東京大学大学院法学政治学研究科・法学部

コラム66:猫に学ぶ

学習相談室

本屋に立ち寄った際、何か気軽に読めるものはないかなと思い、ふと目に留まったのが『猫に学ぶ』という本であった。手に取ってパラパラと目次を見た後、本を裏返すと、定価が3000円とあり、驚いた。気晴らしに3000円は高すぎると思い、棚に戻すついでに、著者名を見ると、ジョン・グレイと書いてある。まさかね。偶然の一致だろうと思いつつ、著者略歴を確かめると、やっぱりあの『自由主義の2つの顔』『グローバリズムという妄想』などで有名な政治哲学者である。かつて狼と暮らした哲学者が書いた本(『哲学者とオオカミ』)を読んだことはあるが、果たして政治哲学者が書いた猫本は面白いのか。興味は湧いたが、一抹の不安もあったので、買うのはやめて図書館で借りた。

 

この本の趣旨は一言でいうと、「猫にとっては人間から学ぶものは何ひとつないが、人間は、人間であることにともなう重荷を軽くするにはどうしたらよいかを、猫から学ぶことができる」というところにある。なぜなら、人間は意味の探求から逃れられず、人生を物語に仕立て上げずにはいられないが、猫は刹那に生き、無心に生きているので、人生の無意味さに絶望することもなければ、惨めな一生だったとか、生まれなければよかったなどと考えることもない。確かに、意味の探求にこそ人間の価値があると考える人もいるが、人生を過剰に意味づけたり物語化することが人間を苦しめているというのは、グレイの卓見であろう。「もし猫に人間たちの意味の探求が理解できたなら、彼らはその馬鹿馬鹿しさに、うれしそうに喉を鳴らすだろう。いま生きている猫としての生活が彼らにはじゅうぶんな意味を持っている」とグレイは言う。

 

本書には古今の様々な哲学者・思想家の思索とともに、東西の作家の小説やエッセイもふんだんに引用されている。なかでも印象深いのは、アメリカの作家メアリー・ゲイツキルのエッセイ「迷い猫」である。彼女はトスカーナで片目の見えない子猫に出会い、ガッティーノと名づけてアメリカに連れ帰る。ところがある日、ガッティーノは姿を消してしまうのである。必死に探し回るメアリーの頭の中に「怖いよ」という言葉が聞こえた。しかし、猫は見つからない。3日後、今度は「さみしいよ」という言葉が彼女の頭に浮かんだ。さらに数日間探し回ったが、最後に浮かんだ言葉は、「ぼくはもうすぐ死ぬ。さようなら」だった。しかし、諦めきれない彼女は、1年後にもガッティーノを探していた。

 

この話はすぐに内田百閒の「ノラや」を思い出させる。「ノラ」と名づけた飼い猫が失踪した後、百閒は号泣し、半狂乱となって探し回るがどうしても見つからない。彼はノラにまつわるエッセイをたくさん書いているが、なんと失踪から13年経ってもまだノラの帰りを待っていたのである。失踪ではないが、愛猫との死別を描いたエッセイでは稲葉真弓の『ミーのいない朝』も美しい作品だ。稲葉さんと20年一緒に暮らしたミーは、徐々に体調を悪化させていったが、最後の2週間は一切の飲食を拒否し、最後に小さな咳をしてこの世を去った。その見事な死に様と稲葉さんの静謐な筆致に胸を突かれる。

 

最後に、グレイのメッセージを紹介してこの小文を閉じよう。

「猫が教えてくれるのは、意味を探し求めることは幸福の探求に似た、ひとつの気晴らしにすぎないということだ。人生の意味とは手触りであり、匂いだ。それはたまたまやってきて、気づかないうちに消えてしまう。」

(文責:稲田)