東京大学大学院法学政治学研究科・法学部

コラム34:「頼る力」と「好き嫌いの力」

学習相談室

コラム34:「頼る力」と「好き嫌いの力」

1 「頼る力」

 

最近、『~力』というタイトルを持つ本が増えているらしい。書店に行っても『聞く力』『悩む力』『鈍感力』『孤独のチカラ』『コメント力』『雑談力』『対面力』『向き合う力』『伝える力』『任せる力』など、様々な種類の力をタイトルにした本が並んでいる。ついでにアマゾンで検索してみると、『叱られる力』『怒られ力』『飽きる力』『やめる力』『笑われ力』など、冗談かと思うような力の本も出版されている。
ところが、ありそうでなかったのが「頼る力」(というタイトルの本)である。実は私も「頼る力」が弱いのだが、これは人生を生き抜くうえで意外とかなり重要な力ではないかと思う。臨床教育学者で、刑務所での受刑者の更正支援にも携わっている岡本茂樹氏が書いた『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)という興味深い本があるが、その中で岡本氏は、受刑者が出所後、再犯しないためには、何より人に頼って生きていく力を身に付けることが重要だと述べている。岡本氏によれば、犯罪者の中には、人に頼らない生き方をしてきた結果、自分に無理をして犯罪を起こしてしまった人が多くいるらしい。もちろん、犯罪を犯さなくても人に頼るのが苦手な人は多いと思う。「我慢する」「頑張る」「弱音を吐かない」「人に迷惑をかけない」といった価値観を身に付けて育った人は往々にして「人に頼らない態度」を身に付けてしまうことになり、それが生き辛さを与える側面があるのだ。「頼る力」のある人は、他人と良い関係を築く能力にも長けた人だと言えそうである。皆さんも是非、「頼る力」のある人になってください。

 

2 「好き嫌いの力」

「力」をタイトルに持つ本が多いということは、そのようなタイトルの本に対する需要が多いということでもあろう。そこで、「目指せ!二匹目、いやn匹目のどじょう!」ということで、「好き嫌いの力」というタイトルでもう少し駄文を書き連ねてみることにしよう。
世の中には、「好き嫌いは悪いこと」だから「好き嫌いのない子を育てよう」といった価値観があるように思う。確かに偏食ばかりしているのは健康に良くないというのはわかるが、「好き嫌い」一般がいけないかのような教育はどこか間違っているのではないかと、長い間思っていた。「好き嫌い」がないということは、特に好きなことが何もない、ということでもあるが、果たしてそれが望ましい状態なのか、人間のあり方として自然な状態なのか、と疑問に思っていたのだ。特に、学習相談室でいろいろな学生の相談を受けていると、進路を選ぶにあたって、特に自分のやりたいことや好きなことがないので、どういう進路に進んだらいいのかわからない、という学生に出会うことがしばしばある。そんなとき、この学生は「好き嫌い」、というか「好きなこと」を抑制し続けた結果、本当に好きなことがわからなくなってしまったのではないか、と思わざるを得ないことがある。
このような疑問を抱いていたとき、まさに私の疑問に明快に答えてくれる本に出会った。精神科医である泉谷閑示氏が書いた『反教育論』(講談社現代新書)である。そこに以下のようなことが書かれてあった。

 

 

======<引用開始>===========
たとえば、「好き・嫌いなく何でもよく食べる子供に育てましょう」といったスローガンは学校などでかなりおなじみのものであるが、このような考え方の社会に私たちは育ち、また、それを疑いもなく次世代へのしつけや教育のポリシーにしてきた。
このような考え方の根本には、「好き・嫌いがあるのは良くないことである」という価値観が横たわっている。この価値観が、直接的にではないにしろ、「自分が何がしたいのかわからない」という人間を生み出す精神的な土壌になっていることを見落としてはならない。
(中略)
「好き・嫌い」という最も自然な「心=身体」の反応を、あたかも悪であるかのように封じ込めるということは、何を食べても好きとも嫌いとも感じないような、いわば不感症の人間を育てようと躍起になっているようなものである。
現代人に多い「何が好きなのかわからない」「自分の感情が動かない」「自分の感覚が信じられない」といった感情・感覚の動かない離人症的問題の背景には、このように「心=身体」を軽視した人間観に基づいて行われる教育やしつけの問題が横たわっている。
(中略)
もちろんこのような問題は、食生活のみに認められるわけではない。
人が何を学ぶのかといったことについても、「好き・嫌い」という感覚が重視されずに、浅く広く学ぶことを求められる状況がすっかり定着している。
その結果、大学進学や就職といった進路選択を行う頃には、もうすっかり本人の中から「好き・嫌い」を発する「心」の声が聞こえなくなってしまい、「就職に有利だから」「食いっぱぐれがないから」「人気があるから」「安定しているから」といった他律的な動機によってしか決められない状態に陥ることになる。
=======<引用終わり>==========

