東京大学大学院法学政治学研究科・法学部

コラム48:理解することと折り合いをつけること-高田裕成先生からのメッセージ-

学習相談室

コラム48:理解することと折り合いをつけること-高田裕成先生からのメッセージ-

まえがき(学習相談員より)

 

法学の勉強はなぜこんなに難しいのか、なぜ法学の授業がこんなに難解なのか。少なからぬ法学部学生、とりわけ、法学を学び始めて日が浅い2,3年生の多くが直面する悩みではないだろうか。もちろん学習相談室にもそうした相談は寄せられるが、自分自身、民法学習困難者であった学習相談員にとっては、相談者の悩みには共感できても、適切なアドバイスを提供するには程遠いのが現状である。そうした弱点を補う意味でも、毎年5月に院生・助教等の方を招いて「法学部生のための学習セミナー」を開催している。その際、学習相談室の今後の活動改善に役立てるためにアンケートを実施しているが、そこに時折寄せられる要望の中に、「先生方にも勉強法を公開してほしい」というものがある。直接的な勉強法ではないものの、冒頭に述べた問いに答え、法学の勉強をするうえで大切な心構えについて、学習相談室の前運営委員長でいらっしゃった高田裕成先生が別の媒体にお書きになった文章が、法学部生の皆さんにとって、非常に有益であると考え、高田先生のご了承の下、その一部をここに公開させて頂きたい。

 

 

■高田裕成先生のメッセージ

 

学習相談室では、相談活動とならぶ重要な活動として各種講演会があるが、昨年度の学習セミナーでは、法学部の授業に不適合であったと自ら称する卒業生から、法学政治学を学んでいくための具体的、実践的なメッセイジが送られた。いつものことながら、参加する学生の数が余り多いとはいえず誠にもったいないという感想をもつのであるが、その場にいた学生には確実にメッセイジは届いたと思うし、発言の一部は相談室のホウムペイジでも公開している。私もかつて法学不適合を感じていた学生の1人であり、彼らの発言に共感するところは少なくなかったが、なかでも、どこかの段階で折り合いをつけることが肝要という助言がされたことがひときわ印象深かった。

 

政治学について語る資格がないので法学の分野に限定するが、ひとつの講義が扱う対象がしばしば膨大である。たとえば私は民事訴訟法という法律を授業内容としているが、そこでは限られた時間でその法律全体を語ろうとする。そのこと自体に無理があるのであるが、法曹になろうとする学生を少しでも支えようという義務感がこの無謀な試みに駆り立てる。存在する無数の論点の多くは過去の具体的な事件に由来するものであって、当事者にとって差し迫った問題であったはずであるが、授業ではそうした現実の襞を端折って語ることになる。いつしか議論の来歴も忘れ去られ、錯綜した学説の対立のみが示される。とりあえず基本的な考え方を理解することを期待するが、そこで用いられる概念や理論が難解である。異国由来の概念が長い年月を掛けた蓄積を経てその意味内容を深め、さらにそれぞれの時代思潮によって脚色されており、歴史を知らないで言説を精確に把握することは頗る困難であるといわざるをえない。それゆえにこそ、教員は授業でさまざまな工夫を試みることによって学生の理解の手助けをしようとしているが、時間の制約もあって自ずと限界がある。複雑な問題状況を相当程度単純化して提示することに、教員として良心の呵責を覚えることもしばしばである。

 

このことを学生の立場から見れば、テクストを読み解くことに苦しみ、そのすべてを理解することを諦めることを意味する。理解したいという願望とどこで折り合いをつけるか。セミナーで提示されたゲストの発言は、この点に関わるものであった。折り合いをつける地点はさまざまなのであろうが、教員生活の経験を思い起こせば、この折り合いをつけることに長けている学生が次第に増えてきたという印象をもつ。情報過多の時代、情報の取捨選択に長じているというのは環境に適応したということなのかもしれない。紋切り型の言説にしばしばつまずき、それなりに納得できなければ先に進めないという、私のような不器用な人間は生きづらい時代になったということであろうか。

 

にもかかわらず、学問といわないまでも、学習という観点からも、腑に落ちる、分からなかったことが突然分かるという感覚をもつことは大切なことであるように思われる。法学の分野でこうした経験をすることは、学問の性質上もともと難しいことなのであろうが、早い段階で妥協すればするほど、こうした感覚を味わうことなく学生生活を終えることになりそうである。もちろん、法学以外の分野の学習、あるいは日ごろの読書や種々の活動を通じてものの見方が変わるという体験をしていると信じたい。とはいえ、法学の教員としては無力感を覚えるところである。もっとも、焦ることはないのかもしれない。学生時代に懐いた違和感や疑問を卒業した後も暖めつづけ、後年、そういうことだったのかと得心するような日を迎えて欲しいと切に願っている。われわれ教員にできることは、より深く考えるためのきっかけと材料を提供することにとどまるのであろう。