、韓国、台湾が米国規制を導入し、他のアジア各国は基本的には欧州排出ガス規制の制度を取り入れているが、規制レベルは欧州と比較して5−10年遅れている。自動車保有台数の増加、使用燃料性状のレベル等を考慮すると、10年以内に欧州レベルまでに規制を強化していかなければ、都市環境は更に悪化するものと予想される。

2−3交通渋滞対策
アジア諸国の各都市とも渋滞・排ガス対策は都市環境保全の立場から早急に取り組むべき最重要課題の一つとして挙げられ、大量交通機関の導入・利用拡大により都市内の渋滞解消を図っている。しかし、対応策の実施や実現化に向けての制約条件が多いため(財政、制度の不備、実行面での社会的成熟等々)、都市の渋滞や大気汚染の改善は遅れている。渋滞の主な要因は、急速なモータリゼーションの進展による道路等のインフラ整備の何十と各交差点での信号機等の交通管制の立ち遅れである。アジア諸国の中で、公共交通利用拡大を重点項目として、種々の交通政策を導入することにより、都市内の渋滞解消を図っている。成功例として、台湾・台北市の大量交通利用促進策が挙げられる。台北市も自家用車利用に伴い、一時は公共交通機関利用者が減少傾向を示したが、料金の低価格設定とバスレーン設置によるスピード向上努力により、利用者数が増加傾向を示しており、同時に都市内の大気汚染の濃度が急激に減少してきたと報告されている。

2−4主要国の車検制度
使用過程車の車検制度については、各メンバーとも車検体制を採用している。しかし、対象車種が限られている国や目視検査のみの国もあり、そのレベルは多様である。制度はあるものの、検査の実態は目視中心である国については設備・人員の質的向上が必要である。また、一般の乗用車が未だ検査対象外の国もあり、使用過程車の乗用車の検査については排出ガス対策も含めて課題が残る。アジア諸国に総じていえることは、検査不備と使用過程者の割合が大きいため、排出ガス対策の未熟な車が数多く市内を走行しているのが特徴である。大気汚染対策には、使用過程車に車検制度等の導入による性能悪化の防止対策が必要であり、最低限、車検費用での検査員の確保や設備充実に充当できる制度への変換、あるいは新車代替が促進されるような政策導入検討が必要な時期にきている。

3.アジアの環境改善に向けて
日本と深いつながりがあるアジア各国の自動車が係わる都市環境問題について調査を行ってきた。現状のままでは改善の可能性は小さい。タイ、フィリピン、インドネシアに共通していることで、日本の技術的な支援・協力により都市環境改善が急速に進む事項で早期に実施すべき重要施策を次に挙げる。

(自動車技術関連)
(1)車検・メンテナンスの制度の充実
(2)排出ガス規制の強化
(3)自動車燃料性状の改善(ガソリン無鉛化、軽油硫黄含有量低減)
(4)クリーンエネルギーの導入(CNG等)
(5)公共交通機関の整備(渋滞対策)

(経済的措置関連)
(1)自動車税の改革(新車にかかる税制度の改善)
(2)新車・クリーンエネルギー車購入促進
(3)将来に向けた技術者育成

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2002年10月18日

報告者:電力中央研究所 田邉朋行

有害大気汚染物質及びダイオキシン類排出規制の日米比較とわが国への示唆

2002_10_18.pdf へのリンク
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論文集『環境と生命』

はじめに

T.国内的次元−国家・社会関係に焦点を当てて

 山本隆司 「環境法における公私協働と行為形式」
 大塚直  「環境汚染・保護に関する費用負担・責任−土壌汚染等を素材として」
 鈴木達治郎・田辺朋之
        「放射性廃棄物処分をめぐる法制度−政府と事業者の役割分担」
 樋口範雄 「日米における医療生命倫理と法−医師会倫理規定の役割等の比較」
 神山弘行 「環境税の理論的課題」

U.国際的次元−国際・国内関係に焦点を当てて
 城山英明  「食品安全基準の国際的差異化と調和化−WTOの役割と課題」
 久保はるか 「オゾン層保護条約の国内実施体制と過程」
 鶴田順    「バーゼル条約の実施過程−ニッソー事件を素材として」
 高村ゆかり 「京都メカニズムにおける経済的手法の実施−排出権市場構築等」
 児矢野マリ 「自然保護・生物多様性保全における国際法形成と国内実施」
 ハンス・クリスチャン・レール 「EUの環境安全法制」

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