 

そういえば、昔見た山田太一脚本ドラマ『早春スケッチブック』にこんな場面があった。大学受験を控えた高校3年生の望月和彦は、死んだと聞かされていた実の父親・沢田竜彦が生きていることを知り、家族に黙って何度か会いにいくのだが、3度目に竜彦を訪ねていった際、ウイスキーを飲むかと勧められ、和彦が断る場面である。そのすぐ後に、次のようなやりとりが展開される。

 

=====<山田太一『早春スケッチブック』新潮文庫より引用開始>=======
竜彦「ウイスキーをのむか? といったら、ぼくは、まだ、といった」
和彦「ええ、でも(大した意味は)」
竜彦「まだ高校生だから、ということか?」
和彦「下らなく思えるでしょうけど」
竜彦「いやあ」
和彦「法律がどうのというんじゃなくて、実際問題として受験があるし」
竜彦「俺は、ちっとも下らないなんて思っちゃいねえよ」
和彦「そうですか」
竜彦「いやあ――自分をおさえるってことはいいことだ。そうやって、少しずつなにかを諦めたり、我慢したりする訓練は、しなきゃいけない。そういうことをしねえと、人間、魂に力がこもらねえ。しょっちゅう、自分を甘やかして、好きなようにしてるんじゃ、肝心な時に、精神にあんた、力が入らねえ。なにかをドカンとやることが出来ねえ」
和彦「はい」
竜彦「高校生だから酒をのみません、女房がいるから他の女とは寝ません、立小便はしません、満員電車で屁はたれません」
和彦「―――」
竜彦「そんなことは、みんな、くだらないことだ。守る値打ちはねえ。しかしな、そういう、小っちゃなことで、自分を抑える訓練をしておくことは、絶対に必要だ。そういう訓練をしなかった奴は、肝心な時にも自分を抑えることが出来ねえ。これだけは、いっちゃあいけねえなんてことも、しゃべっちまう。しゃべらないまでも、顔に出ちまう。そういう、安っぽい人間いなっちまう」
和彦「(うなずく)」
竜彦「毎日、自分を抑える訓練をしなきゃいけない。自分を抑える。我慢をする。すると、魂に力が蓄えられてくる。映画が見たい。一本我慢する。二本我慢する。三本我慢する。四本目に、これだけは見ようと思う。見る。そりゃあんた、見る力がちがう。見たい映画全部見た奴とは、集中力がちがう」
和彦「(うなずく)」
竜彦「そういう力を蓄えなきゃいけない。好きなように、やりたいようにしてちゃあ、そういう力は、なくなっちまう」
和彦「(うなずく)」
竜彦「しかしだ。それにはあんた限度ってぇものがある。見たい映画を三本我慢し、四本我慢し、六本七本八本我慢してるうちに、別に見たくなくなっちまう。なにが見たいんだか分からなくなっちまう。欲望が消えちまう。それじゃああんた、力を蓄えることになりゃあしねえ。力を、生命力を、むしろつぶしちまうことになる」
和彦「(うなずく)」
竜彦「我慢をしすぎて、力をつぶしちゃあいけねえ。自分の中に、生きる力をな」
=====<引用終わり>======

 

我慢することは大切である。しかし、好き嫌いがなくなるほど我慢しすぎてはいけない、というのである。ここには一片の真理があるのではないだろうか。

 

(文責:稲田)