サマセット・モーム(Somerset Maugham, 1874-1965)の自伝的小説Of Human Bondageは日本では長年にわたり「人間の絆」というタイトルで親しまれてきたが、数年前(2022年4月)、「人間のしがらみ」というタイトルで新訳が出た(河合祥一郎訳、光文社古典新訳文庫)。タイトルの理由は河合氏が「訳者あとがき」で述べているように、モームはこの題名をスピノザの『エチカ』第4部「人間の束縛について、あるいは感情の力について」(of human bondage, or of the strength of the affects)から採ったと述べており、主人公フィリップ・ケアリが陥った状況を表すのに、「人間の絆」では全くふさわしくないからである。さらに河合氏は、「感情に縛られた状態をbondageと呼ぶのであり、フィリップ・ケアリが人間関係において縛られて身動きできない状態にあったことを指すにふさわしい語である」と述べている。
幼くして両親を失ったフィリップは、牧師である伯父の家に引き取られるが、やがて神への信仰を失い、20歳の頃、画家を志してパリの美術学校に入学する。そこで様々な芸術家志望者たちと交友するが、その中に、冴えない中年の詩人クロンショーがいた。彼はあるとき、フィリップに次のように語る。
「人間は自由意志に基づいて行動するという幻想はじつに深く染みこんでいる。それは喜んで認めよう。そしてまるで自由人だといわんばかりに振る舞うわけだ。ところが後になって、はるかかなたの宇宙のあらゆる力が結託してそうさせたのであって、自分はそれを防ぐことなどとてもできなかったことが明らかになる。避けられなかったのだ。ということは、それがいくら良きことであっても、自慢することはできないし、それがいくら悪しきことであっても、そしりを受けるいわれはない」
このときフィリップは、「それは運命論だ」と言って反発するが、やがてこの考えはフィリップ自身のものとなり、後に彼は別の友人との会話の中で次のように語っている。
「自由意志という幻想は自分のなかで非常に強く、それから逃れることはできません。だけど、それは幻想にすぎないと確信しています。ただ、それは自分の行動の強い動機のひとつでもあるんです。何かをしたいと思うときは、自分でそれを選んだつもりでいるし、それが自分の行為に影響をおよぼします。ところがいったん事が終わってみると、それは元からそうなるしかなかったように思えるんです」
そのクロンショーはフィリップに「人生の意味ってなんだ」と問いかけ、逆にフィリップから問い返されると、「自分で見つけない限り意味はない」と言って教えず、代わりに、ペルシア絨毯を見ればわかる、と謎めいた言葉を返す。
やがてフィリップは自分に絵の才能があるのかどうか深刻に悩むようになり、友人知人に聞いて回る。ある友人は、展覧会に落ちるくらい誰にでもあることだと言って慰めようとし、別の友人は、他人の意見など聞いても意味はないと言う。クロンショーは、「やめたければやめればいい」と突き放した後、「これから逃げられるなら、さっさと逃げろ。間に合ううちにな」と言う。それを聞いたフィリップは、クロンショーは自分の悲劇的な失敗の人生を思い返しているのだと思う。また美術学校の教師は、フィリップの絵を見て、「何の才能も感じられない。せいぜい努力して並の画家かな」と言った後、「もしわたしのアドバイスをききたいのなら、(……)勇気を持って、何かほかのことをやってみてはどうかね。ずいぶんひどいことをいうようだが、(……)わたしがきみくらいの歳のとき、いまのようなアドバイスをもらっていたら、どんなに感謝したことだろう。(……)自分が人並みだと気づいたときには手遅れだった、というのはじつにつらい。なんの救いにもならない」と言って立ち去る。
結局、画家になることを諦めたフィリップはイギリスに戻り、医者を目指して医学校に入学する。その後知り合ったミルドレッドという傲慢で身勝手な女性に振り回され、何度も裏切られて傷つくが、彼女への執着から逃れられない。ロンドンで再会したクロンショーは、薄汚い屋根裏部屋で暮らし、病気で死にかけていた。フィリップはクロンショーを自分の家に引き取って住まわせるが、病状は悪化してクロンショーは死ぬ。
その後フィリップは株に詳しい友人の勧めで株に投資するが、買った株が暴落して、財産をほとんど失い、医学校も辞め、住まいも失う。友人の家に住まわせてもらい、衣料百貨店に勤めることになるが、偶然再会した旧友から、共通の友人が南アフリカで死んだことを知らされ、人生の虚しさを痛感する。そのとき、クロンショーからもらったペルシア絨毯を思い出し、突然謎が氷解する。人生には何の意味もない、ということに思い至ったのである。だが、そのことに気づいたフィリップが感じたのは、絶望とは反対の歓喜であった。「自分が何をやり遂げようが、何をやり残そうが、そんなことはどうでもいい。成功か失敗かということに意味はない」という自覚は、力につながったのだ。責任という重荷から解放され、生まれて初めて完全に自由になった気がしたのである。と同時に、「何ひとつ思うような選択ができないまま生きてきたと思っている人でも、絨毯織りのように自分の人生をみれば、それがひとつの模様になっているのがわかるはずだ」という認識を持つに至ったのである。
逆説的なようであるが、人生は無意味である、という認識は、どんな人生にもその人固有の意味がある、という認識につながったのである。人生を成功か失敗かとして捉える観点から解放されたことによって、苦悩や失敗も含めた人生のプロセスそのものを味わう余裕が生まれたのであろう。フィリップはもちろんモームその人ではないものの、この人生観はモーム自身のものであっただろう。だからこそ、この作品を書きあげたとき、モームは「それまで自分をさいなんできた苦悩と不幸な記憶から解放されたことを実感した」のである。
(文責:稲田)